いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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友達と別れ、また、友達と会う

 

 空が、青い。

 

 憎らしい程に。

 

 今、木ノ葉隠れの里の平和が壊されているというのに。

 

 変わらず空は青く、白い雲が悠長に泳いでいる。

 

 嘲笑するように、見下すように。

 

 お前には何も出来ないのだと、言っているように思えた。

 

 あの夜のように。

 

 静か過ぎる、あの夜のようだと、イタチは思った。

 

 今度は何を奪っていくのか。

 

 空は。

 

 自分から何を奪い、去って、さも平和を見下ろすのか。

 

 入れ替わってほしい。

 

 シスイと、フウコと、イロミと、自分の四人が走り回った、幼い頃の透明な空に。

 

 ―――どうして、そう、考えるんだ……?

 

 空が入れ替わる事なんてあるはずないのに。

 

 そんな事、考えたはずもないのに。

 

 きっとそれは、フウコの姿を思い出したからかもしれない。

 

 彼女はずっと空を見上げていた。

 

 どうして彼女がそうしていたのか、確かな理由を聞いた事はなかった。ただ、綺麗だから、という感情的な事以外は。

 

 もしかしたら彼女は、空を、見張っていたのだろうか。

 

 瓦礫の上から。

 

 戦争を導き、何かを持ち去っていく空を。

 

 そうさせない為に、研鑽を積んできたというのに。

 

 身体が徐々に重力の鎖に囚われていく。数秒だけの浮遊感は、イタチの前髪を上に持ち上げた。そのまま、空中に投げ出されたイタチの身体は真下の試験会場の中央へと落ちようとする。空は遠ざかっていく。身体は重くなり、意識は徐々に速度を落とし、重力と比例するかのように、緩やかな時間は速度を速めた。

 

 次の瞬間には、目の前にはイロミの姿が入り込んでいた。

 

「死ぃぃいねえええええええッ!」

 

 右腕を弓のように振りかぶり、口角を限界まで吊り上げたイロミが、さらに上空から降ってきた。

 

 食事(、、)を終えたイロミの拳。木っ端な音の忍らを余すことなく平らげた彼女の身体は、挽かれたようにズタズタだった両足を再生させる事に止まらず、身体能力の次元の桁をさらに外させた。背から生えていた大蛇たちは死んだように動かなくなり、イロミの肉体から離れている。それも合わせてか、もはや、彼女の挙動一つが破壊の現象。

 

 イタチの写輪眼は、身体の重さに関係なく、イロミの挙動を読み切っていた。両眼の写輪眼は元の状態に戻っている。食後の彼女の攻撃を躱し続け、けれど攻撃の余波で刻まれたダメージを背負いながらも、振り抜かれたイロミの右腕が腹部を吹き飛ばそうとしたのを、胴体を捻り寸での所で回避した。

 

「………影、分身の術ッ!」

 

 生み出したもう一人の自分がイロミの両手を掴み拘束する。今の彼女にはまるで意味の無い拘束だが、目的はそこではない。

 

 距離を離すこと。

 

 イタチは影分身体の背を蹴り、空中でありながらも姿勢をコントロールした。チャクラを練り、印を結べる程の余裕。そして、化物染みたイロミの身体能力であっても、何も無いままに空中で移動が出来る訳もなく、彼女からの反撃は届かない距離を作れた。

 

 術の性質は水遁。

 

 イロミを地面に叩き付け、ほんの微かな隙を作る為だ。

 少しだけでもいい。

 幻術で支配できれば、彼女を救い出せる。

 月読は使えない。

 彼女自身には、万華鏡写輪眼を見る為の視界が無いからだ。だが、月読に頼らずとも、イタチの扱う幻術のレベルは木ノ葉の中においてトップクラスだ。一度幻術に呑み込まれてしまえば、自力で解ける者などそうはいない。

 

 それだけが、もはや言葉の届かないイロミを救う為の、唯一の手段だった。

 

 幻術で支配し、意識を落とし、封印術を施す。

 その為の、刹那。

 術を当てれれば、終わらせれる。

 

「―――……まだまだぁああッ!」

 

 身体が、引っ張られる。

 

 影分身は依然としてイロミの両手を拘束している。影分身を蹴り落としたせいで、そもそもイロミの手足は届かない距離のはずなのに。

 

 視界が回転する。身体を引っ張るのは腹部を絡めとる何か。

 

 それを、視線が捉える。

 

 イロミから伸びる尻尾だった。

 

 蛇ともトカゲとも分からない長く巨大な尾が巻き付き、イタチの姿勢を揺るがした。尾はうねり、イタチを地面へと投げ落とす。

 

 ―――時間が足りないか……!

 

 距離も時間も、全ての速度が上回る彼女にはその二つを掌握されてしまっている。幻術を使う隙どころか、隙を作る為の大きな術一つ発動できない。簡単な術では、彼女にはビクともしないだろう。

 

 試験会場にいた音の忍らを捕食した彼女を前にしては、ただ一つの隙を見出す事すら至難だった。

 

 地面に叩き付けられる寸前に姿勢を戻し両足で着地する。思考は既に、上から落ちてくるイロミの追撃を予想していた。即座に地面を蹴り、距離を離す。思い描いた自身の身体のコントロールは、意識だけしか扱えていなかった。

 

 胸に激痛が走る。

 脳を踏み潰すかのような痛みだ。

 食事を終えたイロミとの交戦による疲労が限界を迎えたのか、それとも別の要因なのか。

 

 臓器という臓器が発熱し、筋肉の繊維一つ一つが細切れにされているような錯覚。踏み出そうとする足が、動かない。

 

 致命的なタイムロス。

 

 イロミが落ちてくる。

 

 鋭い歯が眼前に―――。

 

「木ノ葉剛力旋風ッ!」

 

 太い声と共に視界に割り込んできた緑色の足が、イロミの背を蹴り飛ばした。身体全身を回転させた蹴り技は、イタチの影分身ごとイロミを壁へと吹き飛ばす。壁を砕き、会場外へとイロミの身体は投げ出され、影分身が消える煙と共に壁の破片が粉塵となった。

 

 イタチを助けたマイト・ガイは、粉塵を鋭く見据えている。イロミを警戒しているというのが、即座に分かってしまった。

 

「無事か? イタチ」

「ガイさん……どうし―――!」

 

 言葉の続きは肺から込み上げてきた喀血で止められてしまう。咄嗟に口元を手で覆うが、指の隙間から血が零れ落ちていく。

 

 心臓が痛い。

 

 苦しい。

 

 吸う空気が針の束かのように、肺を痛めつける。

 

 視界が揺れる。

 

 声が、出せない。

 

「お前一人で無理はするな」

 

 違う。

 無理なんかしていない。

 友達を助ける事のどこに、無理が必要なんだ。

 

「少し休め。ここは、俺たちに任せてほしい」

 

 違う。

 それは、正しくない。

 彼女がこうなってしまったのは、自分の責任なんだ。

 友達を守れなかった自分の。

 だからこの場は、自分が責任を取らなければいけない。

 

 里は今、脅威の只中。

 

 尾獣化したナルトや、街にいるだろう音の忍ら。それらを対処する事こそが、里を平和に戻すための正しい選択なんだ。

 考えを伝えようにも、舌は血に塗れて言葉が上手く出せない。ガイの後ろには、猿飛アスマ、夕日紅ら、他の上忍たちも控えている。全員が、イタチを守る様にしている。彼らにとって、里の脅威の排除は、つまるところ、ここが最重要だと判断しているのかもしれない。

 

 九尾のナルトには、七尾のフウが。

 街には、他の者たちが。

 しかしここには、抑制する力がいない。

 

 それが、この場においての意志だ。自分とは無関係なはずの、総意。

 

「邪魔ぁ……するなぁああああッ!」

 

 反発する怒声が砂煙を吹き飛ばすと、ガイたちの警戒心を強固にする。隙を見出させない警戒は、並の忍なら先に攻撃を仕掛ける事を躊躇するだろう。そんな彼らに対して、歯を剥き出して怒る彼女は「折角、良い所なんだよッ!」と叫んだ。

 

「正気に戻りなさいイロミ。大蛇丸に加担しても、木ノ葉が滅びるだけよ」

「キャハハッ! 紅さん、木ノ葉なんて消えて亡くなっちゃえばいいんですよッ! こんな嘘吐きしかいない里なんて! 紅さんも下手な嘘は言わないでください。こんなバケモノ、死んでしまえって思ってるんじゃないんですか?!」

 

 夕日紅はイロミとかつて任務をこなした事があった。忍として同性という共通項もあったおかげだけではなく、任務の時に健気に尽くす彼女の姿を見て、良き友人となった。

 変わり果てた姿を見ても尚、紅はイロミを助けようとした。

 

「俺は……妹にそんなこと思えるほど、人間止めてるつもりはないんだけどな」

「アスマさんとは家族ではありませんよ。血の繋がりはありません。血の繋がりが無い家族ほど、冷たいものはありませんよ。イタチくんはそうやって、フウコちゃんを切り捨てたんですから」

 

 猿飛アスマとイロミの関係はあまり深くは無かった。書類上でのみの血縁関係。それでも、彼にとって、繋がりというのは単なる言葉や文字ではなかった。木ノ葉隠れの里を支えていく大切な未来という強い意志も含まれている。たとえ、血の繋がりの無い妹であっても。

 

「ガイさん……私は今、人生で最高に調子がいいんです。キャハハ、今まで、努力なんかしてたのが、馬鹿みたい。才能があればいいんだ。無いんだったら、貰えばいいんだ。殺してでも、その才能の地位にさえいれば良いんですよ。奪って食べればいい」

「……君は本当に、そう思っているのか?」

 

 マイト・ガイはイロミの努力を評価していた。自分のように、ただ愚直に努力をする訳ではなく、創意工夫を凝らした別の努力。方向性は違っても、その情熱の力強さは自分にも負けず劣らずのものだった。故にガイは、彼女の事を知っている。

 

「キャハハハ。ああ……今、良い気分。すごい、身体が熱い……。ようやく、食べたのが無くなったみたい……。今なら何でも、出来る気がする」

 

 そっか。

 

「イタチくんはいつも、こんな気分だったんだ。だったら……天才は強いよね。こんな気分でいたら、本当に、何でもできるよね。いいなぁ、キャハハ。ああ、でも。イタチくんのすぐ傍まで来れた。これなら、すぐに―――」

 

 揺れる。

 

 風に動かされる稲穂の頭のように。と、同時に、写輪眼は未来を予測した。

 

 ガイたちは、後ろに立つイロミに気付かないままに立っている。次のイロミの動きに、視線も思考も、完全に置き去りにされているのだろう。イタチの眼前に立つイロミはただ、こちらに迷わず顔と身体を向けている。

 イロミの右手は鉞のように平たく鋭く広げられ、心臓を貫こうと振りかぶる姿には躊躇いは無い。このまま何もしなければ、殺されるのは間違いなかった。

 

 ほんの少し。

 

 微かにだけでも身体を動かし、致命傷を避ける事が出来れば、幻術を仕掛ける事が出来るかもしれない。しかしその想定は、写輪眼が映した予測の景色が、黒に染められ、あらゆる存在の輪郭が薄い白で縁取られた。いや、景色の色が変わったのは、視界の半分だけである。

 

 右眼が、激痛に蝕まれた。

 

 予感と怒り。

 

 ―――……どうしてだ…………ッ!? 俺は、今は………!

 

 助けたいと願っているのに。

 再び天照が、蠢き始めている。

 映し出された予測に従うように、黒の染めはイロミの右腕を焼き潰そうと焦点を絞っていく。それに随伴して、予測に現実が追いつこうと縋りつき、いるのかいないのか不可視不明の醜い生存本能がそれを払おうと強制してくる。

 

 今すぐに右眼を手で覆いたいものの、意識できている時間の中で動けるのは思考だけ。やがて現実は追い縋り、予測を忠実になぞりながら、イロミの右手に黒は収束する。

 

 今度こそ焼き切ってやろうとする小さな口火。右手から、身体全身を消し炭にしようとするのだ。

 

 叫びそうになってしまうほどに、心は反発する。

 友達を殺したいなどと、まるで思っていないのだと。

 その反発が、イタチの身体を重くした。

 今、動かなければ。

 微かに動き、イロミの攻撃点を動かさなければ、彼女の右手は自身の心臓を貫く。しかし、右眼の反乱に抗う事にのみ心は向いてしまっている。

 

 もう、間に合わない。

 

 黒点は小さく……小さく……。

 

 そうとは知らず、イロミは小さく言った。

 

「―――勝ったッ!」

 

 

 

「土遁・針鋳地獄(しんちゅうじごく)

 

 

 

 黒点が正に炎になろうとした瞬間、イロミの右手は宙を舞った。

 

 血と共に。

 

 クルクルと軽やかに。

 

 赤い血飛沫と共に、彼女の身体から離れた。

 

「え………?」

 

 間の抜けた、殆ど吐いた息に近い、小さな声が、果たしてイタチのものだったのか、イロミのものだったのか。

 

 地面から脈絡なく生えた十数本の、長く鋭い槍のような岩石が。

 

 イロミの手首を、膝を、肩を、尾を、片腹を、腰を―――心臓を。

 

 貫いた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 全ての根回しは終わった。大蛇丸によって崩された木ノ葉隠れの里の平和の回復に必要な経費と物資の要請。木ノ葉隠れの里に先に刃を向けたのは、大蛇丸を首謀者とした音隠れの里の主戦力と、彼によって謀れた砂隠れの里の一部の者のみであるという見聞の拡散準備。他里に情報が回らぬようにする為の情報規制と、他里からの先手を抑制する為のかく乱情報の用意。また、直接的な大名らへの遠回りな脅し。等々。

 

 全ては恙なく遂行出来た。それもこれも、うちはイタチという名が手元にあるおかげである。たとえ、こちらの指示を一切に無視し、自分勝手に動いてはいるが、うちはイタチが自分の部下という既成があるだけでも、大名たちは渋々と首肯してしまう。木ノ葉の神童と呼ばれる彼の名を脅しに使ってしまえば、大名たちには抵抗する手段が思い浮かばない事だろう。

 

 元々ダンゾウには、イタチを御すことなど頭の中には無い。

 

 彼は実に優秀で、正に正道な忍だ。誰かの下に就くような器ではない。勿論そこには、うちはフウコの兄であるという、幾分かの情緒的な配慮があるのは否定出来ないが。

 

 ―――残る問題は……猿飛イロミを排除した後の…………後始末か……。

 

 大蛇丸に囚われ、木ノ葉隠れの里に敵意を示した、今となっては魑魅魍魎の如く狂った化物だ。そして、うちは一族抹殺事件の真実を、おそらくは知っている者。もはや、排除しなければいけない人物である。

 

 親もおらず、同じ里の者を殺めたという排除されてもおかしくはない大義名分を持っている。排除しても、里からは異論は出ないだろう。例外を除いては。

 

 まずは、うちはイタチ。彼は間違いなく、異を唱えてくる。もしかしたら、大蛇丸の事態が収束してから、二次災害のように敵意を示すかもしれない。そうなった場合、彼をも排除してしまうのは得策ではない。最悪の場合、まだ残っているシスイの眼で、さらに幻術を使わなくてはいけないかもしれない。

 

 さらにもう一人。うちはフウコ。親友であるイロミが排除された事を、もし彼女が知れば、どう動くか予測が出来ない。サソリからの報告では、もはや薬が無ければ、碌に思考を保てないほど、ボロボロになっているらしい。イロミの死の情報を規制するか、サソリの抑制を信じるべきか。

 

 薄暗い廊下を歩きながら、事態の収束後の整えばかり、ダンゾウは考え続ける。つい先ほど、火の国の大名相手に予算やら何やらと、話の決着を付けたばかりだが、疲れなどない。木ノ葉隠れの里の事を考えるのに時間は必要だが集中力が多く削られるほど、彼にとって慣れ親しんだ思考経路だった。

 

 うちはイタチに関しては、まあ、今急く程ではない。別天神が手元にある以上、彼の記憶をまた、封じ込めればいいのだから。やはり問題はフウコだ。彼女にはなるべく、おとなしくしていてほしい。

 

 一応は、彼女の事はかつて、妹のように可愛がってあげた身だ。扉間からの約束も―――今となっては残滓に近いようなものとなってしまってはいるが―――ある。敵意を剥き出して来た彼女を、排除したくはない。うちはマダラの事もある。イタチもフウコも、強烈な手札だ。残せるならば残しておきたい……が、望めないならば仕方ない。

 

 全ては里の為である。

 間引くならば徹底的にしなければ。

 だからこそ敢えて、大蛇丸の意図に乗っかった。敢えて動かず、大蛇丸が本格的に動いてからも部隊を少しだけ遅く動かすようにした。平和という時間に付けられてしまった脂肪を払い落しながらも、今後、正しい形へと変えていく為の下地として。

 

 用意した部隊は、精鋭。

 

 イロミの実力はある程度承知している。まさか【根】の最深部にまで侵入してみせ、あと寸での所で自身の前に立とうとした程の力を付けているのだから。正直なところ、精鋭たちでも彼女に真正面から戦い、排除しきれるかと言われれば、確実ではない。

 

 だが今は、今に限っては、状況は特異。

 

 イタチが彼女を助けようとする。そして部下たちの報告によれば、イロミはイタチに執着している。今頃は、二人は争っている事だろう。

 

 ならば、付け入る事は出来る。

 

 イロミの動きを分析すること。

 イロミの考えを掴み取ること。

 全てを解析し、一番の隙を狙い致命を与える事も。

 

 世は事もなし。

 

 問題はやはり、後始末。

 

 ―――だがそれも……猿飛次第だがな。

 

 ヒルゼンがもし、この事態に存命する事が出来れば、また考える項目も変わってくるだろう。しかし、それもまた小事。

 

 火影が死のうと。

 

 里は、滅びない。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 天照の黒い焦点がイロミの右手を燃やそうとした瞬間、見上げていたイロミの右手が地面から生えた岩石が手首を貫き、身体から離されると、そこには憎らしい青空が見えた。黒点は空に呑み込まれ、代わりに、赤い点が宙を舞う。

 

 血だと、イタチはすぐに分かった。忍としての性、あるいは経験としての条件反射にも等しい程の情報処理は、一秒にも満たない短い時間でそう判断させられる。だが、その血が誰のものであるか。それが、すぐには分からなかった。

 

 血はやがて重さを持ち、顔に大きく塗りたくられる。

 顔が熱くなる。血を被ったせい……だけではない。

 

 分かっている。

 

 その血が誰のものであるか。

 だが、それを認めたくなくて、思考を真っ白にした。

 息が止まってしまうほどに純白に。

 顔が熱いのは、止めていた息が、無理やり抑えていた心臓の悲鳴が反動で強烈になって、脳の細い血管を強引に伸ばし身体が反発しているのだ。

 

 血が流れ、白い思考は生気を帯びる。

 

 空のように青い。青白い。気色の悪い生気を。

 

 冷静に、思考は分析を始める。

 

 イロミの状態を。

 

 四肢は無残だった。右半身は、右手が吹き飛び、右膝の下は地面に転がっている。左半身は左腕がまるまる身体から離れ、左足は腰の部分から離脱してしまっている。生えていた尾は、途中で千切れている。

 

 地面から生えた岩石の槍―――いや、針。それらは剣山に突き立てられた蟲のように、イロミの殆どを貫き、持ち上げていた。

 

 腹も、肺も、心臓も。

 

 臓器という臓器が、壊されている。

 

 医療忍術の知識が無くとも、分かる。

 

 致命傷だ。

 

 即死でも、おかしくない。

 

 そこでまた、思考は止まる。

 

 進みたくない。

 進みたくないッ!

 

 心が叫ぶ。

 

 息を止める。止めなければ、呼吸をしようと気道を動かそうとすれば、逆に声が出そうになるから。無意味な叫びを出し、思考を投げ出してしまうからだ。いわば、生存本能に近い。

 

 ここで思考を止めてしまえば、冷静さを失ってしまえば。

 

 友達の命が。

 

 まだ助けられるかもしれない命が、消え―――。

 

「お怪我はありませんか?」

 

 平坦で機械的な声が、真横から。串刺しとなったイロミから逃げるように、イタチは反射的に顔を向けてしまった。声だけでも察する事が出来たはずなのに、顔を背けて、消え入っているかもしれないイロミの命から意識を逸らした。

 

 そこに立っていたのは、暗部の面を被った男が一人。

 

 顔は見えないが、確信する。

 

「お前は……お前たちは―――ッ!」

「はい。ダンゾウ様の部下です。あの方の命令で、貴方を助けに参りました」

 

【根】

 

 ダンゾウの直属の部下。

 それをようやく理解して、込み上げてきた。

 今ここで、どうして登場するのか。誰が術を放ったのか。

 ダンゾウの意図に、一瞬で追いついた。

 

 ずっと彼は―――あるいは、他にも潜んでいるだろう【根】の者たちは、観察していた。分析していたのだ。イロミの行動を、動きを、思考を。同時に、イタチの反応を。

 

 そしてここぞというタイミングで、術を放ったのだ。

 

 一直線に突っ込んでいくイロミの動き。そして、動き回り、写輪眼以外ではまともな目視が不可能なイロミの動きがようやく止まったタイミングでの、言うなれば術の決め打ちのようなもので待ち構えていた。

 

 最初から―――そう、全くの最初からだ。

 

 イロミが里の敵になったと分かった時から。

 ずっとダンゾウは、この瞬間を思い描いていたに違いない。

 

 ふざけるなと、男の首元にクナイを突き立てようと怒りが誘ってくる。こういう時こそ、天照が発動しなければいけないのだとさえ考えてしまうほどの激情だ。それもまた、現実から逃げようとした、イタチの無意識だったのかもしれない。

 

「……タチ…………くん……………?」

 

 か細い、掠れた声が、イタチに触れる。顔を……現実に向けた。その途端に、彼女の身体が倒れてきた。彼女の小さな頭が、肩に乗る。

 

 身体の殆どを失って、非情な軽さが、肩に。

 

「イロミちゃん……今……! すぐに…………医療忍者を……」

 

 口で言いながら、虚しさが心に溜まる。両腕で彼女を抱えるが、止め処なく零れ落ちる血液がただでさえ軽い身体をより希薄にしていく。医療忍者が来るよりも、イロミの死が近いのは明白だ。臓器が全て、潰されているのだから。

 

「……どこに…………いる………の? ………イタチ…………くん……イタチ………く…」

 

 肩に乗る彼女の声は、とても近くに聞こえる。

 久しぶりのような気がした。

 気が狂った声ではない、弱々しい声を聞くのは。

 アカデミーの頃から何度も彼女はそんな声を出していた。

 泣いて、泣いて。あるいは、泣くのを我慢して、目に涙を目一杯貯めながら下手くそな笑顔を浮かべて。

 そしていつも自分は……自分たちは、彼女に手を差し伸べる。

 友達だから。

 彼女の友達は、もう、自分しかいない。

 真っ先に先頭に立つシスイも、手を引いてあげていたフウコも、いないのだ。

 

「ごめんね…………」

 

 と、彼女の声。とても小さい声量のはずなのに、死にかけている彼女の声だけしか頭の中に入らない。辺りの音は―――我愛羅の絶叫や、ガイたちの声―――聞こえているが、靄が掛かったようで。血の臭いが濃く、腕に触れる重みは軽く。

 

 積み重ねてきた努力も、思い出も。

 たった今、崩れていく。霧散していく。

 止められない。

 ただ無力に、イロミの言葉に耳を傾けるしかできない。

 

「……届くと…………思ったんだけど…………なぁ…………。今なら……真正面からでも…………勝てるって…………君に……君の…………才能に…………」

 

 そこで彼女は口から大きく血を吹き出した。

 

「…………ごめんね……。ごめん……ね………」

「大丈夫だ。すぐに―――。里には、綱手様がいる」

 

 そう。

 

 奇しくも、木ノ葉隠れの里には、医療忍術のプロフェッショナルがいることに、イタチはようやく、言葉を出してから気付いた。

 

「あの方なら、君の怪我は治せる……ッ!」

「ごめんね……。ごめんね」

「すぐに俺の部下を呼べば、連れてきてくれる。時間もかからない」

「……ごめんねぇ……………私………」

「喋らないでくれッ! ガイさん、紅さん、アスマさん! すぐに、俺の部下を―――」

 

 イロミに駆け寄ってきた三人を見上げた。彼らの表情は間違いなくイロミを心配してくれている、彼女の繋がりたち。

 

 イロミの努力を正しく評価した人。

 イロミの人格を同性として理解した人。

 イロミとの微かな繋がりを大切にした人。

 

 彼らならすぐに動いてくれる。イロミを化物と見ないで助けてくれる。きっと部下たちを見つけてくれる……あるいは、綱手自身を見つけ、連れてきてくれるはずだ。

 

 縋る様に見上げた彼らが、イタチの意図を理解し、頷こうとした。

 

 だが。

 

 彼らが頷いてくれたのかどうか、はっきりと見る事は叶わなかった。

 

 

 

 衝撃が、腹から、背へ。

 

 

 

「ごめんね……イタチくん……。こんな、騙し討ちみたいな形で、勝っちゃって……」

 

 

 

 胸の痛みが消えた。

 

 イロミと戦い始めてからずっと、身体を腐食させるような蝕み。

 

 それが。

 

 ふ、と。

 

 消え失せた。

 

 代わりに生まれたのは、違和感だった。

 

 身体の中心の感覚がごっそり消えたのだ。いや、消えたのではない。何かに遮られた。

 

 視線を下へ向ける。

 

 穴だらけで、血塗れのイロミの小さくなった背中がある。その、下にあった、それが、イタチの腹を貫いていた。

 

 尾は、貫かれ、途中で千切れていた筈なのに。

 

「優しいね、イタチくんは」

 

 耳元の彼女の声は、いつの間にか、淡々と冷徹になっていた。イタチの腹を貫く尾を悠々と揺らしながら、イタチの内臓を痛めつけていく。

 

「昔から、変わらないね。本当は、もっと真剣な君と戦いたかった。君を殺す時は、君の才能をぶち破った時は、目の前から堂々としていたかったのに……。こうやって、君の前に居れるんだから、この手を使うしかないんだ……。私は、真剣だから。だから、ごめんね。騙し討ちは、嫌だったんだ……。心配してくれる必要なんて、無かったのに」

 

 イロミの身体が離れた。ボロボロと穴の開いていた身体が、再生し始めている。失った四肢は内側から不気味に現れ始めた小さな蛇たちが、縄のように纏まりながら肘を、手を、膝を、足を、形成していく。心臓や腰も同じ。元に戻る。

 

「私はこんなのじゃ死なないよ。いっぱい、食べたから。キャハハ。そこら辺の連中の肉が私のものなんだからさぁ? バカみたい」

 

 身体に戻ったせいなのか、彼女の狂気が起きるを、彼女から発せられる雰囲気が肌を刺す。

 

「「「―――ッ!?」」」

 

 駆け寄っていたガイたちはすぐにイロミに対応しようとする。彼女を拘束しようと、初動するが、

 

「さっき言ったよね? 邪魔するなってぇええええええッ!」

 

 尾が暴れる。腹から抜き取られた尾は、イタチの内臓の断片がへばり付きながらも、ガイたちをただ一蹴する。一度振るっただけで、空気が震え、地面の砂が大量に舞う。避けれるほどの距離でも無く、反射神経が間に合う訳でも無い速度の振りに、三人は吹き飛ばされた。

 

「キャハハハハハハハハ! ほらぁ、立ってよ、イタチくん。天才なんでしょ? 私より才能があるんだから、しっかり立って、見下ろさないといけないよ? 立てない? 立てないならぁ、私が立たせてあげる。ほら」

 

 元に戻ったばかりの手で、イロミはイタチの首を掴む。軽々しく身体は持ち上げられた。

 

 抵抗も何も出来ない。

 

 腹筋を大きく貫かれたからだ。消えていた感覚が、激痛へと変わる。肩を、腕を、微かに動かそうとするだけで、身体が痛みを訴え、これ以上動かさないように筋肉を痙攣させる。彼女に掛ける言葉すら、出させてくれない。苦痛に表情を歪める事だけが、許されたイタチの権利だった。

 

 イロミは歪めた笑みを途端に収めると、呟く。

 

「もう、これで最後だと思うから、言っておくね」

 

 痛みに意識が持っていかれ始める。視界は白く―――。

 

 

 

「私ね……君の事が、大嫌いだったんだ」

 

 

 

 白い視界の向こうには、誰かが立っていた。

 小さい子供だ。

 友達だった。

 イロミと、シスイ。そして、妹のフウコもいる。

 

 

 

「嘘吐きな君が」

 

 

 

 並んで白い向こうに歩いていく。

 仲良く歩いて。

 

 

 

「私から、フウコちゃんを奪った君が―――お前がッ!」

 

 

 

 本当に並んで歩いているだろうか?

 幼い自分も含めた四人は、一直線だろうか?

 少しずつ、一人が。一人だけが、離れていく。

 離れて?

 違う。

 遅れているんだ。

 歩く速度が、遅いんだ。

 他の三人と違って。

 その子は泣いている。

 どうして自分は、歩くのが遅いんだと。

 泣いている。

 

 

 

「大嫌いだった。殺したくて、君の才能を乗り越えて、殺したくて。それが、今、叶う。ようやく………お前を殺せる。もう、お前は、私の友達じゃない……。ううん、友達ごっこから終わる。お前は友達じゃない。私の友達は、ずっと……ずっとッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「よ、イタチ。久しぶりだな」

 

 彼はいつもそう言って、軽々しく片手を上げる。晴れだろうと、大雨だろうと、友人への絶対的な礼儀こそがどんな状況にも優先されるべきだと言いたげに。たとえ、上も下も何もかもが真っ白な、どことも知れない不可思議な空間であっても。

 

「シ、スイ…………なのか…………?」

 

 慌てて上体を起こしたイタチは、矯めつ眇めつ、目の前に立つシスイの顔を見上げた。

 

「おいおいなんだよ、その返事は。お前は俺の顔を忘れたのか? この親友の顔を」

 

 シスイらしい、取るに足らないジョーク。かつてなら、当たり障りのない返しを呆れながらにしたものだが、イタチは状況を整理するので精一杯だった。死んだはずのシスイが目の前でこうして笑って立っている状況。しかし、どれほど考えを巡らせても正解は見当たらなかった。

 

 自分は死んでしまったのか。

 

 たしかに、腹は貫かれた記憶はあった。そして、イロミの言葉も。

 

『私ね……君の事が、大嫌いだったんだ』

『嘘吐きな君が』

『大嫌いだった。殺したくて、君の才能を乗り越えて、殺したくて』

 

 もし自分が死んだというのなら―――あまりにも情けない、最後だった。

 

「ま、お前はアカデミーの頃からそうだよなあ」

 

 と、シスイは言う。

 

「どんな時でも憮然としててよ。女子に告白された時もそうだった。普通は顔を赤らめたり、動揺したりするはずなのに、お前は爽やかに断った。逆にこっちが驚いたよ。なんで冷静なんだよって」

「何の…………話をしている」

「しかも、フった筈なのに、お前に告白した女の子はみんな、その後もお前と良い友人関係になってるから不思議だったよ。俺なんて、毎回断っては、顔を引っ叩かれたっていうのに」

「……一応聞くが…………他に、誰かいたのか? そういう場面には」

「いたぞ。フウコがな」

 

 イタチは小さく頭を抱えた。

 

「どうしてあいつがいるんだ」

「お前がどんな子を選ぶか興味があってな。フウコは俺が誘ったんだよ。面白そうだったし、あいつの反応もみたかったからな」

 

 大方、お前の姉が見られるとか、そんな事を言ったのだろう。フウコの興味をそそらせるには十分な嘘である。

 

「まあ、フウコは途中から興味無くしたみたいで、最後の方は俺一人だったけど。暇潰しにイロミにも声を掛けてみたら、あいつは顔を赤くして逃げ出すしで……俺は寂しかったんだぞ? 一人で」

 

 どちらかと言えば、たった一人になってもその現場を抑えるシスイの嗅覚と方向性を誤った興味関心に、こちらが驚かされてしまう。寂しい思いをしていたと聞かされても、自己責任ではないのだろうか。

 

 そんな、心の隙間に生まれた小さな安堵を自覚する。ついさっきまで抱いていた苦しさや辛さが、たとえ状況不明な最中でも、親友を前にすればあっさりと心が和らいでしまう。

 

 ああ、そうだ。

 

 シスイとはこう話していた。

 

 シスイと話している自分は―――フウコが里から出て行ってしまうまでの自分は、こうだったはずだ。

 

 何も考えないまま、思ったままに、会話をする。

 

 いつからだろう。

 

 ずっと何かを意識しながら、言葉を選ぶようになったのは。

 

「なあ、シスイ」

「どうした?」

「俺は………………死んだのか?」

 

 イタチの声は、自嘲するように、重いような軽いような、中途半端なものだった。

 死んだはずの親友が目の前に立っている。

 そんな非現実を前にして、イタチは半ば、何かを放り投げたような心持だった。

 

「バーカ、死んでねえよ。お前が死んだら、フウコが悲しむだろ?」

「だが、お前はここにいる。お前は……死んだはずだ」

「ああ、そうだな」

 

 心の隙間に生まれた安堵が、涙を湿らせたように重くなる。

 

「ならこれは、幻術か?」

「誰のだ?」

「そうだな……。イロミちゃんとかだな」

「今のあいつに、幻術を使える余裕がある訳ないだろ? というかあいつ、幻術使えるのか? アカデミーの頃は小銭を糸でぶら下げて練習してたけど、上手くいった試しがないだろ」

「じゃあお前は何だ?」

「親友だよ」

「シスイは死んだ。俺の目の前にいる訳がない。お前が本物なら、俺が死んだという事だ」

「だから、お前は生きてるよ。ここは、お前の内面だ。俺はお前の中にずっといたんだぜ」

「つまりお前は、俺の願望か」

 

 それならば理屈に通る。

 生死の間際に、友達から拒絶された事への、逃避。

 意識が逃げてしまった。

 全てを守ろうと決意して積み重ねてきた自分の道程が、結果的には全てを破壊する結果でしかなったのだ。心の中で、もしかしたら―――シスイならと思っても、おかしくない。彼はずっと、誰よりも前を見据えて、怯みなく走っていたから。

 

 気が付けば、頭を垂れていた。白い地面と自分の足、そして影がある。それだけしか、今の自分には無かった。

 

 頭上から、ため息が落ちてきた。

 

「お前はそうやって、俺も切り捨てて、一人で何でも終わらせようとするのか? そうやって、何でも背負い込んで、血ぃ吐いてよ」

 

 彼の声はすぐ目の前からで、きっと足を曲げて姿勢を下げてくれているのだろうけれど、イタチは顔を上げる事も出来なかった。

 

 疲れたように、泥のように思考が動かない。そんな状況に、安堵してしまっている自分がいた事に、乾いた笑いが出てきそうになる。考えないという事が、こんなに楽な事なのか……いや、正に、簡単な事なんだ。

 

 考えるというのには、他人がいる。

 

 自分の事だけを考える事が出来る自分なんていない。自分だけを顧みる場合は、考えるではなく、想うが、正しい表現。

 

 考え続けてしまうというのは、つまり、臆病という事なのだろう。

 

 他人が傷つくのを見たくないという臆病な心が作り上げる、心の抵抗だ。

 

 自分が傷付くのは、我慢できる。だが、他人が傷付くのは、我慢しても意味がない。その無力感が、たまらなく嫌なのだ。

 

 だけど、もう。

 

 友達を失った。

 そもそも、友達ではなかったのかもしれない。

 ただ自分が良かれと思ったことは、ただ彼女にとっての悪しきことだった。結果だけ見れば、邪魔者だった。何がいけなかったのか、それさえも分からない、最低の害悪だったのかもしれない。

 

 失い、そしてきっと、逃げたのだ。逃げてここにいる。

 

 何かを考える意味は無い。

 自分には何も、無い。

 

 家族を守れず。

 友達をいつの間に傷付けて。

 最後は、自分の頭の中に逃げ込んだ。

 

 もうすぐ、この願望も消えるだろう。現実のイロミが終止符を打つ。

 

 自分は何も出来ないままに。

 

 また―――ため息があった。

 

「……さっきのお前が告白されていた時の話じゃねえけどさ。アレだ…………少しだけ、俺たちがガキだった頃の話をしようぜ? まだ、頭でっかちで、誰かに頼ろうなんて考えなかった、クソガキだった頃の話をさ」

 




 次話は、二月中旬を目標に投稿したいと思います。

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