ビルの屋上、そこにある貯水タンクの上にしゃがみ込む一人の男がいた。紅と薄灰色のボロ布を目元と首元にそれぞれ巻き付け、一本の刀を背負っている男の名はステイン。昨今、巷で話題のヒーロー殺しその人だ。
世の多くの人が個性という名の超能力染みた力を持つようになった超人社会で、一職業へと成り下がったヒーローという偶像が許せず、平和の象徴として君臨しているオールマイトのような本物以外はいらないと、通り魔紛いの辻斬りをヒーロー達へと仕掛けている犯罪者――
幾人もの命を奪って止まる事も無く、今日もまた、犠牲者を増やそうとしていた。
「ハァ……何の用だ」
動こうとした瞬間、ステインは自らの後方に立つ男に気付き、立ち上がる。振り返ったそこにいたのは、どこにでもいそうな平々凡々とした見かけの青年だった。スーツを着てネクタイもきっちり締めていて、街中で見かけたならば、次の瞬間には忘れてしまいそうな没個性の青年。
異常だ。印象の薄さも気配の薄さも、そして、ステインに一切悟らせる事なく背後に立ったという事実も。
「いやいや、本当なら
「……何者だ……
「ふむふむ。彼らとすでに接触済みでしたか。そしてその様子では所属している訳ではなくむしろ交渉は決裂しているようですね。それも「もういい、死ね」」
喋るだけ情報を持っていかれる。そう判断したステインが問答無用で斬りかかるが、その寸前で男が
即座に飛びのいて屋上へと着地したステインを見送る男を訝しげに見やり、先日重傷を負わせた
「瞬間移動、か……ハァ……面倒な相手だ」
「手品の種は」「ご想像に」「お任せしますよ。酷いですね、いきなり斬りかかるなんて」
「本当に……ハァ……面倒な奴だ」
にこやかに話ながらまるで散歩するかのように背後に現れいつの間にか手にしたナイフを向けて来た男に斬りかかり、しかし無傷で再び別の場所へ現れた事で傷一つ与えられなかった事を
加えて、遊んでいるような気配があからさまに伝わってきていて、言動や妙に大げさな仕草も相まって最大限の苛立ちを与えて来る。
それに対してナイフを弄んでいる男はやれやれと一見隙だらけな仕草で首を振り、肩を竦めた。
「本当は行き掛けの駄賃として首を狩っていこうと思ったのですが、これは考えていたよりも時間がかかりそうですね。どうですか、私の為にもその首ちょっと落とさせてくれたりしません?」
「……ハァ……その問いに一体誰が頷くんだ」
「デュラハンとか抜け首とかですかね。あ、ため息付くと幸せ逃げていくらしいですよ?」
誰のせいだ。ステインは口に出かかった言葉を呑み込みつつ、目の前の男を撒く算段を考える。しかし、実行の気配こそ感じられないものの、目の前の男が己を殺しに来ている事は間違いない。有象無象のヒーローモドキが蔓延る世界を正すためにも、無策で背を見せて殺されてやる訳にはいかなかった。
そうして警戒していたからだろう。男が目の前にいるにも拘らず走った悪寒に従って前へ跳んだステインは、右の脇腹に走った痛みに驚愕を覚えつつ、左へと逃れた。そして男がいたはずの場所を見れば男はおらず、先ほどまで立っていた位置でナイフを血に濡らす男が意外そうにこちらを見ていた。
「おや、今のはそこそこ本気で行ったのですが躱されましたか。参考までに何故気付けたかお聞きしたいですね」
「残像、いや、直前まで確実に動いていた。瞬間移動じゃないな」
「素晴らしい観察力ですね。無名だったならスカウトしていたかもしれません。惜しい事です」
「……分身、カウントレス、だったか」
「本当に……惜しいですねぇ」
ステインの呟くような声を聞いた男の声に、初めて感情らしい色が乗った。同時に、二人の立つビルだけではなく、周辺の全てのビルに無数の影が現れる。その全てが、ステインの目の前に立つ男と瓜二つであった。
それを見てステインが思い出すのは、オールマイトが活動を始めたのと同時期に活動を始め、オールマイトの影に埋もれるように新聞の片隅で死亡記事が載せられていた無名と言って良いヒーローだ。数度記事で見かけ、そこに決まって無数の同じ顔というインパクト抜群の写真が付随していたヒーローだった。
誰もが諦めるような火災に単身突入して逃げ遅れた子供を救って脱出するような、悪くないヒーローだった。
「……ハァ……」
「おや、ヒーローが何故~とか聞かないんですか?」
「今お前はここにいてこうしている。それが全てだ」
「潔い割り切りですね。こう見えてうじうじ引きずるタイプなので羨ましい限りです」
「無数に出て来るなら、尽きるまで殺す」
話は終わりとばかりにステインは弾かれたように跳び出す。高速で突き出された刃は笑みを崩さない男を確かに中心に捉え、しかし血の一滴も流させる事なく消え去る。
入れ替わるように現れた男のナイフを軽く跳躍する事で回避して、その先を狙った他のビルから飛んできたボウガンの矢を切り捨てて別の男を迷わず斬り捨てる。今度はそのまま背後に現れた男も含めて周りに詰めて来た男達を薙ぎ払って、しかし刃が届くよりも先に消えた男の先に矢を見て伏せるように回避し、ロケットのように低空を跳んでしかしその先にいる男ではなく数歩分横に立つ男を無理矢理に体を捻って斬りつける。それでも刃に血が付いていない事を確認して、出来上がった空白地帯の中心でステインはため息を吐いた。
多数のヒーローを葬って来たステインを持ってして、目の前の男は未だ傷一つ受けずに対応しきっている。加えて、今まで相対してきたヒーローと違い、本気で殺しに来る相手との戦いはどうしても精神を削って来た。このまま行けば、消耗した自信が殺されて終わるのは想像に難くない。
しかし、やはり単純な戦闘能力においてはステインの方に軍配が上がるようで、血の一滴でも奪えれば、凝血の個性を持つステインならば逃走も不可能ではない。そう判断できた。
それを見透かしたかのように、男の一人が口を開く。
「戦闘力ならばこちらが上だから逃げる事は難しくとも可能、なんて考えていますね?」
「……会話をする気は無い」
「ええ。喋ればそれだけ情報を抜かれるのですから良い判断です。が、残念ながら時間切れのようです」
何を言っている。そう返そうとして、気付いた。自分を囲んだ男達。同じ顔、同じ服装、同じ武器。そんな連中の中、最前列に少女が立っていた。黒いスーツの男の中で、目立つような白いワンピースの少女。何故気付けなかったのかと思う間もなく、ステインは少女に捕らえられていた。
どうやってかは不明。しかし少女の両手が鈍色の板となってこちらに伸びている事から、自身を拘束している金属らしき
自らが捕らえたステインには目もくれず、少女は不満そうな顔で男の方を見て頬を膨らませた。
「ジョン、遅い」
「すみません。思ったよりも良い動きをしたものでして」
「九埜鬼屋のウルトラデラックスパフェなら許す」
「そんなご無体な。今月厳しいんですよぉ~」
当人にとっても
覗きの気配が去ったのを確認して、情けない顔をして少女に縋りついていた
「ようやく嫌な視線が無くなりましたね。おそらく奴か奴の子飼いでしょうが、私達に気付いてなお動くかどうかは半々といった所でしょうか」
「ヒーロー殺しを放置すればほぼ確実に動いた」
「リストの対象を意図的に見逃すのは規定違反ですよ。殺れる時に殺る。そうしなければ犠牲者が増えるだけです。私達が指定された
「分かってる。それより早く戻って待機。暑い」
物騒な会話を交わしながら二人の立ち去った屋上には戦闘が行われたような跡はおろか、ステインの流した血の一滴も残されていない。今から誰かを連れて来ても、ここで人が一人死んだ事は分からないだろう。
ヒーローでも警察でもヴィジランテでもない闇の治安維持組織は、今日も誰にも知られる事無く闇の住人を闇の中へと葬っていく。それはこれからも、知られる事無く続いていくだろう。
「あ、驕りは冗談じゃないから」
「えぇ……いや分かりましたよ奢りますよ。ハァ……今月ホントにピンチなんだけどなぁ」