いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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 投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ございません。


形と意味と

 夏である。アカデミーに入学してから、三ヶ月ほど月日が流れた。日は長くなり、酉の正刻でもまだ太陽は沈んでいなかった。蝉しぐれは、西の空がピンク色に染まり立体的な雲が紫色になるのに伴ってなりを潜め、ひぐらしがカナカナカナと鳴き始めた。東からやってくる夜色の空に向かって、カラスが飛んでいく。

 

 演習場。

 

 三人の人影が長く伸びて、そこにいる。

 

 一人は、男の子。長髪の髪の毛を後頭部で一つに纏め、ぱっちりとした目の瞳は黒。イタチは真剣な表情で、十メートルほど離れて対面する女の子を見ていた。女の子は、赤い瞳だった。無表情で、氷のような冷たさを持つ整った顔立ち。無造作に伸びている黒髪は軽い横風に流されている。フウコは左側だけの長いもみあげを耳にかけた。

 

 最後の一人は、フガクである。彼は、両手を組み、厳格な表情を保っている。イタチ、フウコの順に二人の表情を確認してから、小さく頷いた。

 

「始め!」

 

 フガクの声が、閑静な演習場に吸い込まれた。

 

 二人が、全く同時のタイミングで印を結び始める。まだ六歳だというのに、印を結ぶ速度は、下手な下忍をあっさりと凌駕している。

 しかしそれでも、先に術を発動したのは、フウコだった。

 

 口腔に溜めたチャクラを、一気に噴き出すと、巨大な炎の塊が生み出された。

 

 火遁・豪火球の術。

 

 うちは一族の基本的な火遁の術である。しかし、基本的であるとはいえ、アカデミー生で術を発現させるには、相当の努力と類稀な才能が必要だ。

 

 そして、フウコが発現させた炎の塊は、直径六メートルは超える大きさである。チャクラの量が多いという訳ではない。練り溜めたチャクラを無駄なく発現することを可能にした、繊細なチャクラコントロールが成せたものだ。

 

 数瞬遅れて、イタチも、同じ術を発現した。大きさはフウコと同等だが、イタチの場合は、背景が少し異なっている。チャクラコントロールは、やはり同年齢の子たちに比べればずば抜けているが、フウコには及ばない。イタチ自身も理解している。その不足分を、フウコよりも多く保有しているチャクラで補ったのだ。

 

 炎の塊は、二人の中央からややイタチ側で衝突し、炎と熱風が四散する。地面の砂が巻き上げられ、視界が悪くなる。

 

 その中を、クナイが飛んだ。フウコが投げたクナイだ。クナイはイタチの腹部を狙う軌道を描いていたが、彼は身体を横に向けるだけのシンプルな動作で躱してみせる。視線は既に、砂煙の向こう側にぼんやりと見えるフウコを捉えていた。

 

 印を結ぼうとする。今度は、別の術を発動しようとした―――が、違和感。視覚から捉えるフウコの姿を、意識が矯めつ眇めつ観測する。

 

 浮いている砂煙が、彼女をすり抜けていた。

 

 途端、真後ろに気配が。

 

 振り向くと同時に、自身の頭部を狙おうとする踵落としを、印を結ぼうとした両手で防いだ。関節と筋肉の収縮を連動させた、重い一撃。筋力ではイタチの方が、やはり上なのだが、身体の動かし方はフウコが上だった。

 

 イタチは姿勢を低くして、一本足になったフウコに足払いをする。彼女の身体が、重力に従って後方に倒れようとするのを、見逃さない。そのまま押し倒せば勝てる、その判断は身体に直結した。踵落としを防いだ両手で、足首を掴んでいた。

 

 しかし、転ばした足が、イタチの胸を強く押す。手が離れ、胸の衝撃に片膝を地面についてしまう。

 

「甘いよ、イタチ」

 

 バク転の要領で体勢を立て直したフウコは滑らかな速度で印を結び、容赦なく術を発現する。

 

「風遁・風瀑逆巻(ふうばくさかまき)

 

 再び、フウコは息を吐いた。だが、今度のは、炎ではない。地面の砂を巻き上げながら進む空気の塊。

 黄金色の夕日を光を歪める程の密度を保った塊は、音を立てて、下方からイタチの身体を押し上げた。

 

 骨、筋肉、内臓を震わせる衝撃に、イタチは顔を歪め、背中から地面に叩きつけられる。

 

 必然と見上げてしまう空は、夜色、蒼、オレンジの三つのコントラスト。カラスが三つの空を飛び抜けていく。その後に、フウコの姿が写る。

 

 両腕が、彼女の両足に抑え付けられた。

 動けない。

 いや、動こうとしても、間に合わない。

 

 拳を作ったフウコの右手が、眼前に―――。

 

「そこまで!」

 

 フガクの言葉が二人の耳に届くと同時に、フウコの拳が、イタチの額の直前で止まった。本気で殴打することを如実に表すかのように、拳に溜まっていたエネルギーが空気を押し出し、イタチの前髪を撫でた。遅れて、じんわりと汗が身体中に滲み出はじめる。緊張の糸が、解けたのだ。

 

 フウコが両足を離した。踏まれていた部分が鈍い痛みを感じ取り始めると同時に、他の部分も感覚が鮮明になってくる。最初の火遁がぶつかった時の熱風で顔がヒリヒリする、風遁をぶつけられた腹部が痺れていた。けれどそれらは、不思議と嫌ではなかった。

 

 数少ない自分の全力が出せた解放感にも似た高揚感、そして敗北してしまった悔しさ、フウコの圧倒的な実力への敬意、それらが胸の中心で混ざり合って、最終的には言葉にできないポジティブな感情が勝った。

 

「大丈夫? イタチ」

 

 足を離したのに立ち上がらないイタチを見て、フウコが顔を傾けて尋ねてきた。どうやら、身体のどこかを悪くしてしまったのかと、勘違いしているようだ。ああ、とイタチは応えて、ゆったりと上体を起こした。

 

「いつの間に、風遁を覚えたんだ?」

「本で読んだの。あとは、ちょっとずつ練習してた」

 

 ちょっとずつ練習したクオリティではなかったように思える。しかし、それは今更のことかもしれない。彼女の才能の広大さは、十分に承知のことだった。立ち上がって、服や皮膚についた砂煙を軽く払うと、フガクが小さく微笑みながら近づいてきた。

 

「大きな怪我はないか? 二人とも」

「私は、大丈夫です」

「俺も大丈夫だよ、父さん」

「フガクさん、どうでしたか? どこか、駄目な所は、ありましたか?」

 

 フウコはフガクの顔を真っ直ぐ見上げて言った。もはや枕詞のようにもなってしまった彼女の【確認】は、正直、必要がないように思えてしまう。むしろ自分の方が訊くべきだ、と思って、イタチも同じようにフガクに投げかけたが、これも、実は毎度お馴染みのくだりである。

 

 フガクの手が、二人の頭に乗せられる。

 

 自分たちとは違う、これまで警務部隊として邁進してきた、硬い手のひらだが、温かくて安心してしまう不思議な手だった。

 

「その歳で、これほど出来る子は、そうはいない。流石、俺の子たちだ」

 

 置かれた手が、優しく二人の頭を叩いた。

 

「今日はもう終わりだ。母さんも、夕食を作って待っているだろうから、帰ろう」

 

 空は、もうほとんどが夜色に変わり始めていた。西の空の根元だけが、ピンク色で、その上が微かに蒼いだけだ。

 

 横を見ると、フウコが自分の頭を触っていた。瞼を細くして、長い自分の影に埋もれている地面をぼんやりと見つめている。

 

 いつも、思う。

 

 フウコがどうして、そんな表情をするのか。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フガクから修行を付けてもらうようになったのは、一ヶ月前からだった。突然、彼から修行を付けよう、と言ってきたのだ。どうして急に、とイタチは思ったが、後からミコトから聞かされたことだが、

 

「せっかくアカデミーに入って、色々分からないこともあるだろうから、きっとすごく頼られるだろうって、思っていたんじゃないかしら? なのに、イタチもフウコも、全然頼ってくれないから、自分から言ったんだと思うわ。あの人、ああ見えて親バカなのよ?」

 

 それが果たして真実なのかは定かではないが、とにかく修行を付けてもらうことは嬉しかった。

 

 アカデミーの授業は、正直なところ、あまり魅力的ではなかった。全てが、という訳ではないが、九割ほどは、そう感じてしまう。実技の授業では既に容易く行えてしまうことばかりで、授業の計算問題や言語の授業も簡単だった。楽しいと思うのは、先人たちが築いてきた壮大な軌跡を学ぶことができる、歴史の授業くらいだ。

 

 だから、フガクに修行を付けてもらえるのは、ピンポイントに望んでいたものだった。アカデミーに入学してからも、フウコと二人で修行はしていたが、それらは本を元にしたものだ。しかも、それらは、基本的なものしかない。将来的に考えて、実践的なものは、数えるくらいしかなかったのだ。

 

 これまで警務部隊として活躍してきた父から教えてもらえるのなら、それは、本で学ぶよりも確実に有意義だ。フウコも、同じように思っていたのか、一も二もなく修行を付けてもらうのに賛成した。

 

 修行は、今回ので四回目だった。イタチとフウコはアカデミー、フガクには仕事があるため、予定が重なることがあまりないから。その分、一度の修行では多くのことを教えてくれる。

 

 そして毎回、修行の最後には、忍術勝負をさせてくれる。フガクが審判となって、勝敗を見極めてくれるため、互いに気にすることなく全力を出せる。

 

 楽しかった。

 

 新しい術を教えてもらい、実現し、そして全力を出すことが。

 

 なのに―――フウコは、忍術勝負が終わると、悲しそうな、困ったような表情をする。どうしてなのか、訊いても「何もないよ」と、淡々と答えるだけ。

 

 街頭が付き始めた大通りを、フガクの後ろを歩きながら、イタチは目だけでフウコの横顔を見る。彼女の赤い瞳は、東の夜空に浮かび始めた下弦の月を見上げている。

 

 ―――もしかして、写輪眼を使えないからか?

 

 フウコは、自分が写輪眼を使えるということをフガクとミコトに黙っている。言わないで、と彼女は言うが、理由は知らされていない。だから、忍術勝負でも、一度として使ったことはなかった。そう見れば、彼女は自分と違って、全力を出せていないのかもしれない。不完全燃焼、ということ。

 

 もしかしたら、忍術勝負が終わってから自分の問題点をフガクに尋ねているのは、少しでも大きく成長したいからなのかもしれない。そうなのだとすれば、彼女の表情の原因は、自分だ。

 

 ―――どうすれば、写輪眼を開眼することができるんだ……。

 

 家についた。玄関を開けると同時に、夕食の温かい匂いが真っ先に鼻へと入り込んできた。修行で疲れた身体が、本能的に空腹を訴えてくる。靴を脱いで居間に行くと「まずお風呂に入りなさい。もう沸かしてあるから」と、ミコトに言われた。

 

 フウコ、イタチ、フガクの順番に風呂に入った。ミコトは既に、サスケと一緒に入ったらしく、サスケはもう眠ってしまっているらしい。

 

 夕食の献立は、白身魚の味噌煮と湯葉のお吸い物、サラダ、卵焼きだった。しかし、フウコの目の前だけには茶わん一杯分のきんぴらごぼうが置かれていた。

 

 それは、フウコの為だけに用意された特別な物である。特別、というのは、どちらかというと、ミコトに対しての意味合いが強いかもしれない。

 

 フウコの食欲は、家族の中で最大だった。枯れた井戸に水を垂らすかの如く、際限なく食べてしまう。特に、白飯は毎度必ず絶滅する。家計の全権を任されているミコトにとって、フウコの食欲は脅威だったのだ。そのため、あの手この手で対策を講じてきた。きんぴらごぼうは、今日初めて行われた新たな対策である。

 

 それを五秒ほど上から凝視してから、フウコはミコトを見た。

 

「よく噛んで食べなさい。そうすれば、お腹一杯になるから」

「……ですが、」

「お腹一杯になるから」

 

 食事はいつも通りだった。フウコから話しかけることはなく、何か訊かれたらコンパクトに応える、というもの。フガクもイタチも、フウコほどではないが、似たようなスタンスだ。一番喋るのは、ミコトである。大抵の皮切りは彼女からで、一時期は、フウコから三言引き出す、ということが密かなマイブームになったこともあったりする。

 

 あまり、ワイワイとした賑やかなものではないが、それでも、充実した空気が居間を所狭しと包んでいる。無駄な疲れのない、ニュートラルな時間だった。ミコトが「今日の修行はどうだったの?」と、イタチとフウコに尋ねた。

 

「うん、楽しかった」

 

 イタチの返事に、横のフウコも一ミリほど首肯する。フウコは片手にきんぴらごぼうの入った茶碗を持って、ポリポリと音を立てながらそれを食べている。

 

「そう、それは良かったわ。でも、あまり無理しちゃ駄目よ? 貴方も、イタチやフウコの事を気遣ってくださいね。まだアカデミー生なんだから」

「今のうちに積み重ねていけば、将来必ず役に立つものだ」

「将来って、気が早いわよ」

 

 言いながらも、ミコトは小さく笑っている。おそらく、フガクの言葉の抑揚に含まれた細かい嬉しさを汲み取ったのだろう。その後も二人は、イタチとフウコの修行について話しを続けた。

 

 イタチは内心、修行を止められてしまうのではないかと、ひやひやした。修行は辛くないし、楽しいばかり。今の自分に必要不可欠な時間だ。魚の身を割きながら、二人の会話の行く末を心配していると、突然、隣のフウコが呟いた。

 

「フガクさん」

 

 水面に石が投げ入れられたように、彼女の声は、瞬間的に居間の音を消し去った。

 

 あまりにも前触れがなかったため、三人は一斉に瞼を開きながらフウコに視線を向ける。急に全員の表情が硬直したことに、フウコは少しだけ頭を傾げた。

 

「どうしたんですか?」

「え? ……ええ、何でもないのよ」

 

 ミコトは明らかに動揺を隠しきれていないが、フウコは「そうですか」と呟いて、フガクを見据えた。彼は小さく、喉を鳴らした。

 

「どうした? フウコ」

「実は、お願いしたいことが、あるんですが……」

 

 また、全員の表情に驚愕の色が浮かべた。今度のは、さっきよりもより深い色である。

 

 それほどに、フウコが頼みごとをするのは、奇跡的なことだった。全員が、動揺で箸や茶碗を落とさなかっただけ幸いだった。

 

「なんだ? 言ってみてくれ」

「はい。――来週に、手裏剣術の小テストがあるんです。そのことについて、少し相談が」

「自信がないのか?」

 

 静かに、イタチは思い出す。今日の忍術勝負で、自分に向かって飛んできたクナイの軌道は正確なものだった。

 

 そもそも、フウコは全ての面において、アカデミーでは抜きんでている。これまで幾つかの小テストが行われたが、彼女は全て満点の成績を叩き出している。自分は勿論、フガクもミコトも、そのことはよく知っていて、対面に座っているミコトが、どうなの? という視線をこちらに送っていた。イタチは静かに首を横に振って、フウコの言葉を待った。

 

「私は、問題ありません」

「じゃあ、何が問題なの?」

 

 と、ミコトが尋ねる。

 

「私じゃなくて、私の友達が、手裏剣術が苦手で。何度教えても、上達しないんです。だから、どうやれば上達するのか、教えてほしいんです」

 

 

 とうとう三人の手から箸が一斉に落ちた。

 

 

 フガクに至っては、茶碗をテーブルに落とし、その拍子に御飯が音もなく床の上に着地した。

 

 十秒ほど、三人は言葉を失った。

 呼吸も止まってしまっていたかもしれない。完全に動きは停止していた。

 

 急に動かなくなった皆にフウコは、フガク、ミコトの顔を見てから、イタチを見た。

 

「イタチ?」

 

 呼びかけられても、応えられない。

 いやそもそも、耳に入っていなかった。

 

 食事中、フウコから話し始める。

 食事中、フウコが相談をする。

 私の友達、という言葉。

 

 休憩を許さない速度の巨大な衝撃は、思考を完全停止させるのには十分過ぎるほどの事実だった。

 

 別室から小さく、サスケの泣き声が届いた。

 

「……友達が、できたのか?」

 

 ようやく捻りだした言葉だった。フウコは無機質に「うん」と頷いた。

 

「本当か?」

「一応、その子とは、友達になろうって言われたから」

「……本当にか?」

「信じてくれないの?」

 

 即座に首肯は出来なかった。ましてや、フウコからではなく、その【友達】から、友達になってほしいと言われた、というのが、信じようという気概を大いに削いでいる。だが何とか「いや……信じる……」と、返せた。

 

 フウコは、そう、とだけ呟いて残ったきんぴらごぼうを食べ始めた。ポリポリと、コミカルな音が耳に入ってくる。

 

 天井を見上げた。修行よりも遥かに重い倦怠が、どっと肩にのしかかってくる。遅れて、嬉しさが込みあげてくるのを、イタチは確かに感じ取っていた。視界一面を圧迫する天井が邪魔だと思えてしまうほど、喜びたい衝動を必死に抑える。

 

 すると、ミコトの手が、フウコの頭を撫でた。

 

「友達が、できたのね」

「はい」

「お腹、まだ空いてる?」

「……いいえ」

「嘘おっしゃい。変に遠慮しないの。そうだ、冷蔵庫の中に、明日のハンバーグの材料があったわ。今、作ってあげるわね」

「いいんですか?」

「当たり前じゃない。いっぱい、作ってあげるわ。ほら、貴方。床に落ちたお米、掃除して」

「あ、ああ。そうだな。フウコ、何か欲しいものはないか?」

「え?」

 

 その後。

 

 夕食は一転して、賑やかになり、そして長く続いた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「いつの間に友達ができたんだ? イロリ(、、、)ちゃん、だっけ?」

 

 今までで一番充実した夕食が終わった。夕食が終わってからも、フウコの友達の話題は続いた。特にミコトは、嬉々としてフウコにその友達が、どんな子なのかを根掘り葉掘り尋ねた。

 

 フウコは、友達のことを、イロリ、と言っていた。特徴を聞くと、確かに、そんな名前の子がいたと思い出す。一度も話したことが無く、イタチの友達も一度として話題に出したことが無かったため、あまり記憶にない。けれど、特徴的な髪の毛をした子だという印象だけは残っている。その後に続いた、人見知りで、ちょっと間の抜けた変わった子だ、というのは初めて聞く情報だった。

 

 夜が進み、フウコが大きく欠伸を噛みしめた辺りで、寝よう、ということになった。

 

 自室は暗かった。明かりを消し、カーテンも閉め切っている。全くの無音の中、イタチは声を潜めて、隣の布団で瞼を閉じたばかりのフウコの横顔に尋ねた。

 

「うん」

 

 と、フウコは瞼を閉じたまま応えた。

 

「二ヶ月くらい前に、友達になった」

「俺に教えてくれても良かっただろ。そうすれば俺も、その子と友達になれたし、父さんにも母さんにも教えることができた」

「もしかして、心配してた?」

「あまり友達とかに、興味がないと思ってたからな」

 

 かといって、今、心配していないとは言えない。友達ができた、ということで安心したが、今度は、その友達がいつかフウコを嫌わないか、という新しい心配ができている。

 

 どうにか自分が二人の関係を壊さないよう、間に入りたいと、兄としての使命が小さく胸の中で生まれていた。

 

「人見知りだって言うけど、どれくらい人見知りなんだ?」

「他の子と話してるところを見た事がないから分からないけど、顔を見られるのは、嫌みたい」

 

 そうなのか、とイタチは情報をしっかりと記憶に焼き付ける。

 

 夕食の後、フガクはその友達に修行を付けると言い出した。明日は、アカデミーが休みの日だ。その様子を見て、人に教えるということのコツを学んでほしいと、彼は言っていたが、本心では、フウコの友達を見たいと思ったのだろう。イタチも、明日の修行には顔を出すと既に言っている。

 

 顔を天井に戻した。一度、瞼を閉じたが、あまり眠くはなかった。

 

 明日、イロリとどんな風に話しかけようか。あまり、話しかけない方がいいだろうか。どういう理由でフウコと友達になるだろうか、もしかして彼女の何かを勘違いしているんじゃないか、けれど、フウコは優しい子なのだと、教えてやりたい。

 

 今日はぐっすり眠れるだろうか。そう思っていると、フウコが、

 

「ねえ、イタチ」

 

 と、呟いた。ん? と応えて、視線だけを彼女に向けた。フウコは寝返りをうっていて、布団と黒髪の間から白いうなじが見えた。

 

「友達って、何をすればいい?」

 

 平坦な声には、困ったような色が入っていた。

 

「シスイと一緒にいる時みたいでいいんだ」

「イロリちゃんは、あまり、自分から話す子じゃないから。でも、友達と話すのは、普通なんでしょ?」

「お前はいつも通りでいいんだ。その子が友達になりたいって言ったのは、お前なんだ」

「……いつも通りにするのって、大変なんだね」

「なあ、フウコ」

「……なに?」

 

 どこか眠そうな、フウコの声。

 

「修行は、楽しいか?」

「うん……。楽しい。どうして?」

「まだ、俺はお前と対等じゃない」

「イタチは凄いよ。私は、イタチの才能が羨ましい(、、、、)

「どういう意味だ?」

「ううん。……ごめん、気にしないで。眠いの……」

「そうだな。もう寝よう」

「おやすみ、イタチ」

「おやすみ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フウコはいつも通りの時間に目を覚ました。布団を片付けて、イタチと一緒にサスケの顔を見に行き、朝食を食べ、その後は本を読みながらゆったりと過ごし、昼食を食べて、身支度を済ませた。修行は未の正刻からなのだが、早めに家を出ることにしたのだ。

 

「もっとゆっくりしていったらどう?」

 

 廊下でミコトが残念そうに眉毛をへの字にして呟くが、フウコは首を横に振った。

 

「イロリちゃんを迎えにいかないといけません」

 

 そもそも、今日修行を付けるというのは、彼女は知らない。だから知らせなければいけない。早めに家を出るのは、その、知らせるという作業、そして連れてくるという作業に手間がかかるだろうと思ってのこと。イロミにだって親がいて、もしかしたら、予定があるかもしれない。あまり彼女の家族事情を知らないため、なるべく早く行く必要がある。

 

 それに、もしイロミに予定が入っていたら、早めにフガクやイタチに伝えなければならない。

 

「イロリちゃんは、人見知りなので、説得するのにも、時間がかかると思います」

「うーん……そうなの? 分かったわ」

「では、行ってきます」

「あ、フウコ。今日の晩御飯、何がいい?」

 

 玄関で靴を履こうとすると、尋ねられた。珍しいな、とフウコは思った。いや、昨日の夕食の途中から不思議な空気が自分の周りを包み込んでいるように思うのだけれど、自分に献立を尋ねてくるのは、相当に珍しい。

 

 しかし、深く考えないことにした。自分に課せられた食事制限から、今晩だけでも解放されるのではないかという欲望には勝てなかった。

 

「お肉が良いです」

「分かったわ。今晩は、楽しみにしてなさい」

 

 きっと、お腹一杯に食べることができるのだろうと、心の中で確信した。

 

 家を出る。今日も、昨日のように天気が良かったが、やはり、暑かった。空には高く、重そうな入道雲が浮かんでいる。雨にならないでほしいな、と思う。うちはの町は人通りがまだ多くなかったが、もう見慣れた光景でもある。

 

 町を出て、里の南の方へ足を運ぶ。南の、端の方の、小さな住宅街。第三次忍界大戦、そして九尾の事件の傷痕は、もうすっかり、復興によって無くなったものの、そこは閑散としていた。建物を新しく建て直したものの、人がいないのだ。

 

 自分の足音だけが、住宅街に吸い込まれていく。心なしか、気温も、低いような気がする。住宅街の中央を貫く通りを真っ直ぐ進み、木の葉隠れの里を囲う高い塀の前までくると、一つの建物が建っていた。

 

 住宅街から仲間外れにされたかのように、ポツンと、建物はそこにある。脇には背の高い木が一本立っていて、建物への日差しを遮断しているせいで、全体的に暗い雰囲気が漂っていた。コンクリートの壁には蔓が生い茂っていて、四角い窓の向こうは灰色のカーテンが閉め切られている。茶色い三角屋根は、今にも落ちそうなくらいに朽ちている。

 

 イロミの家族事情は知らないが、どんな場所に住んでいてどんな家なのかは、聞いたことがあった。聞いた通りの位置と見た目だったが、思わずフウコは視線を辺りに巡らせる。想像以上のボロさのため、この家ではないのではないか? と思ったのだ。しかし、他に似通った建物が見当たらなかった。

 

 ため息をついてから、その家の玄関に立ち、呼び鈴を一度鳴らした。すぐに、足音が聞こえてきた。

 

 足音が、ドアのすぐ向こうで止まると、静かに開く。白い頭だけが、小動物のようにひょこりと出た。

 

「はい、なんですか……? ……え?」

「おはよ、イロリちゃん」

「フ、フウコちゃん?」

 

 フウコを確認すると同時に、イロミは身体ごとドアから出した。彼女の衣服に、少しだけ、驚き。

 

 彼女の着ている服が、いつもの服装ではなく、寝巻だった。白と黒の縞模様をした上下の長袖シャツと長ズボン。さながら囚人服のようで、一周回って、積極的な服装だ、とフウコは思った。

 

 本人は別段、気にしている風でもなく、そっと後ろ手でドアを閉めた。

 

「えっと……どうして、ここにいるの?」

 

 彼女と友達になってから二ヶ月近くが経過した。その間で、彼女の声のトーンは安定してきたし、なよなよとした雰囲気もある程度、抑えられてはいる。けれどまだ、彼女の顔は、自分の目ではなくやや下方を向いていた。

 

「今日って、アカデミー……あったっけ…………?」

「休みだよ」

「じゃあ、どうして……?」

「イロリちゃんは、今日は暇?」

「……うん。そう、かな…………えへへ……」

 

 曖昧に頷きながら、乾いた笑い声を彼女は出した。

 

「今日、イロリちゃんに修行を付けてくれるんだよ」

「え? 誰が?」

「フガクさん。イタチのお父さん」

「……フウコちゃんの、お父さん?」

 

 フウコは、ワンテンポ遅れて、微かに頷く。

 

「フガクさんから教えてもらえば、来週ある手裏剣術の小テスト、良い点数が取れると思うけど」

「修行って、これからすぐなの?」

「すぐじゃないけど、出れるなら、今のうちに出た方がいいと思う」

「うん。ちょっとだけ待っててね」

 

 家に戻っていくイロミは、やはり、玄関のドアをそっと閉めた。もしかしたら、家族が寝ているのかもしれない。

 

 イロミはすぐに戻ってきた。アカデミーに行く時の服装で、ドアのカギを閉めると、首を傾けて「えへへ」と笑った。

 

「どうしたの? 何か、面白いことでもあった?」

「休みの日にフウコちゃんに会えたことが、嬉しくて」

「会おうと思えば、いつでも会えるよ?」

「そうだけど……、でも、嬉しい」

 

 二人は並んで歩いた。並んで歩けるくらいには、二人の間には遠慮が無くなっていた。おそらく、フウコのせいだろう。何を尋ねても、淡々と返事をされて、どんなことをしても平然としている彼女には、あまり、遠慮をしても意味がないのだと、イロミは気付いたのだ。

 

 歩きながら、イロミは様々なことを尋ねてきた。どうして今日は修行することになったのか、フガクはどんな人なのか、などなど。それらにフウコは、一言二言で応えた。その度に、イロミは、控えめに笑った。どうして笑うのか、分からなかった。

 

 向かう先は、演習場。しかし、まだ時間には少しだけ余裕があった。早く行っても、しょうがないのだけれど……。

 

 グゥ~。

 

 ちょうど商店街に差し掛かった時に、間抜けな音が二人の間に響いた。イロミの腹が、空白を訴えた音である。

 

「お昼ご飯、食べてないの?」

「今日はちょっと……えーっと、起きる時間が、遅くて」

 

 ああ、だから寝間着姿だったのか、と納得する。

 近くに駄菓子屋があったが、残念なことに、お金は持ってきていなかった。お腹が空いている状態で修行しても、集中力が続かない。

 

 イロミの顔を見ても、彼女は痩せ我慢の笑顔を浮かべるだけで、暗に大丈夫と主張していた。

 

 どうにかしてあげたいな、と思った時、予想していなかった声が聞こえた。

 

「お、フウコじゃん。お前、何してんだ?」

 

 振り返ると、おかしなことに、シスイが立っていた。おかしなこと、というのは、彼に会うとは予想していなかったからだった。

 

 途端に、背中に気配が。顔だけを傾けると、イロミが小動物のように、自分の後ろに隠れたのだ。ああ、自分以外だとこうなるのか、とイロミの別の側面を発見した。

 

 フウコはイロミの行動に対して特に気にせず、不思議そうな視線を送るシスイを見た。

 

「駄菓子屋で何か買おうと思ってたの。でも、お金が無いから、困ってる」

「なんだ、昼メシ食べてないのか? 珍しいな」

「私じゃなくて、後ろの子が食べてないの」

 

 背中の服が弱々しく引っ張られた。話を振らないでと訴えているのかもしれないが、シスイはあまり害のある人物じゃない。

 

「その子、友達か?」

「うん。イロリちゃん」

 

 へえ、とシスイは嬉しそうに笑った。その笑い方は、昨日の夕食に頭を撫でてきたミコトのそれと酷似していた。

 

 シスイが、フウコの後ろに回り込もうとする。

 

「ん?」

 

 と、小さく声が出てしまった。

 

 シスイの動きに合わせて自分の身体が勝手に回転したのだ。シスイの正面を向く。

 

「邪魔するなよフウコ。どんな奴か、見てみたいんだ」

「いや、邪魔してるわけじゃないけど」

 

 またシスイが後ろに回り込もうとすると、身体がそれに合わせて回転する。もちろん、フウコが自分からそうしている訳ではなく、後ろにいるイロミが背中を引っ張って動かしているのだ。

 

 ぐるぐるぐるぐる。

 

 五週ぐらいしてから、そろそろ三半規管がやられそうになったので、フウコは足に力を込めて停止させた。後ろのイロミと目の前にシスイは、同じテンポで肩で呼吸をしている。疲れるまでやらなければいいのに、と思うだけである。

 

「シスイ、お金、持ってる?」

「ぜえ、ぜえ……え、なんだ?」

 

 顔に無意味な汗をかいたシスイは、息も絶え絶えに応えた。

 

「お金。家に帰ったら、返すから」

「……その子を、紹介しろ…………」

「時々思うけど、シスイって引き際がしぶといよね」

「お前の友達は、俺の友達だ」

「……イロリちゃん、大丈夫?」

 

 後ろを向こうとしたら、服を引っ張られて後ろにバランスを崩してしまう。左足で踏み止まった。

 

 どうやら、止めてほしい、ということのようだ。

 

 シスイに向かって首を横に振ると、彼は両手を広げて肩を透かした。降参だ、という意味らしい。

 

「……いくら欲しいんだ? おごってやる」

 

 果たして、彼の財産はどれ程のものなのか。とにかく、駄菓子屋で売られている菓子パンを買ってもらった。その間も、常にイロミはシスイから見られないようにしていた。

 

 菓子パンは、メロンパンである。そこまで高くはなく、後で返す、と言ったのだけれど「おごるって言っただろ」と、頑なに返済はするなと言われてしまった。購入したメロンパンがイロミに渡されると、ようやく、彼女は頭を小さく、フウコの肩越しに出した。

 

「そ、その…………」

「お、ようやく顔を見せてくれたな」

「……あ、ありが…………と…………」

「にしし、気にすんな」

 

 シスイは爽やかに笑った。

 

「俺、うちはシスイだ。よろしくな」

「……私………、イロミ……」

「ん? イロミ? イロリじゃねえのか?」

 

 フウコは無表情のまま驚いた。

 

「イロリちゃんじゃなかったの?」

「そ、その……フウコちゃんは、イロリ、で、いいの…………。あだ名みたいで、嬉しいから…………」

「そう」

 

 よく分からないな、と思った。

 

「よし、イロミ。これで俺とお前は友達だ」

「え?」

「何驚いてんだよ。友達だ、友達。な? だから、そんな怖がるなって。俺はいいやつだぞ? なあ、フウコ」

「良いかどうか別だけど、うん、でも、シスイは怖くない」

 

 おずおずと、イロミが、フウコの背中から身体を出した。メロンパンを持った両手を前にして、なよなよと内股で立ち尽くし、顔も確実にシスイから逸らして地面を向いているが、それでもシスイは嬉しそうに笑った。

 

 不思議だ。

 

 友達になるというだけで、人見知りのイロミの行動が変化した。他に何かが変わったという訳ではないのに。

 

 それとも、シスイの明るい性格が、そうさせるのだろうか?

 

 まだ、友達という関係が分からない。

 

 意味も、役割も。

 明確じゃないのだ。

 他人に親しくするのは、当たり前だ。

 里が平和であれば、そうなるのだから。

 

 じゃあ、どうして、友達が必要なんだろうか。

 

 フガクも、ミコトも、イタチも。

 

 自分に友達ができたことを、喜んでいるように見えた。

 それが、特別なことなのだろうか。

 里の平和の元では、友達ができるというのは、特別なのだろうか。

 

「んで? 二人は何してるんだ?」

 

 隣でイロミがメロンパンを齧っているため、フウコが応える。

 

「これから、修行をするの。フガクさんとイタチと一緒に。来週の手裏剣術の小テストの為に」

「あー、そういえば、あったな。でもお前、成績は良い方―――っていうか、ずっとトップだろ」

「私じゃなくて、イロリちゃんが、苦手なの。だから、フガクさんに、これから修行を付けてもらうの」

「なら、俺も行く」

「シスイは、どうしてここにいたの?」

「ジイちゃんと喧嘩して、勝てなそうだったから逃げてきた」

「昼間から、元気だね」

「納豆が出たんだ。信じられるか? 昼メシにだぞ? 怒らない方がおかしい。納豆ぶつけて、醤油をかけて、カラシを投げつけた所までは良かったんだけど、その後は、危なかった」

 

 もしかしたら、彼は今日、家に帰ったら非常に危険な事態に陥るのではないか。しかし、よくよく考えてみると、いつものことだ。

 

 くぐもった声が聞こえてきた。

 

 横のイロミが、小さく笑うのを我慢していたのだ。フウコに見られた彼女は、慌てて顔を背けた。にしし、とシスイは笑った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 アカデミーにおける、同学年での成績は、トップがフウコ、次いでシスイ、その次がイタチというのが殆どだった。時には、三人が満点の時もあったし、シスイとイタチが同着でフウコが独り勝ちというパターンもある。常に、フウコはトップだった。

 

 そう、意外に、シスイは優秀である。もちろん、成績、と言えども大きなテストではなく、来週控えている小テストのような規模だけなのだが、それでも、フウコは実のところ、シスイは馬鹿なのではないか、と思っていた。

 

 理由としては、やはり、彼の行動が源泉である。

 

 特に、今日のように、彼の祖父であるうちはカガミと喧嘩をして逃げるという、行き当たりばったりの行動はあまり賢いとは思えなかった。だから、アカデミーでの成績を見た時は、少しだけ、驚いたものである。

 

 当然のことながら、来週の手裏剣術の小テストもシスイは楽勝だと言った。

 

「クナイと手裏剣を投げるだけだろ?」

 

 三人は、演習場に向かって並んで歩いていた。フウコを真ん中に、右側にシスイ、左側にイロミである。フウコが真ん中なのは、シスイからイロミへのアプローチの緩衝材として、自然とそうなってしまった。

 

 緩衝材、というのは、つまり視線をシャットダウンするためのもの。やはり、まだシスイに慣れないのか、絶妙に彼の視線を、フウコを使ってブロックしていたのだ。

 

「イロミはそんなに手裏剣術が苦手なのか?」

「基本的に、真っ直ぐ飛ばないし、的に刺さらない」

「うぅ……。フウコちゃん、ひどい…………」

 

 しかし、事実である。昼休みに、何度かイロミの修行を付けたことがある。手裏剣術だけではなく、基本的な体術なども。その結果、彼女は全体的に、能力が非常に低いということが分かった。

 

 シスイが下唇を出した。

 

「お前なあ、フウコ。もうちょっと、言葉選んだ方がいいぞ?」

「どういう意味?」

「イロミ、あまり気にするなよ? フウコはな、口が悪いわけじゃないんだ。悪い方向に、素直なだけだからな」

「う、うん……。知ってる…………」

 

 言葉を正確に伝えるのはいけないのだろうか? と、フウコは思った。イロミを見ると、口の周りにパンカスを残しながらも、メロンパンを食べ終えている。小食なのか、もう空腹の音はしなかった。

 

「そういえばイロミは、イタチのこと知ってるのか?」

「え?」

「うちはイタチ。フウコの兄だよ」

「う、ううん……、し、知らない…………。あ、知ってるけどぉ……」

「イロリちゃんはイタチと話したことがないよ」

 

 横で、大きくイロミが頷いた。

 シスイの言いたいことは、分かる。ある意味、修行より大変かもしれない。シスイの時のように、メロンパンはもう無い。どうすれば、少なくとも、必要最低限の会話ができるくらいにまで友達になって、そして慣れてくれるのか。

 

 すると、シスイは、こちらの心配を余所にあっさりと言ってのける。

 

「あまりビクビクしても良いことないって。あいつは良い奴だから、友達になってくれって言えば、すぐに仲良くなれる。簡単だろ?」

「…………でも、」

「だーいじょうぶだって。少しでもあいつが気に食わなかったから、すぐに俺に言えよ? 俺がお前に代わって、あいつをボッコボコにしてやるからな」

「……シスイくんは…………、そのぅ……イタチくんと、友達なんじゃ……」

「お前も友達だろ? 俺の友達を馬鹿にするやつは、たとえ俺の友達でも、俺は許さないからな。だから、安心して、友達になってくれって言っていいぞ」

 

 演習場に到着した。

 

 既に、イタチとフガクは到着していた。二人の視線が、自分に向けられる。しかし、即座にイロミへと移動した。

 

「うぅ…………」

 

 やはり、イロミはフウコの後ろに隠れてしまった。友達というだけで、シスイにはほんの少しだけ慣れて、それ以外には慣れない。よく分からない。

 

 背中の服を引っ張られる。今回のは、今まで以上に強い力が加えられて、立ち止まってしまった。

 

「ね、ねえ……。あの、怖い顔の人って…………」

 

 怖い顔。

 フガクとイタチの顔を比較する。おそらく、フガクのことだろうな、と考えた。

 

「フガクさん。イタチの、お父さん」

「……怖く、ない?」

「大丈夫だよ」

 

 どちらかというと、ミコトの方が怖い、と密かに思った。サスケを泣かせてしまった時の彼女の恐ろしさは言葉では表現しきれない。

 

 立ち止まっている間に、イタチがこちらへ駆け寄ってきた。ひ、という小さな悲鳴が後ろから聞こえてきた。

 

 目の前にやってきたイタチの前に、シスイが割り込んだ。

 

「よ、イタチ」

「……どうしてシスイがいるんだ」

「いちゃ悪いかのような言い方だな。良いだろ? お前だけ抜け駆けするなよ、俺も修行に混ぜてくれ」

「またカガミさんから逃げてきたんだろ」

「……いい勘してるな、お前」

「フウコ。後ろの子が、お前の友達か?」

「うん。でも、少しだけ、落ち着いて。今この子、すごい怯えてるから」

 

 人見知りである、ということはイタチは知っている。しかし、彼の基準はイロミのそれには一切適していない。フウコは静かに首を横に振った。

 

 フウコとイタチの間に立っていたシスイは笑いながら、イタチに向かって両手を上下させる。落ち着け、というメッセージだった。その後、イロミの後ろに回った。小さな声で、シスイは言う。

 

「ほら、イロミ。頑張れ。ああ、でも、イタチと友達になりたくない時は俺に言えよ? 何とかするから。にしし」

 

 顔だけを後ろに向ける。シスイと視線が重なった。彼は、真っ直ぐ、自分を見つめている。どういう意図があるのか、読み取れなかった。

 

 そうしている内に、驚いたことに、イロミが、ゆっくりと、動いた。

 

 背中から、彼女の手が離れていくのが、はっきりと分かる。

 

 ―――どうしてだろう……。

 

 何も、変わったことはないのに。

 彼女はどうして、動けたのだろう。

 

 全身をイタチの前に出したイロミは、シスイの時よりも、なよなよしていた。いや、震えていた。

 

「あ、あの…………」

 

 声も、不安定だ。喉も、下顎も、震えているせいだ。

 

「……イタチ、くん…………、あの…………」

 

 イタチは、じっとイロミの顔を見て、口を閉じている。

 昨日の夕食に、イロミの顔を見ないように言った。それは、イロミの対人能力の許容量になるべく負担をかけない為だ。きっと、イロミはずっとイタチの前から姿を出さないと、予測していた。

 

 なのに、今のイロミは、そうじゃない。明らかに、いつもの彼女じゃなかった。

 

 原因は、シスイの言葉だろう。

 

 友達のシスイの言葉が、彼女の行動に、大きな変化を与えた。

 

 イロミが、一度だけ、不安そうに、こちらを見た。

 

 けれど自分は何も、言えなかった。ただ、頷くだけ。どういう意味を込めて頷いたのか、自分でも分からない。

 

 友達である自分が、彼女に、何をしてあげればいいのか、そもそも、分からなかった。

 

「私と…………」

 

 その声は、これまでで一番、弱々しいものだった。呼吸すら、まともにできていないのではないかと思えてしまう。

 

「……、その………」

 

 えっと、

 

「友達に……………」

 

 声がそこで、一度止まる。苦しそうだ。

 誰も笑わないし、怒りもしない。

 大きく、イロミの喉が、唾を飲み込んで動いた。細い顎から、汗が落ちた。

 

「……なって、ください…………」

 

 言葉の最後の方は、もう、隣にいるフウコでさえ聞き取れないほど、か細いものだった。それは、イロミ自身も自覚してしまったのか、泣きそうに、どこか悔しそうに、下唇を噛んで、大きく俯いてしまっていた。

 

 イタチは、優しく笑った。

 

「ああ。よろしく。俺は、うちはイタチ。フウコの兄妹だ」

「……う、うん……、よ、よろしく…………、私は、イロミって…………、言うの………。よろ、しく……」

 

 少しだけ、イタチは不可解そうに、微かに眉を顰めたが、すぐに笑顔を戻した。

 

 シスイの時と同じように、イロミの名前に疑問を持ったのだろう。しかし、それを今指摘するのは不必要だと、イタチは判断したのだろうと、フウコは考えた。

 

 イロミはすぐに、逃げるようにフウコの後ろに隠れてしまった。大きなため息が、背中から聞こえてきた。まるで自分はイロミの防波堤のようだ。

 

 それでも、シスイでも、イタチでもなく、自分を必要としてくれるのは、心が安定する。

 

 安定する?

 そもそも自分は、不安定だったのだろうか?

 いつ?

 

 ああ、きっと、イロミが下唇を噛んだ時だ。

 

 彼女の緊張が、自分に感染していたのかもしれない。

 

 友達だから。

 

 シスイの安心が、イロミに伝染したように。

 彼女の緊張も、自分に移ったのだ。

 

 友達だから。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 その日、修行は順調に進んだ。少なくとも、来週の手裏剣術の小テストでは、十回に三回くらいは、落第点はギリギリ取らないであろうという段階までには。目覚ましい進歩だ、とフウコは思った。もっと時間があれば、とも、思う。

 

 実のところ、修行自体は一刻ほどしか出来なかった。

 

 原因は、フガクである。いや、フガクのせいというよりも、フガクの顔立ちのせいだと言っても過言ではないだろう。

 

 イタチと友達になることに体力を使ってしまったせいか、あるいは大人と親しくなるという考えを作り上げることができなかったのか、兎にも角にも、イロミはフガクと顔を合わせる度にフウコの背中に隠れてしまったからだ。

 

 イロミ曰く「やっぱり、怖い……」とのこと。生理的に、フガクの顔立ちは、たとえ彼がサスケに向ける優しい笑顔を作ったとしても、受け入れられないようだった。そのせいもあって、フウコは、再びぐるぐると回される羽目になったのである。今回は、三十回ほど回されてしまった。

 

 イタチとシスイが、どうにかこうにか、イロミを説得して、ようやく顔を合わせても隠れない程度までにするのに、ほとんど時間を費やしてしまった。けれど、修行が始まれば、イロミは真摯にフガクの言葉を聞き、没頭した。

 

 フガクの教え方は分かりやすく、自分よりも遥かに丁寧だったように思える。つまり、何度同じ失敗を繰り返しても、根気強く教え続けた、という意味である。

 

 修行の最後には、小テストと同じ距離から、演習場に立っている丸太にめがけて投げたクナイが見事中心に刺さった。刺さった瞬間、それまで何十本ものクナイや手裏剣を外してしまい意気消沈していたイロミは「やったー!」と大いに喜んだ。フウコに抱き付くほどだった。

 

「シスイくんにイロミちゃん、うちでご飯を食べていきなさい」

 

 イタチ、シスイ、フウコ、イロミの四人で、イロミが大量に投げたクナイ(それらの中には、イタチ達が貸してあげたクナイも含まれている)を拾っている時、フガクが呟いた。四人は一斉に、彼を見上げた。既に、夕方である。

 

「……えーっとぉ…………。お父さんが、家で、待ってるので……」

 

 イロミが、困ったように口をへの字にした。嬉しいような、困ったような、表情である。フウコはその表情をじっと見ていた。

 

 逆に、隣でシスイは目を輝かせた。

 

「フガクさん、俺を一生匿ってください!」

「シスイ、お前は帰れ」

「なんだとイタチ! お前、今俺がどんだけ家に帰りたくないか知らないな!」

「帰れ」

「はい、イロリちゃん。クナイ。これで全部だと思う」

「ありがとう、フウコちゃん」

 

 クナイを手渡して、フウコは尋ねる。

 

「今日は駄目なの?」

「ごめんね、フウコちゃん。次は、一緒に食べよ」

「うん、そうだね。―――フガクさん、イロリちゃんを家まで送っていきます」

「いいのか? フウコ。ミコトのやつも、楽しみにしてると思うが」

「また別の機会でいいと思います。イロリちゃんも困らないと思うので」

 

 自分と同じように、彼女にも、家族がいる。きっと、心配していることだろう。半ば無理に、修行をさせてしまった部分もあるから、なるべく彼女の言い分は聞いてあげたかった。フガクは残念そうに眉の尻を下げて呟く。

 

「……そうか…………、確かに、そうだな」

 

 フガクはイロミを見る。優しい笑顔を浮かべ、イロミの頭を撫でた。

 

「困ったことがあったら、遠慮なく言いなさい。フウコの事を、よろしく頼む」

「……は、はいっ」

 

 三人と別れて、フウコはイロミの手を握って彼女の家に向かった。別れ際に、イタチとシスイはそれぞれ「じゃあ、また」「しっかり自分でも練習しろよ~」と言っていたが、イロミはしっかりと二人に頷きで返事をした。

 

「えへへ、今日は楽しかった」

 

 手を繋いだ二人の影は長かった。イロミの足取りは軽いように見えるけれど、修行の疲れのせいで力があまり入っていないのだと思い、手を繋いでいる。

 

 イロミはフウコと二人きりになると、少しだけ饒舌になった。それは、これまで彼女と関わってきた中でも、トップに入るほどに明るい声だ。でも、耳障りじゃない。むしろ心地よく、楽しかった、という彼女の言葉が、修行の時に大喜びしていた彼女の姿を思い出させる。

 

 思い出すと、自分も、楽しかったと、心の中で自然と言葉が生まれた。

 

「来週の小テストも、これで大丈夫かな?」

「百発百中ってわけじゃないから、まだ修行が必要だよ。また、フガクさんにお願いしてみる?」

「フウコちゃんから教えてもらいたい」

「これまで、何回も教えてたと思うけど。うん、でも、いいよ」

 

 頭の中で、今日、フガクが彼女に教えていた光景を思い出す。次に修行を付ける時に、それを参考にしようと思った。

 

 イロミの家が近づいてきた。

 

 やはりボロい見た目の家だが、ここに来た時よりは暗い気分にならなかった。楽しい気分のままである。

 

「あ、フウコちゃんはここまででいいよ?」

「いいの?」

「うん。その……、家族の人を見られるの、恥ずかしいから…………」

 

 ―――あれ?

 

 今、微かに、違和感を覚えた。

 イロミの笑顔が、少しだけ、ぎこちなかった。

 全然、楽しい気分が、彼女から伝染されない。

 

 気のせいだろうか。

 

「フウコちゃんも、早く帰った方がいいよ?」

 

 まただ。

 イロミの声が、どこか、逃げているように、冷たかった。

 どうしてだろう。そう思った時だった。

 

 家のドアが、開いた。

 

「―――あ、」

 

 イロミの口から零れた固い声は、今度こそ違和感が勘違いではないことをはっきりと伝えてきた。

 

 家から出てきたのは、熊のような男だった。身体が大きく、顔に醜い皺を刻んだ、男。まるでイロミとの接点が、男から感じ取れなかった。

 

 男と視線が重なる。腐った粘土のような、嫌な目つきだった。

 

「どうしたの? イロリちゃん」

 

 イロミから、繋いでいた手を離してきた。顔を横に傾けると、真っ青な顔をしている。

 

 男が、大股で目の前までやってきた。途端―――、

 

 

 イロミの身体が地面を転がった。

 

 

「―――え?」

 

 あまりにも、突然のことで、何も反応が出来なかった。

 イロミのいた家から、男は出てきた。男は、つまり、イロミの家族だ。けれど、その男は、たった今、イロミの頭を殴り飛ばした。反応が出来なかったのは、家族、という言葉に含まれる無防備な安全性を信頼していたからである。

 

「今まで何やってたぁあッ!」

 

 怒声が、夕闇に響いた。

 酒臭さとタバコ臭さが鼻に突く汚い声が、フウコの脳を混乱させた。

 

 この男は、何をしているんだ?

 彼女は、家族なんじゃないのか?

 もしかして、何か、勘違いをしているんじゃないか?

 

 自分の中で生まれた疑問に答えが出ないまま、次々と疑問は生まれ続ける。

 

 もう、楽しい気分なんかじゃなかった。背骨に氷を射し込まれたような、不快感だけ。

 

「ご、ごめんなさい……お父さん(、、、、)…………」

 

 地面に倒れていたイロミが身体を起こす。彼女の鼻からは、小さく、血が流れていた。左の頬は、紫色に近く変色している。

 

「すぐに、晩御飯、作るから……」

「さっさとしろクソガキッ!」

「ごめんなさい…………」

「さっさとしろッ!」

 

 また、イロミが殴られた。今度は、左頬だった。

 

 その時になって、ようやく、フウコは理解した。

 身体が熱いことに。怒っていることに。

 両目が、写輪眼になっていることに。

 

 フウコちゃん? と、イロミの声が耳に入った。でも、その涙声は、今のフウコには逆効果だった。

 

 右眼の写輪眼の紋様が、変わった。

 

 星の形をした紋様に。

 

「―――おい、お前」

 

 フウコの声は冷たさしか孕んでいなかった。自分でも、滑らかに言葉を出せたなと、自虐にも似た冷静さが生まれる。

 

 男が不愉快そうな怒鳴り声をあげてこちらを見下ろした。

 何かを喚いて、右手を大きく振りかぶっている。とても遅い動作として、フウコは観測していた。右眼で、男の目を睨み付ける。

 

 男は、一度大きく身体を痙攣させて、地面に倒れた。糸が切れた人形のように、滑稽に。

 

 遠くでカラスが鳴いている。この上なく耳障りな鳴き声に、舌打ちしたくなった。けれど我慢して、クナイを取り出す。

 

「フウコちゃん……駄目だよ…………」

 

 横目でイロミを見る。鼻からも、口端からも、彼女は血を流していた。両の頬が、青紫色になっている。それを見ただけで、怒りが倍増した。

 

 この男を殺さなければいけない。

 

 この男は、この里の平和には、相応しくない。邪魔な奴は、消さないと、いけないのだ。

 

「お願い、フウコちゃん。……わ、わたしは…………大丈夫だから…………」

「イロリちゃん、安心して」

「大丈夫だから……フウコちゃん…………!」

「こいつ、殺すから」

 

 クナイを振り上げる。

 目一杯の、怒りを込めて。

 

 シスイの言葉が頭を過ぎる。

 

『俺の友達を馬鹿にするやつは、たとえ俺の友達でも、俺は許さないからな』

 

 そうだ、自分は、彼女の友達(、、)なのだ。

 そしてこの男は、自分の友達ですらない。

 さらには、この里の平和には相応しくない。

 

 絶対に、許さない。

 許しては、いけない。

 

 クナイを、振り降ろした。




 次の話は十日以内に投稿する予定です。

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