雨が、降っていた。
全てを失った少年は、死んだ様な瞳でぼんやりと空を見つめる。
(何か、大切なものを……なくした気がする)
何かはわからない。
ただ、
ぱしゃり、と水が跳ねた。
少年が音の方を見る。
「なにしてるの?」
女の子だった。青い髪の、青い瞳の、綺麗なひと。
「おれ、は────」
それは、始まり。
空っぽの少年が中身を創る物語を飾る夜。
名付けるならば、そう──────
そう呼ばれるモノがこの世界にはある。
それは、人の命を奪う
ノイズは触れた人間を命と引き換えに炭素に変え、元の死体も何も残さない。ノイズはいつでも突如として現れ、時間が過ぎれば世界に馴染む事なく炭素となって消えていく。
そんな、人間だけを殺すための様に存在するものだった。
あたかも、人類に対する天敵は己らだ、と示す様に。
そして、世界には、ノイズと対抗するための組織が幾つかある。それは、人知れず、時には公のものとして。
そして、日本にある組織は、前者。人知れずに平和を守るための組織だった。
特異災害対策機動部二課。通称、いや、蔑称
「ふぁーあ、ねむ……」
ぼりぼりと頭を掻きながら二課の食堂に現れる少年が一人。年の頃は小学生くらい。昨晩夜更かししたのか、トサカの様な寝癖がびょこんと頭から伸びていた。
寝ぼけ眼のまま朝食を頼み、渡された食事を持っていつもの窓際の席でパンをもそもそと齧る。
春の麗らかな陽気に可笑しなものはなく、ただ、そこに平和があることを知らせてくれる。
(ノイズなんて、出そうもないな)
朝ごはんを食べたお陰で次第に回り始めた頭で、自分のいる場所の存在意義をなくす様なことを考えながらパンをもう一口齧った。
「よう、また夜更かしか?」
「まあね、ちょっとデータ漁ってた」
どさり、と少年──戦兎の対面に、日本昔話の様な飯碗とおかず、そして生卵の幾つか入ったコップをお盆に乗せた赤スーツの巨漢が座った。
「弦さんこそ昨晩、資料室に籠ってたみたいだけど? 翼が寂しがるから帰るべきなんじゃないのー」
「む…………」
「あの子、大人びてる様に見えるけど、アレただ我慢するのに慣れてるだけだと思うけど」
またパンを齧って、それを牛乳で流し込む。そして、唇の端を釣り上げて笑ってみせると、戦兎の目の前の男が喉を鳴らす様に笑っているのが目に入り、すこし眉を寄せた。
「なんだよ」
「ふ、いや、戦兎も随分人をよく見ている。成長したな」
「別に、翼だからだよ。なんとなく、あの子だけは見とかなきゃいけない気がしてて」
「そうか、なんとなく、か。いい事じゃないか」
「……む」
向けられる眼差しが何処か気まずく、恥ずかしい。そんな戦兎の態度を見て今度こそ、隠す事なく大きな声で笑い出した。
そんな、巨漢を見て戦兎はよっぽど何か言い返してやろうかと思ったが、戦兎が翼を気にかけていたのは事実であったし、わざわざ否定することでもなかった。故に、黙っておくことにした。
(普段は普通の人なんだけどな、弦さん)
戦兎が弦さんと呼ぶ人物────風鳴弦十郎を、一言で表すならば、漢。二言ならば、英雄もしくは超人。もう少しばかり文字数を増やすならば『歩く憲法違反』と言ったところだろう。その拳は比喩表現なしで、空を裂き、地を破る。
しばらく互いに無言で朝飯を口に運ぶ。食べ始めたのは戦兎の方が早かったし、量が少なかったのも戦兎だったが食べ終わったのは弦十郎とほぼ同じだった。
「ごちそうまでした」
「ご馳走さん」
満腹になって一息つくと、二人の間に少し静かな時間ができてしまう。普段ならば、話す話題には困らない二人だが、タイミングの問題で話しにくい雰囲気になってしまった。
「あー、最近の研究の調子はどうだ、なんか面白いことあったか?」
弦十郎がお茶を飲みながら話を振ってくる。まるで、自分の息子との距離感の取り方のわからない父親が、取り敢えず『学校どうだ?』とでも尋ねる様に。側から見れば全くその通りかも知れないが。
「そんなに目新しいものは無いかな」
「そうか、まあ急くことでも無いだろうさ」
「まあ、そうだね。でも、さ」
水の入ったコップを覗き込む様に見れば、水面の鏡が自分の顔を写し出す。よく知ってる様な、あんまり知らない様な、そんな顔。
「調べれば調べるほど、わからないことが増えてくし、知れば知るほど自分が如何に無知かはよくわかる」
ソクラテスの言葉に無知の知という言葉がある。それは、真の知に至るには、自らの無知を自覚しなければならないという考え方だ。
これは戦兎の考えでは、自らの無知は学ぶ事によって強く知る様になるものである。
その学びの道は途絶える事なくひたすらに前へと繋がっている。
「それは、少し楽しい」
それをつらい事だ、と感じる人間もいるだろうが、こと戦兎に関しては、ひたすらに満たされることでもあった。
「そうか」
弦十郎の声に顔を上げると、薄い笑みを浮かべて戦兎を見ている弦十郎の顔が目に入り、またもや気恥ずかしい気持ちにさせられる。
「あー、やめやめ。この話やめ。とにかくっ、翼を寂しがらせないでくれ。俺が言いたいのは、結局そこんところだけだから」
「そこはわかったよ。戦兎の言うことも尤もだ」
「あと、給料出ないのに残業するのもやめなよ。バカ見るよ」
「ぐうの音も出んが、そうもいかんだろう」
「バカだね、弦さん。そんな事してるから婚期逃すんだよ。お見合いの話もいっぱいあるのに蹴っちゃってさ」
「ほう、声も変わらん小僧が囀るなぁ」
「あ、痛い痛い! 弦さんのアイアンクローはダメだって! 俺研究職の虚弱児だから骨折れるって!」
「安心しろ、俺もプロだ。危険はない」
「何のプロだよ!」
ぎゃーすかと騒ぐ戦兎に弦十郎が笑う。
「好きなように生きろ、戦兎。お前はきっと何にだってなれる」
「わかった! わかったから、頭が割れるように痛いっ!」
唯、ひたすらに強く、ひたすらに負けない、死なない。それが風鳴弦十郎という漢だった。
そして、霧生戦兎という少年を導く心強い大人の一人でもあった。
「先生、今時間ある?」
「あー、いい所に来たわね、戦兎くん」
戦兎が呼びかけると、眼鏡のバインボインな女性がにっこりと笑った。
「俺に何か用?」
「うふふ、これを見なさーい?」
「こ、これ! アメリカの聖遺物とフルボトルの研究データ! ど、どこから?!」
「ちょーっと、取引してね。欲しい?」
「欲しい! すげえ欲しい!」
「じゃあ、この前の実験データ、私の代わりに纏めてくれる? ちょっと予定が立て込んでるの」
「喜んで!」
話し方は快活かつ、浮かべる表情もコロコロ変わり明るく、弦十郎とは違った『良い人』という雰囲気を醸し出していた。
彼女こそが、日本の聖遺物研究の第一人者、未だ常人には理解しきれぬ研究論『櫻井理論』の提唱者、そして、戦兎に知識を与えた人物こと、櫻井了子だった。
すぐに研究室のパソコンの一つを起動させ、フゥー! と奇声をあげながらパソコンのキーボードを叩く戦兎。
了子は戦兎には見えない角度で慈愛の笑みを浮かべる。それは、あたかも母が息子を見るかのように。
「戦兎くん、最近どんな感じ?」
了子の言葉にぴたり、と戦兎が動きを止めた。そして、頭を掻きながら、椅子をくるりと回転させる。
「あー、研究の方じゃないよなぁ」
「わかってること聞かないの。貴方の、記憶よ。き、お、く!」
弦十郎の時と質問の文句は同じ。しかし、そこに込められた意味は全く違う。弦十郎は『霧生戦兎』という、『今』の彼に対しての質問ならば、了子のものは、『霧生戦兎』になる前の何者かへの、『過去』へのものだった。
「…………記憶、か」
霧生戦兎が、霧生戦兎になる前。失われた空っぽの少年の十数年。
こめかみに指を当てて自分の脳の中にある本棚に、自分のことを尋ねてみる。
「だーめだ。
「そう、残念ねぇ。あれから2年も経つのに」
「そうは言ってもなぁ」
頭のなかなか治らない頑固な寝癖を触る。
「思い出せれば貴方がとーっても優秀な理由がわかるかなー、と思ったんだけど」
「それは一旦保留ってことで」
「そうね、今はどうしようもないもの」
了子と戦兎が揃って少し肩をすくめる。
戦兎には記憶がない。
正確には、自己を形成する記憶が存在しない。人に必ずあるべき、自分が誰なのか、誰と過ごしたのか、どう言った人生を歩んだのか、そういったエピソードが戦兎には一つもなかった。
有名な話だが、記憶は二種類に分けることができる。
戦兎が失っているような自分の知識、思い出といったエピソード記憶と、赤い果物がリンゴだと判別するような意味記憶。
学校で勉強するようなモノは基本的にエピソード記憶に分類される。戦兎は目覚めた当初、無意識的に日本語は喋れても、書くことはできなかった。了子の検査の結果世間一般の人が知っているような単語も概ね知っていた。
いくつか意地悪で出した普通の人が知らないであろうモノの名前も知っていたこともあったので、記憶を失う前は年の割に博識な子供だったようだ。
だがここで、困ったのは戦兎の学習面での問題だった。
何故なら、エピソード記憶と意味記憶は分けることができるといってもその二つの境界は非常に曖昧なのだ。
学習というのは、基本的には公式や前例の応用だ。数学ならば、こういう公式があるから、国語ならば、こういうきかれ方ならばこういう風に答えるのが正解、といった風に己の経験を応用する。
故に、了子が戦兎に行ったのはどこまでの学習を覚えているかどうか、という点であった。
了子の予想は、見た目からして小学三年ほどの学力があれば、御の字、といったところだったのだが、戦兎はその全てをぶっちぎった。
結果は、高校終了時点での学力保有。
これには、流石の了子も目を疑ったし、弦十郎はぬぅ、と唸った。
学力確認に用いたのはマークシート形式のものであったため、一応筆記形式のものを後日に受けさせたが、結果は同様であった。
この結果には、翼と同じ学校に行かせようと思っていた二課の人らも手を止めざるを得なかった。
あまりにも学力に開きがありすぎる、そも、この年齢でこの学力とは異常すぎた。
一先ず、戦兎の学校は保留、対応が決まるまでは了子のもとで軽く勉強させることとなった。
その対応が、戦兎の学力を跳ね上げさせることとなった。戦兎は了子からの教授によって恐ろしい速度で成長し、およそ半年で大人顔負けの学力と知識を手に入れてしまった。
それからは、もう戦兎が学校に行くことは諦められることとなり、二課の預かりで了子の部下となった。
了子はその時のことを尋ねられると、遠い目をしてこう語る。
──あの子は、なんか、やばかったわ。
──一を聞いて十を知るとかじゃないわ。
──あれは、一を聞いて千を思い出す、って感じよ。
──こいつ最初から全部知ってたんじゃね? というレベルの学習速度だったわ。
──はっきりいってひっぱたいてやりたかったわ。
──私の努力を吸い取るんじゃない、って感じよ。まったく。
とにかく、霧生戦兎は記憶がない。
故になぜ彼が年齢にそぐわぬ知能と、学習能力を持つかは今でも謎のままだった。
「そういえば戦兎くん」
「はい?」
「彼女は、今どんな感じ?」
「あー、彼女か……」
「ええ、彼女」
了子が出した、『彼女』というワードに戦兎が少し苦い顔をした。
「どうもこうもないよ。ずーっと、不機嫌そうにしてるよ」
「でしょうねぇ」
はぁ、と了子が小さくため息をついた。
「『シンフォギア』の起動実験、あれだけ失敗したらねぇ」
了子の手伝いが終わり、データを受け取った戦兎はスキップしながら、半ば私物化した研究室に向かう。
(アメリカの聖遺物研究データ……! 流し読みしただけだけど、俺の研究にも生かせそうなところも多い)
「最っ高だッ! 先生、ありがとうーー!」
研究データの紙の束とUSBメモリを天に掲げると、視界の端に人影が映った。
了子の研究室から戦兎の研究室まで行くには二課の構造上の問題で、一度食堂を経由しなければならない。
今の時間帯では、既に朝食の時間は終わり食事はできない。そんな食堂の端でぼんやり外を見ている女の子が一人いた。
(……何してるんだ?)
ただ女の子は、つまらなさそうに外を見ていた。彼女の側に、すっかり汗をかいたコップがあるあたりなかなかの時間そうしているのがわかる。
「あー、どうしたもんかな」
彼女は、天羽奏。
現在諸事情あって二課が面倒を見ている身寄りのない女の子であった。
(話しかけたい……けど、あの人俺の事嫌ってんだよなぁ)
戦兎が紙の束を脇に抱えて、頭の頑固な寝癖をなで付ける。朝から格闘してもなかなか治らなかった時点で、直すことはとうに諦めているため、軽い現実逃避である。
(気さくに運動にでも誘うか、いや、この前ダメだったな。なら、にこやかに雑談……もダメだったな)
ガキが背伸びしてるみたいだな、似合ってない、と称されて密かに傷ついたのは秘密だ。戦兎としては憧れた二人の大人の真似だったのだが、似合ってないと言い切られては少しへこむ。
(何とかして仲良くなりたいもんだが……)
ここで、好かれていない自覚があるのにも関わらず、話しかけるのをやめようとしないあたりに戦兎の性格がよく現れていた。
「お、翼じゃん」
戦兎がうじうじと悩んでいると青い髪の少女──翼が、奏に近寄る。
最初は、恐らく挨拶でもしたのだろう、ちらりと奏も翼を一瞥したがすぐに興味無さそうに目をそらした。
そのことに、翼は少しショックを受けたようだったが、今度は何かをアセアセと話しかけ始めた。
奏との距離感がわからないのか、それともそもそも人と話し慣れていないのか、目をふわふわと泳がせながら何かしらを語っていると、奏が不意に翼の方を向いた。
そして、少し言葉をかけると、翼がぴしり、と固まり、しょぼんとして奏の下から立ち去り始めた。
(あー、本当に不器用だなぁ)
そんな翼を見て戦兎は苦笑まじりのため息をついた。
「盛大に空回ってたなぁ」
「せ、戦兎?!」
とぼとぼと戦兎の方へと歩いてきていた翼が戦兎に気づいて驚きの声をあげた。
「い、いつから」
「多分最初から。声は聞こえなかったけどな」
「は、恥ずかしいところをみられてしまった……」
戦兎は、少し顔を赤くして俯く翼の頭を軽く撫でた。さらさらの空の青は撫でるだけでとても心地よかった。
翼は戦兎に撫でられて一瞬嬉しそうに頬を緩めたが、突然思い出したかのように慌てて戦兎の手を払った。
「あ、頭撫でないで戦兎!」
「いやー、撫でやすいところに頭があるからなぁ」
「子供扱いしないでってば!」
「ごめんごめん」
「もうっ!」
ぷく、と翼が頬を膨らませて不満を露わにした。
「まあそれはともかく。天羽さん、どうだった?」
「全然駄目だった。話しかけても取り合ってくれないし、しかも……」
「しかも?」
「ん、んんっ、『アンタ、あたしと話したいっていうよりあたしとの距離を測りたくて話してんだろ? なんとなくわかるよ』って言われて……」
「天羽さん、本当に勘いいよなぁ。それと天羽さんの真似似てねえぞ」
「えっ」
翼が目に見えて落ち込んだ。
戦兎は、奏のいろんなことを見抜けるいい目に感心した。
「因みに、なんの話題出したんだ?」
「え、えっと……」
「…………また変なこと話したのか?」
「べ、別に普通よ。ふつう」
「何のこと話したんだ」
「む…………」
「む?」
翼が戦兎のじとっとした目から逃げるように、僅かに赤くなった顔を逸らした。
「室町幕府13代将軍足利義輝のその生涯について……」
戦兎の目が死んだ。
「女子小学生が出す話題として足利義輝ってどうなんだ」
「こ、これでも悩んだんだから! せ、精一杯考えたの!」
「ほほーう? 一体何と悩んだのか、きかせてみろよ」
「万葉集の防人歌に描かれた先達たる防人たちの情緒ある恋人を惜しむ感情とか……」
すごく饒舌に最後まで噛まずに言い切った。
翼がそらしていた目を戦兎の方へ戻して、未だ戦兎の死んでいる目に気圧されたように少し後ずさった。
「な、なによ……」
「自信もって言えない時点でダメだってのは自分でもわかってるんだろ?」
「でも、三五六七番の詩は、作者は不明だけど奥さんを梓弓になぞらえて詠んでて、本当に素敵でドキドキするのに……」
「日本広しと言えど万葉集にドキドキする小学生はきっとお前だけだよ、翼」
戦兎がため息混じりに言うと、翼は少し不満そうだったが、ダメだったのはなんとなく察していたのか少し唇を尖らせて黙った。
そんな翼を見て戦兎は、少しばかりの呆れと、妹がいたらこんな感じかな、という親しみ混じりの愛しさを感じた。
「まあ、これで懲りずに天羽さんに話しかけてやってくれよっと」
手の中のUSBメモリはポケットに突っ込んで、脇に抱えていた研究データの紙の束を翼の頭に乗せた。
「これは?」
「俺の部屋の机の上にでも載せといてくれ。俺、天羽さんと少し話してから行くから」
「え、戦兎の部屋は今私が来た方向……」
「よろしくなー」
「ちょ、ちょっと戦兎! もうっ!」
翼の抗議の声を背に受けながら、ひらひらと手を振って奏の方へと向かった。
途中で缶ジュースを二本買って手土産にすることにする。片方はコーラでもう片方は微糖のコーヒー。コーラを奏に、コーヒーを自分にのつもりである。
「ふー、行くぞ」
奏の背が見えて来ると、気休め程度に寝癖を撫で付け、シャツのシワを伸ばした。
「よっ、天羽さん。今なにしてるんだ?」
にこり、と笑って奏に戦兎が話しかける。奏はそれを見て、翼にしたように一瞥すると反応せずに視線を戻した。
「正面、座るぞ」
「────」
「あ、これ飲み物。飲んでいいから」
奏の方へとコーラを置いた。反応は全くなし。
(何で俺こんなに嫌われてんだ……?)
戦兎は頭がいい。それは、日本屈指の頭脳を持つ櫻井了子も認めるところである。だが、戦兎は頭がいいが、人の心の察しがそこまでいいわけではなかった。
了子あたりは察しも良くて頭もいいのだが、その生徒である戦兎はそこは全く似ていなかった。
「二課は、暮らしにくかったりしない? なんかあれば弦さんとか先生に言っとくけど」
「別に、大丈夫だ」
(……! 返事があった!)
「そ、そうか。それは良かった。あー、えーと、友達! 友達とかと連絡とらなくてもいいか?」
「…………別にいい」
戦兎が慌てたように言葉を繋げると、奏が外を見ていた戦兎の方へと向けた。赤い瞳が、戦兎を睨める。
じり、と戦兎の肌に奏からの圧が加わる。その瞳が、くだらないこと言うな、と言っている気がした。
故に、戦兎は先ほど了子の研究室で纏めたデータと、今の研究の進行度合いを考慮して、慎重に言葉を続ける。
「……シンフォギアの事は、待ってほしい」
「待て、だと」
「ああ、待ってほしい。先生と俺が今研究してる」
「了子さんと、お前が」
戦兎の額に汗が浮かぶ。なぜ、同年代の女の子と話すだけでこれだけ緊張しなきゃならんのだ、というぼやきが戦兎の心に浮かんだ。
それを覆い隠すように、あえて無駄に明るい自分を演じる。それで、奏が少し気を軽くしてくれることを望んで。
「まーかせろって。先生は知っての通り大天才で、俺も天っ才物理学者なんだから、どーんと大船に乗った気持ちで────」
ひゅっ、と戦兎の頰をかすめて黒い物体が飛んでいった。
戦兎の表情が、浮かべていたドヤ顔のまま固まることとなる。
(ま、迷いなく缶ジュース投げた……)
後ろの方で、机に弾かれ、床を転がった缶ジュースの音がした。
「お前はわかってないみたいだから、教えてやる」
奏が机に身を乗り出して戦兎のシャツの襟首をつかんで自らの方へ引き寄せた。顔と顔との鼻が触れ合うほど近くなった距離で、奏が戦兎に真っ向から向き合った。
「あたしはな、お前みたいな意味もなく自信満々なナルシストが心底嫌いだ。見てるだけで腹が立って仕方ない」
そう言って戦兎を半ば突き飛ばすように元の席へと座らせると、奏はすっかり汗をかいてしまっているコップを片手に、もう片方の手でコーヒーをポケットに突っ込んで戦兎の元から去っていった。
その遠ざかる背中を見ながら、戦兎は眉をハの字にした。
「それ、俺のコーヒー……」
しかし、そんな事に奏が頓着するはずもなく、戦兎は上げた手を下ろす場所もないため、力なく下ろすしかなかった。
仕方なく奏の投げた缶ジュースを拾って飲む事にする。二課で研究の手伝いをしているとはいえ戦兎もお小遣いは年相応なのだ。
「お、あったあった」
窓際に落ちていた缶ジュースの赤い缶を拾った。その赤を見て、連鎖するように先程の奏の事を思い出す。
(少し、危なそうな目だったな。研究、急がなきゃな)
「よっし、ジュース飲んだらエンジンかけて頑張んなきゃな」
カシュ、と戦兎は勢い良くプルタブを引き抜くため力を込めて────ある事を思い出す。
(あ、これコーラだよ)
これは天羽奏にそこそこのスピードで投げられ、机にぶつかり、床を転がったコーラ。これを開ければどうなるかなど言うまでもない。しかし、既に時は遅かった。
「フゥゥゥゥ! 服ゥ! ヤベーイ!」
ぱしゅ、と気味のいい音に重なるように茶色の噴水が辺りに散った。
「全く、そこそこお気に入りだったんだぞ……」
戦兎は噴水コーラ事件にぶつぶつと一人で文句を言いながら二課の屋上へと向かう。一先ず、水洗いをした衣服を干すためだった。
二課の人間しか知らないパスワードを用いて鍵を開けた戦兎は屋上に出る。それと同時に強い風が下から吹き上げるように吹き、戦兎の衣服を攫おうとする。
「おわっとっと、ととと」
それに必死に抗い、よろめきながら衣服を抱えて数歩歩いたところで、うまくバランスをとった。
そして、あるものが目に入った。
「…………」
戦兎は太陽の方角に広がるソレを眩しげに、改めて見た。
それは、ひたすらに巨大だった。
それは、ひたすらに不可解であった。
それは、都市の外観に全くあっていなかった。
「今日は、よく見えるな」
昨日雨が降ったせいかな、と戦兎がなんとなく思った。そして、ただぼんやりと、遥か彼方にあれど圧倒的に主張するモノを見つめる。
だが、そこに感情は感じられない。
戦兎にとって、いや、子供たちの多くにとってそれは、そこにあるのが当たり前のものだった。
世界全体に広がる巨大な壁、その名前だ。
数年前、海底から引き揚げられた未知の物体、パンドラボックス。
そして、そのパンドラボックスの引き起こした『スカイウォール事件』。
世界中に広がったスカイウォールは、各種の交通、貿易、経済に大きな影響を与えた。
パンドラボックスから分離した未知の物体『フルボトル』。
『スカイウォール事件』から、過去史上類を見ないほどの出現頻度が激増した『ノイズ』。
そして、『スカイウォール事件』後、世界に確認され始めた『スマッシュ』。
さらに、『スカイウォール事件』時に生じた光によって人の変わった各国首脳。
その様々な要因が複雑に混ざり合い、この世界は、聖遺物を求めたかつてない混沌の時代を迎えていた。
びーざわんびーざわん