まだ暑さが続く九月上旬。夏休みが終わり、二学期が始まろうとしている。今日は始業式ということで学校は午前中だけだ。正直校長などの無駄に長ったらしい話を聞くのは眠くなるだろうが、午前中で学校が終わるという対価に比べれば大したことはない。一夏との同居は順調だ。前に俺の家に泊まり込んで馬鹿騒ぎした時の延長だと思えば……いや、無理だったよ。だってあの時と違って、今の一夏は女の子だから色々と気を使わないといけないんだよ。
ベッドに横になっていた俺はふと何者かの気配を感じた。安心感が漂ってくるこの感じは彼女だろうな。
「和行。朝だよ。起きて」
「んん……」
一夏が掛け布団越しに両手で俺を触っているのが手に取るように分かる。そろそろ出ないといけないと頭では解っているんだが、いまいち体が言う事を聞いてくれない。ああ、もっと一夏のこの声を聞いていたい。落ち着くんだよなあ一夏のこの声。その所為で却って眠たくなってきているし。ん? なんだ? 一夏が声を掛けてくるのを辞めたと思ったらなんか俺の左耳に一夏の吐息が当たっているような……。やめて。お願いだからそれやめて。変な扉開きそうだから。
「か、和行。お、起きないと……キ、キスしちゃうよ?」
一夏のその言葉で瞼を勢い良く開き、掛け布団を上半身から剥ぐように退かしながらベッドから起こした。俺は即座にベッド脇に居る一夏の方へと視線を向ける。学校の夏服の上にエプロンを着ている一夏は黒髪をポニーテールに纏めていた。恐らく朝食を作ってから俺を起こしに来たのだろう。ったく、なんで頬を赤くしてるんだよ。まあ、キスすると耳元で言われた俺の方がめっちゃ恥ずかしい思いしてるんですけどね。あ、でも起きなければよかったかも。一夏にキスされたかった。って、何言ってんだ俺。まだ寝ぼけてんのか? 思考を切り替えるため、眠気を噛み殺しながら一夏に朝の挨拶をする。
「おはよう。一夏」
「お、おはよう、和行。ほら、早く着替えて朝ごはん食べよ?」
「わかった。先に下に行っててくれ」
「う、うん。二度寝しちゃ駄目だよ?」
俺は一夏が扉を開閉して部屋から出ていくのを見送ってから布団に隠れている自分の下半身を見た。うん、男性特有のあの現象が起きてました。一夏にはバレてなかったみたいだが本当に心臓に悪い。まあ元男の一夏なら知っているだろうけど、今の一夏は女の子なんだからこんなものを見せる訳にはいかない。ていうかあんなことがあったせいで静まってきているし、さっさと着替えよう。
すぐに着替え終えた俺は、鞄を持って一階へと降りた。続いて洗面所へと向かい洗顔と歯磨きを済ませる。ついでに寝癖が付いていた髪も整えておく。そのままリビングに向かうとリビングのテーブルに朝食が用意されてあった。今朝の食事は食パンのトーストとベーコンと目玉焼き、そして昨日の残りものであるサラダといった洋食になっている。今日は軽めのようだ。ま、昨日は夜に晩御飯としてとんかつを食べたからな。俺はどちらかというと朝は和食派なのだが、俺よりも早く起きて一夏が用意してくれた食事なのだから文句を言う気はない。和食でも洋食でも一夏の料理が美味いことに変わりないし、むしろ俺の為に用意してくれるなんてありがたいくらいだ。
「いただきます」
「はいどうぞ」
一夏の優しげな微笑みを受けながら俺は朝食を食べ進めていく。うん、美味しい。なんていうかさ、一夏の思いが籠っているのかもっと食べていたくなるなこれは。いつもは一夏と会話を弾ませつつ料理を食べるのだが、一夏の笑みの所為で出来ずにいた。あれは卑怯だろ。てかさ、一夏が段々と女の子っぽくなってて正直反応に困る。どうすればいいんだよこれ。こいつ、本当に男に戻る気があるのか?
そんなことを考えているうちに食事を終えた俺は一夏に向かってごちそうさまの挨拶をする。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした。ごめんね、今朝はこんなのしか用意できなくて」
「そんなことないよ。俺の為に用意してくれてありがとな」
「ふふふ。もう、和行ったら」
やっぱり一夏の笑顔が完全に女性のそれになってる件について。なんかよく分からないけど、一夏の顔の周囲にめっちゃキラキラしてるエフェクトが見えたけど多分幻覚だと思う。もしくは束姉さんの所為。てかヤバい。俺、一夏に惚れ直した。これは非常に危険ですよ。この子の笑顔が完全体から究極体に進化しているよ。
というか、なんださっきの会話は。自分で言っておいてあれだけど俺と一夏って付き合ってたっけ? あ、でも男の頃もこんな感じの会話していたような。……今考えるとおかしいな俺達。やっぱ一夏ってそっちの気があったのだろうか。でもあいつ、一応は女の子に興味あったっぽいから多分あれだな。昔からやってた所為で感覚狂ってるだけだな。そういう事にしておこう。
一夏が俺と自分の分の食器を台所へと持っていくのを見届けると、俺は食後のミルク入りコーヒーを飲みながら自分の鞄の中身を再確認することにした。忘れ物はないな。今日持っていくのはちゃんと入っている。夏休みの宿題も完璧だ。一夏と一緒に八月の上旬に全て終わらせておいたから八月中は気が楽でした。テレビを付けて今日の天気やらを確認していた俺はテレビの電源を切る。時間も丁度良い頃だし、そろそろ出ないといけないからな。
「一夏。夏休みの宿題とかちゃんと鞄に入れたか?」
「うん。昨日のうちに入れておいたよ」
「……本当か?」
俺が疑いの視線を向けたのを不服に思ったのか、一夏は自分の鞄を俺に力強く手渡してきた。お前、その細腕の何処にそんな力があるんだよ。ビビったじゃねえか。ああ、千冬さんの妹だもんなあ。そりゃあ尋常じゃない身体能力を発揮するのも頷けるわ。そんな風に考えを纏めながら一夏の鞄を開けると、中にはちゃんと夏休みの宿題が収められていた。こいつ、変なとこで抜けているから忘れてないか心配だったけど杞憂だったか。
「あ、ちゃんと入ってる」
「だから言ったでしょ……」
「ごめんごめん。一夏が宿題を忘れて先生に怒られないか心配だったからさ」
「全くもう」
一夏に鞄を閉めて返した俺だが、当の一夏はまだ不服そうな顔をしていた。うーん、この一夏の反応ってさ、完全に女だよね? だって野郎の時は絶対こんな態度取らなかったし。仕方ない、埋め合わせ的なことでもしておくか。そうだ。今日は俺が料理を作ることにしよう。なんか昨日の夜に一夏が俺の料理食べたいとか言ってたし。俺の料理ってそんなに美味いのかな? 俺が料理して出したものを一夏が物凄く美味しそうに食べてくれるから嬉しいっちゃ嬉しいんだけどさ。
「一夏」
「なに?」
「今日の夕飯は俺が作るよ」
「……なら許す」
一夏は俺の言葉を聞いた途端、顔を穏やかなものに変えた。とてもさっきまで不機嫌だったとは思えないほどの素早い切り替えだった。なんとなく本気で怒っていないのは分かってたけどね。一夏は考えていることが顔に出やすいし。
それも最近怪しくなってきているけどな。意図的にこういったことをするようになってきているんだよ。一夏が女の子になってから、なんだか日を重ねる毎に考えを隠すのが段々上手くなってきている気がする。一夏の特徴が一つ消えるのを嘆くべきなのか、喜ぶべきなのか……。でも、あまり顔に出すのはよくないし、後で苦労することになるかも知れないからこれでいいのかもね。
って、考え込んでいる場合じゃないな。早く家から出よう。俺は一夏に先に出ているように促す。家の戸締りを確認してから家を出てから玄関に鍵を掛ける。学校への通学路である商店街の中を歩いている途中、一夏がこちらの事を見てきたかと思うと俺の名前を呼んでいた。
「和行」
「どうした?」
「学ランのボタン外れてる」
マジか。あーどうすっかな。何処かの店の窓とかを見ながら直すか。そんなことを考えていた俺の視界に一夏が一旦鞄を地面に置いて、ゆっくりと俺の首元へと手を伸ばしてくるのが見えた。すると一夏は俺のボタンを締め直していた。その事を理解するのに少しばかり時間が掛かったが、一夏に何をされたのか段々と解ってきた俺は羞恥の感情を隠すこともせずに顔に出した。
あの、こんな往来でこんなことをしてなんでこの子は平気な顔出来るんですかね。生暖かい視線が俺達に集中しているのが分からないのか。見ろよ、知り合いの古本屋のおばちゃんもこっちの事を微笑ましい目で見ているし。ああもう! これなら嫉妬の目線くれた方がまだマシだわ!
「はい。終わったよ」
「あ、ありがとう」
「どうかしたの? 顔が赤いけど」
「な、なんでもねえよ」
一夏は本当に気にしていないみたいです。ホントこういう時は鈍感ってのは便利だな。俺は恥ずかしさで死にそうだよ……。はあ、なんで朝からこんなに疲れなきゃいけないんだ。もういいや、早く学校に行こう。一夏が地面に置いてた鞄を再び手に持って歩き出しているし。
その後、学校に着いた俺と一夏は一学期と同じ要領で教室に入り、弾や鈴や数馬と会話してから体育館に向かうことになった。体育館では特に大したイベントもなく話の趣旨が見えにくい校長の話を眠気に耐えながら聞くということがあっただけだ。夏休みの課題の提出、ホームルーム、教室の掃除などなどを終わらせて俺達は帰ることになったのだが鈴は家の手伝いがあるとかで先に帰り、弾と数馬は二人でカラオケに行く約束をしていたらしく鈴と同じように先に学校から足早に消えていった。
……あの二人、嘘吐いたな。何で解ったかって、去り際に弾と数馬が「一緒に一夏と帰れよ」とか耳打ちしてきたから。全くもうあの二人は。今日は一夏と一緒にスーパーで買いものでもして帰るか。今日の晩御飯に使うのも買わないといけないし。
「夏菜子。帰りにスーパーに寄るつもりなんだけどさ、エコバック持ってる?」
「うん。鞄の中にあるよ」
流石は元主夫だな。レジ袋代を一々払うの面倒だから俺もエコバック持ってるけどね。一夏と同じように鞄の中に入れてる。たかが数円だろうとそれが数回、数十回と積み重なれば結構な額になる。財布の紐を締めるところは締めておかないとな。
教室を出て昇降口で上履きから靴に履きかえた俺達はスーパーへと向かい、必要なものを買った。今日はパスタにするつもりだったのでソースとかを。家に帰ってきた俺は一緒に帰ってきた一夏から荷物を預かり、先にシャワーへと向かわせた。一夏も女の子だから汗臭いのとか嫌だろうからな。俺は一夏が浴び終わるまで我慢できるから別に問題ない。
……あれ? ちょっと待って。確かボディーソープが切れてなかったか? 一夏に換えを渡すべく、脱衣所へと向かう。数回ノックしてまだ脱衣所に一夏が戻ってないことを確認して扉を開けたのだが、俺が扉を開けたタイミングで浴室側のドアも開くのが見えた。あ、これヤバい。
「あっ……」
「……か、和行?」
――綺麗だ。目に飛び込んできた一夏の裸を見てしまった俺がまず先に抱いた感想はそれだった。染みひとつない紅潮した白磁の肌は男を誘惑するのに十分な艶がある。濡れた黒髪は一夏の肌に張り付き、彼女の色気を更に増幅させている。
こうして見ると一夏の体は男から完全に女性の体になっているんだなと再認識してしまう。思わず喉が鳴りそうになるほどの光景だったが何とか耐えた。幸いなことに一夏は自分の体の前方にタオル持ってきているので大事な部分等は俺に見えていなかった。その点に関しては助かったとも言えるが、助かっていないとも言える。だって、俺が女の子の裸を見たことには変わりないのだから。今の自分の状況を理解した俺は咄嗟にドアを閉めて一夏に謝った。
「ご、ごめん!」
「う、ううん! こっちこそごめんね! その、なんで和行がここに居るの?」
「ボ、ボディーソープが切れてたはずだから換えを渡そうと思って」
「あー、私もそのために出てきたんだよねえ……」
ああ、そうだったんですか。いやマジですいませんでした。もうネタ発言すら出来ないレベルだわこれ。なんだこれ。どうみても一夏のラッキースケベが完全に俺に乗り移ってんじゃねえか。なんで俺がラッキースケベ発動させなきゃいけないんだよおい。
ヤバい、あとで一夏にちゃんと謝らないと駄目でしょこれ。切腹する覚悟でいるよ俺。てか俺の下半身がさっきから不味いことになりかけてるんだけど。バレたらこれ一夏に嫌われるよ絶対。嫌だ、一夏に嫌われたくない。いやちょっと待て。その前に一夏の裸見てるじゃねえか。その時点で十分アウトだろ。馬鹿か俺。うう……とりあえず一夏に早くボディーソープを回収して浴室に戻るように言っておこう。
「い、一夏。お叱りとかは後で受けるから、早く換えを持って浴室に戻った方がいいぞ。風邪引いちゃうだろうし」
「あ、うん。ありがとね」
いつもの感じの言葉を述べたのを聞いたの俺は少しだけ一夏の態度を訝しんでしまった。いやあの、なんで自分の裸を男である俺に見られたのに悲鳴の一つすらあげないの? 本当に驚いた時は甲高い声をあげる余裕もないと聞いたことはあるけど、それにしたってあの反応はちょっと変じゃないか? 一夏の態度について思考を巡らせていると浴室の方のドアが開閉する音がした。換えのボディーソープを見つけた一夏が浴室へと戻ったのだろう。
肩の力が抜けたのか、俺の口から小さな溜息が漏れた。事故みたいな形とはいえやってしまったものは仕方ない。ここは日本人の真骨頂である土下座をするしかないだろう。そう思い立った俺はリビングにて一夏がやってくるのを待つことにした。そして、時は来た。一夏が私服に着替えて俺が居るリビングに戻ってきたのだ。
「和行~。上がったから入っていいよ。和行も汗掻いたで――って、何してるの!?」
「ジャパニーズ土下座です」
そう。俺は一夏がリビングに来たタイミングで土下座をしていた。多分生きてきた十数年の中で一番綺麗な土下座をしていると思う。俺ってあまり土下座なんてしたことないけどね。ていうか、日常生活で土下座する機会なんてないよね。現在進行形で土下座してる俺が言ってもアレだけど。
「もしかして、さっきのこと気にしているの?」
「当たり前だろ。女の子の裸を見たんだからケジメやセプクするつもりです」
「あ、あのね和行? 私、怒ってないから別にそこまでしなくていいよ?」
……はっ? 嘘ですよね? だって俺は君の裸を見たんですよ。男に自分の裸を見られるのとか嫌なんじゃないんですか?
「え? え?」
「だってあれは事故だったんだから気にしても仕方ないでしょ。……それとも、本当はわざとやったとか?」
少しだけ睨むような視線を向けてくる一夏に対して俺は思いっきり首を横に振る。あれのタイミングでわざととか予知能力とかで予め予知してないと無理だろ。一夏の裸を見てみたいとは思うが、それは一夏の了承を取ってからとかそういうのでだ。覗いたりラッキースケベで見たいとは思わない。一夏は俺を睨むのを辞めると、いつもの優しげな目で俺を見ている。
「ならいいじゃない。最初にボディソープが切れてるかどうかの確認をしなかった私も悪いんだしさ」
「でも……」
「私が気にしてないって言ってるんだからそれでいいでしょう」
俺がどう答えるべきか考えあぐねていると一夏は「それに」と言葉を付け足してきた。
「私の裸なんて見られたものじゃなかったでしょ?」
「そんなことないぞ。物凄く綺麗だと思ったよ」
「ふぇ?」
ふぇって随分可愛い声を出しますね一夏ちゃん。って俺は何を言ってんだ。綺麗だと思ったとかこれ完全に変態じゃねえか。馬鹿だろ。一夏から蹴りやビンタが飛んできても知らないぞ。……あれ? なんか一夏の顔がいつぞやのように真っ赤っかになってるんだが。え、なにその反応。くっそ可愛いんですけど。お持ち帰りしていいですか? あ、ここ既に家ですね。アホですね俺。
「……和行のエッチ……」
「うぐっ!? す、すまん……」
「でも、ありがとう」
「え、なんでお礼?」
「……っもう! ほら、今の事は忘れて早くシャワー浴びてきて!」
お礼を言う要素の判らない俺に何故か一夏がぷりぷりと怒り出しました。……意味が分からないです。俺がリビングを出ていく時の一夏の顔が何故かニヤニヤとした表情に早変わりしていました。ますます分からないです。
その後、シャワーを浴び終わった俺は一夏手作りの昼食を食べた。当然だけど美味しかったです。それから談笑などをして夕飯時になったのを見計らい、パスタを一夏に振る舞いました。一夏のあの態度とかが気になってはいるけど、俺の料理を美味しそうに食べる一夏の笑顔に疑念とかは全部吹き飛んでいた。一夏の笑顔は反則だよ。
伝説のいちかわいいの人が復活した影響でガクブルしてます。私はあの人のいちかわいいが至高だと思っていますし、まさか連載時期が被るだなんて思いもしてなかったので……。嬉しさ半分、困惑半分って感じになってます。