ファンタスティック・アカデミー!【異世界×大学物】 作:丸いの
「こちらのスペースは各研究室のメンバーが各々事務作業をするための場所となっております」
研究棟と事務棟、講義棟を一つの建物に押し込んだこの建物は、階層ごとに完全に役割を変えて運用されている。一階には講義室と事務室を置いて、二階以降は研究室のみを配置している。極端といえば極端ではあるが、教育兼研究施設として大学を見たときに最低限必要なものが一か所に揃っているから、エルトニアでの第一号棟としてみれば実用的にも試験的にも悪くはない。
今はあくまで試験期間ということなのだろう。現在エルトニアに籍を置く人員はまだまだ少なく、学生の数なんて研究室が運用できる最低限しか揃っていない。一方で施設側にはより多くの人員が入っても余裕があるように出来ている。そんなわけで本来なら大きい研究室が占有しそうなこの部屋には、現在複数の研究室のメンバーで共用して使っている。エルトニア大学計画の上層部は複数の研究グループが一同に集うことで議論が云々と謳っているが、あれは多分建て前だ。
「この時間帯はこちらではなく実験室側の方が人が多いですね。実験室の方は後ほどご案内いたします」
横長の居室の先に走る廊下を挟んで、広めの実験室がフロア奥の一帯を占めている。ガラス窓を介して向こう側の景色を覗くと何人かが作業している様子が垣間見える。
「ここにいる者達はこの学園の生徒なのか?」
「もちろん生徒もいます。しかし私のように教職員の一部もこの部屋に席を持っています」
周囲を見回すトロス卿の質問にそう答える。そもそも今彼が立ち止まっているデスクは助教である僕のスペースだ。就職記念に新調した最新鋭のノートパソコンに加えて、学生時代から引き継いだ専門書籍やら資料をミニ本棚に並べた、小さいながらも立派な我が領土だ。エルトニアに来てまだ数週間ではあるが、この机へ順調に根を伸ばしつつある。
「なるほど……教師と生徒が同じ場所で勉学を共にするのか。私の母校の魔術科と似たような形態か」
「教師といっても、どちらかというと教育を補助するスタッフです。いわゆる先生と言われる職員は、別途専用の部屋が用意されています」
ちなみに平塚先生も教授室を個人持ちする一人だ。エルトニア大学計画に参加している人員は、三割程度が教授や准教授といういびつな配分である。そのため集団居室に席を置くメンバーの数を考えると、教授一人で占有された部屋の数は明らかに多すぎだと感じる。
「このように、この部屋では教職員と学生が共に研究生活を送ります。そのため学生同士だけでなく教職員も交えた議論が起こりやすい環境です」
視察団たちが立つ居室の入り口付近は、僕たち平塚グループの場所となっている。各グループを隔てるものは精々が机に備え付けられたボード程度であり、現状仕切りなんてあってないものだと思って差し支えは無い。そもそも平塚先生を除いた平塚グループの人員は僕と藤沢さんのみといった驚異の身軽さである。そうなれば必然的に他のグループとの連携を取らなければ研究活動の続行すら怪しくなる。そしてこれは僕らのグループに限った話ではなく、どこもかしこも似たような状況に置かれている。議論が行われやすいとは言うけれども、実際は提携しなければやってけないという事情もあるのだ。
そんなわけで現在ライル殿下が立っている横に置いてあるホワイトボードには、よく雑多な情報やら議論の痕跡が書きこまれているのだ。ちょうど昨夜に藤沢さんと隣の研究グループの学生を交えて簡単な議論を交わした跡が、数式やら図形やらといった形で残されている。
「先ほどは生徒達は授業を受けていたが、ここの生徒たちは違うのかい?」
「もちろん授業を受けなければいけない学生はいます。しかし学年が上がると授業ではなくここでの研究がメインとなります。先の講義のような大規模の物ではなく、より小さな単位で教育を行います」
「ほう!! 私もトロス卿と同じくエルトニア王立騎士学園の出だが、あそこの騎士科は学年が上がると小隊に入るのだよ。小さく分かれるという点では共通しているな」
無表情で周囲を眺める主に代わって、本来ならば護衛に徹するものかと思っていたハスキーボイスな騎士さんが興味津々といった様子で質問を問いかけてきた。革を基調とした儀礼用のお洒落な鎧ではあるが、騎士だけあってご立派な長剣を腰に下げている。こんな状態で実験室へ案内したら、鞘の先端が引っかかって物品や機器をはっ倒しそうで非常に怖い。
しかしこの騎士さん、ライル殿下とは対象的にこの見学会を満喫していらっしゃる。場の空気を盛り上げてくれるのは非常にありがたいが、出来れば僕には全く意図が見えないライル殿下をどんな形でもいいからリードしていただきたい。
「研究室での基本的な生活サイクルは、実験室で実験を行い、こちらの居室で事務的な作業を行い、そして勉強会や発表会を定期的に行ないます。一見すると単純なサイクルですが、こうした積み重ねの中で新たな研究者を育成していきます」
授業風景から研究フロアでの説明に移行してから、見学者の二層化はより顕著なものとなった。より活発に研究棟を観察したり質問をしてくるトロス卿を中心とするメンバーたちに対して、儀礼的な質問すら行わなくなってきたライル殿下の一派。後者の一団の狙いが分からないし、立場が王族という下手にさわることも難しいこともあって、正直流れに任せるしかなくなってきている。
「それでは続いて実験室の方へご案内いたします」
何らかの行動を起こす気配がないライル殿下たちがいつ動き出すかは分からない。しかし見学会の予定が半分以上過ぎたことを考えると、そろそろ何らかの変化があってもおかしくはないだろう。内心気を引き締めつつ、なるべく表情に変化を出さないようにして視察団の先頭に立った。
騎士に貴族、そして王族。居室の机の間を縫って歩き出すこの一団は、それはもう珍妙な見た目に違いない。この見学会の最中ずっと机の前で作業らしきことをしていた数名の学生も、時折こちらに視線を向けている。まあ絶対に気にするなというのは無理な話だ。異世界というのはぶっ飛び過ぎているから置いておくとして、王族や官僚が視察に来ているだなんて早々ないことである。しかし出来る事ならば自分も彼らのように外野でこの光景をわき目で眺めていたかった。
廊下を挟んで向こう側の実験室は、外側から様子が見て取れるように廊下との間は強化ガラスで仕切られている。数週間見続けたおかげで僕にとってはようやく見慣れた景色となっているが、ガラス窓の奥に大小たくさんの計器が並んでいるのは、初めて見る方々には新鮮なものに違いない。
平塚先生が話す所によると、去年の暮あたりにエルトニア計画に参加する研究室宛てに大学側からどのような計測機器を新たに導入したいかを問われたそうだ。試しに使いそうな機器を片っ端からおねだりしてみたところ、驚くべきことにその要望の過半数が通ったらしい。お陰様で測定のために東京にしょっちゅう舞い戻るなんてことは無さそうだし、異界のど真ん中でありながら設備の充実さは国内でもぴか一というよく分からない状況になっている。
「ここから先が実験室となります。事故や怪我を防ぐために、機器へ不用意に触れないようお願いします」
特に騎士さんの剣を見つめながら念を押す。八桁単位の金額を要する設備がポンと置いてある部屋だ。正直新入生ならばまだしも完全な部外者をこの中に案内するのは気が引けるが、上から頼まれたのだから断るわけにはいかない。扉に掲げられた関係者以外立ち入り禁止の文字は、まったくもって同意であるけれども。
「なんだ……この部屋はかなり五月蠅いな」
「常に何らかの機械が稼働している状況なので、このレベルの音は常時響いています」
「よくもまあ、こんな状態で作業が出来るものだ」
実験室に入って露骨に顔を顰めたライル殿下は、周囲を見回しながらため息を吐いた。彼の言うとおり、稼働している実験機器からは駆動音の他にも付属の真空維持装置やら冷却器によって決して小さくはない音が鳴り響いている。何年もこんな感じの空間で過ごしたせいで気にはしていなかったが、確かに言われてみればうるさい気もする。
部屋をぐるりと見回すと、居室よりはやや人口密度が高いか。やらせというわけではないが、お偉いさんを招いた見学会を行うことは研究メンバー全員に周知してあるため、普段以上に黙々と実験をしているような姿勢でいてくれた。別にまじめに実験しているような雰囲気を醸し出せだなんて告知は出ていないだろうが、やはりそこはきちんとそれっぽい様子を見せてくれているのだろう。
「この時間帯は多くのメンバーが各々の実験を行っています。先ほどの部屋と同様、それぞれが自分のスペースを持ち、意見交換も行いやすい空間です」
そして実験室の真ん中らへんにある自分の実験台の近所、というか隣では黒いセミロングヘアーな後姿の学生が実験を行っている。無論、本日も外部見学者のために黒いかつらで変装をしている藤沢さんである。彼女には実験っぽいことをしててねと直接伝えてあったが、真似ではなく普通に実験をしているようだ。
「また本学が保有する実験設備は、日本でも有数のレベルにあります。たかが学生と侮るなかれ、この場では学生を含めた全てのメンバーが、国内どころか世界各国を見ても最新鋭の研究を行っているのです」
「研究というと、学者が先導して行い、魔術科の学生はあくまでその補助に回るのがこちらの常だが、国が違えばこういうところも違うのだな」
「本学のカリキュラムは研究者を育成することに特化していますからね。学年が上がると、集団で授業を受けるスタイルから少人数単位で教師の下について専門分野研究に移行し、研究者として育成していきます」
トロス卿に説明をしながらわき目でライル殿下の様子を伺うと、どうやら先ほどまでとは違う様子が見受けられた。ひたすらに無感動で無表情といった様子を見せていた彼は、実験室に入ると僅かではあるが辺りを見回したり、少しだけ歩き回ったりしている。ここにきてようやく変化が表れたということは、そろそろ今日に無理やり見学会をねじ込んできた彼の目的が分かるかもしれない。
「当研究グループは自然環境に目を向けた研究を行っています。学生はそれぞれ研究テーマが与えられ、私たち教職員がサポートをする中、問題の解決へ向けて自主的に勉学研究共に励んでいます」
「生徒の自主性を重視する環境であるならば、貴校で学ぶ我が国の優秀な学生たちも間違いなく飛躍するだろうな」
「ええ、必ず育て上げてみます」
満足げで頷くトロス卿にホッとした。今日の視察団の中にいる二人の大貴族のうち片方を満足させられたのだから、肩の荷も少しは軽くなる。
「今まで話でしか聞いてはいませんでしたが、存外異世界の学園というのはかなり良い環境ではないですか」
「……そうだな。確かに悪くはない」
「この見学会、殿下からの急な持ちかけで驚きましたが今の内に視察を行えるのは良い経験ですよ」
この学校に在籍した年数が前世含めてかなりの期間に及ぶからか、トロス卿とライル殿下の会話を聞いているとまるで自分が褒められたような気がしてしまい思わず顔が緩んでしまったが、すぐに会話の違和感に気が付いた。今回の見学会の発案者はてっきりトロス卿なのかと思っていたが、彼らの話を信じるならばどうやらライル殿下から持ちかけたようだ。
ここまで見学会の中で興味のなさそうな風を醸し出していたライル殿下が主導であるとすると、彼の目的は見学会の内容ではなく、見学会を開催することそのものなのかもしれない。そこにどのような意味があるかは分からないけれども。
「私も少し知りたいことがあったからな。それに話で聞くのと目で見るのは違う。渡来人の実状はきちんと己の目で把握するべきだ」
そう言い終えたライル殿下は、一人で勝手に実験室の奥側へ歩みを進め始めた。一瞬だけ何をするつもりなのかなと見送ろうとしてしまったが、ここには毒物やら使い方次第では簡単に壊れるものやらが溢れている危険な場所だ。何も知識がない人間がスイスイ歩くだなんて危険過ぎる。
「あっ、ちょっと!!」
「おい……お前。それはいわゆる実験というものか?」
慌てて追いかけようとしたところで、彼は手近な場所で実験を行っていた学生に話しかけた。見学会のメンバーに意識を向けずに実験ノートへ熱心に書き込みをしていた学生――藤沢さんは、実験机の隣に立つライル殿下の姿を見つけると遠目に見ても分かるぐらいに驚きの表情を浮かべた。
「ええと……現在行っている実験の手順や様子について、このようにノートへ纏めています」
「ほう。学生というより最早学者だな。わざわざエルトニアまで赴いてまでご苦労なことだ」
藤沢さんに限らず、この実験室で作業をする面々は、背後で僕が先導する見学者の一団が居ることくらいは転寝でもしていない限り分かっていただろう。しかし生徒の方に飛び火してくるとはあまり予想もしていなかっただろうし、そもそも僕が話題を振るのではなく参加者自ら話しかけてくるだなんて想定の範囲外だったのだろう。今まで自分の実験卓に向かい合っていた学生や同僚の助教さん達が、ライル殿下から話しかけられた藤沢さんの方をこっそりと振り向いていた。
一方の藤沢さんは、いきなりの質問に慌てた様子は見せたものの、すぐに気を取り直したように受け答えをしていた。
「渡来人からすれば未知なる土地である我が国だ。研究ならばニホン国でも可能だろうに……お前、なぜこのエルトニアに拘ったのだ?」
「……自身の研究を続けられる場所がこのエルトニアへ移転した研究グループだからです。そしてエルトニアの生徒達の成長にも携わってみたいという希望もあります」
ライル殿下の質問に対する答えは、突き詰めてしまえば指導教官が何故かエルトニアに飛ばされることになってしまったからということである。場所がエルトニアという異世界の国だけに複雑なように思えるが、普通教授が他大学やら他の研究室に異動する際は下についている学生も一緒についていくものだ。
藤沢さんもそういう経緯で東京からエルトニアへ異動をしたに過ぎない。それをよくもまあ、短時間できっちりと簡潔かつオブラートに包んで説明出来たものだ。
「そうか……どこまでいっても学問、か」
藤沢さんの返答としてはベストに近いものであったと思う。しかし相対するライル殿下の表情こそ見えないものの、ぼそりと小声で呟かれた言葉のなかからまるで彼女の返答が期待外れであったかのような雰囲気が感じられた。なまじ藤沢さんに話しかける直前までは今日の見学会においてもっとも心情が上向きに見えただけに、妙な落差のようなものが感じられる。
「お前、名前は何という」
「……藤沢レナです」
「藤沢、か。私はライル・フランシス・エルトニアだ。邪魔をしたな」
本来ならば腹違いとはいえ姉と弟の会話だというのに、このよそよそしさだ。ライル殿下が藤沢さんの正体を知らないだろうから仕方がないのだけど、僕とレシルの関係とよく似た境遇であるからか、見ていると非常にモヤモヤとする。
トロス卿を含めた見学者の面々がいつの間にかライル殿下と藤沢さんの会話に耳を傾けている中、彼女にもう用はないといった様子でライル殿下は僕の方へと戻ってきた。彼の顔は結局実験室に入るまでと変わらない、無表情でつまらなさそうな様子へと戻ってしまっていた。
「すまない。少し手間を取らせた」
「いえ、構いません。ただし実験室は細心のリスクマネジメントを行っていますが、それでも危険な物等がありますのでくれぐれもご注意ください」
一応ライル殿下にくぎを刺してみても、特に反省したり腹を立てたりする様子もなく、ただ淡々とした様子で見学者の一団に戻ってきた。
「それでは次に本校舎の設備についてご説明します」
ここでライル殿下の目的が掴めるかと期待をしていたが、彼の取った行動の中で特出するようなものは精々結局藤沢さんと二三言葉を交わした程度。結局何も分からず仕舞いのまま、視察団を引きつれて実験室を後にするしかなかった。
* * *
「本日は長らくお付き合いいただき、ありがとうございました」
「我々こそ急な申し出の中、案内を感謝する」
授業風景、研究フロア、新校舎の施設等々。通しで説明するには少々過多なものではあったが、正午を過ぎる前に無事粗方の紹介が終わった。
「貴校の技術面の革新さは当初から聞き及んでいたが、教育の行い方にも新しさがあった。母校から講師数名を連れてくるべきだったよ」
「本学がエルトニアに進出したのは、科学を単なる新しい技術だけでなく教育としても見て欲しいという意図があります。皆様に視察をしていただくことも、我々にとっては非常に重要なことなのです」
いたく満足した様子でトロス卿と川崎さんが握手を交わした。商業大臣という肩書からしてエルトニア国民の教育事情については門外漢なのだろうが、それでもここまで話に引き込めたというのは上々だ。この見学会が電撃開催だという事実を除いたならば、本学としては何も不満は残らないだろう。
しかし僕個人としては現状だとわだかまりが残る。この見学会で川崎さんと共に司会を務める中で、終始不明なままの謎のおかげで随分と精神的に疲れてしまっている。そしてそれは見学会の閉幕である今も変わらない。
「私からも礼を言わせてもらおう。今日の見学会は、私にも皆にも非常に良い経験になった」
未だに表情が読み取れない青年が、この見学会の最中ずっと肩の重石になり続けていた。見方によっては常に冷静沈着で我を崩さないようにも捉えられるが、それにしたってライル殿下は見学会を通して浮き沈みが少なすぎた。
今も淡々とした様子で閉会の挨拶を述べているが、そんな彼が主導となって今回の見学会を無茶言ってねじ込んだのだから不思議な話だ。先日レシルと会っていた時に遭遇したときのライル殿下の様子から、もしかしたら見学会を口実に何らかの問題を起こしに来たのかと思えば、別段そういうわけでもなく。
「それでは、今日の見学会を終了させていただきます。夏に行われる本学の中間報告会も振るってご参加ください」
川崎さんの挨拶と共に、見学会に参加した役人から拍手が鳴り響いた。隣で参加者に対して深くお辞儀をしている川崎さんと同じく、僕も頭をペコリと下げた。
結局ライル殿下は何かをしでかすこともなく、見学会は何とか終了した。エルトニア王国立魔法騎士学園の正門に続く道へ歩き出すトロス卿の後には、他の役人たちも何らかの会話をしながら続いていた。
「平塚さん。本日はお疲れ様でした。無理を言って協力をお願いしてしまい、すいません」
「いえ、紹介する内容は僕たちのホームグラウンドですし、そうなれば若手の僕が司会を行うのが当然です。川崎さんもお疲れ様でした」
未だにライル殿下を含む数名の参加者は正門方面に向かわずに新校舎の外観を眺めている。この建物は学園区の他の建物と比べてそんな変な見た目ではないだろうが、逆に外観と内装の差が激しいから不思議に見えるのかもしれない。
「それでは上部に報告をしてきます。後の処理は私たちにお任せください」
ペコリと一礼をした川崎さんは、近くに控えていた黒服のエージェントっぽい人を数名引きつれて新校舎の中へと戻っていった。さっきまで常に少なくない人数を引きつれていたから、周囲に人が居なくなって少しだけ安心をする。坂道を歩いて去っていく見学者たちを見送りつつ、ゆっくりと深呼吸を行う。
ふと腕時計に目を向けてみれば、やっと正午を回ったくらいか。平塚先生に緊急ヘルプを頼まずに済んだし、何事も問題は起こらず、川崎さんから聞かされていた通りの時間に無事見学会を終了出来た。数日前にいきなりこの見学会の予定を聞かされた時はどうなるものかと不安に思っていたが、終わってみればなんてことはなく、立場が強い位置にいるトロス卿を満足させることが出来たし成功といって差し支えはないだろう。
「ラボに戻ろっかな」
とりあえず藤沢さんや他の学生達に無事終了出来たと知らせに行かなければならない。僕や川崎さんだけではなく、こんな事態の中でも普段とあまり変わらない様子で実験室にいてくれた人たちも、今回の見学会における立派な功労者だ。新校舎のメンバー全体に送られた電撃見学会の知らせに肝を冷やしたのはみんな一緒だ。
伸びをしながら新校舎の自動ドアへ向かおうとしたその時、背後に誰かが近付く気配がした。
「待てフォルガント。いや、今はヒラツカだったな」
「……ライル殿下。どうしましたか」
振り向いてみれば案の定。高い背丈から見下ろしてくるのは、赤紫色の髪の毛を風で揺らしながら気だるげな様子で佇むライル殿下だった。取り巻きの役人やは引きつれておらず、護衛の騎士さんは僕たちから少し離れて佇んでいる。そんなわけで僕は今日初めて一対一で彼と面と向かって相対していた。
「なに、単に挨拶をしに来ただけだ。先日お前が教師と聞いて何の冗談かと思ったが、今日の様子では冗談ではないのだな」
「……ええ、まだ新人ですがね」
今日の見学会の最中ずっと警戒をしていたからだろうか、なんとかリラックスをしようとしてもライル殿下への警戒心を解くことが出来ずにいる。
「お前が案内人に選ばれるのは驚いたが……まあその方が都合が良かったのかもしれん」
「えっ……それはどういう……」
含ませるような彼の言葉に思わず一歩前に詰め寄ろうとしたが、ライル殿下は僕の質問に答える気はないと言わんばかりに踵を返した。
「……嘘を嘘と見抜けなかったのか、それとも嘘じゃないのか、結局分からず仕舞いだ」
思わず伸ばした手は当然のように空を切り、ライル殿下は騎士さんを伴って坂道を登る役人たちの後を歩いて行った。去り際に小声で呟かれたその言葉は辛うじてにしか聞き取れなかったけれども、間違いなく今日の見学会で一番本音が表れていて、少しだけ寂しげな響きを伴っていた。
* * *
ライル殿下が公式に国立東都工科大学のエルトニア計画に対して否定的な声明を出したのは、この見学会から一週間後のことだった。