何故、ウィッチを志したのか。
その答えはウィッチによって様々だ。世界を守りたい、苦しんでいる人を救いたい。或いは名声を得たい、自分の力を示したい。
生活の為その報酬に惹かれたものもいれば、ただ空を飛ぶことが好きだと答えるものもいる。
では、そんなウィッチ達の一人、藤田伊予少佐はどうであったのか。
藤田少佐は1942年に欧州に渡り、終戦まで戦い続けたベテランウィッチの一人として知られている。
藤田少佐を評する声は人によって異なる。曰く、正義感の強いウィッチ。勉強熱心で努力家。兵学校出身だが、謙虚で、人の話を聞いてくれる。階級で相手を区別しない、等。
だが、彼女と長い付き合いのあるウィッチは苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「あの子、かなり表裏が激しいですよ」
1992年発行『歴史探索』8月号 知られざる扶桑のエース特集より
1942 扶桑皇国 横須賀航空兵学校
-1-
「……はぁ」
藤田伊予『元』一飛曹。
今日付けで少尉に昇進した少女が大きなため息を吐き出す。
扶桑の一握りのエリートウィッチのみが選ばれる欧州への派遣の決定と、少尉への昇進。
同じように欧州へ向かう事を夢見ていた同期や周囲の羨望を受けての辞令の交付を終えたというのに、何故か伊予の表情は晴れない。むしろ、重苦しいと言っても過言ではない。
「……空母勤務、か……」
欧州へ向かう空母の出航まであと一週間程。
その間に手続きを取り荷物をまとめ、もし家族に挨拶に行くなら早めに行くように、という校長の言葉を反芻しながら、新品の第一種士官服の第一ボタンを外す。
予備学校時代のセーラー服は着心地もよくデザインも気に入っていたのだが、士官候補として兵学校へと移った途端に着させられた詰襟の制服は、素材も相まってかどうにも息苦しい。
特に胸の辺りが。
身長の割に胸が大きいとはよく言われるが、確かに、背に合わせて注文した詰襟の士官服は素材のせいか、カラーまできちんと止めているとぎゅうぎゅうと押し付けられて息苦しい。
一応士官学校時代はそのことを訴えて特注の制服を用意してもらっていたのだが、新しく配属になる『天城』にはその情報が伝わっていなかったらしく、新しい階級章の入った詰襟はやはりというかなんというか、一部がやたらと締め付けられる。
『天城』の出航までの一週間で特注できるかどうか。第一ボタンを外していても良いが、伊予の『らしさ』からすれば、これから知り合うであろう新たな先輩達に『だらしない』と思われたくはない。
予備学校、兵学校共に品行方正、温和で控えめな優等生という自分を作り上げ、その恩恵にあずかってきた伊予からすれば、いきなりの路線変更は大きすぎる挑戦である。
「浮かない顔ね、藤田『少尉』」
背後からの声にはっと顔を上げ、慌てて胸元のボタンを留めようとするが、くすくすという聞き覚えのある笑い声にその手を止める。
「横川先生!?」
「何を驚いてるのかしら?さっきまで同じ部屋にいたのに」
どうやら自分が出てくるのを待ってくれていたらしい。入学したばかりの頃からの恩師の笑顔に、ふぅ、と小さくため息を漏らすと同時に口元に笑みを浮かべる。
「ついさっき『謹んで拝命します』って言ってた子とは思えないわよ、その顔」
「そんなこと……あるかもしれません」
その言葉に愛想笑いを引っ込め、僅かに砕けた調子で肩をすくめる伊予。
「出航もしてないのにホームシック?行く前に一度実家に戻ってきたら?」
「ホームシックならとっくになって、とっくに治りました。それに、たった一週間の間で南洋島に行って帰って来るなんて、時間がもったいないです」
伊予の故郷は扶桑本土から遠く太平洋を渡った南洋島だ。わざわざ数日を費やして故郷に戻っている暇など今の伊予にはない。
それに、今の状況で家族に顔を合わせる気にはなれない。
虚栄心ばかりが強い父に褒めそやされても、自分の置かれた立場に惨めさばかりが募るだけではなく、父の仕事を『継がされた』兄やレールに乗せられた姉たちの皮肉に晒されかねない。
そんなのはこちらから願い下げだ。
「じゃあ何?合わない服が気になるの?」
「それもありますが、それだけじゃありません。あとそのジェスチャーは止めてください」
おどけた様に胸を持ち上げる仕草をしてみせる教官……横川和美の言葉に、伊予が眉を吊り上げる。
「じゃあ、何が不満なのかしら?」
和美の言葉に、伊予が苦虫を噛み潰したような表情で呟く。
「……私の目標は統合航空戦闘団ですから。せめて欧州の基地勤務かと。空母勤務になるとは思ってませんでした」
統合航空戦闘団は扶桑の、否、世界中のウィッチにとって目指す場所の最高峰である。
激しい戦いを潜り抜けた実力、才能、全ての面において突出しているとみなされても、尚加入する事は難しいウィッチ達の頂点ともいえる最精鋭部隊だ。
勿論、伊予もいきなり配属できるなどと自惚れてはいないが、それならばせめて欧州の最前線で経験を積んで目に留まるような活躍をし、統合航空戦闘団に招聘されたいと思っていた。
だが、伊予に言い渡されたのは欧州の最前線ではなく、扶桑海軍遣欧艦隊機動部隊への配属。
つまり、空母に留まり護衛をするのが主な任務で、前線とは程遠い。
女性誌や子供向けの雑誌を飾るウィッチは、欧州のグレートエースや前線で華々しく活躍する扶桑のウィッチばかりだ。遣欧艦隊のけの字も載っていない。
そう。そういった雑誌を愛読する年頃の少女達だけではなく、兵站の重要性を嫌というほど教官に教え込まれているような、ウィッチを志す予備学校生たちにとってもそれは同じ事である。
伊予も当然、入学してから一貫して前線の多国籍部隊への派遣を希望していた。
「養成学校からそのまま遣欧艦隊の機動部隊に派遣されるなんて滅多に無い事よ」
「……所詮私は、『その程度』のエリートだった、って事ですね」
「それ『も』あるわね」
教官に対しての精一杯の皮肉も軽く受け流す和美。
一方、伊予は嫌な予感が現実となった事に内心失望にも似た気持ちがわいてくる。
自分が努力をしたのは、安全な後方でのエリートコースを望んだからではない。
欧州の前線で戦いたい。
そして、その頂点の統合航空戦闘団。いずれはそこで、華々しく欧州の空を駆けまわるはずだった。
それなのに、最初は予備学校の教官という、伊予の希望とはかけ離れた推薦が舞い込んできた。
ちゃっかりしている周囲の同期の中には、安全な場所で高い俸給が支払われるとあって羨ましがる者もいたが、伊予からすればたまったものではない。
『君に教えられる教官がいないから、君に教官をしてほしい』。
軍の偉い人達から直々にそう言われても伊予は首を縦に振れなかった。
卒業までの間に何度も具申をし、ようやく欧州への派遣が決まったと思ったら後方への配属である。
こんな事ならもっと手を抜くべきだったかもしれない。
思わずそんな事すら考えてしまう程、伊予にとっては不本意な辞令だったのだ。
「私も貴女に教官をさせるのは勿体ないと思っていました」
和美がそういって伊予の肩を叩く。
「……ですが、遣欧艦隊……空母勤務に推薦したのも私です」
伊予が信じられないといった顔で和美を見る。
教官の中でも、そして周囲のウィッチを含めても、伊予にとって和美は信用できる数少ない人物だったし、自分を、そして自分の夢を理解してくれている人だと思っていた。
「……藤田さん。私が教官となって色々なウィッチを見てきた中で、入学前から素質があると感じたウィッチに出会ったのは過去において二人だけです。一人は西沢義子さん、そしてその次が貴女」
何度も聞かされた言葉だった。だが、今の伊予にとってはただのお世辞にしか思えない。
「でも、貴女はまだこれから。だからこそ、貴女にはいろいろな経験を積んでもらいたいの」
「……」
到底上官に向けるものではない、非難がましい瞳を向けられても、和美の優し気な態度は崩れない。
「藤田さんは機動部隊が安全な後方勤務だと思っているかもしれないけど……」
「……失礼します」
何を言っても今の伊予には意味の無い慰めに聞こえるのだろう。強引に会話を打ち切り、敬礼を見せる伊予に、和美が内心でため息をつきながらも温和な雰囲気のまま海軍式の敬礼を返す。
だが、和美には確信があった。
和美は単純に伊予の座学や飛行技術、成績だけを見て彼女の推薦を決めた訳ではない。
粗削りだが、夢に向かって突き進む貪欲さ。
その為なら周囲にいい子ぶって見せるような計算高さ。
だが、そう言ったあざとさや、慢心していることに気が付かない青臭さも同時に持ち合わせている。
特に、最前線ではその慢心が命を奪う。どんなに魔法力が高くても、飛行技術が優れていても、身の丈を超えた自分への過信は即座に命を奪う事に繋がる。
それに気が付くまでは、彼女の夢はかなう事は無いだろう。
だが。
『あの子』たちがきっと変えてくれる。
今は恨まれても構わない。だが、きっと理解できる時が来る。
伊予を含め、遣欧艦隊という部隊を良く知らないウィッチたちは、空母勤務のウィッチ達を実践に乏しいエリートだとか温い後方勤務と評するが、実際はそんなことは無い。
若本徹子と西沢義子。
扶桑のトップエースの一角、否、名実ともに群を抜いた扶桑最強を誇る二人の天才ウィッチが遣欧艦隊の空母勤務、機動部隊に所属しているのには意味がある。
そして、その意味を知る事が、伊予の夢に最も近い道だと和美は確信していた。
真新しい士官服に身を通し、去っていく教え子の姿を見て、和美は誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「……大丈夫、貴女の夢はきっと叶うわ、藤田さん」
1942年 扶桑皇国海軍遣欧艦隊 空母『天城』
-2-
どん、という鈍い音がハンガーに響く。
ちらり、と整備兵たちがそちらを見るが、いつもの事とばかりにすぐ作業に戻る。
心配をしていないわけではない。
だが、何を話しかけても取り合う気がないのなら、話しかけても意味がない。
「……何で……勝てないの……」
拳をハンガーの壁にたたきつけた伊予がぽつり、と呟く。
先程の戦いを思い出す。
天城に来てから一度も勝つことが出来ない、同い年の飛曹長との戦いを。
「っ!?」
「動きが中途半端です、少尉。逃げるなら逃げる、戦うなら戦う。いつまでも迷っているから、簡単に懐にもぐりこまれるんです」
まるで機械のように冷たい口調でそう言いながら模擬銃を胸元に押し当てる少女……萩谷信乃飛曹長の言葉に伊予はぎり、と模擬銃を握った拳を握りしめる。
「……お言葉ですが、飛曹長。迷っているのではなくて、隙を探していたのです」
「今の少尉の技量で見つかると思いますか?」
淡々と言い放つ信乃の言葉に、伊予がぎり、と歯を食いしばる。
「何度でも言います。中途半端な引出しなんて忘れてください。自然と体が動くまで、頭を使う必要はありません。今の少尉がどう小細工をしても、あたしに勝つのは無理ですよ」
そう言って模擬銃を下ろし、踵を返す同い年の少女。
踵を返した少女の背中に思わず模擬銃を向けたくなる衝動に駆られるが、我慢する。
一度試したものの振り返りもせずに躱され、そして、逆に顔面に模擬弾を食らったばかりだ。
これで5戦5敗。信乃だけではない。他のウィッチと戦っても、勝てない。
信乃と戦う機会が多いのも、信乃が現在魔法力の低下からのリハビリ中で、少しでも多く飛ぶ必要があり、そのため、伊予以外とも必然的に模擬戦を行う機会が多いからだ。
現状の信乃はそれまでと比べ格段に能力が落ちていると聞かされていた。
だが、そんな信乃を相手にしても尚、伊予では歯が立たない。当面の目標は信乃に追いつく事だが、その背中は想像以上に遠かった。
何で、勝てないの。
勝てない相手じゃないのに。
飛行技術は自分とそう変わらないか自分の方が上。射撃に関しては明らかに自分の方が上回っているはずだ。
固有魔法が厄介だが、知っていればいくらでも対策がとれる。
なのに、勝てない。
初めての模擬戦の事を思い出す。
新藤少佐から紹介を受け、皆に拍手で迎えられた。
兵学校の首席で、士官教育も受けたエリート。その言葉に皆が驚きと称賛の声を上げた。
実際、最初に初めて他のウィッチ達と共に飛んだ時も、少々意地悪な挙動を加えられようが、ぴたり、とその背について見せた。
飛行技術だけなら、今までの新人の中ではトップレベルだな。
美枝に褒められても、喜びより先に、当たり前だという気持ちが強かった。
後方部隊のウィッチ相手なら、それも当然だという驕り。
思えばその時が、伊予が最も増長していた瞬間だったのだろう。
模擬戦に入ると、それまで伊予の抱いていた自信は一気に崩される事となる。
模擬戦の相手は新藤美枝、若本徹子、そして萩谷信乃。
その全てが、惨敗だった。
美枝相手には一度も背を取ることが出来ず、徹子に至ってはどこを飛んでいるか見つける前に模擬弾を食らった。
そして、三回目の信乃との模擬戦ではことごとく攻撃を躱されたうえ、連戦の疲労から動きが鈍ったところで背後を取られ、圧倒的に不利な状況に追い込まれたところで、美枝から模擬戦の中止を伝えられた。
実力は解った、という美枝の言葉に、思わず激高し、まだやれます、と訴えても、美枝は首を縦には振らず、その場は解散となった。
みじめすぎて泣きたくなった。
勝てなかった事もそうだが、周囲にその事実を晒したこと、そして、階級も経歴も下の信乃が、実は魔法力の低下で普段の実力とは程遠かったという事実も、伊予の積み上げてきたプライドをズタズタに切り裂いた。
しかし、それは伊予の誤解だ。
本来であればさほど気に病む必要はない事なのだ。
扶桑海軍のウィッチは基本的に予備学校上がりで下士官……軍曹に当たる二飛曹が最低階級となるが、昇進に厳しい扶桑海軍で一飛曹……曹長に上がるころには皆一端のウィッチとなっている。
他国で言えば中尉、大尉レベルのウィッチが扶桑では一飛曹を務めていることも決して少なくはない。
尉官への昇進の為には士官教育を受ける必要があるが、基本的にそのためには一度扶桑に戻る必要がある。最低でも数か月、長くて一年近くかかるその教育機関の為に部隊を開けようとするウィッチは、将来的に内地に戻る事を考えているか、或いは部隊内での昇進に熱心な一部のウィッチなど、ごく少数に留まるのだ。
そして、そういった多数のウィッチの中でも飛曹長……欧州の部隊で言えば准尉に当たるが、そこまで来ると下士官の中でも特に優秀なものにしか与えられない特務階級であり、その権限は一般的な尉官と同等か、場合によってはそれを上回るとされている。
少尉の中でエースと呼ばれるウィッチはごく少数に過ぎないが、飛曹長の中でエースでない者はいない。
純粋な実力で尉官待遇を勝ち取ったウィッチが、例え実力の半分だろうが、兵学校上がりの新任少尉を翻弄することなど容易な事だ。
信乃は決して手を抜いていたわけではない。
普段の実力が出せないからこそ、そして、そんな状況で手を抜けば落とされると理解したからこそ、本気で伊予を落としにかかった。
それだけでも、伊予の潜在能力の高さは十分に証明されていたのだ。
美枝が止めたのも、藤田伊予というウィッチの素質を十分に理解したからと、信乃の魔力の消耗を気にしたからで、決して失望したからではない。
だが、伊予はそう受け取れなかった。
今までの誇りが、夢が、敗北を認めることを拒否している。
ここでもたもたしていては、いつまでたっても前線には行くことが出来ない。
自分が夢見た統合航空戦闘団で活躍することなど、いつまでたっても叶うはずがない。
焦燥感で気が狂いそうになる。こんな状態では、いつ国に返されてもおかしくはない。父親の期待に満ちた瞳が失望のそれに、兄たちのそら見たことかという侮蔑の表情を想像するたびに、叫びだしたいような気持ちに押しつぶされそうになる。
「荒れてるね、藤田少尉」
「……っ!?」
振り返り、そこに立っている髪の長いウィッチを見、居住まいを正す。
「……見苦しいところをお見せしました。飯森中尉」
いいよいいよ、と敬礼をする伊予を手で制する。
飯森房子中尉。
遣欧艦隊初期から部隊に参加し、美枝や徹子らと共に戦い続けた最古参の一人で、遣欧艦隊の戦闘隊長でもある。
遣欧艦隊以前の美枝との付き合いは長いが、気さくな性格で徹子達のようなたたき上げのウィッチ達とも親しく接している。
決して声を荒げることはないが、空での腕は美枝と同等。
否、戦闘技術も含めた総合力では美枝以上ともいわれるウィッチだ。
「何か私に?」
「うん。体力、残ってる?」
にこにこと尋ねる房子に、眉をひそめて尋ね返す。
「……はい、それが何か?」
「もう一回、飛んでみない?」
そういうと房子はくい、と空に向けて指を伸ばした。
-3-
「はい、これで終わり」
つん、と背中を模擬銃でつつかれ、房子が口を開く。
矢張り駄目だった。いつか信乃に目に物みせてやろうとこっそり練習していた捻りこみを駆使しても、背後すら取れない。
「来たばかりの頃から全然成長してない。むしろ駄目になってる」
ぎり、と伊予が拳を握る。
解っている。そんなことは解っているのだ。
だけど、どうすればいいかわからない。何がおかしいのか、何が間違っているのか。
だが、房子は銃を下ろすと、思わぬ言葉を口にした。
「あー。やっぱ模擬戦はダメだね。ダメダメ。こんな事何十回、何百回やってもうまくなんてならないよ」
思わぬ言葉に『は?』と思わず口を開く伊予。
そして、それが失言だったと気が付き、謝罪を口にする前に。
「藤田少尉、前の模擬戦でハギが何て言ったか覚えてる?」
それが何か、と悪態をつきそうになるが、にこにことほほ笑む房子を前に、僅かながら理性がまさる。
正直、頭に血が上って覚えていない。いや、思い出すことを感情が拒否する。
銃口を突き付ける時の、あの醒めた目で見つめられると、何も考えられなくなる。
「いえ、何も……」
「そっか」
その言葉に房子がため息をつく。仮にも上官の質問に最悪の答えをしてしまったことに、叱責を覚悟した伊予がうつむく。
だが。
「うん。そうだよね。私だって嫌だ。流石に怒るよ。あんな態度じゃ先輩失格。悪い子だ。ハギは」
え?と思わず声が漏れる。思わぬ房子の言葉に理解が追い付かない。
「ところで伊予ちゃん。上官からの質問。必ず答えて。敵の背後から銃を撃つときの鉄則は?」
「伊予ちゃ……って、何ですかその呼び方……」
「上官からの質問だよ?早く答えて、10、9、8……」
突然のカウントダウンに言葉を飲み込み、そして、ややおいて口を開く。
「……必ず後ろを見て、敵がいないか確認。それから撃つ、です」
伊予は教科書の内容はほぼ一字一句間違いないくらいには読み込み暗記している。だが、教科書は教科書、実戦は実戦。状況次第では不要ではないかと思う内容も少なくはなかった。
「正解。伊予ちゃん、今それしてた?」
「一対一で必要ありますか?」
「無いよ」
言い切る房子。当然のことだ。
だが、房子はそんな伊予の心中を見透かしたように、更に口を開く。
「でも鉄則は鉄則。鉄の掟なんだ。たとえ模擬戦だろうが、私もハギも、新藤も必ずやってる。もちろん、徹子もだよ」
「……え?」
思わず声が出た。そんな事、遣欧艦隊に来てから一度もやったことがない。
「気が付かなかったでしょ。でも、生き残るウィッチは必ずやってる。伊予ちゃんも気が付かないくらいに無駄なく、ほんの一瞬で。何故だかわかる?」
伊予の顔を覗き込むようにして尋ねる房子。思わず伊予は顔を伏せ、もごもごと口を開く。
「……いえ。でも……」
そんな余裕なんかない。目まぐるしい模擬戦の挙動では、そんな基礎的な動きなどしている暇がない。とにかく信乃を捕らえ、隙があれば引き金を弾く。
それで兵学校時代はいくらでも勝てた。信乃の動きはとらえきれない程でもない。勝てるチャンスはいくらでもあった筈だ。
だが、勝てなかった。
「いいかい伊予ちゃん。兵学校の教科書ってのは、戦場に出たウィッチが……私達が死ぬ思いで得た教訓しか書いてない。伊予ちゃんの背後確認一つをとっても、多分今のハギの10倍は遅い。……その意味、解る?」
そういって、ぽん、と伊予の頭に手を乗せる。
「多分ハギは言っていた筈だよ。一つの動きに集中しろって。後ろにつかれたら逃げるための、教科書通りの『最善の』動きを、後ろについたら攻撃するための『最善の』動きを。今はまだ、負けて当然。でも、基本を磨けば少しづつでも強くなる。いきなり強いウィッチはたまにいるけど、いきなり強くなるウィッチは見たことない。ここにきて、伊予も気が付いたでしょ?」
「……あ」
その言葉に、不意に信乃の言葉が頭をよぎる。
中途半端な引出しなんて忘れてください。
そう。確かに言っていた。
自分自身に余裕が無い中で、きちんと自分を見ていた。
「基本が身についていないのに、基本を崩す事なんて出来ないよ。今のままだと、伊予ちゃんはいつまでたっても成長出来ない。折角良い筋してるんだから、それじゃもったいないよ」
そう。
きちんと信乃は言っていたのだ。自分が何をすべきかを。
ただ、それを伊予は聞いていなかっただけ。聞こうとしなかっただけ。
「……そう……だったんだ……」
ぽつり、と呟く。
情けなくて、恥ずかしい。
プライドをへし折られた時、皆の前で醜態をさらした時。
そんな事なんてどうでもいいくらい、今の自分が情けない。
意地悪でも、嫌みでもない。
あの子は、萩谷飛曹長は、きちんと言葉にして伝えてくれていたのに、私は何も聞こうとしなかった。
それだけの情けをかけられてなお、些細なプライドに固執していた事に。
「……あの、飯森中尉……」
「ん?」
「……あの……その……」
「うん」
にこにこと、優しい笑みを浮かべながら房子が頷く。促すでもなく、急かすでもなく。
「……ありがとう……ございます……今まで、すみません、でした……」
口にすると吃驚するくらい楽になる。
ああ、きっと、もっと、屈辱的な気分になるかと思っていたのに。
「……いいよ。信じてたから」
短い返事。だが、今の伊予にはそれで十分すぎるくらいだった。
「だから……教えてください。一から、私に」
その言葉に、房子はにっこりとほほ笑んだ。
そして。
その日から伊予は変わった。
信乃との模擬戦は相変わらず連敗続きだ。
しかし、負けても今までのように荒れた態度は見せなくなった。
そして、模擬戦が終わると房子と共に空を飛ぶ。ひたすら基本に忠実に。勝つことよりも、自らを一から見直し、確認するかのように。
そのせいではたから見れば更に腕が落ちたとも見えるが、そうではない。
やっていることは基礎動作の確認。それを迅速に、正確に行う。房子が後ろを追いかけ、ひたすら基礎的な回避行動を。そして、カメラを手に、房子を追いかけ何度も攻撃のタイミングを。それを日が暮れるまで繰り返し確認していた。
「遅いよ、伊予ちゃん。若なら今の一瞬で視界から消える。もっと気を配って」
「はい!!」
房子の後につきカメラを構えた伊予が答える。再度カメラを下ろし、房子の背を追い旋回。
白い航跡雲が、空に二筋の曲線を描いた。
-4-
「……」
その様子を見上げている信乃。ランニングの足を止め、どこか眩しそうに、その様子を見つめている。
「悔しいか、ハギ」
背後からの声に信乃がびくり、と身を竦ませる。
「若……」
そんな事は……と言いかけた信乃の頬に徹子が手にした瓶を当てる。
「ひぁ!?」
「どうした?好きな奴だろ?」
そう言って手渡されたラムネを受け取り、そしてしばらくそれを見つめた後、名残惜しそうにその瓶を徹子に戻し、首を振る。
「……訓練中ですから」
「温くなっても後悔するなよ」
そう言ってもう一本を目の前で開ける徹子。美味そうにしゅわしゅわとしたソーダ水を飲み干す様子を若干羨ましそうに見つめていたが、ぐっと堪える。
今はまだ、自分を甘やかす時ではない。
体力をつけようと走り込みを始めて、いかに今までの自分が魔法力に頼りきりだったか、痛いほど理解できた。
予備学校時代は日課だった運動で息が上がってしまうほどに体力が落ちている事に気付けただけでも、自分を見つめなおすには良いきっかけだった。
そう。
そう思わないと、ともすれば心が折れそうになる。
まずは薬でぼろぼろになった体を鍛えなおす事だ。
今の自分では実戦に対応できない事は、自分自身が痛いほど理解している。
「……アイツはもっと強くなるな」
だが、そんな信乃の気持ちを知ってか知らずか、ぽつり、と呟く徹子。
「……はい」
ぴくり、と一瞬眉が動いたが、その言葉に信乃も頷く。
否。頷かざるを得ない。
ほぼ毎日のように模擬戦を行っているから解る。
今の伊予はまだ、もう一度スタートラインに戻っただけだ。
今までセンスだけで飛んでいたためあやふやだった土台を、もう一度作り直す為。
目の前の伊予の姿が誰かに重なる。
きっと、伊予は強くなる。恐らく、自分の想像しないようなペースで。
「……諦めるか?」
「……諦める訳、無いじゃないですか」
徹子の問いかけに信乃が首を振る。
魔法力が減少した信乃に与えられた選択肢は2つ。扶桑に戻るか、ここに留まるか。
そして、後者には一つの条件がある。
配属された新人が実戦を迎えるまで、彼女に模擬戦で勝利し続ける事。
実戦に出すことが出来ないような新人にも劣るようなら、どのみちここに残っていても生き残ることは出来ない。
そのことは十分に承知している。自分に求められている最低限のボーダーラインも。
そして、本来の自分に求められていた筈の役割も。
戦場で本当に必要なのは『飛ばした方がいい』ウィッチではない。『飛ばさなくてはいけない』ウィッチだ。
勿論、そこに至るまでは、実戦での経験が必要不可欠だ。伊予にはまだそれが欠けている。
それを補うまでは、周りのフォローが必要不可欠だ。
だが、信乃はそうではない。
伊予とは違い、実戦を積んでいる。新兵ではない信乃に求められているハードルは、もっと高く、もっと厳しい。
飛曹長の肩書を背負っている以上、ようやく実戦に出れる新人と同じレベルに甘んじているようでは、この遣欧艦隊ではただのお荷物だ。
そう。
本来、温情など必要ない。
自分が戦場に不要な存在なら、切って捨ててもらうべきだ。
だからこそ。
「……強くなります。あたしは、もっと」
「……そうか」
信乃を扶桑に戻すように進言したのは他ならぬ徹子自身だ。そして、徹子は美枝が出した条件にも納得していないだろう。
美枝の条件は甘すぎる。
そして、信乃もそれを理解している。
徹子はどうにか戦えるだけのウィッチを二番機に付けるようなウィッチではない。
徹子が求めているのは、戦えるウィッチではない。自分の僚機と胸を張って言えるだけの、強いウィッチだ。
それだけの素質があったからこそ、かつての信乃は徹子に鍛えられた。
今のあたしはそうではない。だから、若は何も言ってはくれない。
「……そうだな。オレは弱い奴の背を庇って戦うつもりはない」
「……あたしも、背を庇われるつもりはありません」
そう言って信乃は背筋を伸ばす。徹子に背を向け、前を向く。
「あたしはもう、前のあたしとは違うんです。だから、今のあたしに出来ることをするだけです」
そう言って自らの頬を叩く。
今の自分の弱さは、他ならぬ自分自身が一番良く解っている。
今の自分は、若の後を雛鳥のように着いて回っていた自分でも、薬で恐怖を殺して言われるままに飛んでいた強行偵察部隊の一員でもない。ただの一介の飛曹長だ。
だからこそ、自分の弱さに言い訳は出来ない。弱さは全て自分で受け止めるしかないのだ。
だから、強くなる。強くなって、飛ばなくてはいけない。
自分の前で散っていった、『ヴァジェト』の仲間たち。そして、助けられなかった人たちの分まで、自分は強くならないといけないのだ。