秘密を持つ、ということ。
それは何かを裏切ることに、他ならない。
たとえ、それが『何か』を守るための行為だとしても、裏切りという残酷な事実は何の変わりもないのだ。
裏切りとは、最初は小さな針のような痛みに過ぎない。だが時を経て、しがらみと共に蓄積される痛みは、やがて心も体も腐らせる猛毒となって、宿主を蝕むのだ。
「あれから一カ月か……」
シンフォギアの仮面を外し、素顔をさらした状態で、地下鉄の構内に潜んでいた律は、とある風景を──戦いを、じっと見つめていた。
響が戦っている。ノイズと戦っている。
あの程度のノイズならば、シンフォギアを身に着けていれば大した危険ではないとはいえ、胸の締め付けられるような思いだった。
とにかく響に戦い方は危なっかしい。素人丸出しの戦い方は、見ているだけでヒヤヒヤする。もっとも響は、本気で他人を叩いたこともないような優しい子供であったのだから、無理からぬことではあったが。
「見てられないよ……」
こんな死の臭いしかしない
彼女は望まぬしてシンフォギアの力を手に入れた、いわば被害者のはずだ。彼女を保護したはずの二課が何故、響を戦わせるような真似をするのかと、怒りさえこみ上げる。
しかし──ならば、自分は何なのだ。シンフォギアの力を持ちながら、鎖に繋がれて唯々諾々と『飼い主』の言うことを聞くだけの毎日。まるで狗のようだと思う。
響の代わりになることさえできない自分に、情けなさと悔しさで死にそうになる。どす黒い炎のような自分への怒りに、まるで内側から身体を焼き苛まれているような気さえした。
しかし、逆らうことは出来なかったし、考えられなかった。二年も昔から、その身には取り返しのつかない罪が刻まれている──自分はもう引き返せない場所にいるのだと、律は思っている。
だからせめて、響だけでも日の当たる場所に返してやりたかった。
合法であるか、非合法であるかという区別に、大した意味はない。そもそもシンフォギアというもの自体が、ある種の悪意で生まれたことを、律は知っている。
こんな
しかし、その方策すら律には思いつかない。どれだけ悟ったようなことを口にしていても、彼女はどこまでもただの子供だ。わずか十五、六の小娘に、どれほどのことができようか。
そう──何もできない。できることなど何もない。こうしてただ『飼い主』の目を盗んで、響を見守ることだけが、律に許されているただ一つの手立てだった。
「……姉さん、どうしてなんだよ……」
ノイズは本来、自然発生する数はごく限られている。確率的には天災に巡り会う程度──確かに死者は出る、だがそれは交通事故でも失火でも同じことだ。
しかしノイズによる災害は、ここ十数年間で激増している。その理由について気付いている人間は、この世の中にはほんの僅かしかいない。
そして律は、その理由を知っている一人だった。
今ここにいるノイズは、たった一人の人間の悪意によって産み落とされたものだ。
何のためかと言われれば、それは──響を誘き寄せるため。誘き寄せ、そしてさらうためだ。研究材料に、するのだという。
嘆かずにはいられない。
『飼い主』が求めているのは、響の特殊な体質──すなわち『融合症例』としての身体だ。律には貴重な研究対象を強奪せよ、そういう命令が下されていた。
言うまでもなく、律にとってそれは大きすぎる矛盾だ。『飼い主』の意向を黙殺して見逃したとしても、二課にいれば響は戦わされる。かといって捕獲すれば、人体実験の材料になるだけだ。どちらも選べない。
しかも律の『飼い主』は、人間の命などなんとも思っていない。家畜のようなものだと考えている。自分の目的のために、自分の行動の全てを正当化できる、そういう存在なのだ。
いかなる結論を出しても、響に不幸しか与えることができない。その事実こそが、律にとっての絶望だった。
「……あの時に、せめて……!」
「おい、準備できたぞ」
「……!」
響に注意を寄せすぎてしまったらしい。
待ち人がすでに来ていたことに、気づかなかった。
振り向くと、そこにはシンフォギアと似て非なる、白色半透明の鎧を身にまとった少女が立っていた。色つきのバイザーのせいで表情はよくわからないが、鎧の色に溶け込むような銀色の髪を持つ少女だ。
視界に彼女の姿が入った瞬間、律の表情が強張る。
「ネフシュタンの鎧……! イチイバルじゃないのか!?」
「へへっ、いいだろ? フィーネが使えって言ったんだ」
「なんだと!?」
クリスと呼ばれた少女は、どこか得意げな様子で、その鎧を律へと見せつけていた。
『イチイバル』というのは、律の『飼い主』である『フィーネ』という人物から、クリスが与えられたシンフォギアの名前だ。強力な遠距離戦闘能力を持つ弓の聖遺物であり、律の見立てでは優れた装者であるクリスが使えば、翼の天羽々斬とすら渡り合えるという逸品だった。
しかし、今彼女が鎧っているものは、シンフォギアでもなければ、聖遺物でもない。それは聖遺物を超える聖遺物。『完全聖遺物』と呼ばれる、神世の力を現代に伝える、神秘の霊宝そのものだ。
その名を『
「なんでその鎧を、クリスに……」
「さあな。理由が知りたきゃ、フィーネに自分で聞けよ。アタシは任された仕事をやるだけだ」
「待てクリス! ネフシュタンは……」
「うるせぇ! お前はバックアップだって、フィーネが言ってただろ! 妹だからって、いつまでも贔屓されてるとか思ってんじゃねーよ!」
話を打ち切り、駅の構道を駆け出すクリス。
「帰り道、確保しておけよな!!」
「……これだからっ!」
仮面を被り直し、クリスの後を追う。
だが、慌てる必要は無かった。今回はあくまでバックアップだ。退路を確保すればいいだけだから、わずかばかり、考える時間はある。それが幸いかどうかは別として。
きっと時間があっても、罪に穢れたこの身に何ができるのか、そして響のために、何をすべきなのか──律は結論を出すことはできない。
何もできない無力感に苛まれたまま、言われるがままに
「こちらE6! クトネシリカの少女を発見!」
「ちっ……」
心が乱れているせいだろう。
今宵はやることなすこと、上手くいかない。あっさりと二課のエージェントに見つかってしまった。
人間相手はやりにくい。ノイズのように感情も生命もない相手ならば、単なる暴力装置となって戦えば済むだけのこと。しかし、人間はそうではない。
殺すためならばノイズがある。支配者は、ノイズを操る術を知っていた。だが、心が軽くなるわけではない。人が殺されるのを、見過ごしているも同じなのだから。
路地に紛れながら、追っ手を撒こうと動きを変える。今の状態ならばまだ何とか、それは可能に思えた。
「……捕まるわけにはいかない」
「すみません、そうもいかないんですよ。こちらも国から給料をもらっている身なので」
「ッ!!」
背後に殺気。
とっさに身体を捻りながら、大きく跳び退く。先ほどまで自分が立っていた場所に、小刀が突き刺さっていた。
これはただの小刀ではない。もしも己の影を縫い止められていれば、身動きが取れなくなるところだった。
「……『影縫い』っ!?」
「この忍法をご存じなんですか、お嬢さん?」
物腰穏やかに話しかけてきたのは、スーツ姿の若い男。二課のエージェントの一人である
微笑みを浮かべつつも拳銃を構え、油断するそぶりは微塵もない。対ノイズ戦闘ではなく、対人戦闘という意味でなら、明らかに相手のほうが格上だ。
(……緒川さん!)
律も彼のことは知っている。というか、了子のせいで身に危険が及んだとき助けてもらったこともあれば、そのツテで現代に生きる忍者である彼から護身術──という名の『忍法』を学んだことすらある。
もっとも当たり前の話であるが、秘伝やら奥義やらに属するものは教えてもらえず、習ったのはもっぱら体裁きのみ。だが、それでも少なからず目で盗み、アームドギアの機能としていくつかの『忍法』を再現しているのは、律にいくばくかの才能があったということなのだろう。
「その身のこなし……あなたも忍の技を持つとお見受けしますが、動きに少し、迷いがありますね」
師も同然の人物だけあって、簡単に見透かされてしまう。
「いかがです? 悩みごとがあれば、ご相談に乗りますよ? その仮面もお取りになって、ゆっくりとお話ししませんか?」
まったくもって、魅力的な提案だった。このぐちゃぐちゃになった胸の内を大人に吐き出せたら、どんなに開放的だろうか。
しかし、それは身の破滅以外の何物でもない。自分一人だけならいいが、周囲のあらゆる者を巻き込みながら、破滅の歌を歌うのと同じことなのだ。
事態は解決しない。自分が、支配される者である限り。
ならば、とるべき道は一つしかなかった。
「……」
あえて見せつけるように、左手でギアの仮面にゆっくりと手をかける。留め金の外れる音がした。そのまま仮面を顔から少しずらすと、律の素顔がわずかばかり覗く。
「なっ……本気で投降するとっ!?」
「まさか」
姑息な手段で作った、一瞬の隙。そこを逃さず、左の手甲から煙幕弾を発射する。
もうもうと立ち込める暗褐色の煙が、ただでさえ暗い路地裏から、完全に視界を奪い取る。この機を逃さず、律はマントを翻して大きく跳躍すると、夜空へと身を躍らせる。ぐんぐんと遠ざかっていく路地裏で、ため息をついた緒川が銃を懐にしまうのが見えた。
どうやら彼は追撃を諦めてくれたようだったが──脱出ルートが限られてしまっているのは事実。
「穴を空けても塞ぐのが早い……! これはクリスと一旦、合流するべきか。突破するにしても、それからだ。今日は手じまいだな」
最悪の場合、囮になってクリスを逃すことが、今の自分に与えられた役目だろう。
彼女のネフシュタンの鎧こそが、支配者にとっては一番大切なものなのだから。それを無事に持ち帰るために、律に身を使えと言いたいのだろう。
(所詮は道具か……ボクも、クリスも)
もとより恩と恐怖で縛られている相手だ。愛情を求めることは、律は二年も前に止めている。
それはきっと、これからも続くのだろう。いつか
おそらく、それは歴史上初めての戦いだった。
不完全な聖遺物を乙女の唄によって励起させ力と変える、いわば現代科学の結晶であるシンフォギアと、正真正銘の神代からの遺産である、
もっとも──戦況は極めて、シンフォギアの不利であったが。
「くうっ……!」
その様を、腰に手を当てたクリスが嘲るような笑みを浮かべながら傲然と見下ろしていた。
クリスは翼にかばわれ、何もできないでいる響を一瞥しながら言う。
「まだ立つのかよ? アタシの目的は最初からそっちの役立たずのほうなんだ。連携もとれない、足を引っ張るだけの奴にいつまで義理立てしてんだよ? とっとと倒れちまえ!」
「ふ……私がそれだけのために、こうして立ち上がっていると思うたか!」
翼は口の端より血を流しながら、不適に笑う。
「貴様の着るそれは、二年前に私の不始末で失ったもの! ネフシュタンの鎧だけではない。私はそのとき、かけがえのない友まで失っている……その精算ならずして、絶対に倒れん!!」
翼はちらり、と横にへたり込む響に目を向けた。
彼女は未熟であり、惰弱。何も分かっていない、この場にいることすら相応しくない、ただの巻き込まれただけの少女だ。
彼女はガングニールの少女・奏の後継者ではない。それを認めることはできない。しかしならばこそ、奏の守った響に万が一があってはならない。
それは共に戦えるかどうかとは関係がない、まったく別の問題だ。守らなければならない者なのだ。
「ふぅん……二年前の事件ねぇ」
クリスが、皮肉げに口元を吊り上げながら笑う。
「だったら、ますます戦うべきはアタシじゃないぜ? 何せ今、ここにはあの事件の当事者が来てるんだからなぁ……なぁ、おい!」
クリスが背後に目を向ける。
だが、そこに広がっているのは静寂。人の気配すらしない、真なる夜の闇が広がっていた。
「……だんまりかよ。カッコつかねーじゃねーか。いつまで目ぇ逸らしてんだよ、半端者が! 覚悟が決まらないんなら、
「……言わせておけば」
敵の──クリスの背後で、強烈な殺意が膨れ上がったのを翼は感じ取った。
彼女の眼前で、街灯の明かりで長く伸ばされた影からゆらりと気配が立ち上がり、人の形を取る。
それはいつか見た、あの暗い灰色のシンフォギア──クトネシリカの装者である律だった。仮面は付けている。その正体は、知る者にしかわからない。
そしてクリスは、その知る者の一人だった。
「合流したと思ったら、人の影にこそこそ隠れやがって。いい加減にしろってんだ。大事な妹分だか何だかしらねぇが、そんな甘っちょろいセンチメンタルを、戦いの中に持ち込むんじゃねぇよ。目障りだ!」
「……それ以上何か喋れば、殺す」
「できるのかよ。非力で貧弱なてめぇごときが、このアタシを!」
剣呑な空気が、対峙する二人のあいだに広がっていく。
仲間割れ。そうとしか言い様のない状況だった。
ネフシュタンの少女と、クトネシリカの少女は、同じ組織──本当に組織なのかは翼には確認のしようもないが──、そして同じ目的によって『動かされている』と翼は感じていた。しかし、この有様はどうだ。
自分という敵を前にして、いがみ合う醜いこの姿。
「翼さん! 大丈夫ですか!?」
「……」
肩を貸そうと駆け寄ってきた響に、無言で返した。しかし、その威圧的な視線にもひるまず、無理やりに脇を肩に載せ、震える翼の身体を懸命に支えようとする。
その健気な努力を振り払えるほど、さすがに翼も意固地ではなかった。
翼を助けつつも、響の視線はクトネシリカの装者──無論、彼女が律であるとは、響は知る由もない──に向けられている。そのことが気になった。
「……クトネシリカの装者が、気になるのか?」
響は口にするべきかどうか僅かに逡巡したあと、はっきりと頷く。
「はい。何だか、知ってる人なような気がして……」
「何だと!?」
「あの人、わたしの名前を知ってたんです。一度も名乗ったことなんて、なかったのに……」
「そういえば……」
思い出す。
一度だけ剣を合わせたあのとき、明らかに彼女は響のことを知っている素振りを見せていた。それもただの知り合いではない、一角ならぬ感情を持っているようだった。
しかしあの時こそ、響が非日常へと足を踏み入れたその瞬間。その前には、どこにでもいる、少しばかり不幸なだけの女子中学生だったのだ。装者として注目していた、ということはあり得ない。
ならば──プライベートで知っていた、という結論になる。それ以外に、ない。
「……心当たりは?」
「あ、ありません……ありませんけど……」
「けど?」
「きっと、あの人は……わたしを守ってくれていたんだと、思うんです」
響のその言葉は、直感的なものだろう。
だがそれゆえ、真実を言い当てているように翼には思えた。
(だとするなら……)
響を守りたいと願う者が、自分たちの敵に与している。その矛盾の正体が何であるのか──それはまだ、翼にも見当がつかない。
だがネフシュタンを鎧うクリスの言った『二年前の事件の当事者』という言葉が、全てを繋ぐ鍵であるかのような気がしてならなかった。
─用語解説─
■忍法
律の戦闘技術の根幹となっているスキル。正確には現代忍法。
ただし緒川慎次から学んだものは歩法や体裁きといった初歩の初歩でしかなく、忍者の本領である暗器術に関しては一切学んでいない。
にも関わらず、律が鎧うクトネシリカのアームドギアが仕込み剣を中心とした『暗器』であるのは、律自身が『影』でありたいと望んだ心象に由来する。
■フィーネ
律の支配者であり『姉』。
つまるところは、櫻井了子の持つもう一つの顔。
両者が同一人物であること知っているのは、本人と律以外には存在しない。