商店街の福引で俺が温泉旅行のチケットを当てるという珍事件から少し時間が経ち、世間はゴールデンウィーク真っ只中の時期になっている。俺と一夏と母さんは商店街の福引で当てた例の旅行チケットを使って、別の県にある旅館に来ていた。母さんの連続した休みがある丁度良いタイミングだったからこの時期を選んだのだが、人が多くて酔いかけたのは言わない方がいいだろう。心配されてもこっちが却って困るだけだから。
一夏に母さんが付いて来ることを納得させるのは骨が折れたが、そこは俺とっておきの最強手段である後でいっぱいディープキスしてやる。もしくは一夏からディープキスをしてもいいと一夏の耳元で囁いたお蔭で何とかなった。
「良い眺めだね」
「だな」
仲居さんに案内された部屋に着き、少しばかり休憩を終えた俺と一夏は部屋の外にあるスペースに出ていた。そこから眺めていた風景を眺めていた俺達は簡素ながらも心に真っ先に浮かんできた感想を零してしまう。
旅館の反対側に連なる別の旅館達。その間を流れる清流。その上に架かる石橋。その周囲を彩る植物やその他の木造の建物群がこの街の雰囲気を引き出していた。俺達が住んでいるところでこんな光景を目にすることなんて殆どないし、たまにはこういうのもいいかもな。そんなことを考えつつ、風景から一旦視線を外して後ろの方を見てみる。部屋の中で母さんが寛いでいる姿が見えるが、母さんよりも手前――俺と一夏が立っている部屋の外にある広めのスペースに鎮座している物に俺の視線が段々と集中していく。
「それにしても……」
なんで露天風呂が付いているのだろうか。自宅で色々と情報を集めた際に把握はしていたが、実際にこうして目にすると本当になんでって考えしか湧いてこない。母さんが居るから大丈夫だとは思うが、もし母さんが居なかったら一夏が積極的に俺の事を誘惑してきていたことだろう。その所為で露天風呂の中で一夏とくんずほぐれつしていたかもしれない。
「和行」
「んぁ?」
「そんなに露天風呂を見つめてどうしたの?」
俺が露天風呂を眺めていたのが気になったのか、一夏が声を掛けてきた。
「なんで露天風呂付きの部屋なんだろうなって思っただけだよ」
「私は嬉しいけどなぁ」
「お前、ほんと風呂好きだよな……」
こう見えて一夏は風呂が大好きだ。男の頃から風呂が好きだったが、女になった今では余計拍車が掛かっている気がする。家でも風呂に入っている時間が長いから。正直俺の風呂に入る時間とかも減ってしまってるのだが大した問題ではない。俺、元々長湯するタイプじゃないから。それに一夏が入った後だと、物凄く色気のある一夏の風呂上り姿を拝めるし、一夏の入った残り湯を頂くことができるからな。
実のところ、一夏の入った後のお湯でコーヒーやお茶を入れようと思った事もあったけど流石にやめておいたよ。変態的な事をしたことが一夏にバレて、それが原因で嫌われる事態になるのだけは避けたいから。
「和行~」
「なに?」
「私、ちょっとお散歩に行ってくるから一夏ちゃんと仲良くね?」
「えっ、ちょ!」
俺が止める間もなく、母さんは部屋を出て散歩に行ってしまった。一夏は俺に対してスケベなことを考えている視線を向けてきていないので今は大丈夫だろうけど、もしこの後に一夏に襲われる展開になったら母さんには帰りに俺達二人の分の荷物持ちをさせてやる。
このまま外を眺め続けるのもなんだか億劫になってきた俺達は部屋の中に戻ることにした。座卓前に置かれているクッション付きの和座椅子へ座卓を挟む形でお互いに腰を下ろすと一夏から俺に話を振ってきた。
「八千代さ――お義母さん、行っちゃったね」
「ああ……」
ん? 今、一夏は何て言った? 俺の耳が腐ってなければ、うちの母さんの事をお義母さんと呼んでなかったか?
「一夏。お前、今なんて?」
「お義母さんって呼んだだけだけど?」
「なんでまだ結婚してすらいないのに義母さんって呼んでるんだよ……」
「どうせ和行と一緒になるんだから、今の内から呼ぶのに慣れておいた方がいいって八千代さんが」
母さんめ。俺の味方なのか一夏の味方なのか、一体どっちなんだ。両方の味方ってことなのか? 頼むから旅行中の間だけは俺の方に傾いててくれよ。いやマジで傾いててくれないとヤバいんだが。だって、一夏が自分の荷物を整理している時にゴム的な物が大量に入ってると思われる箱が俺の方からちらっと見えてたんだよ。しかも業務用って書いてあったぞ。開けて中身確認してんじゃねえよ。なんでマジで持ってきてんだよこいつ。母さんも居るんだぞ。
あれ? それって前に母さんが俺に買ったやつの一つじゃなかったっけ? いつの間にか一夏に全部回収されてたけど。……ちょっと待て。俺、あれの開封はしてないはずだぞ。それなのに一夏が持っていた箱は既に開封されていた。あの、まさかとは思うけど一夏が開けたのか? 中身を確認する為にわざわざ? ……考えるのはやめよう。気にしたら負けだ。
「和行は私と一緒になるの嫌なの?」
「嫌じゃないよ。むしろ嬉しいくらいだし。でも……」
「でも?」
「一夏がお義母さんって呼んでるのに違和感があってさ」
一夏の疑問に俺は偽ることなく正直に答えた。すると一夏はぽかんとした顔をしてから、俺の方を見て笑みを浮かべ始めた。
「なにそれ」
「だってさ、一夏って母さんのことをずっと八千代さんって呼んでたじゃん」
「まあそうだけど……」
お前、そんなの律儀に守る必要ねえだろ。別にちゃんと呼び方を変えなきゃ俺と一緒になれないって訳じゃないんだからさ。全く、変なところで真面目だなこいつは。でもそこが可愛いんだよなぁ。一夏は天使で確定だわ。
「……ところで気になったんだけどさ」
「なに?」
「千冬さんって俺と一夏が一緒になったら、母さんの事をなんて呼ぶことになるんだ?」
「……私も気になってきた」
千冬さんは一体母さんのことを何て呼ぶのだろうか。全っ然想像できないわ。義姉さんとか? 流石の千冬さんも自分と十歳くらいしか年齢が離れていない女性を義母と呼ぶのは抵抗があるだろうし。
「なんていうか……」
「想像できないね」
俺と一夏の意見が一致した。本当に想像できない。千冬さんがうちの母さんへの呼び方を変える姿がさ。
「私も気になったことがあるんだけど、和行って千冬姉のことを何て呼ぶの?」
「ああ……」
あ、そっちの問題もあったな。俺と一夏が夫婦になったら、必然的に千冬さんが俺の義姉になるもんなぁ。……あれ? IS元世界最強の義弟ってかなりのポジションになってない? いや、それを言うと女になる前の一夏は千冬さんの実弟だったし。うん、深く考えないようにしよう。こんなこと考えてたら答えのでない思考の無限ループに嵌るだろうから。
「無難に千冬姉さんかな」
「千冬姉じゃないんだ」
「それはお前だけの呼び方だろ。俺がそんな呼び方する訳にはいかないだろ」
一夏の疑問に俺はそう言い切った。そうだ、俺も千冬さんの事を千冬姉と呼ぶわけにはいかないんだ。そもそもの話だが年上の女性を千冬姉とか呼ぶ度胸なんて俺にはない。束姉さんの呼び方だって、最初は束姉と呼ばされるところだったのを何とか譲歩して貰ったんだから。
「和行って変なとこで遠慮するよね」
「変じゃないから。普通に遠慮するからな」
「私は気にしないのに」
「俺が気にするの」
旅行先でもいつもの調子で会話を続ける俺達だった。うん、俺達って何処に行ってもこんな感じだわ。買い物に出ている時も学校でもテンポが良いというか、安心感が出る会話を繰り広げているからな。学校ではその度に口か何かを吐き出そうとしているクラスメイトがあちらこちらに沸くけどな。何が原因で皆はあんな顔をしているのだろうか? さっさと保健室にでも行けばいいのに。
「ねえ」
「どうした?」
「ここの旅館って、お布団なのかな?」
「うん。多分な」
調べた限りではこの旅館は布団で寝るようになっているってあったからな。小さい時は布団で寝ていたけど今ではベッドでばかり寝ているから久しぶりのお布団だな。
「あ、そうだ。母さんも居るから少しは自重してくれよ?」
「自重って?」
「ほら、寝る前のキスとかさ」
俺は思い出したことを一夏に言っておくのを忘れなかった。流石に寝る前の口と口のキスを母さんに見られるのは恥ずかしすぎる。前に母さんの前で一夏にキスしたことがあったけど、あの時にしたのはおでこへのキスだ。俺も覚悟してやったから出来たのであって、口と口のキスとでは羞恥度が段違いというか。
「……うー、仕方ないかぁ。が、我慢するよ」
断腸の思いで了承しましたと言わんばかりの顔付きをしている一夏がそこに居た。マズい。ヤバい。不満げな一夏が可愛すぎて今すぐにでも抱きしめたい。そんな風に考えていると一夏は座卓の上にあるお茶やお茶菓子に視線を移し始めた。
「これって何のために置かれているのかな?」
「確かお菓子は入浴前の糖分補給として、お茶は同じように温泉に入る前の水分補給として飲むと良いみたいだぞ」
「へぇ。そうなんだ」
ちょっとした豆知識を一夏に披露していると、誰かが部屋のドアを叩く音が聞こえた。俺が返事をすると母さんがドアを開けて中に入ってくる。部屋に戻ってきた母さんはなんだかやり切ったような表情を浮かべていた。……なんだろ、嫌な予感しかしない。
「母さん。何か良い事でもあったのか?」
「うん。散歩から戻ってきたら担当の仲居さんにばったり会って、一夏ちゃんと貴方の布団を二人用の布団にして貰ったのよ」
「……は?」
……何考えてるのこの人。いやまあ、一夏とはいつも同じベッドで寝てるから二人用の布団は別にいい。恥ずかしさもないし。俺が言いたいのはそんなことではない。今の一夏は普通ではないのだ。一夏はいつもと変わらないように振る舞っているが、旅先に来ている所為かテンションが上がりまくっているのを俺は手に取るように感じている。だって、俺の方をずっとちらちらといやらしい感情を込めた目で見てくることが多いから。
母さんの行動に納得がいかなかった俺は、母さんに手招きして近くまで呼び寄せると一夏には聞こえない声量で母さんと会話を始めた。
「どういうつもりだよ」
「どうって?」
「俺と一夏の布団を同じにしたことだよ。母さんだって今の一夏がどういう状態か分かってるだろ?」
「分かってるわよ。でも、このまま別々の布団にしたら一夏ちゃんが爆発して襲われるわよ」
「……」
珍しい母さんの真剣な顔と言葉に俺は閉口してしまった。確かに母さん言う通りだ。何処かでガスの抜け口を作らないと一夏が暴走して俺の事を性的な意味で襲ってくるだろう。そうなったら幾ら母さんが居るとはいえ止められない可能性が出てくる。
「その、ありがと」
「良いのよ。貴方の頼みだもの」
いつもアレな母さんだが、こういう時は本当に頼もしく感じる。普段からこういう感じだったらよかったんだけどなあ。
「二人とも、何を話してるの?」
「露天風呂に入る順番を話してただけだ。なあ、母さん」
「ええ。さ、一夏ちゃん。一緒に入りましょう!」
「えっ!? 八千代さんと!?」
一夏は自分の豊満なおっぱいを両腕で隠しながら、露骨に嫌な顔をし始めた。ついでに母さんのことをジト目で見ている。あ、これってもしかしなくても母さんが一夏に対して何かやらかしたパターンだな。一体何やったんだよ。
「母さん。一夏になんかしたか?」
「ん? 先週あたりに一緒にお風呂に入った時に一夏ちゃんのおっぱいの大きさを確認しただけよ? こう、ぐいっと」
「ぶっ飛ばすぞ」
咄嗟に口からそんな言葉が飛び出ていた。オブラートなどに包まれてない言葉が母さんにぶち当たったのか、母さんはわざとらしく「ごふっ!」と言いながら畳の上に膝を突いていた。
てかおい母さん。その手のモーション的なやつはあれか。後ろから一夏のおっぱいを鷲掴みしたのか? どういう了見で一夏のおっぱいを触ってやがる。俺なんかまだ一夏のおっぱいを触ったことなんてないのにそんな羨ま――けしからんことをするなんて言語道断だ。許されるべきことじゃない。
「私のおっぱいは和行と赤ちゃんの為の物なのに……」
ほら、一夏も激おこぷんぷんな状態になってるし、これは母さんにちゃんと言い聞かせておかないと。悪い子にはお仕置きが必要だからな。
「母さん。これから一夏の胸を触るの禁止な」
「なんでよ! お嫁になる一夏ちゃんの体をちゃんと調べる意味で大切な――」
「もし次に一夏の胸を触ったら、半月は母さんと口利かないから」
「肝に銘じておきます!」
うん。変わり身が早い母さんで助かったよ。これで一夏の胸が母さんに揉まれる事はないだろう。安心して露天風呂に入れると思うぞ。
「さ、さあ! 一夏ちゃん、早く露天風呂に入ろ! ね! ね!」
「は、はあ……。まあいいですけど。和行は?」
「夕食後にでも一人で入るよ」
てか、俺が女性二人と露天風呂に入る訳にはいかないだろ。片方が俺の恋人で、片方が俺の母親だとしても非常によろしくない絵になるだろうからな。
「そっか。じゃあ、入ってくるね? あ、暇なら私の替えの下着をくんかくんかしてていいからね?」
「いいからさっさと入ってこいよ」
一夏の阿呆な戯言を聞き流しながらそう促した。……ちょっとだけ良いかもと思ってしまったのは内緒だ。一夏にバレたら積極的に匂いを嗅がせようとしてくるに決まってる。
そんなことを考えつつも、二人が荷物を漁っている光景から目を背けておくことだけはを忘れなかった。幾ら相手が恋人の一夏や母さんといえ下着やらの準備をしているのを眺めるのは駄目だからな。浴衣やらを持って仕切りの向こうにある更衣室へと消えていくのを確認した俺は大きく息を吐きながら、
「……お家に帰りたい」
そんな切実な想いを呟いてしまった。疲れを癒すはずの温泉でなんでこんなに気疲れしてるんだろ俺……。