天の道を往き総てを司る比企谷八幡   作:通雨

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奉仕部編7話

 放課後の家庭科室、調理台のコンロの前には、由比ヶ浜結衣の姿があった。

 どうやら麻婆豆腐を上手く作れたことに味を占めて、料理にハマってしまったらしい。

 やや小振りな鍋の中身は、ぐつぐつと音を立てて煮立っている。

 

「よ〜し、温まったかな?」

 

 コンロの火を止めて、鍋の中身を魔法瓶へと移す。

 

「ゆきのん、喜んでくれるかなあ? 喜んでくれればいいんだけどなあ」

 

 どうやら、世話になった雪乃に料理を振る舞うつもりらしい。

 ちなみに、『ゆきのん』などとあだ名呼びしているが、まだ雪乃にあだ名呼びの許可は貰っていない。

 

 

 

 

 

 ところ変わって、特別棟、奉仕部の部室では、雪ノ下雪乃が一人佇んでいた。

 今日も依頼は無く暇だったので、とりあえずいつも通り読書に勤しむ。

 文庫本のページを四度捲ったところで、ドアをノックする音が響いた。顧問である平塚静はノックもせずに開けるクセがあるので、依頼者である可能性が高い。

 

「どうぞ」とドアの向こうに声をかけると、開いたドアから見知った顔が覗いた。

「やっはろー! ゆきのん!」

 

 何がそんなに楽しいのか、結衣が嬉しそうな顔で部室に入って来た。

 

「や、ゆ、ゆきのん、とは何かしら」

「あだ名だよ。雪ノ下雪乃だから、ゆきのん。あたし、あだ名つけるの得意なんだよ」

「あだ名、というのはわかるけれど……ゆきのんと呼ばれるのは……」

 

 雪乃は不本意そうに呟く。そんな可愛いらしいような、それでいて間の抜けたようなあだ名など、これまでの人生で一度も付けられたことはない。

 

「ゆきのん、今日は暇かな?」

 

 部室の隅から椅子を引き寄せて、長机の端に座る雪乃の隣に腰を下ろす結衣。相変わらずパーソナルスペースが狭い。

 

「ゆきのん呼びで押し通すのね……見ての通り閑古鳥よ。今も、暇つぶしに本を読んでいたわ」

 

 雪乃は、文庫本の背表紙を結衣の方へ向けた。何とは無しに、結衣はそのタイトルを読む。

 

「犬神家の一族? なんか聞いたことあるかも」

「金田一、といえばわかるかしら?」

「あ、知ってる! アイドル主演(堂○剛etc.)でドラマ化されたやつでしょ? ドラマ見たことあるよ」

「ええ、アイドル主演(稲○吾郎)でドラマ化されたこともあるらしいわね。私はドラマは観た事が無いのだけれど」

 

 噛み合っているようで、噛み合わない二人の会話。結衣が言っているのは、金田一は金田一でも孫の方である。

 

「ところで、今日は何の用かしら? 貴女の依頼は達成できたはずよね」

「今日はね、ゆきのんに豆腐のお味噌汁作ってきたんだ。ほら、ヒッキーがあの豆腐はお味噌汁に合うって言ってたでしょ。あのお店の豆腐で作ったんだ」

 

 肩に提げていた鞄を膝の上に置く結衣。

 

「家庭科室借りてあっためてきたから、アツアツだよ」

 

 言いながら、鞄から魔法瓶と紙コップを取り出して机の上に置く。

 

「なぜ、私にお味噌汁を?」

「この間の依頼のお礼。それと、あたし最近お料理にハマっちゃって。ゆきのんに味見してほしいなって思って」

 

 結衣は魔法瓶の口を中蓋ごと開けて、味噌汁を紙コップに注いだ。あっためてきた、という言葉どおり、味噌汁からは熱い湯気が立っている。

 

「ゆきのんに、煮詰める料理は失敗しにくいって習ったでしょ? だからお味噌汁なら、あたしでもつくれるかなって挑戦してみたの」

「由比ヶ浜さん、言いにくいのだけれど、お味噌汁は煮詰めてはいけないのよ」

「ええ! そーなの!?」

 

 味噌汁は煮詰めると、その香りと風味が飛んでしまう。煮立たせる前に火を止めるのが一般的な作り方だろう。

 

「まあ、多少煮詰めただけなら、食べるのに問題は無いでしょうから、ありがたく頂くわ」

 

 雪乃は『礼など必要ない』とは言わない。そう、絶対に言わない。だってそんな事を言ったら、アイツと似てると言われてしまう。

 

「美味しくなかったらごめんね。ゆきのん」

 

 少し意気消沈した様子で、割り箸を渡す結衣。

 雪乃は、微かに笑みを浮かべて「いただきます」と言った。

 

「召し上がれ」

 

 味噌汁は煮詰めてはいけないという事を聞いて自信が無くなったのか、結衣の声は小さかった。

 雪乃は、徐に紙コップを覗き込む。豆腐とわかめに、細いお揚げの入ったオーソドックスな味噌汁だった。

 箸でお揚げを摘み、口に運ぶ。小振りなそれは、雪乃の想像よりも美味だった。

 おそらくこのお揚げも、大石豆腐店で作られたものだろう。あの店は、かなりレベルが高い。

 そっと味噌汁を啜ると、青空の下に広がる草原の様に、爽やかな味がした。

 風味は多少消えてしまっている様だが、何処となく洋風の香りを漂わせるこの味噌汁は、雪乃が味わった事の無い一品だった。

 

「これは、美味しいわ」

「ホント!? ゆきのん!」

「ええ、爽やかで、何処かフルーティーな味。隠し味は……」と言ったところで、雪乃に一瞬いやな予感が過ぎった。

「まさか、由比ヶ浜さん、桃を入れたの?」

「いやいや、確かに桃は好きだけど、お味噌汁には入れないよ」

 

 結衣は右手を顔の前でひらひら振って否定する。

 

「正解はね、トマトだよ。トマトで出汁をとってみたの」

「ト、トマト……」

 

 さすがに桃ではなかったが、トマトで出汁をとったというのでも、雪乃には充分衝撃だった。

 しかし、トマトには昆布などと同じく、植物性旨味成分であるグルタミン酸が含まれているので、変則的には昆布出汁と同じ様な使い方をしても間違いではないのかもしれない。

 トマトと聞いて最初は戸惑ったものの、味自体は素晴らしかったので、雪乃はすぐに食べ終えた。

 

「隠し味にトマト、そういう発想は私には無いものだわ。料理にハマっている、というのは本当の様ね。とても美味しかったわ」

「えへへ」雪乃に褒められたのが余程嬉しかったのか、赤面して照れ笑いを浮かべる結衣。

「それだけ料理に熱心なら、料理研究部とかに入部してはどうかしら?」

「うちの学校に料理研とかは無いよ。放課後の家庭科室はいつも空室だし」

「あら、そうなの? では、由比ヶ浜さんが自分で料理研を立ち上げてみる?」

 

 雪乃にそう言われると、結衣は含み笑いを洩らしながら、雪乃に抱きついた。

 

「ちょ、ちょっと! 由比ヶ浜さん?」

「ゆきのーん、あたしねぇ、入る部活は決定してるんだ」

 

 顔が近い、パーソナルスペース・ゼロ。雪乃は妙に焦る自分を冷静に客観視して、自らを律しようとした。

 しかし、交友経験に乏しいフレンド・ゼロな彼女には、突然の事態への対応は難しかった。

 同性とはいえ、急に抱きつかれたら焦るわよ、と内心で言い訳し、平常なフリをしながら問いかける。

 

「何処に入部するつもり?」

 

 問われた結衣は、少しだけ勿体ぶって間を取ると、満面の笑みで答えた。

 

「奉仕部! ゆきのんと同じ、奉仕部だよ!」

 

 雪乃の表情が、微妙に歪んだ。眉は垂れ下がり、目は少し細まり、唇はへの字気味だ。

 

「あ、あれ? ゆきのんあんまり嬉しそうじゃ無い?」喜んでくれると思っていた結衣は、雪乃の思わぬ反応に焦った。

「もしかして……ゆきのん、あたしのこと嫌いだったり?」

「『嫌い』ではないけれど……『苦手』、かしら」

「『嫌い』と『苦手』って、『昆布』と『トマト』くらいおんなじだかんね!?」

「『昆布』と『トマト』は別物だと思うわ」

 

 雪乃の冷静な返しに、結衣は小さく呻る。

 投げれば返してくれるキャッチボールのような、結衣の楽しい反応に、雪乃の顔に笑みが溢れた。

 

「冗談よ、由比ヶ浜さん。歓迎するわ、ようこそ奉仕部へ」

「じょ、冗談だったの? もぅ!」

「ふふっ、ごめんなさい。じゃあ、入部届けを顧問の平塚先生に提出しないとね」

「入部届け? そっか、わかった。じゃあ、あたし職員室いってくるね」

 

 結衣は、善は急げとばかりに部室から駆け出していった。

 

「全く、騒々しい子ね」

 

 呆れた様にぽつりと零した言葉とは裏腹に、雪乃の心は晴れやかだった。

 

 

 

 失礼します、と一声かけてから職員室に入室した結衣は、キョロキョロと見回して平塚静を探した。

 しかし今は不在なのか、その顔は見当たらない。途方に暮れて出直そうかと思案していると、ドアに近い席に座っていた女教師が座ったまま話しかけてきた。

 

「どうか……したのかしら?」

 

 結衣に声を掛けたのは、1年J組の担任を務めている矢畑里埜だった。年齢は三十と少し、といったところだろうか。

 肩口まで伸びたストレートな黒髪は、やや硬質。前髪は眉にかかる程度に切り揃えられていて、一見して真面目な人なんだろうという印象を受ける。

 結衣は、教師という人種は皆一様に声が大きいものだと思っていたので、里埜の独特な、人を落ち着かせる雰囲気を持った小さな声音は、新鮮に聴こえた。

 

「あの、平塚先生はどこに?」結衣が訊ねる。

「彼女は、何処にいったのかしら。何か用件があるなら……私が承っておくけど?」

「えっと、平塚先生が顧問をしてる部活に入部したくて、入部届けを書きに来たんですけど」

 

 結衣がそう言うと、里埜は無言で席を立ち、職員室の隅にあるプリントラックから、白紙の入部届けを取って結衣に渡した。

 

「どうぞ……書いたら、平塚先生の机の上に置いておけば良いわ。私から、話は通しておくから」

「平塚先生の席ってどこですか?」

 

 結衣が問うと、里埜は右隣の机を人差し指でとんとん、と叩いた。

 結衣は平塚静の席を借りて、早速入部届けを書こうとしたが、筆記具を何も持っていないことに気づく。

 静の物を借りようかとも思ったが、生憎机の上にはペンの類は何も無かった。

 流石に引き出しを開けて借りるのは気がひけるし、と困っていると、横合いから里埜がボールペンを渡してきた。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 里埜にボールペンを借りた結衣は、奉仕部入部希望、1年A組由比ヶ浜結衣と入部届けに記した。

 

「ペン、どうもありがとうございました」結衣は両手で持ってペンを返した。

「いいえ、どう致しまして」

「じゃあ、平塚先生によろしくお願いします」

「ええ、わかったわ」

 

 里埜に言付けた結衣は、失礼しまーすと、少し間延びした声を上げて職員室をあとにした。

 

 

 

 

 

 数分後に、喫煙休憩から戻って来た静は、自身の机の上にある入部届けを見て、少しだけ顔を引き攣らせた。

 

「平塚先生、それは、見ての通り由比ヶ浜さんのものです」

 

 里埜に話し掛けられた静は、引き攣った表情を真顔に戻し、答えた。

 

「ええ、入部届けですね」

「平塚先生が、ボランティア部の顧問とは知りませんでした……それどころか、お恥ずかしながらウチの高校にボランティア部がある事すら存じ上げていませんでした」

 

 里埜は、己の不明を恥じるように数瞬、目を伏せた。

 

「立派な活動だと思います。ボランティア」

「はは、いえいえ、そんなことは」

 

 里埜に褒められた静は、曖昧な態度で謙遜した。実際はボランティア部ではなく奉仕部であり、その活動内容も多少異なるのだが、まあそれは置いておこう。

 褒めてもらっておいて何だが、実は総武高校にボランティア部、もとい奉仕部なる部活動は存在しない。

 だから、里埜が奉仕部のことを知らないのは当たり前のことなのだ。

 

 数週間前、平塚静は、入学直後の雪ノ下雪乃に接触した。

 あの陽乃の妹であるからには、一風変わった女子であろうと予想はしていた。

 しかし、実際に見た雪乃は、ある意味では陽乃の妹らしく、ある意味では陽乃の妹とは思えない、陽乃のパーソナリティとは少し違った、それでいてやはり厄介な女子だった。

 雪ノ下陽乃の性根はひん曲がっているが、雪ノ下雪乃の性根は真っ直ぐだ。

 そこだけを見れば妹の方が好ましい人物に写るが、優秀過ぎる姉を持った不幸だろうか、雪乃は雪乃で、やはり妙な歪みを抱えた女だった。

 姉へのコンプレックス故に焦燥感にも似た高いプライドを持ち、真っ直ぐ過ぎる性格故に世間に溶け込めない。

 静は出会って直ぐに、この子には居場所が必要だ、と思った。だから、奉仕部を作った。

 奉仕部という居場所の中で、他人の悩みを解決していけば、その過程で視野が広がっていくはずだ。

 そうなれば必ず、彼女は良い方向に成長するだろう。

 静の思惑は、真実、雪乃の為を思ってのものだった。

 誤算だったのは、部の設立には部員数三人以上が必要という校則があったことだ。

 雪乃には今はまだ隠していたが、実は奉仕部は部として成立していない。

 だから、結衣に入部届けを提出されても困るのだ。だって奉仕部なんてないんだもの。

 今回入部を申し込んできた結衣を含めても、あと一人人員が必要だ。余りいつまでも愛好会のままで部室を占拠するのも良くあるまい。

 早く部員を確保せねば、と焦る静の胸裡に、そう言えばウチのクラスに変なのが一人居たな、と思い浮かんだ。

 


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