いつか見た理想郷へ(改訂版)   作:道道中道

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霞の味

 懐かしい空気だと、うちはフウコは思った。唇をくすぐるそよ風の温度も、嗅ぐ匂いと湿度も、耳たぶを叩く穏やかな賑わいも、ああ、と充実した息を漏らしてしまうほどに心地が良かった。うん、気持ちが良い。

 

 ──気持ちが、良い? ……どうしてだろう。私、今までどんな空気を吸ってたんだっけ……。

 

 ただ、大切な人たちを守りたくて。

 だから……えっと、なんだっけ。

 ずっと、怖い夢を見てたような。

 いや今も見てるかもしれない。

 景色は蜃気楼なのか揺らめき動いているし、日差しも強いはずなのに目には痛くない。なんだか不自然だ。そうだ、もしかしたら今は、楽しい夢を見ているのかも。

 ああ、そうかもしれない。今日はいつぶりに見ただろうも分からない吉夢の中だ。楽しい気持ちが溢れ出てくる。

 

 ――イタチ、火影になったんだ……。顔岩、似てる。

 

 木ノ葉隠れの里を見下ろすように構える、歴代の火影らの顔を彫刻した巨大な岩塊。白い日差しを浴びて陰影を強くしたそれらには、血の繋がりの無い兄の凛とした顔が掘られていた。

 夢に違いない、フウコは確信する。

 イタチの性格上、火影になるという考えは生まれない。象徴としての機能よりも、実務としての機能を重んじる彼ならば、むしろ暗部に身を置くだろう。里の前途を阻む存在を消すよりも、里の前途を紡ぐような価値のある行いを目指すだろう。

 

 良い夢だ。久しぶりに。

 

「腹でも減ったか?」

「……え?」

 

 横から飛んできた声は、横や前後をバウンドする喧騒とは違う、針のように脳を刺す声だった。ぼんやりとしていた意識が急に重くなる。夢心地は足音を出さないままに遠ざかって、陽光の朧は輪郭に線を与えた。

 右に向けた視線の下方。上から見下ろした形では、ただそこには笠と赤い雲の模様が斑に刺繍されている黒い衣を被った、低い何かがあった。下手をすれば旅支度にも見えなくもない。同じ笠と衣を羽織っている以上、その認識は即座に改められるが。

 笠が傾いて、その下から刃のような眼光が覗かせる。

 

「馬鹿みたいに突っ立ってるな。目立つぞ」

「サソリ……」

 

 フウコはようやく、夢から覚めて現実に引き戻された。さっきまで胸にも頭にも充満していた束の間の幸福は形も残滓も残さないままに、淡々と地続きの記憶を引き継がせる。

 

「ああ、いたんだ」

 

 サソリは溜息を漏らした。傀儡人形のヒルコの中に彼はいるはずなのに、随分と明瞭な溜息である。

 

「最初からいたぞ」

「うん、ごめん。視界にあまり入らないから、忘れてた」

「言っておくぞ、視界に入らないのは機能美の一つだからな。それ以上何か言ってみろ。晩飯は生米にするからな」

「だったら、今ご飯を食べよう。そういえば、お腹が空いてきたような気がする。食事処でご飯を食べよう。蕎麦がいい。麺類はあまり食べてないから」

 

 アジトでは米が主食として出されている。サソリが言うには、楽だからとのこと。蕎麦やうどんと言った粉物は触感が調整が必要で、傀儡人形の身体である彼には困難ではないにしても面倒なのだろう。対して米ならば、基本的に分量を守っていれば大抵は平均値を保てる。

 説明された理屈は納得できてしまい、仕方ないながらも、これまで限られた食事を我慢してきたのだから、今日くらいは良いだろう。そう思っていたが、サソリは声を潜めて、そして低く忠告した。

 

「遊びに来たわけじゃねえんだぞ。目的を忘れるなよ」

「分かってる。でも、ご飯くらいは食べても問題ないでしょ? 大丈夫、私は正気。心配はいらない」

「……火、消えてるぞ」

 

 フウコは、右手に持っていた赤い煙管から紫煙が消えているのにようやく気が付いた。

普段は絶え間なく吸って空中に浮いているような気分を堪能しているけれど、口内と鼻奥を埋め尽くしていた甘ったるい香りを今は吸いたくはない。けれどサソリは油断なく釘を刺した。

 

「煙は常に吸っとけ。こんなところで頭が吹っ飛ばれでもしたら元も子もねえ。テメエも、全部ご破算にはしたくねえだろ?」

 

 衣の内側からマッチを取り出す。もう中身が少なくなっていて、箱を開けるとカラカラと内側のマッチ数本が音を立てた。マッチ棒の火を付ける。火をタネに当てながら煙管に空気を送ると、紫煙が昇り、そよ風に流された匂いが鼻を通って頭に充満する感覚がやってきた。

 

 また景色が淡く擦れて、記憶も、残骸に成り果てる。

 

 それでも、残骸の中に見え隠れする鈍色が告げてくる。

 

 壊れるなと。

 

「ご飯、食べに行こう。サソリは何が食べたい?」

 

 食わねえよ。サソリは忌々しげに呟いた。

 

 二人は人の流れに交ざって行くが、二人の出で立ちはあまりにも浮き出ていた。まるで紛れていない二人の姿は、自身らが侵入者であることを誇張するかのようだった。事実、二人が木ノ葉隠れの里に侵入したことは、上層部には知られている。

 多角的な方向からの視線をサソリも、そしてフウコも察知していた。

 予定は順調だった。

 暁のリーダーから指示されたのは木ノ葉隠れの里の偵察及び九尾と七尾の情報、そしてあわよくば、七尾の奪取。遂行するつもりは毛頭ない。言うなれば、ポージングである。指示通りに動いて、リーダーが納得する程度の情報を提供するだけ。

 

 しかし、二人には──思考能力が著しく低下しているフウコを敢えて除外すれば、サソリには、別の目的があった。

 

 目的達成への経路は今の所、恙無い。

 と言っても、まだ、序幕ではあるのだが。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 フウコとサソリが来る少し前のことである。

 

 火影に正式に就任したうちはイタチには、実は補佐役であるフウと、更には補佐役代理のシズネにも知られていないままに、最大の危機が迫っていたのである。

 

 歴代最年少。

 

 木ノ葉隠れの里の史に名を刻んでいるうちは一族の出。

 

 異例と称されながらも火影に就任したイタチだったが、木ノ葉隠れの里の内部からは不満の声は挙がっていない。彼の人格や実績が積み上げてきた信頼が表に出た形である。一時は実務への不安が肯定的な雰囲気に滲んだ声もあったが、それらは木ノ葉隠れの里の復興への貢献によってすぐに無くなった。

 

 順調といえば、順調だった。

 

 そもそもスタート地点が、木ノ葉隠れの里の復興、というマイナスからであったために、成果が目に見えやすくなったことも後押ししたのかもしれない。

 火影の業務はこれまでの業務の比ではない精密さと責任を問われながら、大量の案件を処理しなければいけなかったものの、自分の想定外の事態は瀬戸際で起きることは無かったのだ。

 しかし、そのイタチの前に、重大な事柄が突如として降り立ったのである。

 

「イタチくん。正直に答えて」

 

 鉄扉の向こう側から届くイロミの低い声に、イタチは固唾を呑み込んだ。反動で吐く息はどうしてか乾いていて、対して、火影に就任してからフウに渡された右目を覆う黒の眼帯の裏側にじんわりとした汗が貼り付く。

 もう、イロミに嘘を使うことはしないと心に決めたのだ。

 本来なら、正直に答えてほしいという問いにはノータイムで応えることが出来る。

 だが、今…今だけは、それに躊躇いが生まれてしまう。彼女の問いに正直に応えた際の事態の想像が出来ないのである。

 

 イタチは思う。

 

 ──自来也様なら……こういう場合は、どう応えているんだ?

 

 忍として、そして人生の先駆者として、彼から多くの話を聞きたいと思ったことはある。火影になってからというもの、これまで以上に木ノ葉隠れの里を知りたいと思うようになり、ふと彼や綱手から話を聞く機会がないかと思案したことがある。

 

 だが。

 

 だが、である。

 

 自来也に限っては、彼の所業に関して尋ねることは決してないだろうと思っていた事柄が不意に目の前にやってきてしまったのだ。おそらく自来也ならば、こういう危機に対しての処世術があるはずである。

 

 自来也から教えを請いたい。

 どうすればいいのか。

 どうすれば。

 

「イタチくん。聞こえてる?」

 

 と、イロミは声を通してきた。蛇が獲物の周りに自身の胴体を回して逃げ場を防ぐような容赦のない声だった。

 イタチはどうにか声を出すことが出来た。

 

「あ、ああ。聞こえてる」

「よかった。そうだよね、ドアがあるからって、声が聞こえないなんて無いもんね。あはは」

 

 その時のイロミの声は、本当に明るい質だった。普段の彼女の声。しかし、

 

「──じゃあ、応えてよ。イタチくん」

 

 次の瞬間に聞こえるのは恐ろしく冷たい声である。汗が粒となって首筋を通り抜ける。その汗を、イタチの焦りを舌舐めずりをして待っていたかのように、イロミは、再びイタチの前に脅威を明示した。

 

 

 

 

 

「イタチくんさ…………私の裸……見たよね?」

 

 

 

 

 

 イロミの言葉だけを捉えれば、イタチがかつて、あるいは拘束されている今のイロミの肌を覗き見たかのような誤解を与えかねないものだが、当然のことながらイタチはそのような行為に踏み切ったことはおろか、考えに思い浮かべたことは一度としてありはしない。うちはイタチという人物は実に健全で堅実で、強靭なまでの理性を持った人物である。

 

 イロミがイタチにこのような問いを投げかけたのには、しっかりとした文脈があるのだ。

 

 そもそも。

 

 イタチが、イロミを拘束している暗部の牢へ足を運んだのには訳がある。

 木ノ葉隠れの里の復興が進み、ようやく一息吐ける段階にまでは業務が落ち着いた為、イロミに現状の里の情報を渡しに来たのだった。その後はナルトにも話を伝えに行き、そして最初に話した時の返事を聞きにも来たのだが。

 里が安定してきたということ。

 中忍選抜試験のこと。

 イロミと関わった我愛羅らのことや、砂隠れの里で秘密裏に起きていた風影暗殺や、大蛇丸の被害者であった砂隠れの里への情状酌量など。

 他愛も無い世間話も含めて、イロミに伝えた。ずっと拘束され、未だ眼球のない彼女を慮っての交流だった。

 本当ならフウを連れてきたかったのだが、タイミング悪く彼女は別の業務で空いていなかった為に、一人で来たのである。

 

 その末で、イタチは更にイロミに尋ねたのだ。

 

「他に、何か聞きたいことはないか? もしかしたら、すぐに応えることが出来ないものもあるかもしれないが、その時は次の時までに情報を集めておく」

「うーん……今は、まだいいかな。良い話をいっぱい聞いちゃうと、背中がムズムズしちゃうから」

 

 最初に牢の鉄扉を挟んで会話した時よりも声に自然さが戻っていた。何かしらの、心の区切りが付いたのだろうと、イタチは安心していた。

 

「どんなことでもいい。本当に、何でもいいんだ」

 

 促したのは、彼女の抱えるストレスを少しでも減らせないかと思っての配慮だった。

 イロミと──ナルトの処遇は未だ決定を残していない。大名との議論中、と言えば聞こえは良いが、現状は単なる平行線。普段は木ノ葉隠れの里の管理に興味を持たない大名が、イロミとナルトの釈放には難色を示している。それほどまでに二人のインパクトは強かったのだ。二人の釈放はまだ時間が掛かってしまう。

 朗報を未だ届けることの出来ないことへの、せめてもの償いとして深く尋ねたのだ。

考えればこれが過ち──あるいは、地雷原への第一歩──だったのだ。

 

「あー……じゃあねえ…………ずっと、うん、実は気になってたことがあったんだ」

 

 戸惑いがちのイロミにイタチは心で構えを取った。もしかしたら、木ノ葉崩しのことについてだろうか、と思うと案の定、

 

「私が、暴れてた時のことなんだけど」

 

 やはりか、とイタチは思った。だが、正直に、真正面から応えようと鉄扉を見つめた。

 

「私ね。呪印に身を任せていたけどさ……何をしていたのかは、はっきり覚えてるんだ。色々……うん、えっと、言っておくけど、本当に私は、自分がしたことを自覚してるからね、あまりその時の事をイタチくんに訊いたりして逃げようと思ってないんだ。訊きたいのはね、単純に、イタチくんと私だけの問題で、だから、深く考えないでほしいんだ。本当に、些細なこと……だから」

「分かった」

「えっと……私、イタチくんと戦ってる時にさ、背中からいっぱい、蛇みたいなの生み出したよね」

 

 その時の光景をはっきりと思い出すことが出来た。

 口寄せの術ではなく、ただ肉体を変容させて姿を現した巨大な蛇たち。忍術というよりも技術にも近い現象は今まで見たことが無かった為に、状況も相まって記憶には克明と刻まれている。「ああ」と、イタチが即座に肯定すると、イロミはいよいよ尋ねたのだ。

 

「私の勘違いじゃなければ、だけど……。その時の私って……殆ど、裸………だったよね?」

 

 そこでようやく、イタチは事態を理解したのである。

 

 次に投げかけられるであろうイロミの問いへの応えを瞬時に導き出そうとしたが、流石のイタチの頭脳を以てしても、正しい返答が思い至らなかった。

 

 いやそもそも、投げかけられた時点で、正しいというのは存在しないのではないか、とさえ思ってしまった。

 

 そして、イロミは尋ねたのだ。

 

 裸を見たのかと。

 正直に応えろと。

 挙げ句に、あまつさえお前は写輪眼だっただろう、という理詰めさえ飛んできた。

 

「………………」

 

 見たと言えば見た、というのがイタチの正直な考えである。いやしかし、その判定は客観的に見ればグレーだという意見も、イタチの中には浮上していた。

 なぜなら、その時のイロミの衣服は殆ど無かったが、代わり彼女の肌は彼女自身の血液で真っ赤に染まっていたのだから。呪印に侵食された紫の皮膚だったことも相まって、およそ人間の肌はしていなかったのである。

 だから、そう。

 見てはいないとも言えるのだ。

 

 ──……確信を持っているはずだ……………。下手な言い訳は……。

 

 邪な感情を普段抱えないイタチではあるが、こういった状況における理屈と暴論の合間を進むような発言が決して良い印象を与えないだろうことは、何となく理解できてはいる。綱手を木ノ葉隠れの里に招いた日に、自来也が下手な言い訳を並べた時の現状が参考資料の一つだった。

 

 そしてイロミの声質や問い方が、明らかに、イタチが見たことを決め付けている。この問いが軸足となっているのは、つまりは、儚い期待だ。

 

 何かの間違いで見ていないのではないだろうか。

 

 状況が状況だっただけに、記憶に残っていないかもしれない。

 そんな淡い期待だけが後押ししたのだ。イロミは見ていない、あるいは記憶にない、という返答を期待しているはず。彼女の期待通りに応えれば、ねっとりとしたイロミの問いは止まるだろうが。

 

 残念な事に、イタチの記憶力は優秀なのだった。

 鮮明に思い出せてしまう。

 一糸纏わぬ、血を隙間なく浴びたイロミの上半身を。

 そして、嘘を言わないというのをイタチは約束した。真っ直ぐ友達を見ると。

 

 いや勿論、友達として冗談の一つや二つは言うだろう。サスケに恋人が出来ただとか、カカシは実はマスクをしたまま食事が可能なのだとか、そういった冗談は言うだろう。分かりやすい、まあ、嘘と言えば嘘なのだが、分かりやすい、そしてイロミも嘘だとはっきり分かるようなものをだ。

 

 だが、今回のはどちらに分類されるだろうか。

 

 血に塗れていたから裸ではないという無理矢理な冗談を通すべきか。

 正直に、見たけれど血塗れで殆ど見たとは言えないと、通すべきか。

 

 ──分からない…………。

 

 兎にも角にも。

 

 脅威である。

 

 信じられない方向からの脅威がイタチの前に来たのである。

 

 そしていよいよ、イタチは決断した。

 

「その……不可抗力で、見てしまった」

 

 不可抗力、という言葉を付け加えてしまったのは、意図したものか、こういう事態に直面したことが無かったことへの抗体の無さか。

 不穏な静寂が鉄扉を右往左往した。これほど、恐怖でも、緊張でもない、けれど切迫してくる沈黙な時間があっただろうか。

 そして、イロミの声が聞こえてきた。

 

「…………………ああ……そうなんだぁ」

 

 とてつもなく低く、そして乾いた声だった。慌ててイタチは弁明した。

 

「いや、イロミちゃん。待ってくれ。冷静になってほしい。たしかに、その、見たが、君の全身は血に塗れていたから、厳密には、見ていない。うん、きっと、世の中の誰が見たとしても、あれが君の裸だと評価する者はいないだろう。全く、裸に値しない」

「イタチくんがぁ、屁理屈をぉ、言ってるぅ。かなりぃ、頭の悪い感じぃ」

 

 友達の精神が変調してきているようだった。

 

「違う、違うんだ。誤解しないでくれ。俺は、見ていない」

「急激なぁ、前言撤回が来たぁ」

「服を着ていない君の姿は見たが、その、肌の部分は見ていないという意味で」

「湯気があったからぁ、女湯の女性の裸をぉ、見てないってぇ、言ってるようなぁ、ものだぁ。女性の裸っていうのはぁ、どんな状況でもぉ、私服を着ていないっていうのと同じなのにぃ」

「そういった邪な考えは俺には無い。そう、そうだ。あの時の君の姿は、全く、女性としての魅力が無かった。それは、女性の肌としてはありえないことのはずだ。だから、そう、俺は見ていない」

「ちょっとまってそれってどういう意味?」

「……え」

 

 イタチ本人が気が付かない間に地雷のど真ん中を踏み抜いていた。当然ながら、彼自身に問題は一切ない。全て避け難き事態の連続であり、そしておそらくは最善手を何度も指しているのだが。

 イロミの声がおどろおどろしくなって、おまけに呪印のチャクラのような冷気が鉄扉の隙間から漏れてきているような気がした。

 

「そりゃあね、私も自覚してるよ。寸胴体型なのは。もうね、諦めてるよ。成長期らしい成長期が特に無かったからね。もう身長は伸びないし、食べても食べても身体に肉は付かないし。それでもね、頑張ってた部分はあるんだよね」

 

 何も言葉が出てこない。そういった努力をしていた痕跡を、今までイタチは感じ取ったことが無かったからであるが、そもそもとして、イロミのそういった努力を理解していた人物は木ノ葉隠れの里には誰一人としていなかった事実があることを忘れてはならない。

 

 悲しい事にイロミの魅力への努力は、忍のそれとは熱量も工夫の質も圧倒的に低かったのである。

 

「でもね……裸を見られたのに見てないって言われたり、魅力が全く無いって言われたりするとね、なんだろうね、込み上げてくるものがあるんだよね。久しぶりだよ、こんな感じ。フウコちゃんが、最近肩がこるって言った時以来だよ。あの時は本当にフウコちゃんの頭をぶん殴りたくなったよ。じゃあ私が任務とかで抱えてくる肩こりは何なんだって」

 

 急に浮上してきた肩こりの話に、当然ながらイタチはついてくることが出来なかった。彼の疑問符を置いてきぼりにしてイロミは「うぅぅぅぅぅ」と不気味な唸り声を出し始めた。

 

「憎ぃ。ぅぅぅぅ、私より女性っぽい人が憎ぃぃぃ。特に身長と胸がある人は憎ぃ。うぅぅう。分厚いのが憎いぃ。辞書とかぁ、湯豆腐とかぁ、金塊とかぁ、うぅぅぅ。憎いぃ」

「…………イロミちゃん?」

「どうせ皆、私のことを紙切れだとかぁ、湯葉だとかぁ、小銭だって思ってるんだぁ。薄っぺらい価値だけどぉ、希少な価値なんだぞぉ。馬鹿にするなぁ。繊細なんだぞぉう。芸術と一緒で、繊細の果てに出来上がったんだぉう。ぅぅぅぅ敬ぇええ。うぅぅぅぅ」

 

 いよいよイタチは部下を呼ぼうかと真剣に思い始めた。鉄扉から溢れ出る冷気が何を以て生み出されているのか全く分からず、そしてイロミの心理状態がどういうものなのかも分からなかったからだ。

 あるいはシズネか、フウならば、分かるのだろうか。いやもし二人だけが分かるという話ならば、イロミの友人としての自信を無くしそうだとも勘ぐってしまった。

 

「イタチさんッ!」

 

 暗い通路に吹き込んできた声の主は、助けを呼ぼうと思っていたフウだった。

 イタチもフウも、ダンゾウの持つこの牢の施設を、イロミとナルトの面会という要件のみに使用できるようになっている。おそらく、ダンゾウにとっては都合が良いからだ。わざと自由に出入りさせて問題が起きる事を待っているのだろう。勿論、イタチもフウも、そしてダンゾウさえも、そんな事態が起きるとは露にも思っていないのだが。

 

 しかし、イタチに安心が生まれることはなかった。彼女の声の強張りが、何か予想外の事態についての報告なのだろうと分かったからだ。

 

「どうした? フウ。」

「それが、つい先程なんすけど──」

「うぅぅぅぅぅ。フウちゃんの声が聞こえるぅ。フウちゃんも私よりも女の子ぉぉぉぉ」

「え、え? どうしたんすか? イロミちゃん。もしかして……何か、拷問でもされたんすか!?」

「イタチくんにぃぃぃ」

「はあッ!? イタチさん、ちょっとどういうことっすかそれ!」

 

 流石のイタチでも状況を端的に説明できる自信が無かったため「報告をしてくれ。イロミちゃんは、おそらく元気だ」とだけ言ってフウを制した。そしてフウはイタチの耳に口を近付けて、潜めて言う。

 

「侵入者っす」

 

 大蛇丸の木ノ葉崩しを受けた木ノ葉隠れの里には多くの来訪者(、、、)がやってくる。それらの者には里を囲う警備部隊が対処しているはず。それを突破されたということは、あまり悠長に出来る事態ではない。

 

「侵入者の特徴は?」

「二人っす。どちらも、広い笠と黒い衣を着ています。衣には、赤い雲の模様が刺繍されているっす」

 

 その情報にでイタチが思い浮かべたのは──【暁】という集団のことだった。火影に正式に就任してすぐ、自来也が情報を渡してくれたのだ。必要になるだろう、と。その集団の異様さと、一部のメンバーの情報、目的、そして姿。侵入者は【暁】だろう。

 と、同時に。

 フウコが来ているのではないか、という予感も生まれていた。【暁】にはフウコが所属している、というのが自来也の情報の中核であったのだ。

 そして続けて出た情報に、イタチの予感は確信に変わった。

 

「一人は極端に背の低くて、もう一人は背の高く、長い髪の人です」

「……分かった。フウはすぐに部下たちに監視の継続の指示を出しに行ってくれ。それと、カカシさんとガイさん、あとアスマさんにも声を掛けてくれ。人手が必要になる。それが終わり次第、自来也様の元で待機してくれ。フウは近付くな」

「どういう意味っすか?」

「相手の目的が、君だからだ。分かったな?」

 

 フウは頷くと来た通路を戻っていき、しかしその途中で「イロミちゃんに変なことしないであげてくださいっすね! その人、変に繊細なんですから!」などと言葉を残した。

 

 繊細。

 

 それは知っている。子供の頃から彼女は些細な事でも大事にしてしまい、そしてちょっとしたことで涙を浮かべてしまう。

 

 けれど、それは子供の頃の話で。

 

 大喧嘩をした後は、彼女も自分も、そして関わり方も変わった。だからイタチはイロミに言ったのだ。

 

「イロミちゃん。もしかしたらだが、フウコが里に来たかもしれない」

「…………え?」

「どうする?」

 

 意思を尋ねる。もう、こちらの事情だけで友達を誘導するつもりはない。

 

「……私は」

 

 と、イロミは震えた声だった。

 

「私は、フウコちゃんに……会いたい」

「なら──」

「でもッ!」

 

 もしもイロミが牢を出た場合のあらゆるリスクを明示しようとするイタチの声を、彼女は遮ったのだ。

 

「今、私は……犯罪者だから。ここを出ちゃ、ダメだから」

「出すことはできる。君が牢を出たことも揉み消すことも可能だ」

「だけど、きっとそれが弱みなる。私が出なければ、もしかしたらフウコちゃんをイタチくんが連れてきてくれるかもしれないのに、出たら最悪……もう、あの時のフウコちゃんの真実を知れなくなる。だから、私は、ここを出ない」

「……無理は、していないか?」

 

 イロミは絞るような声で「……してる」と言った。

 

「本当は、拘束を突き破って、ここを出て、フウコちゃんと会って、話がしたい……。抱きしめたい……、思い切り、顔をぶん殴ってやりたい。我慢なんて、したくない。でも……今のこの状況は、私が全て招いたことで、出ない方がメリットが大きいなら、私は諦める。私は、私の為に、諦めてるの」

「……そうか」

 

 それに、とイロミは言った。

 

「イタチくんは私の友達だから。一緒に、フウコちゃんを追いかけてくれるんだよね?」

「ああ。それは約束する」

「だったら、我慢できるよ。イタチくん、私が言うのもアレだけど、無理はしないでね。片眼なんだから」

「分かってる」

 

 彼女に別れを告げてから、イタチは足早に外へと向かう。その途中でイタチは影分身の術で二体の分身体を作った。二体をそれぞれ、サスケ、そしてナルトの元へと送り込んだ。

 二人もフウコとは関わりが深い。そして隠していても意味が無いと判断した。

 火影としても、家族としても。

 

 外に出て、考える。

 

 侵入者の【暁】。もしも予感の通りにフウコだとしたら。

 目的はなんだ。

 尾獣を集めていることは知っている。だが、だとしたらタイミングが遅い。小国同士の争いに時折、姿を現す非合法組織である【暁】ならば、その情報網はある程度の広さを持っているはずだ。大蛇丸の木ノ葉崩しも、発生直後は別にしても、失敗に終わった直後ならば手に入れられることだろう。

 復興があらた片付いた今になって姿を現すというのは妙だ。

 別の目的があるはず。

 

 ──揺動か?

 

 だとしたら、どこを狙う?

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「サソリは食べないの?」

「食うわけねえだろ」

「美味しいのに」

「身体に違和感はねえか?」

「別に」

 

 流石のサソリでも、口から採取した食物を消化しエネルギーに変えるという機構を自身の傀儡人形には持たせていない。チャクラを生み出し、思考を司る生身の部分は存在するものの、その部位には特殊な手段で栄養を送っている。そもそも、身体機能が失われかねない損傷でもある程度の可動が出来るのが傀儡人形の美点の一つである以上、臓器などという争いにおいては弊害以外の何ものでもない機構を施す意味などない。

 

 ──毒は……入ってねえみてえだな。

 

 茶碗に山盛りとなっている白米を食べるフウコの顔をサソリは注視する。目の下に僅かなクマを浮かび上がらせながらも、頬や唇の血色は悪くない。もしかしたら、食事処で提供される料理に毒が混ぜられているかもしれないと考えていたが、杞憂のようだった。まあ尤も、毒が入っていようが死にはしない程度には抑えられるだろう。

 アジトには多種多様な薬品がある。それこそ、非合法的で表では手に入らないような薬品もだ。御立派な忍里が抱える毒など、問題には値しない。

 

 問題があるとすれば、やはり、フウコ。サソリとしてはフウコと共に歩く木ノ葉隠れの里は、蝋燭を抱えて火薬庫の中を歩くようなもの。

 

 いつ爆発してもおかしくはなく、そして爆発を抑えきれるかどうかも分からない。

 薬品を使っても、声による操作を使っても。

 予測が出来ない。計画の上では、フウコが木ノ葉隠れの里に入ることは一切想定していなかった。尾獣も、リーダーから木ノ葉隠れの里の七尾を捕らえるような指示を受けないためにさっさと他の尾獣を集めたというのに。

 

 ──これで収穫ゼロっていうなら、流石に気分が悪いな。

 

「ねえ、サソリ」

「なんだ?」

「二人はどこにいるの?」

「……………………」

 

 ぼんやりと焦点が合っていないような赤い瞳がこちらを見下ろしてくる。

 時折、フウコから出てくる脈絡のない会話の切り口は今でも慣れない。薬で調整しているからこそ出てきてしまう伽藍な意識。

 

「誰のこと言ってんだ?」

「えっと。片腕がない、大きな刀を持っている人と、あとは、うん、女の子(、、、)……?」

 

 名前が思い出せないのか。

 記憶が吹っ飛んだか。

 

「再不斬と白なら、別件だ。ここに来る前に話しただろうが」

 

 ああ、とフウコは唇の端に白米をくっつけて息を漏らした。

 

「そうだったね。うん。忘れてた。あの二人、上手くやってくれるかな」

「お前が気にすることじゃねえ。さっさと食え」

 

 フウコは頷いて、呑気に再び食事を続けた。よくもまあ食えるものだと、ある意味で感心してしまう。

 ヒルコの中にいるとは言え、木ノ葉隠れの里に侵入してから伝わってくる多方向からの視線。熱くも冷たくもない、常に首筋の周りに手の平をかざされているような温さ。

 

 十分、視線は集まったか。あとは、二人がうまく交渉を進める事を願うばかりだ。

 

「ねえ、サソリ」

「なんだ?」

「デザート注文していい?」

「勝手にしろ」

 

 注文して、そしてしばらくしてデザートがやってきた。

 水羊羹である。

 

「サソリ」

「もう黙って食え」

「食べないの?」

「…………………」

「??? どうしたの?」

「さっさと食え」

「美味しいのに。勿体無い」

 

 味が分かるほど、お前はもうまともな身体じゃねえだろ。

 そんな言葉をサソリは面倒そうに呑み込んだ。

 




 次話は来月中に投稿します。

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