うちはイタチはベッドのシーツを丁寧に伸ばしていた。大した皺も付いていないシーツではあるが、癖といえばよいのだろうか。サスケと二人暮らしをしている内に身に付いてしまった、いわばルーティンのようなものだ。ベッドの下方にズレ一つなく重ねて畳まれた掛け布団と毛布が置かれているのも、その一環。もはや、丁寧に片付けられた空間を眺めるだけで、山の頂に登った時のような清々しい気分を獲得できてしまうほど、心の呼吸として染み込んでしまったのだ。
―――そう言えば、サスケは布団を干しているのか?
ふと、そんなことまで考えが及んでしまう。サスケが言うには、自分らの家はどうにか無傷だったらしく、イタチが入院している間は不自由なく生活ができていたようだ。
家に帰ったら掃除洗濯を徹底しなければいけないだろうな、などと鼻で一笑する。そんな時間がすぐに手に入れば、良いのだけれど。
病室のドアがノックされた。
「どうぞ」
と、イタチが応えるとドアは静かに開き、入ってきたのは真珠の首飾りを付けた豚だった。
トントンはのっそのっそとイタチの足元までやってくると、理由は分からないが、満足そうに鼻を鳴らした。
「……衛生的に、大丈夫なんですか?」
「問題は無いと思いますが……」
自信なく応えたのは、遅れて入ってきたシズネだった。彼女は曖昧ながらも優しい笑みを浮かべながら後ろ手にドアを閉める。
「トントンの面倒を見られるのは、私か綱手様だけですので。放っておくと、何を食べるかも分かりませんし」
「ええ、まあ。そうだとは思いますけど………」
「あ、そうすぐには人に噛み付いたりもしないので、安心してください」
そう言った部分には不安を抱いているつもりは露も無いのだけれど、しかしながら、病院内に入る事を許されているというのは意外だった。医療忍術の知識は特別持っていないが、そもそも、医療忍者界隈の認識というのは、案外常識の外だったりするのかもしれない。
トントンはシズネの足元へと戻っていくと、彼女は優しくトントンを両腕で抱きかかえた。
「退院、おめでとうございます。イタチくん」
「大きな怪我はありませんでしたが……。ただ本当に、病院に居ただけですので」
やんわりとイタチが言うと、シズネはおかしそうに笑った。
「仕方がありません。状況が状況でしたし、片眼の失明に加えて、怪我が全部消えていたんですから。どこか異常があると、医療忍者なら誰だって考えてしまいますよ。たとえ身体に異常が無いと分かっても、ある程度の経過観察はしなければいけないので」
ましてや、とシズネは続けた。
「次期火影だと分かれば、おいそれとは退院なんてさせられませんから」
「…………………」
次期火影。
その言葉が他者から述べられると、どうしても、肩が重くなってしまう。表情に出てしまっていたのか、シズネは眉を僅かに下げながら尋ねた。
「やはり、不安ですか?」
「……不安は、たしかにありますが。それ以外の事が、少し気掛かりでして」
自分で選んだ道なのだから、不安はあっても、怖気づいているということはない。
問題なのは、外側からの介入だった。
志村ダンゾウ。
今、彼が考えているだろうことは想像に難くない。
シスイの言葉と。サスケから聞いた、大蛇丸の画策の裏で動いた暗部らの行動を顧みれば、自ずと、分かってしまう。
おそらく、彼は火影になろうとする道を邪魔してくるだろう。
火影という、木ノ葉隠れの里において最上位の地位からの権力から、これまで隠してきた真実を逃すために。
「綱手様はどうでしたか?」
シズネは目を伏せた。
「分からない、と。一言だけ、仰っておりました」
「……そうですか。いえ、こちらも無理をお願いして、すみません」
予想は、十分出来ていた。
火影になる為の後ろ盾として、綱手と自来也に声を掛けていた。入院している以上直接会えない為、自来也には見舞いに来てくれたカカシを経由して、綱手にはシズネを経由してお願いしておいた。
自来也の返事は既に、否、と貰っている。理由は綱手と同様、明確には応えてくれなかったが、綱手共々、仕方がない事だ。二人が木ノ葉隠れの里に来たのは、元来、全く別の目的があるのだ。こちらとしても、ダメ元ではあった。
「ですが、綱手様はしばらく、里に残ると仰っておりました」
どこか嬉しそうに、シズネは微笑んだ。
「真意は定かではありませんが、今までの綱手様なら、そんなことは決して言わなかったと思います。君のおかげです」
「俺は何もしていません。木ノ葉を支えてきた方々の御力だと思います」
「あ、あともう一つ仰っておりました」
「はい?」
「あの……………もし火影になったら、約束はキチンと守ってもらう、と………」
目まぐるしくイタチの記憶は遡り、反芻する。今日が退院日だというのに、不思議と、体調が悪くなってきたのは気のせいだろうか。
「……考慮すると、伝えてもらっていいですか?」
シズネは困ったように頷いた。
既に着替えは済ませてあった。背にうちはの家紋が記された黒のシャツを羽織り、ゆとりのあるズボンの下には忍のシューズがピッタリと履かれている。最後に上忍のジャケットを羽織ると、イタチは病室のドアに指を掛けた。もうすっかりと片目だけでの遠近感には慣れていた。
「――イタチくん」
ふいに、背後からシズネが語りかけてきた。
その声は無機質で、医療忍者としての彼女の診断が告げられるのだと直感的に理解した。
「君の身体は、少し危険な状態にあります」
首だけをイタチは振り向かせた。
シズネが告げる診断は、昨日、彼女がイタチの容態の最終確認として病院側が呼んでくれた時に行ってもらった時のものである。その際、彼女は深刻な表情で「もしかしたら」と、イタチの身体の状態の可能性を告げてくれた。
つまりは、その可能性の是非を彼女は述べてようとしてくれている。
自覚症状があった事もあり、イタチは冷静に最悪な事も想定していた。
「具体的には?」
「今すぐ、というほど緊急の事態ではありません。まだ、初期段階の、さらに兆候の段階です。内臓器官が、君と同じ年齢の子と比較すると異常に疲労を累積しています。君は若く細胞も力を残していますが、今の状態が続けば、取り返しのつかないものになることは間違いないでしょう」
勿論、とシズネは続けた。
「本当に、早急の事態ではありません。あと二年ほどは猶予があると言っても問題ないでしょう。ですが、そこから先は治療のリスク等が伴ってきます。私が言っているのは、今すぐ治療に専念すれば、リスクもなく時間も多くは掛からないという事です」
「……治療に専念というのは、療養するという事ですか?」
「内臓器官ですので、食事や私生活は制限されます。………おそらくですが、君の容態は精神的な部分の影響がかなり大きいと思います。里の状態が状態だけに、きっと、火影になれば負荷は大きいはずです」
シズネはゆるゆると頭を振ると「本来なら」と呟いた。
「退院を止めるべきなのでしょうけど……」
「すみません」
と、イタチは笑った。
「いずれ、治療をお願いさせてもらいます」
今は時間が足りない。
火影になるまでの時間も、火影に
シズネはそれ以上、診断について深く述べることはしなかった。ただ、後から薬を送る、とだけ。
階段を降りて、そのままに正面出入口を出た。退院手続きは終わっている。出入り口を出て、歩きながら空を見上げる。晴天の下には座布団のような雲が距離を離して浮かんでいる。空気は熱くも寒くもない。こういった、つまり、安穏とした時間というのは、まさに束の間でしか味わえない高級品になるのだろう。
出て、歩きながら空を見上げる。晴天の下には座布団のような雲が距離を離して浮かんでいる。空気は熱くも寒くもない。こういった、つまり、安穏とした時間というのは、まさに束の間でしか味わえない高級品になるのだろう。
僅かな緊張感はある。
綱渡り、と言えなくもないだろう。
だが、全てを救うには――いや、それは傲慢と言える代物に違いないが――あるいは手を伸ばすには、選ばなくてはならない。安穏を犠牲にするからこそ、次の安穏に指が掛かるのだから。
「退院、おめでとうございます。イタチさん!」
病院の敷地を出ると、フウがいた。
☆ ☆ ☆
三代目火影・猿飛ヒルゼンの事を、フウはあまり知らない。直接話した回数は数える程で、いずれも、簡単な会話ばかり。お互いの事を理解しよう、というような腰を据えたものはなかった。
木ノ葉での生活はどうか。
困ったことはないか。
分からないことはないか。
道や通路ですれ違う度に一言、二言、そんな事を尋ねられただけだった。
しかし、それでも、彼のことを尊敬し好意的に仰いでいたのは決して、偏った見方ではないだろう。彼のお陰で、自分は木ノ葉隠れの里に馴染めたのだから。
彼が他里の人柱力である自分に自由を与えてくれて、尚且つ、イロミを初めての友達として動かしてくれたから、木ノ葉隠れの里を愛する事が出来たのだ。自分の居場所を作れて、自覚することができたのだ。
葬儀の日。
ヒルゼンの遺影の前で小さく誓った。
他の方々と一緒に、木ノ葉隠れの里を支えると。
だから、フウは、イタチの誘いを受けた。彼が火影になった時、彼の直属の部下として活動する約束を。
「火影になると、聞いているが?」
「間違いはない。俺は火影になる。今まで世話になった」
仄暗い、地の底のような空間。だけど、広い恐ろしい空間に、イタチと共にやってきた。ここがどういう場所なのか、フウは知らされていない。それはつまり、知ってはいけない場所なのだろう。
人柱力として、尾獣と化したナルトを前にしても恐怖を跳ね除けて立ち向かったフウだったが、直接的な死への恐怖とはまた違う、悍ましさが足元からヌルリと感じた。寒気が肩を震わせる。
上も下も、暗黒に呑み込まれている。立っている場所は、円形の壁と壁を繋ぐ細い通路だ。浮遊を錯覚させるのも、恐怖の一因を担っているかもしれない。
「どうやら……こちらの意図が伝わらなかったようだな」
通路の端。今までこちらへ無防備に背を向けていた、杖をついていた男が振り返る。
顔の半分ほどを包帯で覆い隠した老齢の男性が、鋭い視線を送ってきた。
志村ダンゾウは――淡々と述べた。
「それが許されると思っているのかと、俺は訊いたぞ?」
不気味な雰囲気に押されるように、フウは無意識に唾を呑み込んだ。
「推薦は受けている。相談役からも了承は既に得た。幾つかの条件は付いているが、なんら問題は無い。手続きの上では、俺は火影になる権利を得る立場にある。アンタの許可は必要ない」
そして、自分の前に立つイタチの背。
その背中からは、ただただ、冷酷さしか感じ取れなかった。
初めて見る、忍としての――いや、暗部としてのイタチの姿だ。その姿を、ダンゾウは睨める。
「火影になって、何をするつもりだ? よもや、あの者らに恩赦でも与えようとでも言うつもりか?」
「どうだろうな」
「それとも、他に何か目的でもあるのか?」
「アンタが一番、それを分かっているんじゃないのか?」
「貴様は何を知っているつもりになっているんだ?」
「何も知らないから、俺はここにいるつもりだ」
「火影になれば……お前は里の柱として、フウコを追うことは叶わないぞ。ましてや、他の者にあやつを捕らえる実力があるとでも?」
フウコ。
その人物の名を、これまで何度か聞いたことがあった。イロミとイタチが時折、懐かしむように呟いたこともあれば、うちは一族が滅んだ経緯を語られる際に必ず出ても来た。
そして、その人物が――イタチとサスケの家族であるという事も。
「だから俺は火影になるんだ」
イタチは言った。
「あいつは……そう簡単には捕まらない。誰よりもあいつと忍術勝負をしてきたのは俺だ。あいつの実力は、俺が知っている。それまで、俺はやらなくてはならない事がある。それだけだ」
「なるほど。確かにな………。フウコの事をよく知っている。冷静だ」
だが、
「お前が死ねば、フウコが死ぬのと結果は変わらないぞ」
背筋に氷柱が突き刺さったような悪寒が走る。
それが、一瞬、意識の空白を生み出してしまった。
視界の端。
暗闇に紛れて、潜み動く影がイタチの両脇から。
身体の反応が追いつかない。
「……もう一度言う」
イタチの声は薄暗闇を縫うように、そして二つの影を割くように、白い琴線の調べとして強く響き渡った。
二人の暗部を捌き気絶させたイタチの挙動は影をも置き去りにするほどの速度で、その刹那、紅く光る写輪眼を覗かせた。
「許可はいらない。俺は――火影になる」
足元に転がる気を失った男二人を脇目に、イタチは力強く一歩を踏み出した。
「片眼であったとしても、お前らを捻じ伏せるくらいは出来る」
「それは脅しのつもりか?」
イタチの後ろに立っていても伝わってくる、圧力。それを前にしても尚、ダンゾウの佇まいに濁りはなく、真正面から受けて立っている。フウは二人の空気を前に一歩さえ踏み出せなかった。
単純な力ではない、全く別の力が支配する空間。
初めて感じ取る世界だった。
「まあ、よい」
ダンゾウは静かに息を吐く。
「わざわざ、それだけを言いに来たのか? 七尾の人柱力まで引き連れて。大層なことだな」
「フウを連れてきたのは、暗部が拘束している二人に会わせる為だ」
「……なるほど。こちらはついで、というわけか」
「二人のところへ案内をしてくれ」
「場所は知っているだろう。好きにしろ」
イタチは無言に振り向いて「行こう」とフウの横をすり抜けた。その時には既に、イタチの左眼は黒に戻っていたが、肩から発せられる圧力は僅かにしか収まっていないように感じ取れた。
合わせてフウは踵を返す。すると、後ろのダンゾウが静かに一人、呟いた。
本当に、微かな声で。
「すまぬな、ヒルゼン。お前の遺した言葉を、俺は躊躇わず踏み潰すぞ」
言葉は実際、フウの耳には届いていない。振り返って見た彼の姿は、まるで目に見えない何かが浮かぶ中空を眺めているようだった。
二人は下へと向かった。イタチは何も喋らない。歩く速度は落ち着きに溢れていて、怖さはなかった。通路は狭くなっていき、天井と壁が現れ始め、階段はずっと下方に続いている。時折、平坦な通路も現れ、右に左に、と曲がった。まるで、迷路のようだった。
互いの足音しか残響しない空間。フウは神経を尖らせて、辺りの警戒を強めた。火影になるイタチの部下として、先程のような突発的な危険を防がなければいけない。
しかし、他の暗部に出会う事はなく、やがて、不気味な石造りの通路に出た。天井に吊るされている燭台の列は薄暗く、切れ目の見えない通路を照らしていた。位置が低いからか、足首に触れる冷気は湿気っているような気がして、背筋が震える。
通路の両脇には等間隔に、分厚そうな鉄扉が並んでいる。扉の上部には細い覗きな穴が設けられているが、見える限りの扉からは光は漏れていない。ましてや、息遣いなどと言った、人の気配も。
「最初は、イロミちゃんに会いに行こう」
「……どうして、っすか?」
「特に、意味は無いよ。ナルトくんが隔離されている場所は、もっと下だからだ」
イタチが進んで行くのを、フウは慌てて追い付いた。
「詳しいっすね。ここも……暗部の施設なんすか?」
「非公式の施設だ。第三次忍界大戦まで使われていたらしい。それを、あの男が継続して使っている。火影直属の暗部は使用していない上に、知っている者は殆どいない」
「あの人は……誰っすか?」
「君は知らない方が良い。ここの事も、ここを出たら忘れるんだ」
「……わかったっす」
勿論、外で語るつもりなんてない。それが目的で来たわけじゃないからだ。
通路の最奥がやってきた。
一層と大きく、分厚い扉。覗き穴すら無く、そして、扉を開ける取っ手もなかった。まるで、二度と開かれないことを誇示しているようだった。
「…………誰?」
そして、扉の向こうから――声が。
鉄扉の分厚さに遮られていても、その声質が分かった。
「イロミちゃんっすか?! フウっす! あと、イタチさんもいるっすよ!」
「ああ……来てくれたんだ。うん、ありがとう」
似つかわしくない穏やかな声だった。衰弱しているようではなく、何かを悟ったような空っぽの声。気が付けば、フウは扉に両手を付けて、少しでも声が届くように顔を近付けていた。
「大丈夫っすか?! 何か、拷問とか、その、酷いこととか――」
「大丈夫だよ。痛いことはされてないし、ご飯も……美味しくないけど、食べさせてもらえるし。ああ、でも、お風呂とか入ってないから、ちょっと、この中はかなり酷い臭いだから、入ってほしくないかな。あはは。それに、見た目も悪いし。身体中、色んなものでグルグル巻きにされててさ、禄に動けないんだ」
咄嗟にイタチを振り返る。扉を開けてほしい、と目で訴えかけるが、イタチは無言に首を横に振るだけだった。下唇を噛み締めてしまう。
彼女は、悪くないのだ。
大蛇丸に誑かされただけなのに。
「イタチくん」
と、イロミは淡々と尋ねた。
「身体………大丈夫? 大怪我だったと、思うんだけど」
「というよりも、致命傷だったな」
「あはは。やっぱり凄いね、イタチくんは。そんなに日にち経ってないのに、もう大丈夫なんだ。でも、本当に、大丈夫?」
「右眼を失明しただけだ。それ以外は、元に戻ってる」
「……ごめんね」
「仕方ないことだった」
「そう言ってくれると………うん、ありがとう」
「イタチさん、どうしても、開けること出来ないんですか?」
いいよ、と応えたのは、イロミだった。
「私は、犯罪者なんだから。そんな簡単に外に出られるわけないよ」
「いや……だって、イロミちゃんは、何も…………」
「悪いよ。私は…………ほんの少しだけでも、殺したいって、思っちゃったんだから…………気の迷いなんて、言い訳にしかならないんだよ。私の感情は、私だけしか作れないんだから……」
「だけど――!」
「いいの。フウちゃん。気にしないで、覚悟は出来てるから」
覚悟。
そんな覚悟を求めているつもりはない。
もしも、彼女がこの場で、助けを求めてくれるなら、今すぐにでも鉄扉を蹴破ってもいい。
『おい、フウ。くだらねえこと考えるんじゃねえぞ』
意識の奥で重明がぼやく。
『最初からイタチに言われてただろうが。今日は、会うだけだ』
そんなことは、分かっている。イタチが最初から彼女と、そしてナルトを開放するつもりは無いのだと。それは、火影になってから行うことなのだろうけれど、感情は納得がいかない。
「イタチくん。今日は、何しに来たの? わざわざ、こんなところまで来て」
「イロミちゃん……俺は、火影になる。それだけを、今日は伝えに来た」
微かな沈黙が、扉を挟んで座り込んだ。
「……そうなんだ」
たったの、一言だった。それ以上の語りはなかった。
「また来る。その時は、君の意見を教えて欲しい」
意見。
それは、彼が火影になることに関してのものなのだろうか。
☆ ☆ ☆
二人の遠ざかる足音が、顔の殆どを覆っている布を通り越してようやく届いてくる。安心するのと、口が乾くような辛さが、頭の中を緩やかに回った。もしかしたら、あと数秒でも二人が扉の向こうに立ち続けていたら、涙を流していたかもしれない。未だ眼球が無い状態で涙を流したらどうなるのかと、くだらない想像を働かせたが、呪印で暴走した時の記憶では視界への影響は何もなかった。涙を流す、という行為は、きっと、自分には不要なものなのだろう。いや、涙を流すだけではなく、今では呼吸以外の自由は何も無い。
身体中の至る所には何十もの細い針が刺され、筋肉と靭帯の自由は奪われている。両手足首は鎖で固定され、それらに連結している鎖は首をきつく締める首輪に繋がっていた。顔に巻かれている布には墨の匂いが強く染み付いている。おそらく、封印術の一種なのだろう。墨は首より下の肌にも塗られていて、チャクラを操作できない。
自由が認められない。
当然だ。掟を破ったのだから。
考える事が許されているだけでも、十分と言えば、傲慢だろうか。
完全な無音が訪れた。二人は、ナルトの元へと足を進めたのである。それは正しく、同時に健全でもある。
ナルトの方が、自分よりも立場は複雑だ。
ただの犯罪者と比べるまでもない。
彼は木ノ葉隠れの里のみならず、他里への影響力も持ってしまっている。ましてや、まだ、子供なのだ。火影になると望むイタチの判断は、ナルト自身と木ノ葉隠れの里、ひいては全体的な安定を視野に入れた素晴らしいものだろう。
火影。
その言葉を前に、ふと、イロミの思考は足を止めた。
『イロミちゃん……俺は、火影になる。それだけを、今日は伝えに来た』
それだけ――彼は簡単に済ませたが、今となってようやく、ああ、信頼されるという事の重さ、イロミは理解した。
彼の性格なら、きっと、
象徴として里を支えるよりも、実務で里を支えたいと、彼なら合理的に判断するはずだ。それは、彼の才能が導くものであり、そして正しくもあるのだけれど、ある意味では、他者を慮ってしまう優しい性格に起因するものでもある。
だから、そう。
もしかしたら。
火影になる、という選択は、彼が望んでいないことなのかもしれない。
それを――それを――。
「私が………させちゃったのかな……………はは」
自分が情けない。
頭が痛くなる。鼻の奥が熱くなって、苦しくなって、怖くなる。
ああ、これが、そうか。
「……
今まで自分が、どれほど、甘やかされてきたのか。
イタチは信じてくれている、という思考を迷わず進むという――恐怖。
いや、進むことは、怖くない。
彼をまるで誘導したかのような、この状況を許容してしまう自分の姿が、どうしても傲慢に見えてしまって、それを良しとしてしまう事が、怖いのだ。
才能も無いくせに。
努力を一度、放棄したくせに。
傲慢であるということ。
これまではずっと、与えられてきた優しさを我慢するだけで良かった。
自分が我慢すればすぐに終わっていた。
周りに何も影響を与えない。それがどれほど、気楽だったのかよく分かる。
フウコも、イタチも、シスイも。
だって、天才だったから。
彼らは自分で正しい判断をするのだから、自分が影響を与える必要は無かった。
友達としての責任を、放棄していたのだ。
ただ優しさに甘えていたのだと、はっきりと、分かった。
イタチを信じたい。いや、信じる。それは、彼の眼と繋がって互いにぶつけた感情の過程があったから。だから、信じてる。彼の言葉を。
彼の言葉と、彼の言葉の
つまり――つまり――彼が火影になったのは、フウコに辿り着くだけではなく、自分を助けようとしてくれている。
それは、嬉しくて。
フウコを追いかける事もできて。
やっぱり、嬉しくて。
だけど。
「………ははは……辛い、なあ………………」
心の中の誰かが叫ぶんだ。
お前は死ねと。
人を殺したんだ。
もう、お前が殺した人は、願いを叶えられないのに。
お前だけが願いを叶えるのか。
他者の権利を貪っておいて。
自分の権利を掲げるのか。
死ね、死ねと。
絶叫が頭蓋骨を内側から破壊しようと、暴れだす。
その罪に、伏したい。
死んで、この多くの命を捕食してしまった身体を消してしまいたい。
なのに外側と、内側の中心が、叫びを押しのけるように指を引っ掛けるんだ。
「フウコちゃんに………会いたい……。また、昔みたいに――ううん、昔のほんの一部みたいに」
笑いたいんだ。
話したいんだ。
疲れ果てて死の一歩手前の位置でも。
眠りにつくような充実を胸にしてでも。
遠ざかる黄昏を並んで眺めるだけでもいい。
イタチもそれを望んで。
自分もそれを望んでしまっている。
信頼が引っ張ってくれる。
傲慢が努力を訴えてくる。
あと――。
あと、どれほどのものを。
努力と、
信頼と、
罪悪と、
過去と、
命と、
ありとあらゆる、
自分のものにしてしまった全てを背負って。
あと、どれほど。
「私は………傲慢になってみせないといけないのかな…………」
それでも、進まないといけないのか。
もう戻るのは――諦めるのは――イタチが悲しんでしまう。そんな事をしても、何も解決しないということは、むしろ不幸を招いてしまうのは、彼が命懸けで語りかけてくれた事実なのだから。
生きないといけない。
正しく生きることはもう、できないけど。
進まないと。
苦しくても、悲しくても、傲慢に――振る舞ってやる。
「ははは……そう言えば…………私の親って……みんな、我儘な人だったっけ……」
次話は来月中に投稿いたします