静かで白い空が広がる早朝から、青の昼を下り、オレンジとピンクが彩る光の絵を瞬いて描く夕暮れを経て、夜の密かな輝きまで。平凡とした、些細な贅沢な日だと、無意識に思っていた。いや、もはや思うなんてレベルですらないかもしれない。つまりは、単なる日常がそこにはあった。
多くの物事が、おおよそは平均値の周辺に行き着く日常ではあるけれど、やはり、個人の規模としては、大きな幸福、大きな不幸を獲得してしまうことも侭あるものだ。
日向ヒナタにとって、その日の、
道を歩いていた。
電灯は消えている。空には、少しだけ、分厚い雲が。小鳥の慎ましい囀りに耳を傾けながら、ヒナタはポツポツとした足取りだった。他には、人影は見当たらない。
修行の帰り、というわけではない。今日は朝からチームで訓練がある。修行をして体力を使って、いざ訓練についていけなかったら元も子もないからだ。そもそも、最近では、修行を家の外で行わなくなっていた。
それは、日向ネジが関わっている。
中忍選抜試験が終わってからだ。ネジの様子が、ほんの少しだけ、変わったのである。態度や雰囲気はきっとそのままではあるものの、修行をしている時に何度か声を掛けてもらった。そして、苛立ち気味の指摘を受ける、というのが最も多いパターンだった。時には、実戦形式を取る事もあった。
指摘は鋭く、実戦形式のものは厳しさがあった。
それでも戦闘での考え方が変わりつつあるのが実感できた。ネジからは、苛立ちはあっても中忍選抜試験の時のような殺意にも近い感情は読み取れない。だからなのか、ほんの少しだけではあるが、彼との距離が縮まったような気がしたのである。
そして、同じ日向の者との、半ば修行のような事が出来たのが嬉しかった。
どうして、ネジがそういう態度を示すようになったのかは分からないけれど、もしかしたら。
もしかしたら、中忍選抜試験で、自分が勇気を示す事が出来たからなのかもしれない。
大好きで、尊敬しているナルトのように。
だからこそ、心配の種が解消されない胸中は重くなっていったのだ。
何日も、幾週間も、ナルトを見かけていない。
彼とは毎日のように顔を合わせるような間柄ではない事は自覚している。それでも、日常生活を送っていれば週に一度くらいには、少なくとも見かけるくらいはしたというのに。
早朝に外を歩くのは、そういった感情が起因していた。
確証は、ない。
ただ、昼間では見かけないから。夜では、探すのは大変で。早朝ならば、と考えただけで、後は感情任せに歩き回ってた。かれこれ繰り返して、十日は経っただろう。
今日もナルトを見かける事のない日が来てしまうのだろうか。
──今日も、ナルトくん……いないな……………。いつまで、今日みたいな日が続いちゃうんだろう…………。
日常の一部になってしまいそうな、静かな変化がやってくる恐怖が、早朝の寒さを超えて背筋を冷たくしていた。
だけど、その日のヒナタには小さな幸運が──あるいは、大きな不幸が、起きてしまったのだ。
「……………え? あれって……」
もうそろそろ家に帰らなければ、もしも父が起床していた時に叱られてしまう。そう思い、後ろ髪を引かれながらも踵を返そうとした時だった。
道の向こう側に、黄色い髪を携えた少年が見えたような気がして、咄嗟に、振り返ろうとした顔を向き直す。
やはり、間違いない。
──ナルトくん……!
心臓の高鳴りに足が駆け出した。
ジャリジャリと地面を蹴る慌ただしい足音は静かな軒下たちを跳ねて、反響する。鼓動と相まって、耳の奥が痛いくらいだ。
ナルトに近付き、そしてナルトもヒナタの音に気がついて、振り向いた。
互いの目が合う。
ちょうどヒナタがナルトの前にやってきた。
大した距離を走っていないというのに、ヒナタの息は十分に上がってしまっていた。それでも、顔を上げて、驚いた様子のナルトを見た。
ああ、間違いないと、ヒナタは思う。
彼だ、と。
青い瞳に赤毛混じりの黄色い髪。青とオレンジのジャケット。
「え、ヒナタか……?」
そして、鼓膜を震わせる彼の声を聞き間違えるなんて事は、ヒナタにはありえない。
「ど、どうしたんだってばよ、そんな慌てて。というか、こんな朝早くに何してんだ?」
「え? えーっと……それは…………」
ようやくナルトを見かけて安心するが、そこで言葉を詰まらせてしまう。言うなれば、ヒナタの素の部分が現れてしまったのだ。
視線を下に向けて、両手を胸の前に構えてしまう。ナルトを見つけたのは良いけど、何を話せばいいものか。まさか、ナルトを探していたなどとは、ヒナタには口が裂けて天地がひっくり返っても言えるものではなかった。
不思議と、鼓動が走った時よりもテンポが早くなって、顔が赤くなってしまう。
どうしよう、どうしようと、心の中で右往左往としてしまっていると、ナルトが柔らかい息を吐いた。
「久しぶりだな! ヒナタ。元気にしてたか?」
「う、うん……………」
ただ頷くことしかできない。
本当なら、色んな事を聞きたい。
大蛇丸の企ての時は無事だったのか。
今まで姿が見えなかったけれど、大丈夫だったのか。
聞きたいことが山のように頭の中で山積みになって喉の奥までせり上がっているのに、ナルトの言葉に辿々しく答えるだけで、嬉しくて、満足している自分がいる。
「里がメチャクチャになった後に、キバやシノ、他の奴らも無事だって聞いていたけど、やっぱ心配でよ。どうなんだ?」
「えっと……みんな、元気にしてるよ?」
聞いたというのは、誰から?
「そっか。そいつは良かったってばよ。毎日、不安でさ」
「大丈夫……だよ。みんな、元気にしてるよ」
毎日というのは、どこで過ごしたの?
「でもま、元気そうにしてるってんなら、安心だってばよ」
どうして、どうして。
どうして……そんな、辛そうな笑顔を浮かべるの?
ナルトと会話ができて嬉しいのに、満足しているはずなのに、心の中で勝手に浮かび上がっていく疑問たち。言葉は喉の奥で、不本意な渇きと一緒に堰き止められてしまう。
尋ねてしまえば、まるで彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がしたからだ。
いつの間にか、静かな恐怖が背後に。
ヒナタは何気ない言葉で、彼を繋ぎ止めるように呟いた。
「ナルトくんは……これから…………修行、するの?」
一拍。
ナルトは答えなかった。
そして、彼は彼らしく、両手を頭の後ろで組んでみせた。
「まあ、そんなとこだってばよ」
「じゃ、じゃあ……その、私も一緒に…………」
その言葉は、普段のヒナタが呟いたものではなかった。
引っ込み思案で、周りを気にしてきたヒナタが意図せずして培ってきた観察力が、警鐘を強く鳴らして零させた発言だったのだ。勇気でも、何でも無い、半ば懇願にも近い弱々しい言葉だった。
自分の言葉の弱さを自覚してか、ヒナタは言葉を繋げた。
「最近、ネジ兄さんが修行を付けてくれるの……。修行って思ってるのは、私だけかもしれないけど………でも、強くなってるって、気がして……。ナルトくんに見てもらいたいんだ…………」
「ヒナタはもうすげえってばよ。キバにも勝ったし、あのいけ好かねえネジのヤローには根性見せたし。俺が見るまでもねえってばよ」
「でも……」
「それに」
と、ナルトは呟き、どうしてかこちらに背を向けて、もう間もなくの距離で潜ろうかという里の正門の向こう側を見上げた。そこに何かがあるように。
「俺ってば、今から行かねえといけねえんだ。だから、ちょっと、無理だってばよ」
どうしてだろう。
どうしてだろう。
ナルトは木ノ葉隠れの里の忍なのに。
彼が遠くへ行くなんて、きっと、誰も考えないようなことなのに。
振り返り浮かべる笑顔が、薄雲に見えかける太陽の日差しのようで、そこに光があるのによく目に見えないような、悲しい透明さがあった。
ポン、と軽く頭を叩かれた。
「じゃあな、ヒナタ」
☆ ☆ ☆
最後にヒナタと出会ってしまったことは、ナルトにとっては幸運なのか不運なのかは、分からない。
本当なら、誰にも見つからずに、静かに里を出ていくつもりだった。その為、ヒナタに出会ってしまった時には心の底から驚いた。人気の無い早朝を選んで外に出たというのに。
いや、けれど、それでも。
ほんの少しだけ、気分が落ち着いた。
牢の中で、それなりの期間を一人で過ごしていたせいかもしれない。
ずっと鬱蒼とした、湿った森の中を延々と歩き続けるように、頭の中で物事を考えていたせいだ。喋ることも無く、静かな牢の中は、考える事を強迫的に推し進められてしまう。だから、同世代で顔を知っているヒナタとの短い会話は、本当に、何も考えないで真っ白な自分を表に出すことが出来た。
言うなれば、ガス抜きにも近い感覚。
それと同時に名残惜しさと、僅かな不安が胸に掬った。
自分の行おうとしている事が正しい事なのか。
多くのものを遠ざけてまでするべき事なのか。
自来也の言うように、誰かと相談すべきだったのではないか。
──イルカ先生に、こっぴどく怒られるかもしれねえなあ………。カカシ先生にも…………。
里の外に一人、静かに出る。木ノ葉隠れの里の外はまだ静かなままの森が広がっていた。人の出入りは皆無。ヒナタと話すことが出来ていた自分を引きずりながら、ふと、イルカやカカシ、サクラの姿、そしてサスケの事を思い出す。
──サクラちゃんも怒るだろうなぁ。意外とサクラちゃんって、怒ると手が出るのがはえんだよな。
もしかしたら、自分が姿を消してもカカシやサクラは何のアクションも起こさないのでは、という悲観的な考えをナルトは持たない。ナルトは正しく人を見る目を獲得し、そして不当に彼らを貶めるような考え方を持つ事は彼らに対して失礼だと、誠実な考えを持っている。
カカシが本気で、しかし真っ直ぐに叱ってくれている視線。
サクラが両手に拳を作って、立派な額に青筋を立てている姿。
それらが、もう昔のように懐かしく感じてしまい、クスリと笑った。
そして、サスケ。
──アイツは、どう思うかな……。
苛立つだろうか、呆れるだろうか。彼なら、どちらでも考えられる。いや、もしかしたら、サクラと同じように怒りながら、そして連れ戻しに来るかもしれない。
それは、大蛇丸の木ノ葉崩しの事が起因している。
ノイズの破片のように残っている、記憶の片鱗。九尾に呑み込まれてしまった自分に立ち向かっているサスケの顔があった。ナルトにとって、その記憶は意外性を持っていた。
サスケはずっと、自分を嫌っていた。
理由は明らかで、フウコの事を信じているからだ。逆に自分は、フウコを殺すと宣ってみせる彼の事が嫌いだった。
けれど。
自分がサスケを嫌っていたのは、半分は、羨ましさが含まれていたのだと、牢の中で考えたのだ。
自分は深夜にしか、フウコに会えなかった。だけど、サスケは彼女の家族で。だから、毎日いつだって会うことが出来る。子供らしい、些末で素朴な嫉妬だ。
おまけにサスケはアカデミーでは人気者で、成績が良かった。
悔しさも相まって、さらには、フウコに自慢できるように、彼をライバルだと心の中で密かに決めつけた。決めつけて、けれど、フウコが木ノ葉隠れの里から離れてしまって、サスケがフウコを殺すと言って……。
──サスケの野郎とは、話しても良かったかもな……。
イタチから、フウコがどうして木ノ葉隠れの里を抜けたのかを教えられた。木ノ葉崩しの時に大蛇丸から聞かされた事、そしてヒルゼンが肯定した事と大きな違いはなかった。きっと、サスケも知らされたはずだ。
別段、意趣返しのような事は考えていない。
どういう風に考えているのか、それが聞きたいだけだ。
もしかしたら……サスケと──。
「…………俺ってば、もう木ノ葉に戻るつもりはねえってばよ」
ナルトはピタリと足を止めて、そして考えをも止めた。
道の両脇に茂る木々の隙間に潜む殺気を、ナルトは拾い上げた。朝の冷えた空気に淀み無く紛れる殺気は、容易に察知できる雑なものではない。
はったりか、と木々に潜む者たちはナルトの様子を見定めようとするが、彼の目が迷いなく彼らを見据えたのだ。
赤い瞳。
それらを見た彼らは、姿は現さないものの、警戒を強くした。
「もし黙って見逃してくれるってんなら、あんたらをどうこうするつもりはねえ。あんたらが、フウコの姉ちゃんに関わってねえってんなら、傷つけたくねえ」
風が吹く。
早朝の清々しい風のはずが、木々の葉をざわめかせる風は重苦しい。
そして──ナルトは溜息を零した。
苛立たしげに。
悲しげに。
もう、後戻りはできない。
いや、後戻りはしない。
自分にはやらなくてはいけない事があるんだ。
木ノ葉隠れの里を再興する為に。
大切な人たちを傷つけないまま、フウコが帰ってこれる、木ノ葉隠れの里を作るために。
邪魔な連中だけを、取り除くために。
力を手に入れるために。
「だったら……容赦しねえぞ」
意識が深く沈んでいく。
九尾が封印されている檻が目の前に。しかし、ナルトが手を差し伸べたのは──対面して座する巨大なチャクラの塊。それに意識のナルトは手を伸ばす。
決意した眼差しで、チャクラに触れた。
不思議な気持ちだった。
牢の中で、このチャクラの扱いを細かく修行してきた。だけど今だけは、どうしてか、僅かな温かさが背中を押しているような気がした。
背中は任せろと、誰かの声が聞こえたような気がしたのだ。ナルトの後ろには、九尾が嗤っている。
チャクラに触れ、肉体に発現する。
感情に色があるならば。
ナルトの感情は、漆黒だった。
喜びも悲しみも、辛さも優しさも。
大切な人たちへの七色の感情も、大切な人を追いやった者たちへの緋色の感情も。
全てが重なり凝縮された、完全な黒。そこに、僅かに入り込む、木々に潜む者らへの怒気を示す朱色がチャクラとなって漏れ出し、ナルトを覆った。
朱が縁取る黒いチャクラ。それはさながら、ナルトの衣服を纏うようにして発現される。
木々の者たちは──【根】の者たちは瞬間に警戒から臨戦態勢に意識を切り替えていた。どのような事態に発展しても対応できるように。
ナルトが消える。
瞬きすら、許していないのに。
そして一人の【根】の者は、背筋に感じ取ったのだ。
振り返る。
「殺しはしねえから、安心しろってばよ」
その者は錯覚した。
巨大な九尾の顎が口を開いている姿を。
★ ★ ★
「自来也様と何を話してたの?」
「ナルトくんの事について、少し」
「……やっぱりナルトくん…………フウコちゃんを追いかけようとしてる?」
「全ては分からない。だが……彼が木ノ葉に抱いている不信感は、誰よりも強い。九尾が封印されている人柱力としての立場も今まであった」
「自来也様なら、ナルトくんを引き止めてくれるかもってこと?」
「そうなってほしい、とは思っている」
「もしもだけど……ナルトくんが、私みたいに木ノ葉を出ていくってなったら、どうするの?」
「君と同じだ。話し合う、最悪で喧嘩をする。それだけだな。里を抜ける事自体は、大きな問題じゃない。自来也様のように、里から抜けても罰さない例もある」
自分で言いながらも、その事例がかなり極端なものであることは自覚している。ナルトは人柱力だ。内外ともに、個人の意思による自由で木ノ葉隠れの里を出入り出来てしまうほど、最悪を想定した際の影響力は無視できない。
もしもそれが可能だったとしても、その環境を整えるのには大いに時間が必要だ。木ノ葉隠れの里の尽力では足りない。ナルト自身が、他里にまで信頼されるほどの関係を築かなければならない。
長い、長い時間だ。
そして、その時間が経過する頃には、フウコはどうなっているのか。
何事も時間というのは足りないもので、選択肢は限られているのに迫ってくる。それは、ナルトにとっても、自分にとってもだ。
イタチは火影の執務室の窓から月を見上げていた。自来也と通路で対話したその日の夜である。彼の背後には、イロミが。彼女は自由にも、現火影であるイタチのデスクに腰掛けていた。彼女は逆に、イタチに背を向けている。二人の間には、火影の笠が、窓から差し込んでくる淡い月明かりを浴びて沈黙を保っていた。
「本当に……里を出ていくのか?」
イタチは尋ねた。
うん、とイロミは淡々と答える。
「言っておくけど、自暴自棄になったって訳じゃないからね?」
「自暴自棄になっていたら今度は俺から喧嘩を申し込むよ」
「全部、フウコちゃんの為……じゃないね、皆の為に私は出ていくの。あの時、シスイくんやイタチくん、私、フウコちゃんの四人が一緒にいた、あの日の為なの。イタチくんが火影になったのと、理由は同じだよ。君が火影になったのって、フウコちゃんの為でしょ?」
「……君とナルトくんを助ける為でもあったんだけどな」
「そういう言い方は、少しズルいかな」
「友達として、里の外に行ってほしくないと言っているだけだ」
「自来也様のような事例があるよね?」
「……そういう冗談は、好きじゃない」
イロミは情状酌量の余地によって、牢から出る事を許可されている。勿論、未だ非公式であり、本来彼女が正式に外へ出られるのは、まだ少し先のことである。つまり、今彼女が牢を出ているのは、個人的な特例に過ぎない。
そんな立場の彼女が抜け忍となれば、只事ではない。
「私は、もうしばらくは自由に外に出られないはずだよ? ダンゾウが、私の情報を大名たちに流したはず。きっと、私を縛り付けて、イタチくんの足止めにしようって考えてるんじゃないかな?」
イロミの推測は当たっていた。
彼女が大蛇丸の研究所で発見されたということを軸に、大蛇丸の企てに加担した可能性は高く、尋問によって大蛇丸の手掛りを獲得すべきだと、ダンゾウは大名に提言した。
分かりやすい挑発。大蛇丸が自身の手掛りとなる彼女を残して木ノ葉隠れの里から手を引くなどという愚挙をするはずがない。手掛りなど出ようはずもないというのに。
しかし、忍の世界に疎い大名らはダンゾウの言葉に耳を傾け、あまつさえ賛成の意を示さんとしていた。
イタチは彼女の人間性や、これまでの里への貢献、そして不審な行動が一切に見受けられなかった点などを提示したが、ダンゾウは、それらは友人関係という誤謬が含まれているとしながら、更には自身がかつてイタチの上司だったという事を理由にイタチが冷静な判断が欠けていると、議論の余地を残さないように立ち回った。
故に、イロミの身が自由になるのに条件を付けられたのだ。
暗部の者の監視が絶対であるということ。
特別上忍としての地位を剥奪し、中忍として活動すること。
万が一にでも不穏な動きがあったとされるならば、捕縛し、尋問を行うこと。
それらを折衷案として、大名は決めてしまったのだ。
沈黙するイタチに、イロミは呟いた。
「ダンゾウは、イタチくんが部下だったという事実だけが欲しかったんだ。今後、君が何かをしようとしても、大名に自分のこれまでの立ち位置を示せば、強引な言葉でも押し通せるし、君の言葉も抑え込むことが出来る。フウコちゃんを追いかけようとする君を見て、そうしたんだ」
「……いずれ、ダンゾウを抑え込めるようにする。だから、もう少し時間をくれないか?」
「イタチくんは、どうして火影になったの? 私だけを助ける為じゃないはずだよ?」
イロミとナルトを助ける為。
それは、あくまで火影になった一工程。
あくまで目的は、フウコを助けること。いや、全てを助けること。
だからこそ、イタチにとって、イロミが木ノ葉隠れの里を出ていくというのは看過できない事だった。
「私はね、イタチくん」
イロミがデスクから降りた音が耳に届き、イタチは彼女を見た。
木ノ葉崩しに参加した時と同じ、大きな黒いコートを着ている。新しく、彼女が作ったものだ。目元を隠す長い包帯。それを、彼女は解いた。
「苦しくない訳じゃ……無いんだよ?」
長い前髪。その奥に、月明かりを反射させる、翡翠の瞳があった。
牢に捕らえられていた時にずっと、彼女は呪印のコントロールを行おうとしていたらしく、彼女は自分の身体を、文字通りに自由に動かせるようになっていた。眼球は、捕食してしまった者たちの細胞を運用して、新しく作ったのだという。
その眼の下には、涙の跡があり、それを追うように涙が溢れていた。
「本当は、木ノ葉から離れたくない。君とも、サスケくんとも、色んな人とも。だけど、そう言ってられないのが、今の状況」
さようなら。
イロミの精神世界で彼女が最後に呟いた言葉。
あの時から、既に彼女は決めていたのだろう。部屋に入ってくる前から、イロミの顔には涙の跡があったのは、牢の中で溢した涙なのだろう。
これまで怒っている時に流していた涙は、今は、決意と悲しみが混ざった涙を流していた。
「私が、間違っちゃったから……。それを都合よく無くすなんて出来ない。でも、私はそれを利用する」
意思を固めるように、イロミは自分の胸に手を当てた。
「犯罪者の私は、木ノ葉で誰よりも自由な身。家族ももういない。失うものなんて何もないの。だからこそ、私はフウコちゃんに誰よりも近い位置にいる。私に監視や拘束がついてからじゃ、フウコちゃんから遠ざけられる。それじゃあ遅い。遥かに遅いの。フウコちゃんの時間が持たないなら、私が近付いて時間を持たせる。そのためには、今しかないの。誰の拘束も受けていない今しか」
「君の言いたい事は分かる……。だが……」
その後はどうする?
フウコ一人でさえ、うちは一族を滅ぼした罪を帳消しにする事に光明が見出だせていないのに、そこにイロミも加わるというのは。それに、自分の立ち位置は火影だ。家族と友人を一人ずつ里に帰還させる。それは、どのような題目を掲げたとしても、不信を抱かせる爆弾となる。
それこそ、他の一族がクーデターを考えるような事態に繋がる可能性もある。
「私とフウコちゃんは、もう木ノ葉隠れの里に戻れなくてもいい」
イロミの言葉に、イタチは息を呑んだ。
「だって、木ノ葉の外にいても中にいても、私とイタチくんは友達でしょ? フウコちゃんとイタチくんは、家族でしょ? なら、場所は関係ない。ずっと、ずっとだよ。だから、イタチくん。私を、行かせて……そして、私達に追いついてきて」
真っ直ぐとこちらを見つめるイロミの眼には、涙の他にも強い光が宿っている。全てを投げ出した訳ではない、確固たる意志が。
アカデミーの頃とは違う。
涙目のままにフウコに付いていっていた彼女ではなく、自分の意志で駆けていこうとしている。
止める事はもう出来ない。
いや、イタチの中では、彼女を止めようという考えは殆ど無かったと言ってもいいかもしれない。あわよくば、といった、軽い期待だけ。むしろ期待以上の答えが来てくれた。
真っ直ぐな意志。そして、ヤケになっている訳ではない、という考えを。
安心して──悲しい、安心だが──彼女を見送れる。
イタチは優しく微笑んだ。片目に涙を浮かべて。
「分かった。必ず追いつく。それまで、時間稼ぎを頼む」
「任せて。私のよく分からない根性、見せてあげる」
「もしもサポートが欲しい場合は、言ってくれ。手段は任せる。フウや自来也様、綱手様には事情を説明しておこう。サスケにも。そうすれば、君とのコンタクトは難しくないはずだ。火影の力を使って、出来る限りの事はしよう」
「サスケくんとフウちゃんは怒るかもね。その時は、お願い」
「君の意志は伝えておく」
「えっと、うん、あはは。一応、会うのは、里の中では最後ってなるのかな? まだ数日は牢に入って準備をするけど」
「かもしれない。もう、牢に近付くことはしないだろう。何度もしていると、ダンゾウに怪しまれる。いや、君とフウコが里に帰ってこれるように尽力するつもりだ」
「そうなんだ。じゃあ、期待しておくよ」
「していてくれ」
「それじゃあ」
「ああ」
「またね、イタチくん」
「また」
明日、と。
何気ない毎日の終わりに使う言葉。
その言葉だけを必死に呑み込んだ。
そしてイロミは牢の中で準備を行った。
木ノ葉隠れの里を抜ける準備と、更に──ダンゾウと対峙する為の準備を。
奇しくも、その日は。
ナルトが木ノ葉隠れの里を出て行った日だったのだ。
次話は9月中に投稿したいと思います。