『ふふ。扉間さんは、私とこうして二人きりになる度に、同じことを言うのですね。けれど、私も同じ返答です。私たち八雲一族は、木ノ葉隠れの里に加わるつもりは微塵もございません』
身体の病弱さを隠そうともしない白い顔。しかし、柔らかい彼女の笑顔は、彼女の心の豊かさを表して、見た目の線の細い身体と上手く相殺されていた。いやむしろ、それが彼女の中心である。夜風に揺れる、黒い布で高い位置で纏められた灰色の長髪も、木々の葉の隙間から零れる月明かりに照らされた長い睫毛と細い眉も、繊細な指が長い前髪を耳にかける動作も、蝶のように広い袖をした漆黒の着流しも、全て、彼女の豊かな人格を装飾するものでしかない。彼女を前にすれば、どれほど殺伐とした空気でも、和やかになってしまうのだろう。
生まれ持った資質なのか。
育まれた素質なのか。
彼女の雰囲気は、どこか、兄である千手柱間と似通ったもののように思えてならない。
どこか人を引き付ける。
どこか人を魅了する。
同じ言葉を使っているはずなのに、どうしてか、質が異なる。
だからこそ扉間は、何度も、彼女に声を掛けた。
木ノ葉隠れの里に参入してほしいと。
『これで何回目でしょうか?』
と、彼女―――八雲エンは悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。
『もう数えるのも億劫なくらいにお誘いを受けてしまいましたが、女としてはあまり、誇れるような数ではございませんね。こんな静かな獣道で、ましてや、口説き文句ではなく、一族郎党、自分の里に入ってくれというのは。私は毎回、扉間さんから声を掛けられる度に、もしかしたら今日こそはなどと、乙女心が爆発してしまいそうだというのに』
『嘘を言うでない。そなたにそのような心があるというならば、頬の一つでも染めて見せたらどうなのだ』
『ええ、嘘でございます』
ふふ、と小さく彼女は笑った。嘘を付くのが大好きという、彼女らしい笑みだった。
『これでも、かつては旦那がいたので。今更、殿方に声を掛けられて慌てるほど、歳は若くありません』
『ワシは本気だ。頼む、エン殿。どうか、木ノ葉隠れの里に加わってほしい』
『お断りさせて頂きます。この決断だけは、覆しません』
きっぱりと言い放ちながらも、エンの表情は笑顔のままだった。今まさに鼻歌でも呟きそうで、長い髪は意気揚々と左右に振れている。彼女に並走していた扉間は、静かに足を止めた。
『……今、木ノ葉は分解しようとしている』
扉間の言葉に、エンは背を向けたまま立ち止まる。
『木ノ葉にはまだ、足りないものが多すぎる。掟の厳密な制定。里を維持、機能させていく役職と規模の設置。他にも、里を形作る為の全てが不十分なのだ』
『……それが、我々八雲一族と、何かご関係が?』
『今までは、兄者が多くの一族たちを纏めていた。だが、兄者が死に、ワシが火影になってからは、兄者の人望で埋められていた隙間が露わになり始めたのだ。今では、各々の一族が身勝手に主張をし始めている』
『仕方がございません。信仰というのは、自分の内の言葉を代弁してくれるだろうという期待でしかありません。柱間さんがお亡くなりになられて、今まであの方を信仰していた方々が、絶望や不安を言い訳に我儘を申すのは、ごく当たり前の事です』
『それは分かっていた……。だが、あまりにも、主張する者が多すぎる。このままでは、里を離れる一族が出てきてしまう。それだけは、何としても防ぎたい。あと一歩の所まで来たのだ……。こんな所で瓦解させる訳にはいかん』
『事情は理解しましたが、先ほどの質問の答えになっておりません。我々八雲一族が木ノ葉に参入したとして、その状況がどのように変化するとお考えで?』
『……八雲一族には…………、いや、エン殿には、身勝手に主張する者たちの相談役となってほしいのだ』
第一次忍界大戦が終わり。ようやく得られた、平和の黎明。その終着点は、里という、血脈や過去とは関係の無い、新しいコミュニティの形成だった。
血脈という符号があるから、吟味せず他者を評価してしまう。
過去という幻想があるから、未経験の嫌悪を相手に押し付けてしまう。
それらを払拭するには、一定の位置が必要なのだ。
当たり前のように同じ位置を行き来し、道ですれ違い、会話をし、個人が個人を意識する事が出来る、位置。家のようなものが、必要だ。だが、家が出来上がる前に、住民が出て行ってしまっては意味がない。
人の想像力は、未だ世界を把握しきれていない。広大過ぎる世界を前に、人は自分を安定させる為にまた、血脈や過去を利用してしまう。だからまだ、里が必要なのだ。
柱間が描いた、この世界の誰もが正しく手を取り合う、争いの無い世界を作る為の、基礎としても。
今、瓦解し始めている木ノ葉には、エンの人格が必要だった。
誰とでも変わらず、穏やかに、豊かに接する事が出来る者が、身勝手に主張し続ける者たちの相談役となれば、正しい対話が出来る筈だ。そして、八雲一族の者たちが里に参入してくれれば、彼ら彼女らの空気に触れ、平和の価値を理解してくれるかもしれない。
八雲一族は誰もが、争いを好まない。
エン程ではないにしろ、穏やかで、素晴らしい者たちばかりだ。
だから―――。
『答えは変わりませんよ、扉間さん』
振り返るエンは、やはり柔らかい笑みを浮かべて応えた。
『貴方は私共を買い被り過ぎです。我々にそのような状況を打破できるほどの力はございません。ただ臆病に、ただ古き悪しき血脈を、ただ怠慢に生き永らえさせているだけに過ぎません』
『ワシは、そうは思っておらん。エン殿も、他の者たちも、正しく豊かに過ごしている。その証拠に、サルやダンゾウ、カガミも、誰も八雲一族を嫌悪していない』
『それは皆さまの方が正しいからです。その証拠に、フウコは皆さんに懐いているじゃないですか。あんなに人見知りだったあの子が、皆さんが来るたびにはしゃいじゃって。ふふ、親として羨ましく思ってしまいます。いずれ皆様を後ろから包丁で刺してやろうとさえ思っておりますよ?』
『………………』
『あら? 怒っておりますか? ご安心ください、皆様を刺そうなどとは思っておりませんよ。嘘ですので』
『……どうすれば、木ノ葉に来てくれるのだ?』
『そうですねえ。扉間さんが、私を妻に迎えてくれたら、考えましょう』
『エン殿。どうか、真面目に話をしてほしい。つまらん嘘は止めよ』
『ええ、嘘です。たとえどのような条件を付けられたとしても、木ノ葉に参入するつもりはございません。他の者たちに問うても、変わらないでしょう。諦めてください』
むしろそちらの方が嘘であってほしいと、扉間は願ったが、彼女が自ら嘘だと打ち明けないという事は、本心なのだろうと分かってしまう。八雲一族の中で最も親しい彼女の行動は、事細かに分析できてしまう。
二人は静かに歩き始める。また並んで。
木ノ葉隠れの里の長と。
八雲一族の長が。
『―――先ほど、扉間さんは我々が豊かだと言いましたが、それは間違っております』
唐突に、エンは呟いた。
『魚は、陸の上では貧しく死んでしまいますが、海や川の中では豊かに泳ぎます。鳥は、木の枝では蛇に貧しく食われてしまいますが、空の中では豊かに飛びます。どんな者にも、豊かに生きる事が可能な場所があるということです。八雲一族の者たちが豊かに見えるのは、きっと、この場所だけなのです。そしてそれは、真に豊かだとは言えません。扉間さんや、ヒルゼンさん、ダンゾウさん、カガミさん、他にも木ノ葉にいらっしゃる方々こそが、豊かなのです。他者と関わろうと努力する人こそが、豊かなのですよ』
我々には、その豊かさがありません。
エンは続ける。
『我々の身体には、他者との繋がりを否定する血が流れております。故に我々は、山海の森林奥底に小さな集落を構え、外界との繋がりを拒絶してきたのです。そしてその考えは、親に教え込まれ、もはや思想の奥底まで根付いてしまいました』
『だが、今はワシらと繋がりを持っている』
『ふふ。そうですね。ですがそれは、皆様が無害であると判断したからです。安全だと、臆病に評価したから、繋がれているだけです。そしてたとえば、皆様が急にこちらへ足を運ばなくなったところで、一族の者たちは皆様に会いに行こうとはしないでしょう。ただ、あるがままを受け入れる。あるものだけを享受する。それを豊かだと仰るのは、いささか無理がございます。我々は、貧しさに甘んじているだけに過ぎません』
『だが、争いが無い』
『発展もございませんね』
『争い、命が無くなって生まれる発展に意味など無い』
『だから皆様のような方が生まれたのです。誰も傷つかず、けれど、発展していく為に。途方もない遠回りだと分かっていても、その道を進もうと決意した、皆様が。―――我々には、それが出来ません。発展していくことも、遠回りをすることも。ただその場で貧しさに甘んじるだけの、悪しき血脈なのです』
『………………』
『ですから、諦めてください。八雲と木ノ葉は交じり合う事はございません。雲と葉が、触れる事など無いのです』
どうしてだろうか。
彼女の言葉を聞けば聞くほど。
無機質な壁が、自分と彼女を別け隔てるような感覚が襲ってくる。
木ノ葉隠れの里に参入してくれるという望みは、前々から、かなり低いと分かっていたのに。
冷えた空気が首筋をなぞるような寂しさが、やってくる。
『ですが―――。もし、ですよ?』
『……何だ?』
『もし、私共に……そう、たとえば、フウコが大人になって、何か、特別な事が起きたら、奇跡とか、そういう事が起きて、フウコが悪しき血脈から解き放たれた時には、木ノ葉に連れて行くのは、良いことかもしれませんね。あの子は、八雲一族で唯一の子供ですので、未来は末広がり。そういう事が起きないとは、限りませんからね』
彼女の言葉の意図が分からず、返答に困った。すると彼女は『ふふ、すみません。変な話をしてしまいましたね』と、彼女も困った笑顔を浮かべた。
『そうですね。木ノ葉に参入は出来ませんが、応援は致します。扉間さんは、
『呪い事など、興味がない。そんな事をする暇があるならば、考え、行動した方がマシだからな』
『ふふ。扉間さんらしいですね。しかし、私にできる事はこれしかありません』
足を止めた彼女に、扉間も合わせて足を止めた。柔らかく笑う彼女の顔はこちらを真正面と向き、右手を扉間の胸辺りまで上げると、小指だけを伸ばしてきた。
『指切りをしましょう』
『……それは、呪いではないのではないか?』
『約束を守る呪いではあります』
『子供騙しだ』
『ええ、そうですね。ですが、嘘ばかりつく私との指切りならば、大人も騙せます』
『屁理屈は好きではない』
『多少の理屈があれば、意味があるというものです』
のらりくらりと、のほほんと、あっさりと言ってのける彼女のペースは、厳格さを基盤とした扉間のペースを大いに狂わせる。納得のいかないままに、諦めた扉間は大きくため息をついて、自身の小指を彼女のそれに交わらせた。
細い彼女の指は、扉間の無骨の指であっさりと折れそうなほど大きさに差があるものの、不思議と、安心感が沸いた。
こんな事をしても、何も現状は変わらないというのに。
『兄を失って、混乱がやってきてはおりますが、木ノ葉隠れの里をどうか発展させてください。約束ですよ?』
夜風が吹いて、木の葉が舞う。
数秒の沈黙の後。
何も現状は変わらないままに、けれど扉間は、確かに応えた。
『……約束しよう』
嬉しそうに、エンは笑う。
『約束を破ったら……そうですねえ、やはり、針を千本ほど、飲んでいただきます』
『嘘なのだろ?』
『ふふ。さあ、どうでしょう』
『嘘なのだな』
『ええ、嘘です。だって扉間さんは、約束を守ってくださると、信じておりますから』
『相変わらず、食えない御人だ』
『ふふ。未亡人を食おうなどという健啖家には、扉間さんは見えませんね』
その時、歩いてきた道の方から、声が聞こえた。
お母さんと大きな声で呼んでいる。
『あら、フウコが追いかけてきてしまいましたね。家でお留守番を頼んでおいたのに……寂しがり屋な子ねえ』
『カガミたちにも頼んでおいたはずなのだがな……。あやつら、先に寝おったな』
『フウコー。貴方のお母さんは死んじゃったから、家に帰って葬式の準備をしなさーい』
ええッ!? と、暗闇の奥で素っ頓狂な声がする。
『実の子に趣味の悪い嘘を付くでない』
『子は親の嘘を聞いて成長するものなのですよ。さて、本当に戻りましょう。あの子にいじけられては、嘘の付き甲斐がありませんので』
小指はあっさりと解かれ、エンはすたすたと来た道を戻り始めてしまった。
文字通り、来た道を戻った結果しか、扉間の中には残らなかった。木ノ葉隠れの里が空中分解する危機は依然として存在している。問題は山積みで、時間は無く、その貴重な時間は、エンの嘘とのらりくらいとした対応のせいで無駄になってしまったというのは、大きなロスである。
しかし、蛍の光を見た時のような、不思議な感覚だけは残った。思考に余裕が生まれながらも、遠くを見通せる。そんな気分だった。気分の中心は、小指から。
『扉間さん』
見下ろしていた小指から顔を上げると、少し離れた所で振り返っていた。
『信じてますよ、木ノ葉隠れの里を発展させること。平和の実現を』
そして願わくば。
フウコが過ごせる未来を―――。
やがて扉間は、エンと誓いを交わし。
その誓いを果たすべく、木ノ葉隠れの里にも、フウコにも、尽力した。
結末は、誰もが予期せぬ方向へと進んだが。
木ノ葉隠れの里の機能の基盤を無事に確立し、扉間は、エンとの誓いとフウコとの誓い紡ぎ、未来へと託した。
決して伺う事など出来ないはずの。
遠い未来にあるべき、木ノ葉隠れの里の平和を。
そして。
魂は外法によって未来へと蘇った。
始まりの分からない意識の開闢は、夢を見る時よりも不連続で、寝起きよりも残滓が無く、それこそ正に、瞬きをしたら場面が変わっていたという、不可思議でありながらもどこか日常感を引きずったものだった。
視覚からの情報は、何一つ滞ることなく取り込まれる。思考の網は法則的で、乱雑な情報を精密に構成し直し、最終地点の意識に読み取りやすくしてくれる。
足場の瓦屋根。
紫色の結界。その向こうでは、巨大な蛇が里の中へと侵入し暴れているのが見える。
かつて見た街並みはアウトプットを残しながらも、ディティールは変わっている。
それらの情報と、死んだはずの自分が呼吸もなく意識を戻している事に、扉間は小さな落胆と達観を抱きながらも、目の前に立つ老人の懐かしい面影に、息を吐いた。
「久しぶりよのう、サルよ……」
どれくらい程の間、その名を呼んでいなかっただろう。自分の記憶の中では、一日も過ぎていない。しかし、久しぶりと呼んだのは、分かっていたからだ。自分が時間を超えて、蘇ってしまったのだと。
「ほぉ……、お前か……。歳を取ったな、猿飛……」
隣で、声が。
黒の長髪と赤を基調とした忍び装束。
自分よりも先にこの世を旅立った筈の兄―――千手柱間が立っていた。
彼も自分が蘇った理由が分かったのだろう。落ち着き払い、そしてこの場において、全く介入するべきではない立場ではない事を重々承知している様子だ。
「……本当に、お久しぶりですのう。柱間様、扉間様」
振り絞るような声で、ヒルゼンは応えた。自分が生前の頃は、大人ではあったが、まだまだ子供を見守るような感覚が生まれてしまうほどの未熟さがあった。しかし、年老いた彼の姿には、当時のようなそれは無い。
ただ単に歳を重ねてきただけという訳ではない。自分が授けた火影という地位を背負い、努力をしてきたのだろう。
喜ばしいと思う反面。
だが、この現状。
戦争かどうかは定かではないものの、エンと誓った平和ではない事に。
振り返る。自分や柱間が入っていたであろう棺桶は力なく瓦屋根に倒れ、その奥に立つ男の姿をはっきりと見させる。
白化粧をした長髪の男だった。
「穢土転生か……。という事は、貴様がワシらを……」
ええ、と大蛇丸は頷いた。
「偉大な火影である御二人の力をお借りしたくて、お呼びさせて頂きました」
「木ノ葉を滅ぼす為にか?」
「面白いとは思いませんか?」
「とんだイカレ者か……」
だが、タダ者ではない事は分かる。穢土転生の術は、印や仕組みを理解していれば使用できるような単純な術ではない。忍としての、才がいる。しかし、それでもやはり、まだまだ未熟ではある。そのせいで、蘇った肉体は不完全だった。生前の時の何分の一の力も出せない。おかげで、自身の行動に大きな制限がある。
「はあ……いつの世も争いか……」
と、柱間がぼやいた。もしも、彼が生前通りの力を持っていたならば、穢土転生の術の支配など瞬く間に打ち破っているはずだ。
できる事は、些細な所作と、単なる会話。
すぐにでも自分たちの意識は閉じられ、純粋な兵器としてヒルゼンと戦う事になる。翼を持たない蛇がどれほど願っても空を飛べないように、現状として抗うことは絶対的に不可能なのだ。生来から持ち、鍛えられてきた冷静さは淡々とし、幽世から現世へと蘇りながらも、扉間はその事実を前に大きな感慨は抱かなかった。
ヒルゼンが。
木ノ葉の子らが。
この現状を打開してくれるだろう。
そんな信頼があることも、扉間も、柱間も。
冷静でいられるのだろう。
しかし。
扉間にとってただ一つだけ、尋ねたいことがあった。
誓いの、確認である。扉間はヒルゼンに向き直る。
「サルよ……この場で訊くには場違いな気もするが、一つだけ教えてほしい」
エンとの指切り。
一つ目は、里の発展と平和の実現。
しかし、実はもう一回、指切りをした。
彼女は笑いながら『あの時の指切りは無かった事にしましょう。嘘だったのです』などといい、新たに書き換えられた指切りをしたのである。
フウコを平和な世に導き、人生を謳歌させる。
それが、彼女との本当の誓い。
「フウコは今、どうしておる」
今の世が具体的にどうなっているかは分からない。他の忍里を巻き込んだ大戦中かもしれないし、あるいは互いににらみ合った冷戦状態かもしれない。フウコの封印を解くのは、完全な平和がやって来た時だとヒルゼンには伝えてある。この伝聞も、これから続く火影たちへと引き継がせていくようにとも。
だがもし目覚めているのだとしたら。
聞きたい。
彼女がどうしているのか。
エンとの誓いを守れているのか。
フウコは健やかに過ごしているのか。
楽しく人生を謳歌できているのか。
里が今、酷い状態ではあるが、無事なのか。
それだけを―――。
「貴方の言うフウコなら、数年前に里から出て行ったわ」
扉間の問いに応えたのは、ヒルゼンではなく、大蛇丸だった。
一瞬だけ、言葉の意味が分からず、ヒルゼンの反応を見てしまった。ヒルゼンの表情は、その言葉があまり良くない方向の意味合いなのだと、そして事実なのだと証明するかのように、奥歯を噛みしめた苦いものだった。
「……何故お前がそのような事を知っているのだ…………」
「クク、今となっては有名な話ですよ。彼女の名前を尋ねれば、誰もが同じこと言うでしょう。死んでいた貴方には分からないかと思いますが、彼女は数年前、とある事件を起こし、里を追われたのです。今では他里からも恐れられる、犯罪者の中でも一等に危険な人物として認識されているのですよ」
「虚言をほざくな。あやつがそのような事をするはずがない」
「彼女がどんな性格なのかは、正直私にも分かりかねますが、少なくとも彼女が里を追われたのには、そこにいる老いぼれと、そしてこの里の存在そのものが関わっているのですよ。有り体に言えば、木ノ葉隠れの里が彼女を追い詰めたのです。そうですよね? 猿飛先生。まさか、この期に及んで否定するなどとはしませんよねえ? 彼女に、うちは一族滅亡を指示した一人なのですから」
フウコがうちは一族を滅ぼした。
荒唐無稽な話は、しかし、眼下に広がる光景が現実味を持たせる。
警務部隊に配属が決定したうちは一族がいながらも、果たして木ノ葉隠れの里がここまで荒れる事はあるのだろうか、と。
沈黙を続けるヒルゼンに、扉間が真実を聞こうとした―――その時のことだった。
結界の外に立っていた一人の少年の、震えた声が聞こえてきたのだ。
「どういう……ことだってばよ…………、それ……」
☆ ☆ ☆
その洞窟には、外界へと繋がる通路は存在しなかった。故に、昼間であるというのに外の光は一切に届かず、完全な暗闇が唯一の支配者である。どのような経緯で、その空間が生まれたのかは分からない。
自然の衝突が生み出したものなのか、それとも誰かが人為的に生み出したのか。利用者たちの中でそれを知る者はいない上に、知ろうとする者もいなかった。ただ都合の良い、静かな空間。彼ら彼女らが抱いている共通の認識である。
そう。
出入り口の経路が無いその洞窟には、七つの影が立っていた。
影―――不思議な事に、その影は光っていた。矛盾した表現であるけれど、事実である。影は、チャクラの塊である。つまり、術者のチャクラによって映し出されたものだった。
影は人の形をしている。影の縁は怪しく仄かに発行しており、それが洞窟内の唯一の光源となっていた。縁以外は、どれも、漆黒だった。七つの影は意識した訳ではないものの、会談でもするかのように円形に陣取っていた。
「……おいおい、まーたあの女とダンナは遅刻かよ、うん」
影の一つが苛立たしく声を出した。
「もう勝手に初めてもいいんじゃねえのか? どうせ、あの二人に何言っても意味ねえよ、うん」
「おやおや、デイダラにしては珍しく正しい事を言うじゃあありませんか」
影らの中で一際、大柄な形をした影は、皮肉る様に呟いた。すると、デイダラと呼ばれた影は小さく舌打ちをする。
「なんだよ鬼鮫。珍しくってのは」
「いえ別に。ただ貴方とペアを組んでいると、色々と貯め込んでしまうものがありまして。貴方は何かと爆発させて拡散させているようですがね」
「そりゃあオイラの芸術の近くにいれば、鬼鮫は干物になっちまうからなあ。ちったぁ芸術を受け止める教養を身に付ければいいんじゃねえか? うん」
「花火を振り回す子供の遊びに付き合う身にもなってほしいものですねえ」
「……おいテメエ、今オイラの芸術を、ガキの遊びだっつったのか? うん」
「遊びではなかったのですか?」
「表出ろオイッ!」
「今、私たちは外なんですがねえ」
「やめるんだ、二人とも」
チャクラの影であるとはいえ、まさに喧嘩を始めようとした時、別の影が制止させる。声は平坦で、威圧する硬さもなかった。しかし、デイダラと鬼鮫は、納得いかなそうではあったが、互いに黙り込む。それは、制止させた影の男が、この集団のトップである事を遠さ回しに現していた。
「あの二人が遅れてくるのはいつもの事だ」
と、男は呟く。
「ましてや、二人ともノルマを達成しているからな。少しくらいは大目に見てやれ。……今回の要件は、緊急のものでもない訳じゃない。二人が来るまで、黙っていろ」
男の指示通りに、洞窟内は無音に満たされる。ただ、誰もがその静寂が無駄だと言いたげに、無言の不服を言っていた。数分くらいだろうか。ようやく、その二人は現れた。
「ごめん。寝てた」
現れた一つの影は、高級な鈴のような声質。影の声は少女だった。
遅れてきた事は自覚しているのだろう。しかし、平坦な声のトーンと、悪びれる様子もない率直な事情説明に、デイダラは露骨過ぎるまでに大きな舌打ちをした。自身の身長ほどにもある長い髪を静かに揺らして「なに?」と、その影がデイダラを見ると、彼は不機嫌そうに視線を逸らした。
「別に、何でもねえよ、うん。なあおいサソリの旦那。アンタからは何かねえのか?」
逸らした先には、もう一つの影。その影は、他の者らの影に比べて背は極端に低い。サソリと呼ばれた影は微動だにしないままに「俺に文句言うんじゃねえ」と、呆れた声を出す。
「こいつの保護者じゃねえんだよ、俺は。文句があるならフウコに言え」
「文句?」
と、フウコは頭を傾げる。そして「ああ」とすぐに、頭の位置を戻した。
「少し遅れた程度で、腹が立ってるの?」
「どこかの遅れてくる奴の態度がでけえからな、うん」
「そう。貴方の器が小さいだけでしょ」
「んだとぉッ!」
「五月蠅いから静かにして。起きたばっかりだって、言ったでしょ?」
「ククク。今日は姫のご機嫌が斜めのようですねえ。サソリ、しっかり食事を与えているのですか?」
「何度も言わせるな。俺はこいつの世話係じゃねえ」
「うん、そう。お腹が空いてる。早くご飯が食べたい。サソリ、今日のご飯は?」
「黙れフウコ。さっき食ったばっかだろうが」
「嫌だ」
「くだらない世間話はそこらへんにしておけ」
再度、男は制止を加える。
「全員が集まったところで、話をしよう」
サソリは、嫌な予感を抱いていた。今回の招集のタイミングが、あまりにもピンポイントだったからだ。
時期が被り過ぎている。
アジト内で【暁】のトップの男から、忍術による遠隔のコンタクトを受けた瞬間に脳裏に浮かんだのは、木ノ葉隠れの里で行われている中忍選抜試験―――最終試験。試験の具体的なプランは知らないが、試験が行われるのは昼頃のはずだ。大名が顔を出している、試験の最中。大蛇丸が木ノ葉に戦争を仕掛けるのは、つまりは、今頃だ。
そのタイミングでの、招集。
この符合への嫌な予感は、おそらく、気のせいで済まされるものではないだろう。
「……再不斬、白。準備をしろ」
サソリは、同じリビング内にいた再不斬と白に呟いた。ちょうど、昼食後だったのだ。白は、フウコが積み重ねた空き食器を片付け、再不斬は白の作業が終わるのを待っているかのように、テーブルに空いたスペースに足を乗せて瞼を閉じていた。サソリの呼びかけに、再不斬は鋭く睨み返してくる。
「実験でもすんのか?」
「いや、今回は別件だ。……だが、今まで以上にぶっ壊れるかもしれねえ」
「…………まさか、アレか?」
以前に話した、フウコが暴走するかもしれないという事を思い出したのだろう。再不斬の眼光が鋭くなるのを傍目に、サソリの中で大きな狂いが起きる。
早い。
あまりにも、早過ぎる。
サソリの中には、大蛇丸の企てがフウコの耳に入るのは、大蛇丸の木ノ葉壊滅が失敗に終わってから、という筋書きがあった。
何せ、忍里の中で起きている事象なのだ。企てが失敗してからというのなら、火の国からの資金や物資の援助、その流れで【木ノ葉隠れの里に何かがあった】と察知するかもしれない。それとも、復興によって人員を割かれた事による、任務引き受け数の減少や忍の質の変化でも、察知されるかもしれない。
情報はどこからでも漏洩してしまう。
どれほどの大樹でも、風が吹けば葉が擦れ合い音が出てしまうように。葉そのものが落ちどこか彼方に着地してしまうかのように。
だが、リアルタイムというのはおかしい。それは、監視していた、ということだ。
監視。
―――どうして木ノ葉を監視してやがる。今はまだ、価値がねえはずだろうが。
サソリの内心の苛立ちが示す通り、今の木ノ葉隠れの里には価値が無い。価値が生まれるのは、まだまだ先のはずだ。監視する必要が全くないという訳ではないが、監視する暇があるならば、本来の予定を進行させるのに労を費やした方が効率的だ。そして【暁】のリーダーは、効率的な考えをする人格だというのが、サソリの評価だった。フウコを疑いながらも、彼女の実力を評価して組織の部品に仕立て上げているのもそうだし、いつでもフウコを消せるように自分をペアにしたのもだ。
ではどうして、知ることが出来たのか。
予め、大蛇丸の行動を予見していたからか?
いやそれもおかしな話しだ。【暁】から見れば、大蛇丸は自分たちの計画を知る者。いち早く消し、今後の予定への障壁を取り除きたいはず。木ノ葉に大きな隙を生み出すという事を差し引いても、大蛇丸の動向が分かっていたならば、彼を消す方がいいはずだ。
どうしてだ。
疑問は解けない。
「どうすんだ?」
と、再不斬は低い声で呟く。
「お前の予定通り、あの女を暴走させるのか?」
「駄目だ」
今フウコが暴走すれば、彼女は間違いなく木ノ葉へと赴き、大蛇丸を殺すだろう。
そうなってしまっては、こちらの計画が破綻しかけない。
【暁】と敵対してしまうのは仕方ない―――いずれは敵対するシナリオなのだから―――。
フウコが暴れて、しっちゃかめっちゃかに世の中を壊しまわり、何千何万という人間を殺し、挙句にイタチやイロミや他の知り合いを皆殺しにするのも仕方ない―――計画に大きな支障が出ないから―――。
だが。
「なんだよ、また予定変更か? 前々から思ってたが、お前の考える演劇ってのは随分と曖昧なんだな」
「シナリオを書いたのがフウコだからな。しかも結末しか書かれてねえポンコツだ。俺がやってるのは、とにかくあいつが描いた部分を実現させるのに手を尽くす事だけでしかねえ。過程なんざ不格好でもいいんだよ」
「じゃあどうする」
どうすると言われても、招集指示が出てしまっている。出ない訳にはいかない。もしかしたら、全く関係の無い事での招集かもしれないからだ。
「考えている時間はねえ。おい小僧」
「はい、何ですか?」
食器を片付けていた時の呑気な雰囲気は無くなり、白は真剣に頷いた。
「俺の部屋のデスクに注射器と薬がある。すぐに持ってこい」
「……分かりました」
白はすぐさまサソリの部屋へと向かった。アジトの中の互いの部屋は、位置は把握していた。下手にアジトに迷い、サソリやフウコの部屋に入ってしまう事によって招かれる疑念を避ける為だ。
「再不斬、お前はいつでも逃げられる準備をしろ」
「いいのか?」
「ああ。お前ら二人は今後も、あいつの為に役立ってもらう。こんな下らねえ事で死ぬのは俺が許さねえ」
「いいだろう。……だが、出来る限りは手を貸させてもらうぞ」
「ほう。いつになく殊勝だな」
「あの女でもテメエでも、手足だろうが爪先の垢だろうが、何にでもなってやる。その代わり、契約は守れよ」
サソリはリビングを出た。
フウコの部屋。
暗闇だが、微かな紫煙が漂っている。食後に、煙草を吸ったのだろう。煙草の葉はサソリが調合したものだ。依存性を極端に強くしている上に、食後と眠る前に吸うように言ってある。今の彼女は、意識が迷妄しているはず。
「フウコ。起きてるか?」
「……うん」
彼女は部屋の端に小さく蹲っていた。白い寝間着だが、長い黒髪のせいで、彼女の身体の殆どは暗闇に溶け込んでしまっている。足元には煙管が転がっている。子供が壊れたおもちゃを前に泣いてるような姿だと、サソリは思った。
「確認したいことがある」
「なに? あいつに呼ばれてるから、早めにいかないと……。私もサソリも、何度も遅れてる……」
「今更気にする事じゃねえ。確認するぞ」
「うん」
「俺たちの計画を覚えているか?」
「うん」
「俺たちの契約を覚えているか?」
「うん」
「本当か?」
「私は、復讐をしたい。私から大切な全てを奪った、全ての過去に、復讐したい」
「俺は、お前の身体を貰う」
「私が壊れても」
「俺が直す」
「私が逃げようとしても」
「俺がお前を舞台に戻す」
「私はいらない。私が何かを考えれば、何もかも上手くいかない。―――だから、サソリが必要なの」
「お前の全ては、俺に任せろ。何も考えるな。舞台もセッティングも、俺がする。―――だが、最後は、お前の全てを貰う」
「覚えてるでしょ?」
「最後に確認するぞ。お前は本当に、復讐がしたいんだな? その為なら、全てを捨てられるな?」
「うん。全部捨てる。今度こそ……捨てて…………あいつを……あいつらを…………」
震えるフウコの声。しかしそれは、怒りに震えているだけではないと、サソリには分かっていた。
怯えている。
いつも【暁】の招集では、彼女は怯えてしまう。遅れてしまうのは、それが原因。
薬のせいもあるのだろう。今では、彼女の心はズタボロだ。彼女の中にいる別の人格が、毎日毎日彼女の心を踏みにじるせいで、初めて会った時のフウコは名残だけだ。滅多に本来の彼女を見ることが出来ない。もはや、幼児退行と言ってもいいだろう。怯えが素直に出てしまっている。
詳しくは知らないが、【暁】のリーダーに酷く痛めつけられたらしい。その時のトラウマが、彼女を怯えさせてしまっている。
だからいつも、サソリは彼女を立ち上がらせる。怯えた彼女を、舞台に立たせる為に。
「安心しろ、フウコ」
彼女の頭に手を添える。
無骨に。
無表情に。
「お前の演劇は、俺が成功させる。お前は何も考えるな。ただ、契約と、復讐の事だけを考えろ」
そして二人は、招集場所に現れた。
他のメンバーとの些細な口喧嘩をするフウコの姿に、とりあえず今は問題ないと判断した。あとは、この後の展開次第。
「全員が集まったところで、話をしよう」
来たかと、サソリはリーダーの影に視線を向けながらも、すぐ横のフウコへの気配りを集中させた。
「大蛇丸の所在を突き止めた」
まるで道端に転がっていた落とし物を見つけたかのような軽い調子でリーダーは言ってのけた。情報を持たないフウコはどうでもよさそうに無反応だが、サソリにとっては最悪の展開だった。
「そいつは朗報じゃねえかよ! うん!」
集まった者の中でデイダラだけが呑気にテンションを上げている。他の面々は別段、大蛇丸の所在が分かったことに喜ぶことも、その程度の事で招集をかけるとはなどと落胆することもなく、淡々とリーダーの言葉を待った。その中には、勿論サソリも。ヒルコの中でじっと、息を潜めて。
「別件でゼツを動かしていてな。その途中で見つけたらしい」
そこでリーダーは視線で話しを渡した。視線の先には、チャクラの影からでもニヤニヤとした半分の顔が伺える。彼はわざとらしくフウコを見た。
「そうそう。大蛇丸はね、木ノ葉隠れの里にいたんだよ。何やろうとしてるのかは分からないけど、凄いよ? 今、木ノ葉はぐちゃぐちゃになってる」
―――いちいち突っかかってきやがって。
フウコは何も応えず、無関心を装っている。サソリには、手に取る様に分かってしまう。
今、フウコの心は間違いなく、荒れている。
火の中に入れられた竹のように、破裂寸前だ。いつ木ノ葉隠れの里へ行き、大蛇丸を殺すか分からない。
招集前に打ち込んだ薬の効果もあるのだろう。しかし、そんなものは気休めだ。手加減した薬の効力では、彼女の強情は抑えきれない。
全ては彼女の意志。
復讐を心の底から望む、意識。
それだけが、この場面を取り繕う背景だ。
「大蛇丸を殺しに行くのか?」
別の影―――角都が興味なさげにリーダーに尋ねる。
「いや。奴を消すのは、今は難しい」
「なんでだよ?」
と、デイダラが。
「今は木ノ葉が滅茶苦茶になってるんだろ? だったらそのゴタゴタに紛れて消せばいいじゃねえか、うん。何だったら、オイラの芸術で木ノ葉ごと吹き飛ばしてやってもいいぜ?」
「……今回、皆に招集をかけたのは、大蛇丸を消す為じゃない。奴はちょうど良く、こちらの計画を進める機会を作ったに過ぎない」
計画。
この場に集まった者ならば、共通の認識を想起させる言葉だった。
そして、このメンバーの殆どは、知っている。
計画の為に必要な【尾獣】と呼ばれる存在。それが、今話題となっている木ノ葉に、何匹いるのか。
そしてサソリは知っている。
【尾獣】を宿している少年と、フウコの微かな繋がりを。
「経緯は不明だが―――木ノ葉で九尾が暴走している」
ガギリと。
何かが砕ける音が微かに聞こえた。
その音が、フウコが自身の奥歯を噛み砕いた音だと分かるのに、一秒も時間は必要なかった。
次話は今月中に投稿したいと思います。