ファンタスティック・アカデミー!【異世界×大学物】 作:丸いの
日没の遅い夏盛りの日であっても、流石に夜の10時となると日の明かりは欠片も見られない。夜間の王都リーヴェルは街道に最低限の魔導灯が設置されているだけで、基本的には眠らない街こと東京の夜よりも暗い空間が広がっている。しかし空気が澄んでいることもあって、晴れの日になると星の明かりだけで最低限の視界は確保できる程度には明るさがある。そして今日のように満点の月明りの下では、一層視界がはっきりとしてくるのだ。
交流会の終盤は、酒類を含んで良いあんばいに皆さんが賑わっていた。日本とエルトニア、双方の名酒が振る舞われたからか、どちらの方も割りと満足げにしていたのだろう。ただ、さすがに僕らが所属する学会の懇親会のような、良い歳したおっさんどもが大学生のようにはしゃぐような頭を抱えたくなる展開にはならなかった。さすがに相手方はエルトニアの貴族階級の皆様だ。無礼講を吹っ掛けるにも相手を選ぶ理性はこの場の人間は持ち合わせている。
この国における未成年の飲酒制限は、日本のような法律という厳正なルールに則したものではなく、酒に弱い人間や若い子供は飲まない方がいいというざっくりしたものだ。だから何回か顔を会わせたことのある騎士学園の生徒達が、日本酒のグラス片手ににこやかに話しかけてきたのも自然な光景である。大学計画に慎重な見方をする人々も酒が入れば皆朗らかになる。これぞ懇親会の醍醐味、エタノール様々だ。
「日中とは全然違う。まるで異世界だ」
新校舎を出ること数分、夜ということもありいくらか歩くペースを普段よりもゆっくりとしていたが当然迷うこともなく目的地についた。そして目に入った光景に、思わず誰にむけたものでもない言葉が漏れ出す。
夜間につき給水を止められた噴水は、静かに水面を揺らしながら月明りによってぼんやりと白いその姿を薄暗い空間へ彩る。月光で淡く光る、白を基調にした石畳の地面やその周囲に植えられた蒼い花。日中には溢れていた噴水の音や若者たちの声が取り除かれた広場全体が、周囲とは切り離された別の空間のように落ち着いた幻想的な雰囲気を醸し出す。
その噴水の縁に、目的の人物が腰かけていた。エルトニア王族の象徴たる赤紫色の髪の毛は、銀色の月明りの中まるでそれ自体が淡く光っているかのよう。もしその姿を日中のこの広場で晒そうものならば、間違いなく騎士学園の学生たちの注目を集めるだろう。しかしこの場には、僕と彼女の二人しか存在しない。星空を見上げていた藤沢さんは、僕の声に気が付いたのだろうか、こちらへと振り返った。
「あなたの言う通り、ここは異世界よ。何も間違っていないわ」
「……確かにね。まだエルトニアを知らなかった頃は、こんな世界は現実には存在しないと信じてた。いや、むしろそんなことすら考えなかったよ」
彼女の隣に座り、そして一緒に空を眺める。月の明かりが強すぎて星が見えないほどだ。地球と同じく、一つの月が満月の夜に街を照らす世界。しかしそこにある文化、人々、そして魔法と科学、どれもがまるで異なる価値観の中で時が流れてきたのだから、こうやって現実に存在する世界をふと立ち止まって見ると異世界であると感じさせられる。
「……来てくれたのね」
「何度も釘を刺されているのに来ない輩がいるか。ホットココア、飲む?」
「レイはそうやっていつもひねくれてるんだから。それと、ありがとっ」
適当に羽織ってきたパーカーのポケットから取り出した缶ココアを渡すと、藤沢さんはやれやれと苦笑いをしながら受け取った。リーヴェルの夏は日本よりも爽やかで過ごしやすい。夜にもなれば、少し肌寒く感じるくらいまで気温は下がる。下手すりゃ連日の熱帯夜で夜中に熱中症を起こしかねない東京とは比べるのも馬鹿らしい。ちなみにこんな全体的に過ごしやすいエルトニアの中でも、更に避暑地として知られる我が故郷エルドリアンは現代日本感覚だともはや日中ですら結構涼しく、日が沈んだら普通に寒い。先ほど川崎さんがエルトニアの存在を一般に公表すると言っていたが、もしそのまま彼の計画が順調に進むのであればいつの日かエルトニア各地は有名な避暑地となるだろう。
缶を開けるカシュっという小さな音が、僕たちの他に誰もいない噴水広場に響く。今日一日はずっと忙しかった。トラブルまみれの報告会は勿論のこと、あいさつ回りをする羽目になった懇親会でもなんだかんだ動き回る機会は多かった。会場の片づけを終わらせてここに来るまで、気が休まる暇はほとんどなかったのだ。甘めのコーヒーや紅茶とは違う強烈に甘みを伝えてくる味わいが、疲れた頭にはちょうど良い。
「……私、もう王族じゃなくなっちゃたんだ」
飲みかけのココア缶を片手に、藤沢さんがポツリともらす。思えばこうなるのは必然だったのかもしれない。最初から彼女はいつか昔の王女としての自分に対して決着をつけなければならないと分かっていたはずだ。曲がりなりにも近隣諸国の中でも力のある国の王女が、異世界の大学で普通の学生として過ごすという二足の草鞋は、二つの世界がつながった時からどうにかしなければならなかったのだから。
果たして、彼女は自分自身の決断についてどう思っているのだろうか。生まれながらに背負ってきたはずの王女ではなく学生という身分を選択したその意志は、並大抵のものではなかったのは想像に容易い。
「ものは捉えようだよ。ただの大学院生じゃなくて、元王族の学生という立場になったとも言える。もしかして、少しだけ後悔をしているのかな」
「まったくしていないと言えば嘘ね。私の今は王女だった頃の過去の上にある。だから、王族としてのつとめを果たさないまま身分を変えるのは、本当はあってはならないことだもの」
藤沢さんの反応は、想像の通りだった。まさか彼女が王族の特権を手放すことに躊躇をするとはとても思えなかったから。むしろ廃嫡を申し出ることによる周囲への影響を考えて、その影響力の大きさに一歩目を中々踏み出せないような人間だ。
「あくまで僕の意見だけど、後継者争いに加わる間に自ら廃嫡を申し出たのは英断だったと思うよ。その処理を自分の意志で行うことが、藤沢さんの最後の責務だったと言っても良い」
「……うん。レイにそう言ってもらっただけで、大分救われた気がする。ありがとね」
憂いを帯びながらもそう言って笑顔を向けてきた彼女に、僕は妙にこっ恥ずかしくなって顔を逸らす。すると何を勘違いしたのだろうか、すすすと彼女はこちらの顔を覗き込もうと距離を詰めてきた。
「今のは本心よ。私にはレイしか本当の意味で頼れる人がいなかった。だからそのあなたの言葉が、何よりも嬉しい」
「わ、わかったからっ」
何とか彼女と距離をとりつつ気を紛らわせようと手で目をこする最中、脳裏に浮かぶ藤沢さんの笑顔。月明りに照らされた、僕だけに向けられたそれが何故か離れない。実年齢じゃ甥っ子のような歳の差で、更にはこの娘にはライア王女曰く将来を誓った相手が居るのだ。そう何度か心の中で復唱している内に頬の熱が少しばかりは引いていく。同時にむなしくもなってくるが、そんなこと知ったこっちゃない。
「レイ、どうしたの?」
「なんでもないよ。本当だから、熱とかも出ていないッ」
今度は僕の額めがけて手を伸ばしてきた。なんか妙に今日はこの娘はアクティブだな、と頭の中の冷静な部分が冷めた分析をする。まさか風邪をひいていると誤解させるくらい、今の僕は紅くなっているのだろうか。確かに前世時と比べて地肌が白くなった分、顔色が少し変わればすぐに周囲にばれるということは傾向からして知っている。僕の言葉に少し頭を傾げた藤沢さんは、再びその手をもとあったところへと引っ込めてくれた。
「……私、今まで怖かったんだ。私と同じようにエルトニアへ色々なものを残していたレイがどんどん過去に清算をつけていくのに、私は一歩目すら踏み出せなくって。いつの日か、本当に置いて行かれるんじゃないかって」
僕は、彼女を置いて行こうなどとは一回も思ったことは無かった。ただ僕自身が、置いてきたはずの世界と対面し、現状打破のために足掻いた結果が今の状況だ。
藤沢さんの生い立ちが所以で絡まった事情を解決することに関して、僕は積極的に動いてこなかったのだと今になって思う。彼女の事情は複雑だ。だからまずは静置して状況を伺い、あわよくば時間が解決してくれていることが望ましいとすらも心のどこかで思っていた。僕が彼女にしてあげていたこと、それは全て現状維持に向けた協力に過ぎなかったんだろう。
「今の状況を維持する、僕はそれが藤沢さんの願いだと思っていた……でも、君はそういうことを願っていたんじゃなかったんだね」
「……踏み出すのが怖くて、今のどっちつかずの状況がずっと続けばいいって思ったこともある。でも本当はずっと、あなたと一緒にエルトニアへ向き合いたかった」
僕は、今まで彼女の本当の願いではなく、それに蓋をして隠していた表層だけを読み取っていたんだ。エルトニアを向き合うのが怖くて、だからなあなあで済ませられる日々を続けようという代替案。ふと、今日王宮に行く前に平塚先生からいわれたことを思い出す。優しさと甘やかしは別物だ。あの時僕は分かっているつもりだと答えたけど、その実何もわかっちゃいなかった。彼女の本心を読み取り、そしてお尻をひっぱたいてでも藤沢さんの本当の望みをかなえるための協力をする。それが出来ていなかったのだから、僕のやっていたことは結局のところただの甘やかしに過ぎなかったのかもしれない。
「今日レイがライルに連れていかれて、ようやく分かったんだ。もうあなたに甘えてばかりじゃいられない。それに、レイが今まで私を助けてくれていたように、私もあなたを助けなければいけない――いや、助けたいんだって」
「助けていたなんて、買い被りだ。僕は、何もわかっていなくてずっと見当違いのことをしていたんだよ」
藤沢さんのことを一番理解をしているのは僕だなんて、思い上がったことも考えていただろう。でも実際はそんなことは無かった。もしかしたら、既に平塚先生は彼女の本心を分かっていたうえで、僕がそれに気が付くまで敢えて黙っていたのかもしれない。自嘲するように額を抑えて首を振る。しかしその手が引き寄せられ、温かいものに包まれる。
「ううん。あなたは最後にこうして分かってくれた。それにレイが私のことを思っていてくれたことに変わりはないわ」
「で、でも、そんな――」
いきなり利き腕を藤沢さんの両手に抱かれたせいで動揺し、しどろもどろとした言葉が僕の意志を無視して漏れ出す。慌てふためきココア缶を咄嗟に噴水の縁に置き、そして立ち上がって体勢を整えようとした瞬間、グイと藤沢さんが掴んでいた腕を引き寄せた。バランスを崩しかけてよろめくのもつかの間、上半身が温かく柔らかい何かに受け止められる。
「……このまま話を聞いて。今顔を合わせたら、恥ずかしくて何も言えなくなっちゃう」
自分の今の状況を理解するよりも前に、耳元から藤沢さんの声が聞こえた。その声と共に耳にふりかかる彼女の細い髪の毛の感触、上半身全部に感じるやわらかさと温かさ、頭をくらくらと揺さぶるどことなく甘い匂いと胸に響く早いリズムの鼓動。背中にまで回された彼女の両腕がぎゅっときつく締まり、これらの感覚がより一層の存在感をもって僕の脳内から冷静さを奪う。
彼女の言葉に、こくりと小さく頷いて返す。この状況じゃ無理に振りほどこうとすれば二人そろって噴水の水だまりに落ちるかもしれない。それに下手に声を出そうとすれば、緊張のあまり上ずった声になるのは目に見えている。ああ、確かに恥ずかしいだろう。こんなゼロ距離で密着して抱き合うなど、双方の顔が見えるような立ち位置ならば互いに真っ赤な顔を見合わせているに違いないさ。先ほどの比ではなく熱を持ち始めた頬を藤沢さんにひけらかしたら、恥ずかしさでもう失神しかねない。今だって正直ギリギリなんだ。
「私は、もっとあなたを知りたい。そして、あなたにもっと私を知ってほしい」
焼ききれそうな思考の中で、一字一句が欠けることなく頭へと入ってくる。その言葉の意味は、僕たちの関係性を今よりももっと強いものにしたいということか。互いに周囲へは秘密にしていた出自を知っている特に親しい友達という間柄以上に強いものだなんて、そうそう在りはしない。普段であればそれは何のこっちゃと頭を捻ったかもしれないけど、その普段ではあり得ないような状況が思考の方向性でも捩じ曲げたのだろうか、幸か不幸か一個の可能性に思い当たった。でもまさか、そんなわけがあるはずが無い。だって彼女は――
「き、君には、将来を誓ったっていうお相手が居るって――」
「……呆れた。この期に及んでまだそうわけわかんない誤解をしているなんて」
考えていたことが思わず口から出てしまい、それを彼女は誤解であるとはっきりと言い切った。ならばライア王女が言っていた一人の男に操を捧げた云々は一体何――
「姉様は、私とレイを見てそう言ったの。あの時、正直少しだけ傷ついた。私は自分の気持ちがあなたに知られちゃったらどうしようって慌てたけど、本心ではレイがどう反応してくれるのかちょっぴりわくわくしてた。でも結局空回り。まさか第三者の可能性を出してくるなんて、本当にあなたらしいわ」
もうその言葉が答えだった。密着していたぬくもりが離れ、そして熱にうなされたように思考も何もまとまらない僕の目の前に藤沢さんの顔が現れる。ふとしたきっかけで触れ合いそうな距離にある彼女の顔には、ほのかに紅く染まりながら静かな微笑みが浮かんでいた。僕はただ呆けたようにその表情を見つめる。彼女が恥ずかしさに負けて目を反らすことも、僕がこの状況に耐えられなくなって視線を外すことも無く、早くなった脈拍の音だけが鼓膜の内側から聞こえているだけ。
静かに見つめあっていたのは時間にして数秒も無いだろう。でも僕にとっては、それがとてつもなく長い時間に感じられた。そして、意を決したように開く彼女の唇。
「私は、あなたのことが好きです」
好き、そのたった二文字のとても短い言葉がこれほどまでに胸をざわめかせるなど、なんという理不尽なことだろう。噴水の縁に腰かけているという体勢でも無ければ、そのまま力が抜けてへたり込んでしまっていたかもしれない。純粋過ぎる想い、その破壊力を止めることなんで出来やしない。何をどう答えたら正しいのかなんていう理性の判断が、まるでまとまる様子が見られない。
「あなたがたとえ先生でも、きっと本当は歳が大きく離れていても、私はあきらめない。もう自分の気持ちに目を背けない。私は、あなたが欲しい」
「ぼ、僕は……」
自分は一体何を言おうとしたのか。僕は先生なんだとか、本当は平塚先生と同じ歳だとか、そんなことはもう彼女は分かっている。じゃあこの開きかけの口は何のために声を出したんだろう。そうだ、僕が僕であり続けるための、何か確固たる言葉はないのだろうか――
「……レイも、今は本心を出して良いんだよ。研究者の平塚礼二じゃなくて、レイ自身の言葉を聞かせて?」
その瞬間、確かに何かが壊れたのが分かった。それが何かは分からない。でも、さっきまで何とか考え出そうとしていた自分を繕うような言葉の数々が、全て頭の中から消え去った。僕という人間を護ろうとして身に纏わんとしていた幾つもの壁が無くなり、そして優しく微笑みかける藤沢さんの顔がずっとずっと鮮明に目に映る。それが、不思議とすごく怖くて、そして嬉しかった。
「僕は……僕も、君のことが好きでっ、でもそれを認めたらッ、僕はッ!!」
僕は、"平塚礼二"じゃなくなってしまう。その一言が出てくるよりも前に、口を動かすことは出来なくなった。とてつもなく熱く、それでいながらほんのりと温かい感覚。目の前一杯に見える藤沢さんの顔、抱きかかえられる頭。彼女の顔が持つ熱が容易に伝わってくる。そして一瞬の遅れの後、驚きと多幸感をごちゃまぜにした震えが体中に伝わる。重なり合っていた唇と唇が離れるまでには、頭の中は真っ白になっていた。
「……やっと、あなたの本心が聞けた」
真っ白になった思考の中で、ふと瞼が熱くなる。その目じりを、藤沢さんの細長い指が小さく触れた。久しく味わっていなかった、泣くという行為。今はその切っ掛けや理由は自分でも分からない。でも、僕の目が涙を流し始めていることは、疑いようのない事実だった。
「ありがとう、そしてこれからもよろしくね」
彼女の胸に頭を抱きかかえられる中、そんな言葉が頭上から聞こえてきた気がする。一度流し始めてしまった涙はそう簡単には止まらない。だって、流している当本人が、何で流しているのかをよく分かっていないのだから。でもたぶん、自分の本心を自分で認めて、それを人に知ってもらうということはとても大変なんだということだろう。
再び"平塚礼二"となってからたぶん初めて、僕はまるで赤ん坊のように藤沢さんの胸の中で泣き続けた。