私と先輩が結婚すべき理由   作:おかぴ1129

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5. ホッとしたとき、ありがちなこと

「ふぃー。ただいま〜」

「ただいまで〜す」

 

 食堂での食事が終わった後、周辺の市場で買い物をした俺達は、そのまま帰宅した。

 

「薫は晩飯までちょっと一休みしてるといい」

「先輩は」

「俺は晩飯の準備だ」

 

 買ってきたのはキンメダイを丸々一尾と鯨のベーコン。刺し身は昼に散々食べたから、キンメダイはそのまま煮付けにでもしよう。鯨のベーコンは……今日はまだいいか。また今度、薫とゆっくり晩酌するときにでも開けるとしよう。

 

「先輩はゆっくりしないんですか」

「俺は晩飯を作らなきゃならん」

「了解です」

「なんなら先に風呂入っててもいいぞ。今日は疲れたろ?」

「……じゃあお風呂は準備だけしときます。晩ごはんのあとで一緒に入りましょう」

「はいよー」

 

 俺に促され、薫は風呂の準備をするために風呂場へと消えていった。一方の俺は買ってきたキンメの下処理をするため、台所でまな板を出し、包丁を準備する。

 

「……先に炊飯器を仕掛けておくか」

 

 そう思いたち、包丁を出したところで、俺は一度キンメを冷蔵庫にしまった。冷蔵庫の中は思ったよりガランとしていて、明日あたりにでも食材を買いに行かなければならないことを、俺に静かに伝えている。

 

 炊飯器の内釜にコメを入れ、シャワシャワと洗っていたとき、俺は、ちょっとした異変に気づいた。

 

「……あれ」

 

 薫が風呂場から戻ってこない。風呂場の方からドアを閉じる音は聞こえてきたから、あいつが風呂の準備をしたこと自体は俺にも伝わったのだが……にもかかわらず、薫がリビングに戻ってこない。

 

「薫―?」

 

 米を洗いながら薫の名前を呼んでみるが、返事はない。

 

「着替えか?」

 

 米を洗い終わった後、エプロンで手を拭いて炊飯器のスイッチを入れ、俺は一度台所から寝室へと足を運んでみた。風呂場からは湯を張ってるダバダバという音が聞こえている。やはり俺が思ったとおり、薫はキチンと風呂の準備をしてくれたようだが……

 

 寝室に入ると、電灯が点いている。肝心の薫の姿は見当たらないが、ベッドの上の掛け布団が、不自然に盛り上がっている。

 

「……」

 

 『お前は小学5年生か』という言葉が喉まで出かかったが、そこはグッとこらえる。そっちがかくれんぼをしているつもりなら、俺だって騙されたふりをして、最後までお前に付き合ってやろうじゃないか。

 

「あー……薫はどこに行ったんだろうなー」

「……」

「わっかんないなー。どこに行ったんだろー?」

「……」

 

 非常にわざとらしい演技を行いながら、掛け布団に手をかける。相手を油断させ……そして……

 

「……こら薫っ!」

 勢いよく布団を引っ剥がす。思ったとおり薫は、掛け布団の下にうつ伏せで隠れていたのだが……。

「……ハッ……ハッ……」

「薫?」

 

 なんだか様子がおかしい。顔を見ると、目がうつろでぼんやりしてるし、表情も仏頂面というには、あまりに覇気がない。

 

「ハッ……ハッ……先輩、わーっ……」

「……具合が悪いのか」

「せっかくびっくりさせたんだから……ハッ……ハッ……驚いてくださいよっ」

「いつからだ」

「帰ってくるときに、ちょっとフラッてして……ハッ……ハッ……」

「……」

「『気のせいだろう』と思ってたのですが……お風呂の準備が終わったところで頭のグラグラがひどくなって……ちょっと横になったら、寒くなってきて……」

「……」

「でも、晩ごはん食べて一緒にお風呂入れば、なんとかなるだろうと思って……」

 

 連日の激務のせいか……こいつは、体調を崩していたようだ。

 

 考えてみれば、こいつは朝から、俺に対してシグナルを発し続けていたじゃないか。いつもと同じ味の卵焼きを食べて『味が違う』と言い、この暑い日にカーディガンを羽織って、Tシャツ一枚の俺に対して『寒くないですか?』と言っていたじゃないか。

 

 俺の心に、後悔の気持ちが芽生える。それらが何を意味するのか、もっと早く気がつくべきだった……毎日俺の卵焼きを食べているこいつが、いつもと同じ卵焼きを食べて『味が違う』と言った意味を、もっとよく考えるべきだった……

 

 ベッドに腰掛け、苦しそうに浅い息を続ける薫の額を触る。赤いでこちんは、思ったより熱い。

 

「ハッ……ハッ……」

 

 薫は今日一日、俺と一緒になって、ずっと大騒ぎしてはしゃいでいた。本人が気づいてないところで蓄積していた今までの疲労に加え、今日の分の疲労も重なって……ホッと一安心したところで、今までの借金が一気に吹き出したんだろう。

 

「……すまん薫」

「ハッ……ハッ……何が……?」

「今日はデートせず、休むべきだったな……」

 

 辛そうに浅い息をし続ける、薫のほっぺたに触れる。でこちんと同じくまっかっかで、めちゃくちゃに熱い。

 

「や……です。そんなこと……ハッ……ハッ……言わないで」

「なんでだ。今日はゆっくりしてりゃ、お前も倒れることなんかなかったろ」

「私は、後悔なんか……してません……ハッ……ハッ……」

「……」

「楽しかったぁ……久しぶりに、先輩と一緒に、いちゃいちゃ出来て……楽しかったぁ……だから、気にしないで、ください」

「……そりゃ、気にしろってことか?」

「はい」

「んで、看病しろってことか?」

「はい……ニヘ……」

 

 そんないじらしいことを言い、薫はニヘラとキモい笑みを浮かべる。……いや、キモい一歩手前程度の、いまいちキモさの足らない微笑みだ。

 

「……しゃーない。妻のバイオリズムを整えるのは、旦那の役目だ」

 

 薫のほっぺたから手を離し、ベッドから立ち上がる。時計を見ると、今は午後の4時。思ったより時間が過ぎていたが、まだまだ夕方の早い時間だ。

 

「……う」

 

 薫の力無い唸り声が聞こえたが、今はそれを無視する。ポケットからスマホを取り出し、俺は会社に電話をかけた。

 

『お電話ありがとうございます。月島商事でございます』

 

 俺の頭をデジャブが襲う……数回のコールのあとに電話に出たのは、若いやつではなく課長。なんで課長が電話番なんかやってるんだ?

 

 ……だが、一発目から課長が出たなら好都合。いちいち取り次いでもらう手間も省ける。

 

「課長。渡部です」

『おお渡部か。お前らが休んでるおかげで社内はけっこうてんやわんやしててな』

「ほー。それはそれは」

『お前の影響はないが、設楽が休んでると社内の進行管理がなかなかうまくいかん』

 

 課長のこの一言が、俺のプライドに不必要な傷をつけた。仕事に対するプライドはないが、直接こんなことを言われれば、俺だってへそを曲げる。

 

 ……まぁいいだろう。これで罪悪感を一欠片も抱えることなく、気兼ねなく話が出来る。そんなものを会社に対して持ち合わせたことなぞ、一度もないがな。

 

「課長、俺が朝言ったこと、覚えてますか?」

『朝? 有給の連絡か?』

「はい。今日と明日は有給という話です」

『このてんやわんやが明日も続くというのは考えたくない。設楽だけでも出勤してくれんか?』

 

 勝手なことを言いやがる……なーにが考えたくないだ。それをなんとかするのがあんたら管理職の仕事だろう。電話番はあんたの仕事じゃないはずだ。

 

「そのことですが……課長、前言撤回します」

「は?」

「渡部夫妻、今週いっぱい休ませていただきまーす」

 

 途端に大騒ぎになる受話器の向こう側。薫の様子をチラと伺うと、力のないトロンとした眼差しで、じっと俺を見つめてる。

 

「……先輩」

 

 薫の唇が力なくそう動いたが、俺は気にせず電話を続けた。

 

『ちょっと待て! 今週いっぱいって、今週はずっと休むってことか!?』

「そうでーす。渡部夫妻、今週はもう出勤しませーん!」

『設楽はまだ大丈夫だがお前は有給もう残ってないだろ!?』

「んじゃ俺は欠勤で」

『設楽だけでも出勤してくれないと困る!』

「そんなの知ったこっちゃありませーん。俺は休んでも会社に迷惑かからないし、妻はまだ有給残ってるし、何の問題もないでしょー」

『う、あ、し、しかし……!』

「それでは課長っ! よい一週間を!」

 

 未だわーわーギャーギャーとやかましい課長を尻目に、俺は通話を切った。そのままスマホを機内モードへと切り替え、一切の着信をシャットアウトする。

 

「……これでよし」

「先輩?」

「お前のスマホは?」

「そっちですが……」

 

 力なく指差されたその先のワゴンには、薫のスマホが無造作に置かれていた。それを手にとった俺は……

 

「薫、手」

「て?」

「おう」

 

 力が全く入らずぐったりとしている薫の右手を取り、親指をホームボタンに押し当てる。スマホのロックが解除されたのを確認した俺は、そのまま薫のスマホも機内モードへと切り替えた。

 

「あ……」

 

 これで俺と薫のスマホは、こっちから機内モードを解除しない限り、もうほかの奴らに鳴らされることはない。つまり、邪魔するやつはいないわけだ。そんな無用の長物と化したスマホどもをポイとワゴンの上に投げ捨て、俺はベッドの上でポカンとしている薫のそばへと腰を下ろす。

 

「今週はもう仕事の心配はしなくていい」

「ホントですか」

 

 薫がもぞもぞと、俺の膝の上に上半身を乗せてきた。体温が高い上にその猫顔……お前は猫かと突っ込みたくなる気持ちを抑えつつ、薫の頭をくちゃくちゃと撫でた。

 

「おう。風邪なのか過労なのかは知らんが、とりあえず体調を戻すことだけ考えればいい」

「今日と明日が休みというだけで贅沢なのに……そんなに休んでいいんですか」

「いいんだよ。今月はさんざん走り回ってたろ? それこそ、俺達の生活がすれ違うぐらい」

「でも……会社に迷惑では……?」

「平日に夫婦が一緒に晩飯を食えない方が間違ってるんだよ。いいから休め休め」

「……はい」

 

 もはやおばあちゃんちの猫と寸分違わぬ存在となった薫が、俺の膝の上で、俺の腰にしがみつく。俺はこいつの頭を撫でる手を止めない。猫なら猫らしく俺に撫でられるがいい。

 

「食欲は?」

「不思議とあるんですけど……『ない』って答えたほうが、手厚く面倒見てくれますか」

「どう答えてもちゃんと看病するわ。ただ作るものが変わるだけだ」

「……んじゃ、食欲あります」

「んじゃ今晩は、キンメじゃなくて豚肉にするか。梅使って、さっぱりたくさん食べられるようにするよ」

「あと、卵焼きも」

「はいよ」

「……ありがとう。旦那様」

「どういたしまして。奥様」

 


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