0.
夢なんて知らなくて。
憧れなんて解らなくて。
そんな私が今さら、なんて。
☆
1.
『運命的な出会い』。
きっと彼女ら三人と、彼女らを見出したプロデューサーの遭遇はそう形容することこそが相応しかったに違いない。
物語の都合上といってしまえばそれまでではあるが、それを差し引いた場合にはどれだけの奇跡が積み重なっているのか。
例えば、『本田未央』が遅刻せずにライブ会場に到着していたら。
例えば、『渋谷凛』の花の搬入が少しでもズレていたら。
例えば、『島村卯月』が設営のスタッフをしていなかったら。
そして、例えばプロデューサーがたまたまその場に居合わせなかったなら。
彼女らの出会いはなく、そして誰の願いも叶うことがなかったかもしれない。
少なくとも彼女達が同時期にアイドルとなり、『new generations』なるユニットが組まれることはなかったであろう。
となれば、やはり彼女らの出会いは偶然で片付けてよいものではなく、運命的、奇跡的という他ないだろう。
────果たして、本当にそうだろうか。
ここに、一人の少女がいる。そもそも少女なのかという問題があるが、現在の生物学的な性別上は女性であるために少女としておく。
彼女は『島村卯月』の皮を被った偽物だ。
アイドルに理想を抱けず、養成所にも通わず、そして設営のスタッフもしていなかった。
そして何より、本物の『島村卯月』だった場合の世界を知っている異分子である。
そんな彼女が、いやそんな彼女でもそうなってしまった。
本物でない存在が、本来でない行動をとって。それでも出会ってしまった。
これは運命的だろうか。
これは奇跡的だろうか。
否。設定を変えたのにそれが起こってしまったなら、それは必然だ。
必然という名の、呪いだ。
2.
足が重い。息が苦しい。
それでも必死に腕を振って、無理矢理に身体を前へ前へと動かす。
最後の力を振り絞り、スピードを落とさないように保ちつつ、見えないラインを飛び越える。
(ゴール!)
本日のランニング、終了!
たったったっ、と慣性で数歩歩いてから立ち止まる。大きく息を吸い込んでは、また吐き出した。
一度空を見上げては、喉に絡みつく息苦しさに前屈みになって地面を眺めた。吸い込んだ空気の冷たさが私の身体が熱くなっていることを実感させる。
そのまま息を整えていると横からすっ、と真っ白なタオルが差し出された。
「お疲れ様でした、島村さん」
「はぁ、どうも、はぁ、ありがとう、はぁ、……ざいます」
タオルを受け取って、なんとか顔を見ながらお礼を言う。
やっぱり強面で、心構えもしていないところにいきなり現れたら驚くけれどよくよく見ればどことなく愛嬌がある……ようにも見える。ぴにゃこら太に似ている、というのもなんとなくわかる。
……そういえばぴにゃこら太の声って私と同じだけれど一体どういう扱いになっているのだろうか、少し気になる。もしかしたら島村卯月本人が着ぐるみの中やっていたとか……? いや流石にそれはないか……
っとと、いけない。酸素不足で何か考えると、変な方向に考えが逸れていってしまう。
タオルで汗を一通り拭き終えると、今度はスポーツドリンクのペットボトルを差し出してくる。
「こちらもどうぞ」
「あっ……いえ、ありがとうございます、いただきます」
受け取って、すぐに蓋を開けてとりあえず一口。ここまでがマナーのようなものである。
しかし渇いていた喉は一口と言わずにもっと寄越せと騒ぎだし、結果的にペットボトルの半分ほど飲み干してしまった。
「ぷはっ、はぁ、ふぅ……」
「……落ち着きましたか?」
「あっ、はい。でも、クールダウンするので歩きながらでもいいでしょうか?」
「勿論です」
いいつつ、先ほどのコースをゆっくりと歩き始める。
なんというか、スーツ姿の男性とジャージ服で歩くのはなんとなくもにょるけれど。
それを気にしないふりをして、腕を十字にしてストレッチも同時に行う。
「……しかし、前から思っていましたが。少なめとはいえそれなりの量を走っているのですね」
「えっ!? ああ、はい! いつもなので大丈夫です!」
藪から棒に声をかけられ、変な返事になってしまう。
彼は無口に見えて存外にお喋りらしい。言葉も自分の中で定まっていることはしっかりハキハキと喋る。
そういえば、常務とポエムバトルもしていたっけ。
「何か、運動でもやっていらしたのでしょうか?」
「いえ、中学生の頃からずっと走っているだけです」
「……? 部活動などもしていなかったのですか?」
「はい、まぁ……特にやりたいこともなかったので……」
「…………」
……なんで私は彼に対してこんなことを話しているのだろうか。
まぁ聞かれたから答えたまでなんだけれど……正直に話すこともなかった?
いや、でも……この人は素直に話した方が諦めてくれるような気もする。
自分が思ったような『
沈黙が漂う気不味い雰囲気の中、私はまた一度、額から垂れる汗を拭った。
3.
私のランニングに彼が付き合うようになったのはほんのつい最近のことだ。
去るウィンターフェスの日。
先に結果からいえば、私は逃げたのだ。それはもう、一目散に。
私はぶつかってしまった女の子……『本田未央』、迷惑をかけてしまったスタッフさん……『渋谷凛』と共にスカウトをされた。
「アイ、ドル?」
「はい」
そう呟いたのは誰だったか。その呟きにも彼は愚直に答えた。
あまりにも唐突でまだ思考が現実に追いついていない『本田未央』と、別の意味で行動不能に陥った私の代わりに困惑しつつも口を開いたのは『渋谷凛』だった。
「……誰が?」
「あなた方三人が、です」
その言葉に流石の『渋谷凛』……暫定的に渋谷さんとして。渋谷さんも戸惑っている様子で、困ったようにこちらに顔を向けた。
アニメのように都心のど真ん中でスカウトされた胡散臭いのならまだしも、スタッフの腕章を付けた仕事の関係者に対してどのような対応をすればいいのか迷っているのだろう。スカウトの声がかけられたのが自分だけでないというのも関係しているかもしれない。
相手がどのくらいの立場にいるのかがわからない。スカウトをしてくるのだからそれなりということはわかるけれどもそれまでだ。名刺を貰えていればよかったが忘れてしまったのか本当に切らしたのかがわからないが、貰えなかったのが痛い。
というかそもそもプロデューサーってどの程度の権限を持っているのだろうか。デレステではもう自由気ままに勧誘していたようなイメージがあるが、そんなに勝手に人を雇うようなことをしても平気なのだろうか……?
……なんてどうでもいいようなことを考えていたのを覚えている。兎にも角にも、私だって混乱していたのだ。現実から目を背けていたと言ってもいい。
だって、そうだ。いくらここで『島村卯月』が『渋谷凛』、『本田未央』と邂逅することがプロデューサーにスカウトされる切っ掛けとなっていたとはいえ、原作と異なりこの場でスカウトされるなんて誰が想像できるだろう。
そんな私が正気を取り戻したのは、奇しくもそんな状況に追い込んだ彼の言葉によってだった。
「……そちらのお二方は此度のフェスに参加していらっしゃるようで。もしよろしければ、終了後にまた改めてお話を……」
「ちょっ……待って、待ってください!」
これ以上言わせてはいけない。咄嗟にそう思った私は声を絞り出して、注意を引き付けた。
思った通り、私が割り込んだことによって彼は私を見て言葉を取りやめ、ついでに私の服を掴んでいた『本田未央』……本田さんも、突然の私の声に驚いて服を離す。
これをチャンスと見た私は勢いで息を吸い混んで、頭を下げつつ言葉を走らせる。
「わっ、私! そういうのは大丈夫です! 大丈夫……大丈夫ですので! ごめんなさいっ!!」
「っ、まっ────」
言い切って、私は背を向けて走り出した。呼び止めるような声を聞いたような気がしたが、振り返ることなどしなかった。
理由は、語るまでもないだろう。
4.
そうして、私は一曲目の『お願い!シンデレラ』にこそ間に合わなかったものの、二曲目が始まる前には席に着くことに成功した。
そしてそこからは先ほどあったことなんて忘れるかのように、友人と共にライブに熱中である。
二階席からではあったが、アイドルたちは遠目に見てもとても可愛く、そして美しく輝いていて。まさしく
だが、それぐらい感激したというのはわかってほしい。スクリーンの向こうにしか有りえなかった存在が、まさしく目と鼻の先にいたのだから、その興奮は筆舌に尽くしがたいものであったのだ。
……そんな魔法も、ライブが終わってしまえばすぐさま解けてしまうものであったが。
「……はぁ〜」
もしかしたら彼が待ち伏せているかもと思い気を張りながら会場を抜け、駅を渡り、家についてベッドに倒れこんでようやく一息。
……よくよく考えたなら、彼もスタッフの一人。運営だったか手伝いであったかは覚えていないが、自らの仕事を放り投げてまでアイドル候補を追いかけるような真似はしないだろう。この頃の彼はそこまで器用ではなかったはずであるし。
物語後半の彼ならば或いは……とまで思考を巡らせて、考えても栓無きことだとだと気付く。
ホールから出る際に発見されなかった時点で、もはや私には何の関係もない。
アニメではアイドル養成所に通っていたから見つけることができたのであって、ただの一般人を見つけるなんて偶然に頼る他ないのだから。
だからきっと、彼と二度と会うことはないのだろう。
「…………」
『アイドルに、興味はありませんか』
照明の眩しさに、私は眼の上に腕を重ねる。思い出すのは、やはりその言葉。
アイドル──スポットライトに照らされ、可愛いドレスを身に纏い、歌い、踊る。そして煌びやかに輝く存在。
きっと女の子ならば、誰もが夢を見るものなのであろう。
本来の『島村卯月』も同様に、その言葉に一も二もなく頷いていたに違いない。
そのことに、少しだけ申し訳なく思う。
私は私でしかなく、彼が理想とした彼女のようになることはできないから。
「……寝よう」
私は怠惰にベッドに転がったまま服を脱ぎ捨て、そして掛け布団に包まり潜りこむ。
少しばかり寒いけれども、今ばかりは気にしないことにする。寧ろその冷たさが逆に心地良い。
布団の中で丸くなって、暗闇の中で暫くぼうっと自らの手を眺めた後にゆっくりと瞼を閉じた。
微睡みの中で、あの時の彼の表情と戯言が浮かんでは消えていった。
5.
ちょっとした非日常があっても、時計の針は止まらない。
何があっても、私達の本分は学業である。結果の前にはそれまでの過程など意味をなさず、理由など言い訳でしかない。
詰まる所、スカウトされるなんてことがつい最近あったとしても一月先に迫った期末試験の方が私にとっては急務ということだ。
人生二周目というアドバンテージは勉強にこそある。だが、レベルが上がるにつれてその優位も段々となくなってきているのもまた事実。
自慢ではないが私の通う高校は中々に優秀である。そして私は中学の頃からそれなりの優等生で通っていて、今もそうである。
本来の私はかなり怠惰だというのは言ったはずだ。しかし何もせずに成績を落とすわけにはいかないわけで、同じく『勉強についていけない!』となっているクラスメイトと共にこの時期には勉強会をしていたりしている。
その結果……まぁ、当然のことなのだが。
(もうこんな時間かぁ)
街灯に照らされる時計をちらりと見て、思う。呟いている余裕などない。
家に帰った時間が六時半過ぎ、今の時間が七時。大人にとってはこれからが本番である時間帯とはいえ、高校生にとっては十二分に遅い時間だ。周囲も木の影は真っ暗で何も見えない。
そんな時間に何をしているのかと言えば、ご存知日課のランニングである。
何か用事があった時やあまりにも遅くなった時はしないこともあるけれど、そういう日はなるべく体育がある日にしてある。もし運動をしない日だったなら、少し無理をしてでもランニングすることはしばしばだ。
一日休んだら取り戻すのに二日かかる……ではないけれど。私の場合は一日休んだら二日も変わらず、二日も三日も同じ、三日も……とずるずると休んでしまうのが目に見えている。その先に待っているのは体重の増加だ。
……いや、本当に。ダイエットは自分との戦いというのがよくわかるし、前世では太らない体質の人が心底羨ましかったものだ。
「はっ、はっ、ふぅー、はっ、はっ、ふぅー」
道路を走る車の音と、自分の足音。それから息遣いだけが響く。
もうすぐ五周目の終わりが見えてきた。いつもなら少し休憩して更にもう五周するのだが、今日はそのまま六周目に突入する。
理由は単純にもう夜も遅いためだ。お母さんにも走ってきてからご飯を食べると言ったら『あら、今から? 大丈夫?』と心配もされたし、あんまり迷惑をかけるのは不本意ではない。だから休憩なしの六周だ。
その最後の周も半分を過ぎた頃、それは一気にきた。
「……っ、はっ、はっ、はっ、はっ」
呼吸のサイクルが更に短くなり、息を深く吸い込む余裕がなくなる。
ここからが辛い。残り半周のためまだ我慢できるが、いつもは八周か九周目でこれが来るため残りは気合のみで走るのだ。その日のノルマを達成することしか考えない。
重くなってきた腕を振り、意識的に足を持ち上げる。でないと足が地面すれすれを飛ぶようにして走ってしまう。
そうして見えてきたゴールに向かって足を進めるが、最後にスピードを上げたりはしない。自分のペースを最後まで、だ。
ズダン、と最後の一歩を踏み込んで徐々にスピードを下げる。汗を拭いながら乱れた呼吸を整えつつ、ここでようやく冬の夜の冷たさを思い出した。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……つかれたぁー」
意識せず、口から感情が溢れる。
いつもより多く走ると当然その分体力の消費があり、加えて息の消費も激しいような気もする。慣れを超えるからそうなのだろうか、それともそう思い込むことによる精神的なものに起因するのだろうか。
コースを歩きで辿っていると途中にあるベンチが目に入った。こんな時間だ、座る人もなく当然の如く空いている。
軽く手ではらってから座り、周囲の目も気にせず脚を放り投げた。と言っても、今日は珍しく他の人を見ていないのだが。
そこでようやく一息つくが、放り投げた脚が疲れを訴えて休むだけでは嫌だと駄々をこねる。仕方がなしに脚を引き寄せて親指や手全体を用いて軽くマッサージを行った。
硬なったふくらはぎを揉みほぐすようにしていると段々と心地よくなってきて、思わず眼を閉じる。息もほぼ完全に整い、リラックスモードである。
これが終わったら帰ろうと考えつつ、もう片足をやるために体勢を少し変えた瞬間。
「……少々、よろしいでしょうか」
その声が、真上から降ってきた。
「はぁっ、はいっ!? なんで、しょ、う……か…………」
突然かけられた声に、私は弾かれたように顔を上げる。夢見心地だった思考は驚きで完全に覚醒していた。
そして私はその人の顔を見て、段々と声が尻すぼみに消えていくのを自覚する。
それも当然だろう。座っている私が彼を見上げると街灯の逆光で表情がよく見えず、どう見ても不審者に見える点が一つ。
そして。
「……間違っていたのなら、申し訳ありません」
言いつつも、確信を抱いているような強い口調の男性。
その彼はこの場にいるはずもなく、私はもう二度と会うことすらないだろうと思っていた人物であるが故に。
「この間のライブで、お声をかけさせていただいた方……ですよね」
「ぴっ……」
……であるが故に。
私のこの反応は、きっとしょうがないものだ。
「ぴっ……ぴっ…………!」
「…………?」
『ぴにゃぁ』、と。
恐ろしく情けない悲鳴が私の口から漏れた。
6.
「346プロダクション、シンデレラプロジェクト、プロデューサー……」
既に知っている情報を、目を凝らして目の前の小さな紙から読み上げる。
私が妙な悲鳴をあげている隙にサッと差し出されたものだ。眼前に出されたそれを振り払って逃げる勇気は私にはなかった。
ちなみに名前は書いてない。名刺の内部に不自然な空白があるので、認識できないといった方が正しいのか。どうなってるんだこれ。
「はい。ライブの際には……その、すぐに立ち去ってしまわれたので。今回はお話を聞いていただければ、と思います」
「うぅ……」
嫌だ、といって突っぱねることは簡単だ。
しかし、彼の勧誘のしつこさは折り紙つきである。『渋谷凜』のスカウトや、どうやったのかはわからないが『双葉杏』を連れてきた手腕は伊達じゃない。
と、そこで思う。
「あ、あのー……」
「如何しましたか?」
「いっ、いえ。その……どうして私の場所がわかったのかなって……」
そう、いくら彼とてエスパーではないのだ。
なんの情報も残していない私の目の前に現れる……流石に都合が良すぎはしないだろうか?
真顔で『プロデューサー力です』とでも言われれば誤魔化されもしてやろうが、この生真面目にそんな冗談を言うセンスはあるまい。
となれば。
「もしかして、ライブの時にストー……」
「いえ、この辺りに用事があったので。偶然、あなたをお見かけしたものですので、改めてお話を聞いていただこうかと」
「そ、そうなんですかー」
「はい」
食い気味に言われ、適当な相槌を打つ。
流石にストーカーと言われるのは不本意だったか。見た目だけで通報されるのに実績も重ねたら名実ともに犯罪者である。
そうして沈黙が落ちる。
気不味さが場を支配して、街灯の音がパチパチと聞こえた。
風が頬を撫で、身体が一度ぶるっと震える。
「あ、あのー……」
「はい、なんでしょうか」
「わ、私……お母さんが心配するので、そろそろ帰りたいなって……思って……」
そう言うと、彼は考えるような素振りを見せる。手を首にやってはいないので、困っているわけではなさそうだ。
しかし彼の無表情は割と迫力があって、性格が温和であると知っていてもその顔を見ていると自然に背筋が伸びる気がする。
「……そうですね。もう遅い時間ですので、お話はまた後日ということで……」
「はっ、はい! それじゃあ、」
「お一人では万が一のことがあっては大変ですので、お送りします」
被せられ、立ち上がりながら言った私の『失礼します』という言葉がかき消される。
動きながらだったので彼の言葉を繰り返すのに数秒、理解するのに更に数秒。
やっとそれを飲み混んで、私は慌てて手を振って答える。
「いえいえそんな! すぐ近くなので、大丈夫です!」
「しかし……」
「大丈夫ですから!」
「…………」
念を押すと、今度こそ彼は困ったように手を首元に当てる。
『このまま押せばうまく逃げ切れるかな?』と思うと同時、彼が頭を下げながら口を開く。
「申し訳ありません」
「えっ……いっ、いえ! 別に謝るほどのことでは……」
「いえ、そうではなく。誤解を招くような言い方をしてしまったことに対してです」
すると彼は顔を上げて、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
その鋭い目力に、私は少しばかりたじろぐ。
「私が、心配なのです。ですから、どうか送らせてはいただけませんか?」
「────」
状況を考えるならば、ここは断るのが普通だ。
一度会ったことのある、肩書きはついさっき知ったが本物か偽物かもわからない強面の怪しい男。ここから家までの道を一人で歩くリスクと、そんな男に送られるリスク。どちらが大きいか、と問われたら当然決まっている。
だが、私は彼のことを知っている。
プロデューサーとして酷く有能で、そしてとても不器用で。言葉足らずなことが多く、しかし直向きな性格でここぞというところでは真摯に向き合ってくれる。
そして何より。
くだらない嘘をつくような人間ではないことを、私はよく知っている。
「…………だけ」
「……は、い? なんでしょうか」
まぁ、だから。
「送ってもらうだけ、ですから」
少しばかし、絆されてしまっただけだ。
本当に、それだけ。
7.
『あなたは……失礼。差し支えなければ、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか』
『……島村卯月、と言います』
『島村さん、とお呼びしても?』
『はい、大丈夫です』
『島村さんは、いつもあの公園で走っているのですか?』
『そう、ですね。今日は遅かったので、いつもより短めでした』
『いつもはどの程度を?』
『途中に休憩を挟んで十周です。でも期末試験の勉強で遅くなるので、暫くは今日と同じぐらい……ですね』
『……なるほど』
『……この辺りで大丈夫です。送っていただいて、ありがとうございました』
『いえ……では、また』
帰り道がてら、確かそんな会話をしたのを覚えている。
私が送ってもらうだけと言ったのが効いたのか、それともそれ以前に自分が言ったお話はまた後日という言葉を覚えていたのか。アイドルにならないかという話題は終ぞ振ってくることはなかった。
これからの勧誘的に私の家を知りたいという気持ちがあったには違いないだろうが、それ以上に本当に私のことを心配してくれていたのだろう。しかし言葉足らずで、やはり彼は不器用だ。
そう思った翌日のこと。私は彼のスカウトに対する情熱を身を以て思い知った。
前日と同じように六時過ぎに家に帰り、その後にランニングに出かけた先には、夜の保護色である黒のスーツに身を包んでベンチに佇む彼の姿があったのだ。
『
とは彼の弁である。
しかしその日は他のランナーさんもいて、彼らからベンチに座って約五分に一度通りすぎる女子高生(私)を眺める怪しい男として視線を集めていた。事案不可避である、もし関係のない立場なら私が通報したかもしれない。
三日目にはやはり通報されたのか警察が駆けつけてきて、ランニング途中で息を切らした私が間に入るというハプニングもあったが、それ以外は概ね何事もなく終わった。
そう、何事もなかったのだ。
すわスカウトかと思った二日目も、今日もなのかと感じた三日目も、彼はアイドルについて口に出すことはなかった。
それどころかタオルや飲み物の差し入れをしてくれる。これが他の人であったら警戒もするし、彼が相手でも私は一度は遠慮したけれど、純然たる厚意であったために受け取るしかなかった。
本当に迷惑であるなら断ることもできるが、全く迷惑でない上にありがたいし、彼の心の内を思うとそれは難しかった。
そして話は冒頭に戻り、本日で四日目である。
クールダウンを終えた後、先の三日間と同じように世間話(基本的に彼から質問してきて、私が答える形になるが)を交わす。
一日目の時に比べたら、随分と私の態度も柔らかくなったのではないだろうか。慣れた、とも言えるけれど。
「それじゃあ、今日もお付き合いいただいて、ありがとうございました!」
「いえ、私は……そんな」
なるべく愛想よく、丁寧に頭を下げる。
すると彼は言葉に詰まり、首に手を当てた。一応最終的にはスカウト目的ということもあって、少し疚しい思いでもあったのだろう。
思わず笑みが
気がつくと彼は私を少し呆けたような表情で見ていた。
「あっ、ごっ、ごめんなさい! 別にそういうつもりじゃなくて! じゃあどういうつもりなんだって言われたら困るんですけれども!」
「いえ、気にしていません」
そう言った彼の口元は、笑っているのか少しばかり吊り上っているようにも見える。
その反応に安堵した私は、今一度頭を下げた。
「では改めて、今日もありがとうございました。それでは……」
「島村さん」
「はい? なんでしょう」
「明日は、いつ頃ランニングをするのでしょうか」
「? 明日も、この時間だと思いますけど……」
「……明日は土曜日です」
その言葉に、私は『あっ』と口を覆う。
そうだ、その通り。明日は土曜日で、世間的に休日とされる。そうでない場合もあるが、私の学校は例に漏れなかった。
そして、そのことを聞いてくるということは。
「……ランニングの後で良いので、お時間を頂きたいと考えていました。可能でしょうか?」
私の表情は一気に曇ったか、或いは凍ったかしたと思う。
今日までに彼が勧誘らしいことをしたのは、最初の日の名刺渡しぐらいだ。他の世間話で私がどんな人間かという情報収集はしていたとはいえ、アイドルについては
しかし、それは腰を据えて話す時間がなかっただけで。
きっと初日の時から時間さえあれば、勧誘しているプロジェクトの概要等について話すつもりであったに違いない。
……何れ、こうなるであろうということはわかっていた。私から言うか、彼が察するかの違いであっただけで。
「私は……」
「お話を、聞いていただければ、と」
私が思い当たっていることを肯定するように、彼は付け加える。
その真っ直ぐに見つめてくる彼から視線を逸らして、私は視線を地面へと向けた。
「……無理です、私には」
「そんなことは……いえ。何故、そう思われるのでしょうか?」
「それは……それ、は…………」
「…………」
「…………っ、ごめん、なさい……」
沈黙が、重い。
私は何かを言おうと口を開きかけるが、何も言葉が出てこず、そのまま口を閉じた。
でも、だって。しょうがないじゃないか。
『私は『島村卯月』でありません、だから
そんな誰も納得できないような、言い訳ですらない言い分は言えるわけがなかった。
「……島村さんの、お気持ちはわかりました」
私がどうしても答えないと見たのか、彼は方向を転換する。しかし、その声には未だ諦めが含まれていない。
それを証明するかのように、彼は言葉を紡いだ。
「ですが……しかし、せめて一度。一度だけで良いので、きちんとお話をさせてください」
「…………」
私は答えない、否、答えられない。
散々彼の好意に甘えた挙句、一方的に理由も言わずに断っておいて今更、どうして彼に口出しすることができようか。
彼は答えずとも立ち去らない私の行動から是と判断したのか、再び口を開く。
「……明日の昼過ぎ、午後の一時頃に私はあの公園に向かいます。島村さん、どうかご一考を、よろしくお願いします」
深く頭を下げたような気配がして、それから影が離れていく。
暫くしてから顔をあげると、やはり彼の姿はもうどこにもない。
夢であった、と思いたいがきっと机の上に置きっぱなしである彼の名刺がそれを許してはくれないだろう。
ふと私は夜空を見上げた。
しかし期待外れに空は曇っていて、星どころか月すらその姿を見せることはない。
それは、まるで私自身を暗喩しているかのようで。
「……どうして、私なんだろう」
ふと口をついて出たその疑問は、冬の夜空に混じり溶けて。
空は一層、陰りを増したような気がした。
8.
気がつけば、私は部屋の
ベッドの上の掛け布団は乱雑に散らかって、テレビには少しばかり埃が被り、テーブルの上はお菓子が乱雑に重なっている。ゴミは辛うじて袋にまとまっているが、出し忘れが多いのか二袋ほど並んで置いてあった。
綺麗なものといえば床と、クローゼットの中ぐらいのものであろう。
私はベッドに腰掛け、掛け布団の下から幼い頃から使っていたぬいぐるみを引っ張り出すとそれを抱きしめる。
ここは前世の私の部屋で、つまるところこれは夢なのであろう。
「…………」
そのまま私は、横向きにベッドに倒れた。
今の私のベッドとは違う、安っぽい感じのベッド。下に収納スペースがあるだけで実質布団と変わらない。
しかし、懐かしい。
……たまに、こういう夢を見るのだ。そうして、私が俺であったことを思い返す。
一つ、話をしよう。
島村卯月となる前の私の話。私ではなく、俺の話。
俺は前世では、うだつの上がらない人間だった。
殊更不幸であったとは言わない。親にはきちんと大学卒業まで面倒を見てもらえたし、結婚こそしなかったものの人並みの恋愛もした。特に問題もなく就職も叶った。
その後どうして俺が死んだのかというのはまぁ、置いておこう。その瞬間をあまり鮮明に思い出せない上にここでは特に関係のない話である。
兎に角、少しばかり早死にしたのを除けば世の中の人が想像するような平々凡々を体現したような人生。そういったのを送った男だった。
ただその想像と異なるとすれば、それは画面の向こうの彼女達に出会ってしまったことであろう。
俺は生粋のプロデューサーというわけではなかった。アーケード時代なんて知らないし、ネットに転がっている画像でゲームの存在を知っていても手を出しはしない。シンデレラガールズのサービスが始まった直後に始めたわけでもない。
ただネットサーフィンをしていた時に偶然見てしまったのだ、後の担当になる彼女を。正直に言って、ある種の一目惚れであったのではないかと思う。そう言った経験をしたプロデューサー諸君は多いのではないだろうか。
そこからは急転直下だ。蛍光色の事務員からの誘惑には打ち勝っていたものの、ガチャチケットでたまにSRを引いてはトレードに出し、イベントでは担当が上位報酬になった時のためにドリンクを貯めに貯めた。
後少しのところでドリンクが切れて2000位にはいれなくて涙を飲んだことも、その直後に10%チケットでお迎えできて狂喜乱舞したこともある。
だが、それだけだった。俺は彼女にしか興味がなく、彼女を愛でられればよかったので他のアイドルになど見向きもしなかったのだ。
勿論、ゲームをやっているうちに少しずつ名前と外見は覚えていく。しかしキャラクター性などはネタにされていること以上は知らず、精々がイベント時のストーリーで知るだけだった。
二周年記念のムービーは出来こそ感心したものの担当がいなかったために落胆したし、アニメ化決定の報を聞いた時もどうせ担当は出ないけど念のため見ておくか、程度の興味であった。
そこから、二度目の急転直下。
個人的にアニメの出来は素晴らしいものであると思った。放送開始時は一歩引いて見ていたけれど、一期が終わる頃には既にのめりこんでいた。いや、厳密に言えば一話の時点で引き込まれていたのだと思う。
シンデレラプロジェクトの半数が名前を言えなかった俺が、アニメにもまだ出ていない、声の付いていないアイドルまで覚え始めたと言えばその心境の変わりようがわかるのではないだろうか。他のアニメで飛ばしていた劇中歌シーンも、特に苦もなく見ることができていた。
そうして二期が始まり、出番こそ少なかったが担当の喋っている姿を見て満足したところで島村卯月にスポットライトが当たる。
……正直に言って俺は当時、島村卯月よりも渋谷凛の方が好みであった。ビジュアル面ではクール系が好きであったし、良くも悪くも俺の中の島村卯月の印象は普通であったのだ。
しかしあの心からの慟哭を、『S(mile)ING!』を、そしてプロデューサーが信じた『笑顔』を見て、果てしない衝撃を受けたのは決して俺だけではないだろう。
その日から俺にとって彼女は担当と同等か、ともすればそれ以上の存在として位置づけられた。こんな話をするとミーハーと思われても仕方がないかもしれないが、彼女の物語にはそれ程の魅力があったのだ。
敬遠していた無印のアニメやゲームをやり始めたのも、それからのことであった。
きっと俺が真の意味でアイマスのファンに、プロデューサーになったのはこの瞬間からであったのかもしれない。
ぐるり、と景色が暗転する。
前世の私の部屋から、淡い桃色に色付いた公園へ。
横たわっていた体勢すらもいつの間にやらベンチに腰掛け、やや低い視界であった。
春風が吹き抜けて、
そうして再び降り注ぐそれの中心に私──否『島村卯月』が、私のすぐ隣から飛び出す。
その見覚えのある光景を見て、ああ、と思い出す。それは何度も見返したシーンの一つ。
強烈以上に鮮烈に刻みこまれた、彼女達の始まりの記録。
彼女は桜が舞い散る公園で、私の記憶通りに花弁ではなく
『私は、きっとこれから、夢を叶えられるんだなって!』
そうして彼女はこちらを向いて、言う。
この世の善性を集めたかのような。希望を、未来を信じている満面の笑顔で。
『それが、嬉しくてっ!』
その動作。
その表情。
その音吐。
一瞬一瞬、その全てが芸術的で。
たった十秒ほどの時間で脳を、魂を揺さぶられる。
これこそがアイドル。
これこそが『島村卯月』。
私ではない、私ではなれない、本物の彼女。
同じ姿で、同じ声で、同じ顔で。
しかしそのどれもが私よりも輝いていて。
否応無しに、彼女との違いを理解させられる。
私にこんな事はできない。こんな風に、誰かの心を動かすことなんてできない。
わかっている、わかっているとも。
……わかっているのだ。
なのに。
やはり、最後には彼の言葉が浮かんで、消えた。