「……あら?」
なにやら、見慣れないものがあった。執務室の前で、如月は首を傾げる。
【通話中 静かに入ること ノックは不要】
執務室の途に貼られた、一枚のメモ。丸みはないが、なんとなく小さくまとまった文字。見覚えのあるその文字は、おそらくは叢雲が書いたものだろう。確か、今日の秘書艦も彼女であったはずだ。
全体的な簡素さを見るに、突発的に準備したものだろうか。元々なかったものを急遽準備したということは、よほど重要で、しかも長電話になるようなものということになる。十中八九、軍関係と見ていいだろう。
「ともかく静かに……」
なんとなしに呟いてから、そっと戸を開ける。静かに、しかし隠れるようなものでもないと、堂々と中に入ってみると、すぐさまに三つの視線が向けられた。内訳は、秘書艦席に座る叢雲と、補佐席に座る睦月で二つ。そして、パソコンを広げ、ヘッドセットをつけた提督で一つだ。どうやら長電話ではなく、ウェブ会議か何かであったらしい。確かに、その方が自然だ、と提督の様相に納得を覚える。
誰が入ったかを認識できたからか、叢雲は手元に、提督は画面へと、それぞれに視線を移した。必然、如月はこちらを見続けている姉の下に近寄る。
「報告書を出しに来たのだけど、大丈夫?」
「大丈夫にゃしい」
静かにしていれば、と付け足す睦月に頷きつつ、如月は携帯していた哨戒任務の報告書を提出する。艦隊旗艦――単にローテーションで回ってきたものだ――としての締めの仕事だった。深海棲艦と遭遇していないため、きわめて簡素な文面しか記されていないが、区切りやけじめ、そして仕事に慣れるという意味では大事なものである。
「……うん、オッケー。確かに受け取りました」
報告書を一読して、睦月が頷く。秘書艦補佐という立場にあるからか、その口調、ないし語尾は微妙に真面目だ。そんな姉の姿に少し笑みを浮かべつつ、如月は彼女に顔を近づける。
「それで、司令官はどなたとお話し中なの?」
流れ的には自然だが、ややぶしつけな質問。姉妹だからという甘えと、秘匿事項なら入室も許されないはず、という冷静な判断の複合に、睦月はなんでもなさそうに答える。
「二十八号鎮守府の、仁科提督にゃしい。なんでも、提督の友達とか」
「そうなんだ。お仕事関係、よね?」
「うん、演習の打ち合わせだって」
「演習? また突然ねえ」
「要望があったからな」
「あら、司令官。お話は終わりですか?」
突如混じった三つ目の声に、如月は視線を姉から提督に移す。彼女からの確認に、提督は邪魔そうにヘッドセットを外しながら、ああ、と同意を返す。
「とりあえず大枠は決まった。あとは向こうに要望書を送って、細かいところを詰めてやる」
「演習一つでも結構面倒ですねえ。もっとパパっとできないのにゃ?」
「互いに出す艦隊を決めて、どちらかの鎮守府に集合させて、だからな。日帰りか泊まりかで準備しなければいけないものが変わるし、泊りなら相手の側の補給を用意しないといかん。物資が書類上の値と実数で違う、などというのは組織としてよいものではない以上、面倒でもきっちり決めないと駄目ということだ。ものによってはその辺りをざっくりとも出来るんだが、これはな」
「例のシステムがあればまた変わるんでしょうけどねえ」
「例の?」
思わず疑問の声を漏らした如月に、叢雲が指を一つ立てながら答える。
「仮想演習システム、というのがあるのよ。装備中の艤装と接続させることで、対象の艦娘に疑似体験をさせられるって代物でね。目の前には誰もいないんだけど、そこに誰かがいるように見せられるの。古い言い方をすれば、意図的な蜃気楼を作るって感じかしら。視覚以外の感覚も偽装するから、撃たれたらこっちも撃たれたと思うし、当たればやられたと思うわ」
「VR――仮想現実って奴にゃしい?」
古いという例えに、新しいらしい――艦娘という存在の元が元故、艦娘は基本的に最新技術の類に疎いか、知識だけで実感があまりない――単語を睦月が返す。すると、提督は僅かに眉をひそめた後、どうだかなと軽く顔を振る。
「どっちかというとARやMR――拡張現実や複合現実とやらの方が近いのかもしれんが、正直私も詳しくは知らん。ともかく、これを使うことで、こちらの海にいながら他所の鎮守府――つまり遠くの海の相手と演習が出来るようになる。目の前に相手がいるという景色を見ながら、水上戦闘を行うというわけだ。傍から見れば何もない空間に向かって砲雷撃を仕掛けるわけだから、まあシュールと言えばシュールなんだが」
「虚像も含めて可視化できる装置もあるから、観戦する際はそっちを見ればいいしね。まあ便利なのは確かよ。処理の都合上どうしても発砲やらなんやらはするし、艦載機も飛ばさないといけないから、どうしても補給がいるって問題もあるけど。基本は演習用のそれだけどね」
「ほえー、すごい機械なんですね」
提督の説明に、感心の声を睦月が上げる。如月も、姉と同じような表情を浮かべつつ、すごいものだと頷く。
「そんなものまで開発されているなんて、この国の技術もだいぶ進んだのねえ」
「ああいや、確かに妖精たちの協力もあって、この国の技術は飛躍的に進歩しているが、仮想演習システムに関しては艦娘が使用することが前提だ。人間には使えない、という意味では汎用性は欠片もないぞ」
「あら、そうなの?」
「艦娘の艤装システムを利用したものだからね。私たちって戦闘中――正確には艤装からアシストがある状態だと、より遠くが見えたり、聞こえたりするわよね? あれって便宜上五感を強化している、って表現しているけど、実際には艤装が観測した情報を五感に乗せているのよ」
「……どういう意味にゃしい?」
「実際の目で見る代わりに、艤装越しで見た光景を脳に直接出している、ということだ。双眼鏡越しに遠くを見る場合、目を通してレンズ越しの景色を見ることになるが、そのレンズと脳が直結しているといえば分かるか?」
「何となくは分かるけど……私たちってそんな風になっているの?」
意外、と如月は首を傾げる。言うまでもなく、艦娘というのはかなり不可思議な存在だ。現代技術から見ても当然そうだし、なんなら如月達艦娘自身ですら、自分たちがどういう理屈で動いている、あるいは超常的な力を発揮しているのかというのは把握していない。あくまでそれが出来る、あるいはそれをしなければならない、ということを生まれながらに知っているというだけであるため、こういう細かい理屈や技術に関してはさっぱりなことも多い。
「所詮は人間なりに艦娘を研究し、解釈した結果、でしかないかもしれないがな。とはいえ、それならそれで納得が出来ることもある。木曾や天龍が良い例だ。あの二隻は眼帯をつけているが、それで戦闘含め何かしらの支障をきたしたことはない。普通ならまず遠近感がつかめないはずなのにな」
「言われてみれば、確かにそうにゃしい。それを艤装でサポートしていると」
「天龍さん――と龍田さんや叢雲ちゃんは普段から頭に艤装をつけているけど、あれがそうなのね」
「たぶんな。木曾のこともあるし、実際は眼帯の方に何かあるのかもしれないが。あれ含め、艦娘は服も艤装の一種のようなものだからな」
「あ、それも初耳にゃしい」
「艤装とリンクしていないときはほぼ普通の服だから、自覚がなくても仕方ない。戦闘関係もそうだが、あれもあれで季節によって特殊な衣服に変化するとかいう、妙な特性を持っているからな。まとめて艦娘独自の技術と見ないと説明がつかないそうだ」
「実際、妖精さんたちが艦娘ごとに同じ服を何着も見繕ってくれているしねえ。やったことないけど、普通の服を着た状態で艤装を召喚すると、服が普段のそれに変わるそうだし」
へえ、と睦月型の二人が、感心の声を漏らす。初めて知る情報がいくつも現れて、驚き疲れるかと思うほどだ。
「まあ、こういうことを調べる過程で、さっきの仮想演習システムのようなものが出来たわけだ。艤装から情報を受け取っているなら、艤装に好きな情報を入力すれば艦娘はそれを元に現実を見るのではないか、とかそういうアプローチだったのだろう」
「……なんというか、よからぬことも出来そうね。変な映像を見せて混乱させるとか」
「艤装側のプロテクトを抜けられるならね。少なくとも、そこらの機械やプログラムじゃ無理よ」
「まったくないでもないらしいがな。過去にはその手のものが研究されていたことがあると聞いた覚えがある。仮想演習システムの構築の過程で出来たとかなんとか。人間で同様の経験をするために開発していた、なんてのも聞いたか」
「艤装の技術をもとに、人間もVRやらARやらを体験するためってことね」
「結局できなかったそうだがな。あくまで艦娘の機構前提のシステムだから、人間が同じ経験をするのは無理だったとか。研究が進んでいるとはいえ、艦娘そのものの再現なんかはさっぱり出来ていないそうだから、無理からぬ話だろう。まあ、それ以外の技術に関しては完全に他国を置き去りにしているのだから、個人的にはそれで十分だと思うが」
なるほど、と提督の補足に対し、また姉妹で頷きを合わせる。
「……でも、そんなに凄いものに、何でうちにはないにゃしい?」
思い出した、とばかりに睦月が問いを投げる。確かに、どんなシステムで、どういう風に動くのかというのは分かったが、どうしてここにはないのか、というのはまだ聞いていない。
「まだコストがそれなりにあるし、そもそも七号が出来てしばらく経った後に確立した技術だからな。量産に入ったころには、ここはもう封鎖されていたから、置かれる理由がなかった」
「そういえばここって一度閉まっていたんだったっけ。じゃあうち以外には結構あるのかしら?」
「いや、確かに仮想演習システムは遠くの鎮守府の艦隊と演習できる利点があるが、単に経験を積みたいだけなら、今回みたいに近くの鎮守府と示し合わせればいい。だから他の鎮守府と距離が近い一桁台と二桁台、それに百番台の鎮守府はないことの方が多い。二百番台、三百番台の鎮守府にはそれなりの割合であるらしいが、こっちはそもそも鎮守府の数自体がそこまで多くないから、総数で見ればそう多くは設置されていない、と聞いた覚えがある」
「はい、質問! 百とか二百とか、鎮守府ってそんなに数があるの?」
元気よく手を上げながら、睦月が提督に問いを投げる。直前の会話から同じ疑問を感じた如月も、彼女にならうように首を傾げる。
「細かくは流石に覚えていないが、確か二百幾らかだったはずだ。だからまあ、多いと言えば多いだろうな」
「三百まであるのに、数としては二百なの?」
「……ああ、そっちか。ここで言う百だの二百だのは区分や種類のためのものであって、別に一から順々に鎮守府を作っていった結果、そこまで数が増えたという意味ではないぞ。Aの1とか、Bの2とか、そういう言い方なら分かりやすいか?」
「あ、そういうことなのね。じゃあ、頭の数字が違うとどう変わるにゃしい?」
「ざっくりというと立地が違うのよ。うち含めた一桁、つまり一から九号までと、十号以降の二桁が本土沿岸。百号から始まる百番台が本国領海内、二百からが領海外、そして三百番台が他国領地沿岸。つまり全部で四種類あることになるわね。本土沿岸から始まって、領海内、領海外、って感じで段々と前線を押し上げていった感じ。だから今は二百と三百番、そして一部の百番台が主戦場になっていて、前線をさらに押し上げたり、深海棲艦たちの主力を封じ込めにかかったり、とやってみるみたいね」
「そして、うちみたいに沿岸にある鎮守府は、本土防衛に専念していると……でも、領海外に設置とかって、それ大丈夫なの?」
「基本的には他国、特に三百番台は対象国の許可を取って設置されているから問題ない。まあ、対深海棲艦戦において、我が国が大きな戦力を有しているから出来ることでもあるんだが」
「一部同盟国を除いて、他国にはまだ独自の艦娘がいないからね。その分、艦娘保有数が多いこの国が大きな力を持っているってわけ。まったく不可能ではないとはいえ、通常兵器で深海棲艦を倒すのは難しいから」
「まあ、もはやそこは政治の話だな。一介の軍人が考えることでもない」
そういうものだ、と提督が疲れたように背を椅子に預ける。ギシリ、と軽くきしむ音が響き、艦娘たちもそれぞれに脱力する。いささか、しゃべり過ぎた。そんな雰囲気が、執務室を満たしている。
そんな静寂も、そう長くは続かなかった。ゆっくりと、そして小さく、執務室の戸が開かれる音がしたからだ。
「あら?」
反射的に、その場の全員がそちらを向く。そこには、おそるおそるとばかりに覗き込んでいる長良の姿があった。
「あのー……今大丈夫ですか?」
「……ああ、メモが貼りっぱなしだったな。問題ない、ついでに戸のメモをはがしておいてくれ」
「はい、了解です」
一度引っ込んだ後、改めて長良が室内に足を踏み入れる。彼女はまっすぐに提督の前まで来て、小脇に抱えていた書類を手渡す。
「演習用の一次編成案です。神通や北上さんたちとまとめました。相手の編成に応じて変えられるように、いくつかパターンを決めています」
「うむ」
「って、長良さんたちで決めたの? 司令官じゃなく?」
「私には細かな戦力計算は分からん。最終決定はするが、そこまでの筋道は本職の方が確かだ」
それでいいのだろうか、と色々な意味で突っ込みを入れたくなる発言に、如月は首を傾げる。そんな彼女をよそに、提督はマイペースに視線を上下させ、書類に目を通していく。
「……足柄軸の編成が多いわね」
提督の横合いから覗き込みながら、叢雲がそうこぼす。それに対し、提督は一つ頷きつつも、視線はそのままに答える。
「そもそもの意見具申をしてきたのが足柄だからな。彼女が特に暴れられる編成でないと悪いだろう。中途半端に不満が残っても困る」
「だけど、空母なしじゃ演習で明らかに不利よ? 相手も同じ条件ならいいでしょうけど、それはそれで相手に悪くないかしら」
「それはそうだが……」
ふと、提督の言葉が途切れた。何事か、と周囲が見守る中、彼はしばし思案するように口元を撫でた後、
「……やってみるか」
「と、いうと?」
叢雲の問いかけに、提督は大きく頷いてから口を開く。
「二十八号との演習の前に、まず七号所属の艦娘のみで演習を行おう」
「……本番前に身内同士で、ってことですか?」
「そうだ。貴官らが定めた演習案もこちらに流用する。可能だな?」
「念のために被りのない編成を二つ作ったりもしているので、それをいじれば出来ます」
「よし、では頼む」
「でもいいんですか? そんなことやって」
時間とか規定とか、と睦月が首を傾げながら問う。それに答えたのは、思案から納得に表情を変え始めている叢雲だ。
「訓練とかの一環って形で処理できるから、鎮守府の規定的には問題ないわ。普段は大枠でやっていることを、内側で細かく定めてやるってだけだし。時間に関しても、向こうもこちらも互いに初演習ってのもあって、まとめるのにそこそこかかるだろうから、余裕はまああるのよね」
「そのラグを利用した『試し』という風になるか。バッサリと言ってしまうと、ここで水雷軸の編成を消費し、本番で航空戦力交じりの編成を当てる。あちらも私の知人とはいえ、やるならそれなりに『魅せて』おいた方が都合はいいからな」
「一応、他の鎮守府との演習は公式記録に残るしね。やれるなら確かに、本気の編成のほうが万一の際の受けはいいか。本番含めて二回、場合によっては三回くらいやれば、全体的な欲求不満も解消できるはず、と」
叢雲の補足に、なるほどと如月は頷く。最初こそ突然のことに面食らったが、こうして説明されれば納得も行った。
「それで、そのお試し演習はいつやるんですか?」
その上で、大事な確認を提督に当てる。そんな如月からの問いに対し、提督は、
「――本日、準備が出来次第すぐにだ」
間髪入れることもなく、そう宣言した。