9.
自宅から最寄りの駅まで十分、そこから電車を一つ乗り継いで更に二十分。
計三十分の道のりを経て辿りつくのは若者の街である渋谷だ。かくいう私も、友達と遊ぶ時には通学定期範囲ということもあってよくうって出ている。
その渋谷駅から歩いて十五分の所に、それはあった。
『Tokyo Art School』と銘打たれた建物はその名の通り芸能系の塾、或いは予備校だ。声優やダンサー、俳優、役者といった職業を目指すための訓練所、とも言える。当然アイドルも例外ではない。
……少し語ってみたが、要は『島村卯月』が通っていた養成所である。第一話で同期は彼女以外辞めていったと言っていた時には『大丈夫なのか、この養成所』などと思っていたが、アイドルだけではなく別部門もあるなら納得できる。
また、単純にダンスなどの習い場としても機能しているようだ。近年の教育事情から察するに、この小・中学生のライト層が最も利益に貢献しているのではないだろうか。
そのビルから出てきた私は最後に下から見上げ、数秒してからその場を立ち去る。
さて。なぜ私が態々渋谷に来てまでこんなところにきたのかといえば、なんてことはない。『なんとなく』である。
強いていえば、その時が来るまでじっとしていられなかった。ただそれだけだ。
携帯を見ると、時刻はまだ十一時を少し回ったところだ。今から帰ってもまだ少し早い。
彼が来るまでランニングをするという手もあるが、それは何か違うような気がした。
「そういえば」
ふと思い浮かんだ。
携帯にその断片的な情報を打ち込み同時に現在地も表示すると、すぐに目的の場所は見つかった。ついでにとそちらの方へ足を向ける。
少しばかり迷ったが、その場所はすぐに見つかる。都会のコンクリートに囲まれたオアシスである公園だ。
とは言っても、いつも走っている公園より圧倒的に狭いが、遊具中心のどちらかといえば子供の遊び場であるから用途が違う。これでいいのであろう。
入り口から公園内をぐるりと見渡すと公園の端の方に、丁度空いているベンチが一つ。目の前に立って公園をぐるり見渡してみると、なんとなく見覚えのある光景な気がした。
それもそうだ、と独りごちる。なにせここは、『島村卯月』と『渋谷凛』が一話で話し合い、七話では『本田未央』が謝罪のために訪れ、そして二十三話では彼女達全員が集まったあの公園である。今まで実際に見たことはなかったとはいえ、既視感を感じない方がおかしい。
一瞬だけ昨日見た夢の光景を幻視するが、それは瞬きの間に掻き消え、花どころか葉すらつけていない木がそこにある。
途中の自販機で購入した温かいココアを手で弄びつつ、そのベンチの向かって左側に座る。日は出ているけれどまだ寒く、マフラーに口周りを埋める。
しかし子供達は寒さを感じさせず、元気よく遊具で遊んでいる。こう言った騒がしい声が嫌いな人も勿論いるだろうけれども、私は嫌いではない。むしろコンクリートと鉄の馬に囲まれた都会ではほんの少しの清涼剤であろう。
そんな風に思いつつ、私はココアを一口含んで、ほっと息を吐く。
白い吐息が空気に溶けて、消える。
手持ち無沙汰になった私は、先ほど貰った養成所のパンフレットを取り出して膝の上に置く。
養成所で話を聞いてても思ったが、実際にこうして見てみると結構な額である。『島村卯月』がいつから通っていたのかは知らないが、少なくとも中学ぐらいからと考えたなら本当に結構な料金を払っていたのではないだろうか。
他の同期が辞めていった、というのも頷ける話だ。お金の問題だけでなく心の問題も関与すれば、尚更。
数枚しかないパンフレットの最後には、その養成所から無事にデビュー(と言っても、アイドルではなく声優のようであったが)した人の言葉が載っていた。
『諦めないで頑張ってよかった』、『好きなことを仕事にできて本当に嬉しい』、『夢はいつか叶う』。
そんな耳触りのいい言葉を並べ、入学を誘っているのだろう。いや、きっとこの人物の本心でもあるのだろうが。
「……それでも、叶わない人はいるんだよ」
考えていたのがそのまま声に出てしまう。いけない、少し感傷的になってしまってるようだ。クールダウンしよう。
少し温くなったココアの方に手を伸ばして、口に運ぶ。
ほぅ、と白い息が再び空気に溶けた。
そのまま容器を両手の中でコロコロと転がす。まだほんのりと温かい容器は、若干ながら私の冷たくなった手を温めた。
時間は……まだ、十二時前だ。けれど少し寒くなって来たし、そろそろいい時間ではないだろうか。
そう考えてパンフレットをしまおうと手を伸ばすと同時、木の枝が擦れる乾いた音と共に風が横から私を殴り抜けた。
咄嗟に髪の方を庇ってしまうが、当然パンフレットの方は手からすり抜けていく。
「あっ……」
しかし面積の広いそれなりに重い紙だ。地面を数回バウンドして、それから横滑りしてから止まる。
小さく溜息を吐いたあと、鞄を持って拾いに行く。正直言って使い道はないけれど、ポイ捨てするのは人としてアウトだ。
そう思った矢先、そのパンフレットを一本の手が拾い上げた。無論手が宙に浮いているわけではなく、身体に繋がっているが、パンフレットしか目に入っていなかった私には手だけが突然現れたに等しかったのだ。
一度意識すると、その人の全体像が見えてくる。パンツルックに青い系統のコート、黒い長髪と、その中にちらりとピアスが目に入る。けれど不良といった感じよりは、どちらかといえばクールなオシャレさを連想させた。
連れている、そのヨークシャーテリア……だったか、その犬もそれに関与しているかもしれない。
彼女は拾い上げたパンフレットについた砂埃を叩き落とし、私を見て、『これ』と突き出してきた。
その声に、その外見に、それからその雰囲気。
あの時と服装は違えど、間違いない、間違えようもない。
「あなたの……だよね?」
彼女の名前は、『渋谷凛』。
ここで『島村卯月』の笑顔に心を動かされ、アイドルの世界へ羽ばたいていくその人だった。
10.
正直なところ、予想をしていなかったといえば嘘になる。
養成所の帰り道に彼女の家である花屋があるのは描写されていたし、この公園は彼女が散歩でもアイドルになった後の自主トレでも用いていた、所謂お気に入りの場所というものなのだろう。そんな場所にいれば、偶然遭遇しても不思議ではない。
少なくとも、
しかし、私は彼女に後ろ暗い感情がある。
……予想をしていた上でこんなところに寄っておいて説得力がないとは思うが、彼女とはあまり会いたくなかった、というのが本当のところだ。
正確にいうならば、『会いたかったが、会いたくなかった』。そんな相手。
「……あの?」
「あっ、はい! すいませんっ!」
呼びかけられて正気に返る。
そうして慌てて受け取ろうとするが、うまく掴めずに取りこぼしてしまった。
すると当然、パンフレットはそのまま地面へと一直線だ。そして小さく砂を巻き上げた。
「ごっ、ごめんなさいっ」
「ああ、いや、こっちこそ。ちゃんと掴む前に手を放しちゃったから」
慌ててしゃがみこみ、パンフレットを手にする。
表はなんてことないが、裏を返すとやはり細かな砂埃がついてしまっていた。私はそれを叩くようにして砂をほろった。
すると何を勘違いしたのか、視界の端に映っていた彼女が小犬らしい舌ったらずの鳴き声をあげた。
「あっ、こらハナコ」
「……。大丈夫ですよ?」
渋谷さんが諌めるような声をあげて屈むような姿勢を見せるが、私はそれを抑えた。
犬の感情表現には多少覚えがあるし、前足を伸ばしてお尻を上げながら尻尾を振るその動作も記憶にある。
私は広げた手の平を下から差し出して、何もないことをアピール。同時に指先をちょいちょいと動かして誘いをいれる。すると彼女の目が一瞬輝いたような気がして、私の指先に鼻を近づけた。私はそのまま下に手を潜り込ませ、顎をくすぐるようにして撫でた。
眼を閉じて気持ち良さそうな顔をするのがわかる。そのまま数歩前に出て首をさすりつけてきたのでご所望通りに顎から首、そこから頭の輪郭をなぞるようにして耳の後ろまで辿り、今度は優しく頭を撫でる。
「人懐っこい子ですねー」
「……え? あっ、ああ、うん。そうだね」
ちょっと心配になるぐらいである。このまま撫で続けてお腹でも見せられたら困るので、この程度でやめておく。
舌を出した可愛らしい顔で私を見つめてくるが、我慢だ。
そして私は立ち上がって、渋谷さんへと軽く頭を下げる。
「改めて、お手数をおかけしました」
「いや、私がしたのってそれを拾っただけだからそんな頭下げなくても……結局落としちゃったし」
「いえいえ、私が落としただけですから気にしないでください」
事実、渋谷さんは何も悪くないのだし。
そう思っていると、うーん、と渋谷さんは悩みながら少し躊躇いがちに、その言葉を口にする。
「ねぇ、どこかで私と会ったことある?」
「え」
ギクリとした。不意打ちだ。
咄嗟の反応として、顔に向けていなかった視線を更にズラすのが精一杯だったが、それが全てを語っている。
「えっと……えっーと……」
いや、そもそもとして私は彼女を認めたその瞬間から顔を見ないようにしていた。それで勘付かれてしまったのならば、それはもうどうしようもないだろう。
数秒の間をおいて、私は観念して言葉を選びつつ返す。
「……多分……し……ライブのスタッフさん……ですよね?」
「うん、スタッフというか、親の手伝いで搬入をしてただけなんだけどね。私の家、花屋だから……っていうより、やっぱりそうだったんだ。すごい偶然……家はこの辺りなの?」
「いっ、いえそんなわけでは……世田谷の辺りで……その、渋谷は通学路の途中で……」
彼女の声色には責めるようなものは見られない。
しかし、まぁ……してしまったことはしてしまったこと、バレた以上はキチンとけじめをつけなければならない。
「……あの時は、その……ごめんなさい。お二人を置いて逃げてしまって……」
「えっ……ああ、いいよ別に。あんなのにいきなり迫られたら誰だって怖いって」
「あ、あはは……」
あんなの、とは当然彼のことであろう。
確かに初見は厳ついという部分に目が行きがちであるが、よくよく見れば愛嬌もある……というのは置いておいて。
ぱっと見堅気には見えないというその印象はやはり共通認識なんだなと苦笑する。
「…………」
「…………」
会話が途切れる。それもまた当然。
私は一方的に彼女のことを知ってはいるが、彼女からしてみればあの時一緒に勧誘され(そして逃げ)た名前も何も知らない人間と家の付近で偶然出会っただけの話だ。
しかし、ただだんまりとしているだけでは終わらない。なので私は最後にもう一度謝ってから立ち去ろうと口を開き、
「あのっ……」
「あなたは……」
そして閉じた。渋谷さんもまた同様に。
再び、私達を沈黙が支配する。聞こえてくるのは、公園で遊ぶ子供達の声とたまに外を走る車のエンジン音ぐらいのものだ。
気不味さに冷や汗をかきつつ口を開くように見せかけ、彼女に反応がない故にそのまま声を出す。
「ど……どうぞ……?」
「え……いいの?」
「ええ、まぁ……私のは、大したことじゃないですので……」
「そう……? それじゃあ、遠慮なく……ええと……絵、描いてるの?」
「……はい?」
予想外な質問が飛んできて、聞き返してしまう。
え……絵? 私が?
全く自慢にならないが、前世でも今世でも見苦しい絵を描くことに定評のある私だ。画伯とかそういうのじゃなく、単純に下手な絵である。アニメ調の模写であるならまだ見れるものではあるのだが。
まぁそれにしたって渋谷さんはそのことを知らないはずであるし、分かれという方が無茶ではあるが……なんで絵?
そんな疑問が前面に出ていたのか、彼女は少し恥ずかしそうに目を逸らしながら続ける。
「いや……さっきのパンフレット、アートスクールって書いてあったから。そういう学校目指してるのかなって」
「え、あ……」
一瞬だけ彼女の視線のいったパンフレットに、私の視線も向かう。『Tokyo Art School』、和訳すれば『東京芸術学校』。確かに名前だけ見れば芸術系の学校に見える。
彼女にしてみれば気不味さを除去するために出した話題の一環であったのだろう、それに気がついた私は合点がいったというように頷いてみせた。
「あー……これは、そういうのじゃないんです。学校じゃなくて塾、芸術よりも芸能って感じで」
「芸能?」
「はい。ダンスとか、歌とか……テレビや舞台とかに出たい人が通うような場所なんです。例えば……」
「……アイドル、みたいな?」
私の言葉を引き継いで、渋谷さんから言葉が出た。
その答えが彼女自身の口から出るということは、少なからず意識はしているということなのだろう。私が声をかけられているのだから、彼女がかけられていない理由がない。
そしてそれは正しいため、私は曖昧に笑って頷く。すると、渋谷さんの目が少し驚きに見開かれたような気がした。
「はい……でも私は通ってるわけじゃなくて、今日はただ見学に行っただけなんですけど……」
「ふーん、そんなのあったんだ……この辺り、なんだよね?」
「そう、ですね。ここからなら、駅よりも近いです」
「へぇ……」
渋谷さんは興味があるなしが半々のようで、再びちらりと私の持つパンフレットを見た。
あげてしまってもいいのだが、二度も落としたのを渡すのは正直どうかと思うので口には出さない。見せて欲しいと言うのならそのまま譲るけれど渋谷さんが今さっき知り合ったばかりの人にそんなことを言うわけはないだろう。
自身の返事で会話が途切れてしまったことを察したのか、渋谷さんは咳払いをする。
「んんっ……それで、あなたは?」
「へっ?」
「いや、私が先だったから……あなたも何か言いかけてたでしょ」
渋谷さんの問いかけに一瞬だけ心臓が脈打つが、その後の言葉でなんとか冷静さを取り戻す。
「ああ、ええと──」
口をついて出そうになった質問を、寸前で飲み込む。
特に考えてはいなかったが、渋谷さんに聞きたいことは当然ある、あった。だが、それを聞くわけには絶対にいかないのだ。
故に私は、彼女に対して苦笑いを浮かべつつこう答える、否、こう答えるしかない。
「──忘れちゃいました」
あはは、と苦笑する。
それに対して渋谷さんは何かもどかしそうな表情を浮かべる。それが何を意味しているのかはわからないが、私は少し困った風にしながら目を逸らした。
────『あなたは、アイドルになるんですか』、なんて。
そんなことを、どうして私が聞くことができるだろう。
どうして、私自身が切り捨てた道を勧めることができるだろう。
そもそもとして。
劇中、自分には何もないと言う『島村卯月』に対して、『渋谷凛』はあの時の姿が眩しかったから、あの笑顔があったからと漏らすシーンがある。回想として一話のあの輝くほどの笑顔も挿入されていたはずだ。
その事から察するに、やはり彼女がアイドルとなる道を選んだのは『島村卯月』あってのものであったと言える。
私が彼女に抱いている後ろ暗い感情の正体。それが、これである。
私が島村卯月となってしまったことで起きた弊害。心焦がれる程憧れを抱く存在をそこに認められないことによる変動。それが渋谷凛という少女の未来だ。
故に。その原因となってしまった私に言える事はない。できることは、ただその罪を背負って生きることのみだ。
「……あんたがそれでいいなら、別にいいけど」
そんな私に対して、渋谷さんは含むことがあるような口調で答える。
私の心中が見抜かれた、なんていうことはありえないけれど。それでも、忘れたというのが嘘だということぐらいは分かったのだろう。
つい、と彼女へ視線を戻すと、彼女はハナコちゃんを抱き上げて、私と視線を合わせた。
「……それじゃあ、私はハナコ……この子の散歩中だから」
「あっ、はい! その、あの時は、本当にごめんなさいでした!」
「いいって、気にしないでよ、本当。それじゃあね」
言って、渋谷さんは公園をぐるりと回るつもりなのだろう。最後に軽く黙礼をしながら私とすれ違う。
答えは決まっているにせよ、私も私で用事がある。そうして数歩踏み出し、渋谷さんを振り返る。
彼女の背がゆっくりと遠ざかっていく。きっと物理的な距離だけではなく、それ以外の距離もずっと、遠く離れていく。
結局、私と彼女は自己紹介すらしなかった。
彼女にとって私は、きっとその程度の存在ということなのだろう。その有り様に、言動に左右されることすらない路傍の存在。
ここで別れてしまったら、もう二度と会うことなどない、そんな間柄。
私は遠ざかる背中に手を伸ばしかけ、そして、それに気がついて手を下げる。
誤魔化し、逃げて。踏み込んだ質問一つしない私が、彼女を呼び止めて一体何を話すというのか。
……一体何を、語れるというのだろうか。
「──それで」
そんな私に問いかけるように。
彼の言葉が、私の心にするりと滑り込んできた。
「それで、よろしいのでしょうか」
11.
「それで、よろしいのでしょうか。……島村さん」
弾かれたように私は振り返り、彼の姿を認める。
代わり映えしないスーツに冬用のコートを着込み、いつも……というほど顔を合わせてはいないけれど。それでも、より険しい表情がそこにはあった。
それが、どうしようもなく私を責めているような気がして。やはり、彼から視線を逸らしてしまう。
「あ……え、えっと……いっ、どうして、ここに……?」
吃りながらも私はそう問いかける。彼からの質問から目を逸らすように。
そんな私の苦し紛れの問いかけにも、彼は愚直にも答えた。
「……島村さんには言っていませんでしたが、本日は私だけではなく、二人で待ち合わせに向かう……その予定でした。その……会わせたい方が、いましたので」
言いつつ、彼の視線が私の向こうを一瞥した。
私が何も知らない少女であったなら『誰でしょう?』と小首を傾げながら訊くのであろうが、私にはおそらく彼女──渋谷さんであると推測できる。
「そ、う。だったん、ですね」
アイドルを夢見ていた少女と、そんな彼女に憧れた少女。
元々を考えれば、彼のその判断はある種慧眼であったと言えるだろう。今回は、二人ともアイドルの道など考えてもいないのだから、愚の骨頂であるとしか言いようがないが。
それとも、何か考えでもあったのだろうか。
その考えに関して考え始める前に、彼からの質問が飛んでくる。
「……お二人は、お知り合い……だったのですか?」
「いえ、ライブの時以来で……今会ったのも、偶然で……その、本当に」
「……なるほど。では、島村さんはなぜこちらに?」
私はその質問には沈黙をもって答え、代わりに持っていたパンフレットを口元まで持ってくる。
それを見た彼に理解の色が浮かんだことを確認して、それから私は苦笑しながら口を開いた。
「何か、手がかりになるかなって。そう思ったんです」
でも、と続けて。
「やっぱり……私はアイドルにはなれません」
「……それは、どうしてそうお考えになられたのでしょうか」
彼の言葉に、思い返す。
公園に来る前に立ち寄ったスクールのことを。
くたびれ果てた、何者もいないレッスンルームを。
例えるなら。言うならば、あの場所は──
「──夢のあと、だったんです」
兵どもの、ではないけれど。
汗と努力と、それから涙。そういった感情が染み込んだ部屋。歓喜と悲観、どちらが多かったのかなんて、比べるだけ意味のないことだろう。
『いつか、きっと、私も』。そこにいた誰もが、最初はそんな想いを抱いていたに違いない。
そんな場所を見て、あったであろう光景を夢想して。
「私には無理だなって。そう思いました」
「……なぜ、そうお思いに?」
「だって、そうだと思うんです。案内してくれた人が言ってました、今は私ぐらいの子はいないって。つまりそれって」
私ぐらいになるとみんな辞めていく、ということだ。
その場にいなかった私にはどれだけの想いで、どれだけ努力したのかはわからない。
しかし生半可なものではなかった、ということだけはわかる。誰もが本気で、夢を追いかけていたというのはわかる。
だが、それだけ努力を重ねても、階段を登っていけるのは一握り。その中に、おそらく私は入れない。
「だからやっぱり、私は無理だろうなって」
「……島村さん。今一度、答えを聞かせてください」
──本当に、それでよろしいのでしょうか。
私の独白をただ聞いていた彼は、再び私に同じ問いを投げかけた。
「私には……その。今の話を聞く限り、意志が無いように感じられました」
「……意志」
「……はい。島村さんは……そう。諦めようとしている。自身に言い聞かせようとしている。私には、そのように見えます」
とす、とナイフが刺さる。
世界が歪む。思考が乱れる。
否定しなくては。その強迫観念に追われ、言葉を絞り出す。
「っ、……そんな、ことは」
「あります」
すべてを言い切るより先に、彼は断言する。そして次なる質問を私にぶつけてきた。
私にとっては致命傷となりえる、その質問を。
「島村さん、あなたは──」
『一体、何に怯えているのですか』。
その質問に、私の呼吸は止まった。
12.
喉を奪われた。頭を砕かれた。心臓を抉られた。
そのぐらいの、精神的負傷。
怯えないわけがない。
恐れないわけがない。
諦めないわけがない。
私にとって『シンデレラガールズ』、殊更アニメ版は、私の私生活を大きく変えてくれたと言ってもいい、久しく夢中になれる何かであった。
二期でそれぞれが成長を果たしたシンデレラ達。その後での『M@GIC』はもはや、感無量だ。終わった後暫くの間は虚無感で心がいっぱいだったほどである。
最も大きく心が揺れたのはやはり彼女についてであるが、『シンデレラガールズ』そのものの物語も私は愛していたし、今でも愛している。
私が仮にアイドルになったとして、そこに未来はあるのだろうか。星はそこに輝けるのだろうか。
『シンデレラガールズ』を誕生させることができるのだろうか。
否。できるわけがない。何せ私は『島村卯月』でなく、そして特別なものを持たない、ただの凡人であるのだから。
私はあの物語を愛しているものとして、怖い。
私が本物でないからこそ起こってしまうことの全てが、恐ろしくてたまらない。
私に『渋谷凛』の心を動かすことなどできない。そうなれば、もしかしたら13人でシンデレラプロジェクトが始まるかもしれないし、他の補充要員を加える可能性もある。そこから先は、もう既に知らない世界だ。
それならば。自身がアイドルになりえない、凡人であることを理解している人間がその場にいなくても変わらないだろう。むしろ途中で自身がドロップアウトしてしまう可能性がなくなる分、ならないほうがいいまである。
故に私は諦めた。そして万が一にもアイドルになろうなんて思わないようにアイドルを遠ざけた。
それを断片的ながらも見抜かれるなんて、思ってもみなかった。
流石に彼は一プロジェクトを一任されるほどの実力を持つ、一流のプロデューサーなのであろう。慧眼にもほどがある。
ただ一点を除いては。
「……どうして」
「……」
「どうして、私、なんですか?」
ずるいとわかっていながらも、昨日聞けなかったその質問を投げかけずにはいられない。
星の数ほど、ではないけれど。アイドルになれる素質のある人間はこの世界に沢山いる。『島村卯月』レベルとは言わずとも、346プロダクションに未だ所属していない原作アイドルはまだ多々いるだろう。
それなのに、『島村卯月』ではない、彼女にあるものを持っていない
少し、ほんの少しの間をおいて。
私の問いに、彼は短く答えた。
「……『笑顔』、です」
合わせて、心臓が一つ呼応する。
ああ、
よりにもよって、それを理由にするのか。
私が一番持っていないと自覚しているものを、貴方はあるというのか。
私は彼のその答えに
「私に、そんなものはありません。……いえ、そもそも。私は、何も持っていないんです」
思い出すのは、私の知るアイドル達。
この世界では既に活躍している無印アイドルマスター陣を始めとして、DS、ミリオンライブの彼女たち。
もう既に一角の存在となっている、或いはこれからなるであろうシンデレラガールズ、シャイニーカラーズ。番外として、SideM。
最後に、この世界には存在しない一人の女の子。
「私にとって、アイドルは特別な存在なんです」
喜んで怒って、泣いて笑って。
それは、普通の人間では決して起こすことのできないこと。
故に、特別。
「自分の中にある特別な『なにか』を他の人に分け与えることのできる……そういうものなんだって」
それは、例えば感動的な歌唱力である。
それは、例えば圧倒的なビジュアルである。
それは、例えば情熱的なパフォーマンスである。
それは、例えば──あらゆる人々を魅了する、無敵の笑顔である。
彼女達それぞれの『なにか』をそれらに乗せることで、見ている者達に夢や希望、憧れや想いを、或いはそれらのかけらを届ける。
その『なにか』は人によって変わるものだけれど。それでも、基本的にはその『なにか』に対して人一倍情熱を持ち合わせていることがほとんどだ。
最低、その二つ。『なにか』と、それを送り届ける『手段』。それがなければアイドルとして不適格であると私は考える。
「でも……私には、夢がないんです」
心と身体がちぐはぐで。
そんな私にできることはそう多くはなかった。
故に私は、夢を見なかった。
「何かに対する憧れ、なんていうのも持ってなくて」
前世を持つ私は夢よりも現実を知っている。
特別な才能を持たない一端の凡人は分を弁えるべきだ。
だからこそ私は、憧れなんて持ってない。
「将来何になるか、なんて考えてもなくて……だから私は、普通に卒業して、普通に進学して、普通に就職して、それから……普通に結婚なんかしたりして。私は、きっと
『笑顔』なんてもっての外、特別な『なにか』など何一つ持っていない。夢や憧れなど欠片もない。
そんな私が一体どうしてアイドルになれるだろう。夢と希望に満ち溢れた『
なれるわけがない。
だからこそ私は、『
ずっと前から、そう決めていた。決めていたのだ。
だというのに。
「そんな私が、今更、アイドルなんて────」
それから先の想いは、言葉にならずに溶けた。
言わずもがな、である。いや、言葉にすらしたくなかったのかもしれない。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。それから目を逸らすように、私は地面を向いていた瞳を閉じた。
「……たとえ空が
頭上から彼が語りかけてくる。
しかし、私はそれに答えられない。私が言うべきことは全て言った、アイドルにはならない、なれるべくもない。
仮になれる、なれたのだとしても。全てが、何もかもが、もう手遅れで。
それこそ、今更──
「──今更なんて、ないんです」
その言葉に、私は目を開く。
視界の端に彼の革靴とそこから伸びるスーツが映る。
それを辿るように少し顔を上げると、屈みこんで私に視点を合わせた彼の顔と向き合うことになった。
また、一つ。彼の言葉に答えるように、心臓が鼓動した。
彼の眼は、真っ直ぐに私を見据えているようで。
「どうか、今一度。自分自身を信じてあげてください。あなたの中にこそある可能性を、煌めきを」
『笑顔』を、と。
彼はそう締めくくると、身体を持ち上げて数歩下がった。
私にないものを、彼はあるという。
私は手遅れだと言うのに、彼はこれからだと言う。
私は『島村卯月』ではないのに、彼は『島村卯月』になれると言う。
それは、きっとどれだけ素敵なことだろう。
それは、どれだけ素晴らしい夢なのだろう。
「……なれるん、でしょうか」
知らず。
そんな問いが口から
「私は、私でも……『
「──なれます。少なくとも私は、そう確信しています」
『ですが』。
彼はそう続けて。
「決めるのは、あなたです」
それに対する答えを返せない。
唇が震える。心臓が短く、激しく刻む。きちんと立てているのかさえわからない。
砕けるのではないか、と思うほどに歯をかみしめて。まるで一世一代の告白をするかのような勇気を込めて。
それでようやく、私は口を開くことができた。
「そうだったら、いいな……なれるんだったら、うれしいな」
背に視線を感じる。
私は振り返らない、振り返れない。しかし、その視線の主はわかる。
『渋谷凛』だ。
きっと、今の渋谷さんの眼を通して、私を『渋谷凛』が見ている。
『こっちの私を置いて、あんただけそっちにいくの?』、と。その視線で語りかけてくる。
否、これは幻想だ。今の渋谷さんも、元の『渋谷凛』もそんなことは言わない。そう選ぶのならと、ただ見守るだけだろう。
だからこれは、私の被害妄想である。
そしてそれは。私の妄想であるからこそ、無視できないもの。
私は彼を見る。
彼もまた、こちらを見ていた。
彼の言葉を信じたい。私は彼女になれるのだという言葉を信じて、その手を掴み取りたい。
『シンデレラガールズ』を壊さなくてもいいようにしたい、なかったことにしたくない。
その想いは、きっと誰よりも強いものだ。おそらくは、『島村卯月』すら超えうるものだ。
けれど。
「……時間を、ください」
しかし、それでも。
「少し……考えさせて、ください」
やはり私は、一歩を踏み出すことなどできなかった。
自分を信じることなんて、できなかった。
ごめんなさい、サブタイトル詐欺です。
まだ、続きます。