♪
カタタン――カタタン――カタタン――
車輪と線路が奏でるリズムが、いっぱいに開いた窓から耳へと届く。
カタタン――カタタン――カタタン――
空はぬけるように蒼く、彼方には白く大きな入道雲。
カタタン――カタタン――カタタン――
高層ビルは一つも見えず、代わりに深緑生い茂る木々が並ぶ。
カタタン――カタタン――カタタン――
そして、遠く霞んでいた記憶を揺り起こす、優しい風の匂い。
カタタン――カタタン――カタタン――
カタタン――カタタン――カタタン――
カタタン――カタタン――カタタン――
……
…………
………………
『ぐす……ひっく…………やだよぅ』
お気に入りの、ピンクのイルカのぬいぐるみを抱きしめたわたしは、我慢できずに涙を溢れさせる。
『わたし、っ、――ちゃんと一緒がいい、もんっ……えぐ』
『………』
そんなわたしのワガママに、パパとママも、悲しそうな顔をする。お見送りに来てくれた先生とお友達も、同じ顔だった。その顔が、もっとわたしを悲しくさせた。
『
『やだやだやぁ! わたし、ここがいい!』
『………』
力いっぱい首を振って、自分の思いを伝えようとするけど、ダメだった。
電車が駅に近づいてくることを知らせるベルが、わたしの涙声を覆ってしまう。
そして、何も伝えられないでいるわたしのところに、電車が来てしまった。
『行くよ、水夏』
開いたドアへと、わたしの手を引くパパ。
うつむいたまま、わたしはされるがままになっていた。
乗せられた、駅より少し高い電車の中で、お友達のバイバイの声をいっぱい聞いて、それがまた悲しくて。わたしは、また涙を流す。
そして、鳴る。お別れのベル。
『すいか』
その大きな音に混じって聞こえた、何かを我慢したような声。
わたしは、顔を上げてその男の子をじっと見つめた。
『待ってるからな、オレ。また逢えるの』
ビックリした。
お引越ししたら、きっともう、会えなくなる。そんな風に、ずっと思ってたから。
『ホントに? 約束、してくれる?』
恐る恐る、わたしは小指を差し出す。
そして、しっかりと、そこに小指が結ばれた。
『トーゼンだろ』
赤い目をした男の子は、それでもしっかりと笑顔だった。
小指が離れて、電車のドアが閉まっていく。
『また、逢えるよね?』
わたしは、その小指を胸に抱いた。
♪
長く揺られていた電車が元来た道を戻っていくのをぼんやり眺めながら、わたしは十年ぶりに触れる故郷の空気に身体を任せてみる。
電車の中で移り変わる景色を眺めていたときもそうだったけど、懐かしい、とは、正直あんまり思わない。ここを出た当時、わたしは六歳。まだ、小学校に入学する以前なのだから、それは仕方ないと思う。
それなのに、郷愁だけは、しっかりと胸に宿っていた。
理由は簡単。遠い日の約束を夢に視たからに決まってる。
十年前に交わした、拙く、そして幼い、けれど何よりも大切な約束。細部こそ今は遠く色褪せているけど、繋いだ小指の力強さと、もらった想いの温かさは、今もしっかりと覚えている。
「早く、逢いたいな」
小さく零れ出た想い。十年間、ずっと胸に秘めたままだった想い。
――――もう、すぐ。
『
お気に入りのサンダルが、舗装もされていない駅前に足跡を刻む。
森の香りをはらんだ風が、腰まで伸ばした黒髪と、薄く水色に染められたワンピースの裾を踊らせる。
肩に掛けたショルダーバッグを掛けなおす。ピンクのイルカのチャームが、真夏の空気の中を、泳ぐように揺れた。
一つ大きく伸びをしたあと、わたしは照りつける夏の日差しに右手を掲げ、その隙間から零れ落ちた宝石のような煌きに、双眸を細めた。
久しぶりに感じる、本当の土、風、太陽。
まさに、自然しか取り柄のない我が故郷ならではのお出迎えだった。
と言ってはみたけど、わたしの本当の意味での故郷は
ここからさらに、東の
村へ通じる交通機関は定期バスのみで、その本数は一日三本。時間は午前七時、正午、午後五時となっている。もちろん、タクシーなんてものは存在しない。つまり、地元民以外は、バスもしくは徒歩以外に、羽澄村へ行く手段がなかったりする。それだけ辺鄙なところなのだ。まさに陸の孤島である。
ちなみに、今の時間は午後十二時八分。バスが羽澄へ向けて出発した直後だったりする。もう一つちなみに、羽瀬野に電車が到着した時間は十二時五分前。本当なら、正午のバスに間に合う時間だったのだ。
「ひたりすぎたなぁ」
と、漏らす通り、わたしが感慨にひたっていたせいでバスを逃したのはご愛嬌ということにしておいて。
「やっぱり、歩くしかないかなぁ」
こんな寂れた町から、さらに寂れた村まで、未だに公共のバスが往復しなければならないことから分かるとおり、本当に結構な距離がある。
けど、次のバスは約五時間後。歩いたほうが早く着くと思う……多分。
こんなことなら、感慨にひたるのはもうちょっと後にして、羽澄に着いてからにすればよかったよ……、と、肩を落とす。
「あの。何かお困りですか?」
と、からっとした真夏に似合わないどんよりとした空気をまとったわたしに、横合いから声が掛けられた。
そちらに顔を向けると、自転車を押した女性が立っていた。白と青を基調にしたシャツに、膝下丈のデニムのパンツ。茶色く染められたセミロングの髪には、チョコレート色のキャスケットを乗せていた。そして、年齢不詳の整った
「いえ、大丈夫、です」
気を取り直して、わたしは笑顔を作るが、
「もしかして、バスに乗り遅れたんですか?」
わたしがついさっきまで恨めしそうに見つめていた方向と今の時間から、正確に“どんより”の原因を推理した女性は、窺うような雰囲気から、気遣わしげになっていた。
「実は、そうなんです」
見抜かれてしまってはごまかし続ける意味もなく。てへへ、と、恥ずかしさから笑うしかなかった。
彼女も羽澄の方へ顔を向けながら、「一日三本しかないもんね」と、苦笑気味。
「でも、どうして乗り遅れたの? さっきの電車で来たのなら、確か間に合う時間だったと思うんだけど」
うっ……。
そして彼女は、気づかなくてもいいところまで気づいてしまっていた。
「自動改札がない駅が珍しくって……」
わたしは、思わず顔を逸らして言い訳めいたことを口走る。
「ウソね。きっと、懐かしくてボンヤリしてたんでしょ。ぽけっとしてるところは、十年経っても変わってないのね」
「え?」
耳に届いた、思いもよらない『十年』という単語。
どうして、目の前の女性はその歳月を知っているのだろう。
当時のわたしは、羽澄村の人以外に知り合いなんていなかったのに。
「まぁ、いいわ。種明かしは、車の中でしてあげる」
♪
「ありがとうございました、先生」
かつての教え子は、律儀に頭を下げ、村の中へと歩いていく。
その後ろ姿を、意識が捉えて離さない。
羽澄に着くまでの短くない時間、私たちはずっとお喋りに興じていた。種明かしから、彼女が引っ越してからの羽澄村のこと。それから、彼女が引っ越した先の
「十年ぶりの、節目の祭り、か……」
私は、山の中腹、羽降神社があるあたりを瞳に映して、閉ざす。焼きついた緑に、見飽きた、くすんだ朱色の鳥居を重ね合わせ、そこに二人の姿を描き足してみる。
「約束、果たせるといいわね」
その呟きは誰に聞かれることもなく、空調の音に呑み込まれて、消えた。
♪
「き~もちい~」
天然の緑の屋根に隠された空間に腰を下ろしての小休止。目の前を流れる、山間ならではの清いせせらぎに足を浸し、ぱしゃりぱしゃりと素足を遊ばせるたびに、水の飛沫が跳ねては光る。
逸る気持ちを落ち着かせるために、とりあえず散策しようと林道を歩いていたわたしは、意識しないままに、記憶の中にある懐かしい場所にたどり着いていた。
ここを訪れるのも、十年ぶり。かつて、わたし達の秘密基地だった場所。山や川で散々遊んだあとは、よくここでお昼寝をしたっけ。今はもう、そんなことはできないけど、当時のわたしたちは、砂まみれになるのも厭わずに転げていた。
「でも、もう誰もいないんだろうなぁ……」
なんて、当たり前のことを零す。
あれから十年。秘密基地で遊ばなくなるには、充分すぎる時間だった。仕方ないことだけど、その現実に、寂しさが胸を衝いた。
みんなは、わたしがいなくなったこの
できることなら、わたしもその景色の中で笑っていたかった。でも、それは叶わない。時間を戻すことは、わたしの手で叶えられることじゃない。
それならせめて、と思う。思ってしまう。今だけでも、と。
だから、次の瞬間に起こったことを、わたしは本当に神サマが起こしてくれた奇蹟だと思った。
「すい……か?」
「――――え?」
不意に木々の間から覗いた顔は、わたしが一番
「くーちゃん?」
ざあっ、と、風が二人の間を駆け抜ける。
止まっていた時計の針が、ゆっくりと、しかし確実に時を刻み始めた瞬間だった。
♪
本殿の階段に腰を掛け、露店のおじさんから貰ったラムネを、どちらからともなくカチン、と重ね合わせ、同時に口をつける。
甘酸っぱい液体が喉を潤す度に、少しきつい炭酸が弾ける刺激が、久しぶりにそれを飲んだわたしを楽しませてくれる。
「はふ。久しぶりに飲んだけど、やっぱり美味しいねぇ」
「確かに。俺でもこんな時くらいしか飲まないし、すいかだと、もっと飲まないだろ」
「そだね。飲むどころか、見ることもないし」
空になった瓶を、両手で弄ぶ。右へ左へ、上へ下へ。逆さまにしては、また戻して。その度に、中のビー玉が涼やかな音色を奏でる。
カラリ、カラカラ――
カラカラカラカラ、カラカラリ――
カラリ、カラリ――
カラカラカラリ、カラ、カララ――
「お前、それ好きだよな」
飽きもせずに、空き瓶を楽器のように奏で続けるわたしに昔を思い出したのか、くーちゃんは頬を緩ませる。
「中のジュースはみんなで回し飲んでも怒らないのに、その瓶だけは、絶対手放そうとしなかったもんな」
そして、わたしの覚えていない爆弾を投下してくれた。
「そっ、そんなことあった!?」
驚きで手の内の瓶を取り落としそうになりながら、勢いよく首を向ける。その顔は、きっと真っ赤になっていると思う。
だって、それってつまりはくーちゃんと……ってことだよね?
昔のわたし、なんて羨ましい……じゃなくて、なんて大胆……でもなくて、なんて恥ずかしいことを。
「ああ。最後には、瓶を割っちゃいけないって知らなくて、瓶を割って取り出したビー玉巡って喧嘩したりな。あれ覚えてないのも、なんか不思議だけどな」
「……え?」
「ん?」
「な、なんでもない……」
くーちゃんは、今の話に特別意識することがなかったのか、そのまま懐かしい思い出を話し続けている。けど、わたしは下を向いたまま、顔を上げられなかった。頬が紅潮したままの顔を、くーちゃんに見せたくない一心で。
そこから先の話は、胸の鼓動が気になって、正直、あまり覚えてない。その鼓動が落ち着くころには、話しはじめてから結構な時間が経っていたせいか、くーちゃんも話し疲れたのか、境内をゆっくりと眺めるわたしたちがいた。
ガヤガヤと、あちこちから人の声が飛び交い、かなりの数の大人が東奔西走。そして、その隙間を縫うように、子供たちが追いかけっこをしていた。普段は静寂に満ちている神社の境内には、いくつもの屋台が立てられ、真ん中には櫓が組まれていた。
「それにしても……そっか。今日ってお祭りだったんだね」
周りの屋台に比べて、一際高く組み上げられた櫓を見上げながら、独りごちる。
どうりで、最初に村の中を歩いたときに人がいなかったワケだ。
「お前、忘れてたのか?」
「仕方ないでしょ、十年ぶりなんだから。お祭りの日にちまでは、さすがに覚えてないよ」
それもそうか、と、すぐに納得したくーちゃんは、次の瞬間何を思ったのか、急に立ち上がった。
「夏休み中だし、ちょっとくらいはいるんだろ? それなら、みんなのところに行こうぜ」
「うん!」
そうして差し出されたのは、過去を埋めるための右手だった。わたしは両手でその手を掴む。すぐに感じる浮遊感。重力を無視して身体が持ち上げられる。
「行くぞ」
境内を勢いよく横切り、山道を転げるように駆け降りる。
みんなに会える。そんな昂揚感もモチロンあるけど。
ねぇ、くーちゃん。
くーちゃんはドキドキしないの?
わたしたち、十年ぶりの再会なんだよ?
わたしは、ドキドキしてるよ?
繋がれたままの右手から感じる体温が、わたしの胸を、友達との再会に期待する以上に高鳴らせていた。
ねぇ、くーちゃんは、どうなのかな?
♪
太陽が一日の役目を終えて、その身を山の稜線へと沈ませていく。
一面ぬけるように蒼かった空のキャンバスも、今はオレンジ色に塗り替えられて、一日の終わりまでの少ない時間を優しく見守っている。
普段であれば、娯楽の少ないこの村で、全員が一同に集まっていることなんて、そうあることではないみたいで、みんなも少しテンションが上がっているらしかった。
「そろそろ、祭りの時間だな」
その言葉で、みんなが一斉に神社のある方向を見上げると、ちょうど山道に沿って設えられた提灯が、下から順に灯されていくところだった。夕陽に照らされてなお緑深い木々の合間を、誘うように
「あたしたちもそろそろ行ってみる?」
「いいかもな」
そんな会話を交わしながら、みんなが足を止めたままのわたしから離れていく。
胸がぎゅうっと締め付けられるような気がして、ワケもなく悲しくなってくる。
もうすぐ今日が終わってしまう。そんな現実を前にしたからなのかもしれない。目の前に確かにあるはずの幸せな光景が、切り取られたどこか遠い世界を視せられているような気さえしてきてしまう。
「なんて顔してんだよ。本番はこれからだろ」
そんなわたしを、くーちゃんは元気のいい声で引っ張り上げてくれた。
わたしの前に立って、子供っぽい笑顔で、温かい右手を向けて。
思えば、いつもそうだったっけ。
わたしが何かで落ち込んでいるときは、いつもくーちゃんが傍にいてくれた。だからわたしは、すぐに笑顔に戻れるんだ。
「うんっ。行こう、くーちゃん」
今はそれが、昔と違って、たとえ見せかけであったとしても。
♪
出店が多く立ち並ぶ一角を、わたしたちはみんなで歩いていた。それぞれの手にはたこ焼きや綿菓子、リンゴ飴にイカ焼きといった食べ物があり、それをみんなで少しずつ分け合いながら舌鼓を打つ。
もちろん、直接口をつけるものは気恥ずかしくて、食べないけど。
「美味しいねぇ」
楽しげな空気の中でそう言うわたしは、まだ胸襟に寂しさを抱えていた。
何処から来ているのかも、何が原因なのかも分からないその感情は、居座り続けたまま一向に離れる気配を見せてくれない。
お参りしていたときも、金魚を掬っている間も、ちくちくと喉に小骨が引っかかっているような気がして。それがまた、みんなに悪いことをしている気がして。わたしは笑顔を張り付けていることしかできなかった。
本当なら――お昼までのわたしなら、絶対に心から楽しめるはずのこの場を、出来ることなら抜け出したいとさえ思っている。
盆踊りに向かおうとするみんなの声も、リズムよく響く太鼓と笛の音色も、何もかもが希薄になっていく。
「……すいか?」
くーちゃんのわたしへの問いかけすら、
りぃん
と、鈴が響かせる澄んだ音色に掻き消されて――――
「――――え?」
今日、何度も耳にしながら、気のせいだと片づけてきた鈴音。それが、今初めてはっきりと耳にこだました。その瞬間、視界がグニャリと歪に捻じ曲げられ、脳裏に覚えのないはずの光景が過る。
けど、それは夏の日の陽炎のように朧で、一瞬の後に霧散してしまった。
それでもわたしは、理解する。理解してしまう。
さっきの光景がなんだったのか。時折聴こえていた鈴の音が、どういう意味を持っていたのか。
「そう、だったんだ……」
無意識のうちに零れ落ちた呟きは、今のわたしの心情で正確に彩られていて。ゆえ、異物となって周囲に溶け込めず、わたし自身に還るしかなくて。
それで本当に、欠片も残さず理解してしまった。
もし理解せずにいられたなら、それはどれほど幸せだったか。何も知らないまま今日という日を跨ぐことができたなら、それはどれほど幸せだったか。
くーちゃんと再会して。みんなと再会して。昔話に花を咲かせて。今日までの日を語り合って。祭りの終わりと共に今日が終わる。手を振りあって。再会の約束をして。
――――でも、本当に?
わたしは、それが本当の幸せだと思ってる?
「違うよね。そうじゃ、ないよね」
先へ、後へ。チャンスは何度もあったのに、それを知らないフリしてきた。目を瞑って。耳を塞いで。その結果が、深みまで沈んだこの状況。
袋小路は、なにも不幸だけが道を閉ざしているワケじゃない。幸せで動けなくなることだってある。掴めなかった未来とか、思い描いていた夢とか。そんな甘露で満ちていることだってある。
今の私が、まさにそれ。妥協した幸せに浸って、その温度があまりにも心地良いものだから、本当に希ってきたことを捨てようとしていた。
でも、もう大丈夫。土壇場も土壇場。小説とかなら、クライマックスすら通り越してエピローグに入りかねない今だけど、それでも、わたしは気づくことができた。
「みんな、ゴメン。ちょっと、くーちゃん借りてもいいかな」
だから、今こそ始めよう。最初で最後の、大舞台を。
♪
髪を梳るような優しい風が、わたしたちを包んでいく。
遠く祭りの音色をはらんだその風は、頂へとそれを運ぶ。まるで、天へと下界の賑わいを届けようとするかのように。
「いい風~」
わたしとくーちゃんは、神社からさらに山を登ったところにある、開けた場所にいた。ここまでくる間、わたしもくーちゃんも、お互いに口を開かなかった。それは、ここに着いてからもあまり変わらず、今のわたしのように、なんでもないことを口にするくらいでしかない。
でも、それももう終わり。
ざあっ、と、一際強い風に煽られて、伸びた黒髪と、ワンピースの裾が靡く。
瞑目して、深く深く、深呼吸する。
覚悟は、まだ決まりきってないけど。
ゆっくりと瞼を持ち上げて、しっかりと、正面に立つくーちゃんを瞳に映した。
「ねぇ、くーちゃん」
「なんだ?」
落ち着いた、その低い声音は、わたしの記憶の中にある少年の声とは違っている。けれど、そこに込められた優しさは、十年という歳月が経った今でも変わらない。
幼い頃のわたしが惹かれ、今のわたしが焦がれる、
ぶっきらぼうに見えて、必要なところではそっと手助けしてくれる。後押しが必要なときには後押しを。支えが必要なときには支えを。
「一応、先に言っとくけど、すいかの言うことなら、何も迷惑なんて思わないからな」
そう、こんな風に。
これだからくーちゃんはズルい。そんなだから、わたしはずっと、くーちゃんのことが好きなんだ。
「ありがとね」
お蔭で、覚悟も決まったよ。
そして、誂えたように風が凪ぐ。
くーちゃん、わたしと舞ってください。この一世一代の神楽を。想いを余さず乗せた、この恋神楽を。
「わたし……わたしね、
時間という軛から取り残されたかのような静寂の世界に、一つの
やっと、言えた。
たったそれだけの言葉を音にしただけなのに、心臓はいつもの倍以上の速度で早鐘を打ち、自分で聞こえてしまいそうなくらい。頬なんて絶対紅潮している。
でも、ここで止まることだけはできない。
この今が、わたしが十年間ひたすらに希ってきた瞬間だから。
「十年間、ずっとずっと、くーちゃんのことが忘れられなかった。気がつけば、くーちゃんのことばかり考える自分がいて。楽しいことも考えたし、怖いことも考えた。もし夢が叶って彼女になれたら、こんなデートがしてみたい、とか。反対にわたしのこと忘れちゃってたらどうしよう、とか。考えない日なんて、きっと一日だってなかった。
そして今日、羽澄村に還ってきて。くーちゃんはわたしのこと覚えててくれて。ホントに嬉しかった。でもね、わたし欲張りだから。それだけでいいって思えないみたい。
ねぇ、くーちゃん。くーちゃんは、わたしのこと、どう思ってる?」
「俺は……俺も、水夏のことが好きだ。言える日を、ずっと待ってた」
力強い声で、くーちゃんは即答してくれた。わたしが欲しかった答えを。
「十年前の再会の約束から、毎年この時期になると、気がつけば秘密基地に向かってる自分がいて。今年こそすいかが帰ってくるんじゃないか、って期待しながらさ。それで今年、十年ぶりに、すいかに逢えて、俺、本当に嬉しかった」
恥ずかしげで、何かを我慢したようなくーちゃんの笑顔は、再会を約束したあのときのままだった。
「すいか。俺と、付き合ってくれないか?」
そして、差し出される右手。
夢にまで見たそのシーン。
それが今、目の前にある。
この手を取れば、恋神楽は終わる。
それでも、後悔はない。わたしの本当の幸せは、くーちゃんとともにあることだから。
「はい。よろこんで」
両手で、差し出された手を取る。そして、二人の距離はゼロになった。触れ合うだけの拙く幼いキス。ただ、風の音だけが、わたしたちを祝福してくれていた。
どれくらいの間そうしていたのか、どちらからともなく離れたわたしたちは、お互いにはにかみ合った。
「ファーストキス、だよ」
「俺もだ。すっげ嬉しい」
「わたしもだよ。ほんの短い時間だったけど、くーちゃんの彼女になれて、怖いぐらい幸せだった」
「……え? すいか、それ、どういう……」
「ゴメンね、くーちゃん。恋神楽は、これで終幕。終幕した神楽は、もう舞えない。そして、幕が下りたら、わたしもここにはいられない」
ほらね、と、一歩下がって、両手を広げる。淡い光を放つ私の身体からは、蛍のような燐光が、一つ、また一つと離れ、天へと昇っていく。
それは、この世のものとは思えぬほどに現実から乖離した、幻想的な光景だった。自分で見ててもそう思う。
つまりは、そういうことだった。神社の境内で、わたしが鈴の音をキッカケに思い出したことは、もはや自身が此岸から離れた存在だったということ。
「ゴメンね、くーちゃん。でもね、わたしは後悔してないよ。だって、こうしてくーちゃんに告白できて、彼女にまでしてもらえて、これ以上の幸せってないよ」
想いとは関係なく溢れてくる涙を覚えててもらいたくない。そんな思いで、精いっぱいの笑顔を見せる。
「十年区切りの節目の祭りに選んでもらうことができた。くーちゃんが待っててくれたから。ずっとずっとずっと、忘れずに信じて待っててくれたから。一番強く、待っててくれたから。だからわたしは、今年、還ってくることができたんだよ」
ちょうど今日から四年前。一つの不幸な事故があった。羽瀬野へ向かう電車が、一人の女の子の未来を奪っていったのだ。その女の子が、わたしだった。
「だから、泣かないで。わたし、今本当に幸せなんだから。くーちゃんは、違う?」
「違うわけ、ないだろ。俺だって、幸せに決まってる」
くーちゃんも、大粒の涙をこぼしながら、笑ってくれた。
本当に、優しい、わたしの彼氏だった。
そう思ったら、また愛しさが込み上げてきて、また、唇を寄せ合った。
「セカンドももらっちゃった。えへへ……今度はしょっぱいね」
「ホントにな」
そんなことをしている間にも、徐々に数を増す燐光が、次々に天へと昇っていく。
もう、残された時間は、殆どない。
だから、しっかりお別れをしないといけない。未練は、残しちゃいけないから。
「ねぇ、くーちゃん。わたしは先に逝っちゃうけど、くーちゃんには、こっちでしっかり生きてほしい。くーちゃんを置いていなくなっちゃう彼女に操なんて立てないで、新しい彼女作って、いつか家庭も持って、子供たちを育んで、幸せになってほしい。それが、わたしの最後のお願い。
もし、お願い聞いてくれなくて、こっちで幸せにならなかったら、絶対にむこうで話してあげないからね」
解けていく身体。もう、身体と呼んでいいのかも怪しいくらい。
それでも、右手の小指だと思しき部分を、何とかくーちゃんに差し出して。
「約束、だよ」
そこに、確かにくーちゃんの小指が絡まって。
「バイバイ。大好きだからね」
わたしは、白光の中に溶けた。
♪
『羽瀬野~、羽瀬野~。お降りのお客様は……』
プラットホームに、開いたドアから電車内のアナウンスが響く。降りる乗客は一人だけ。
そよぐ風に、腰まで伸ばした黒髪と、薄く水色に染められたワンピースが靡く。
「うぅ……。あんなこと言っちゃったから、バツが悪いなぁ……。行くの、今度にしようかなぁ……」
肩を落とした拍子に、提げられていたバッグが前後に揺れ、鈴が謡う。それに遅れて、ピンクのイルカのチャームが、励ますように踊った。
「でも、ここまで来たんだし、やっぱり逢いたいし――――」
麦わら帽子のつばを持ち上げて、羽降山を仰ぎ見る。
「うん。決めた。行こう」
無人の改札に、白い切符を置いて、駅を出る。
朱い切符と並んで置かれたそれは、これから二人が紡いでいく未来の色をしていた。
了