私と先輩が結婚すべき理由   作:おかぴ1129

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7. 奥様は……

 胸に感じる心地よい圧迫感で、俺は眠りから目を覚ました。

 

「……?」

 

 仰向けで眠っていた俺の胸に、隣で寝ていたはずの薫が乗っかり、そして静かに頬を寄せて目を閉じている。

 

「……薫?」

「……あ、ごめんなさい先輩。起こしてしまいましたか」

「いや……おはよ」

「おはようございます」

 

 俺の挨拶を聞いた薫は、起き抜けの俺を刺激してしまわないよう、静かに、優しくささやきかける。その表情にいつもの仏頂面はなく、ただ、ほんの少し差し込む朝日に照らされた、優しく眩しい笑顔があるだけだ。

 

「体調はどうだ?」

「おかげさまで。だいぶいいですよ」

「そっか……よかった」

「昨晩、先輩が一緒にいてくれたおかげです」

「いつも通りのことをしただけだ。晩飯作って、風呂入って……」

「それが私には、いつもうれしいんです」

 

 こんなに穏やかで心休まる朝を迎えたのは、いつぶりだろうか。優しく囁く薫の吐息が俺のほっぺたまで届き、その暖かさが心地良い。

 

「先輩」

 

 カーテンの隙間からは、眩しい朝日が、寝室に優しく差し込んでいる。その光に照らされる薫は神秘的に感じるほど美しく、昨日までの疲労感はない。

 

「腹減ったろ? そろそろなにか作るよ」

 

 俺は奥様に朝食を準備しようと、ベッドから上体を起こそうとしたが、薫はそんな俺の上半身を優しくふわりと抱きとめて、起きようとする俺を柔らかく制止する。

 

「せんぱーい」

「……先輩。一つ、わがまま言ってもいいですか?」

「? わがまま?」

「今朝は……もう少し、一緒にベッドにいてくれませんか?」

「おなかすきましたー」

「そっか……でもどうして?」

「卵焼き食べたいです」

「だって……ずっと、先輩とこうして、朝にゆっくりしてなかったから……」

「……そだな」

 

 言われて気づく。薫と共に、こんなに優しい朝を迎えたのは、いつぶりだろうか。気がついたら薫とともに仕事に追われていた……

 

「……だから先輩」

「へーいせんぱーい。げらーっぷ」

「ん?」

「もう少し、二人で……」

 

 ……そうだ。今日は休み。仕事の心配はしなくていいし、会社から呼び出しがかかることもない。ならば、こうして夫婦の時間を取り戻すのも、悪くないはずだ。俺は起こそうとしていた上体を再びベッドに倒して仰向けに寝転び、薫の身体を強く抱きしめた。

 

「ぉおっ……せ、せんぱ……」

「そだな。今朝ぐらいは、ゆっくりしてもいいよな」

「朝っぱらからなんと大胆な……」

「……はい」

「んじゃ、もう少し……」

「はい」

「少しっ……くるしい……ですっ」

 

 薫が俺に体を委ねた。心地いいベッドのシーツの感触と薫自身の温かさに包まれ、俺の瞳は少しずつ閉じていった。

 

………………

…………

……

 

 鼻の頭の妙なくすぐったさで、俺の眠りは無理矢理に破られた。

 

「……くすぐったっ」

「……あ、やっと起きましたね」

 

 鼻の頭がやけにくすぐったい。ぽりぽりと掻こうと右手を動かそうとするが……大きな物が右手に乗っかっているようで、どうにも動かせない。

 

「なんだ……?」

 

 自分の右側になにかがある……それも、俺の鼻をくすぐってくるものが……確認するため、目を開いたところ……

 

「ぉおッ? 薫?」

「おはようございます先輩」

「お前……なにやってんだ?」

 

 目を開いた途端に俺の視界いっぱいに広がったのは、薫の仏頂面。俺の身体に薫がしがみついてやがったらしい。俺の顔のすぐそばで仏頂面を輝かせ、キラキラとハイライトが眩しい眼差しで、至近距離で俺を睨みつけている。鼻がさっきからくすぐったかったのは、こいつの吐息が原因のようだ。

 

「なにって……覚えてないんですか?」

「お? 何が?」

「覚えてないんですね」

「ま、まぁ……」

 

 はて……寝ぼけた俺は薫になにか不埒なことでも働いたのだろうか?

 

「私は十分ほど前に起きたのですが」

「おう」

「お腹も空いてきたし、いつものように寝ている先輩にポーズをつけて遊ぼうとしたところ……」

「だから寝ている俺で遊ぶなと何度言えば……」

「先輩が突然私の手を取り、ベッドに引きずり込んできまして」

「!?」

「突然のことでされるがままになってたら……こんな感じで、先輩がものすごい力で私にしがみついてきたので」

「……」

「しがみつかれてる私としてはとても苦しいですし、どうしたものかと思案していたところです」

 

 言われてみると、なるほど……右腕は薫を腕枕してるし、左腕は薫の腰辺りに置いて、ぐわっと全身で、薫の上半身を思いっきり抱き寄せてる感じだ。

 

 ……そうか。ご両親に挨拶に行ったときの朝のように、さっきの眩しくて幸せな目覚めは、夢だったのか……だから途中で『げらーっぷ』とかわけのわからないセリフが混じっていたのか。

 

 でも、いま薫を抱きしめているのは、決して夢なんかではなく……

 

「ところで先輩」

「お、おう……」

「いつまでしがみついているのですか」

「……おあ、す、すまん」

 

 互いの鼻が触れるか触れないか、そんなすぐそばの仏頂面に睨まれながらそんなことを言われると、なんだか怒られている気がしないでもない……大迫力の抗議のようにも感じる薫からの言葉に、俺は反射的に手を薫から離そうとしたのだが……

 

「……いや」

「お?」

「別に……離さなくても、よいですが……」

 

 ……と、目の前の仏頂面はほんのりほっぺたを赤く染め、そして昨日のように口を尖らせてそっぽを向いた。

 

「お、おう……」

 

 つられて俺の方も妙に気恥ずかしくなり、そして薫から目を背ける。こいつにこんな反応されると、反応に困る。どうした薫。いつもみたいに、軽口でぶつかってこいよ。

 

「あの……ところで先輩」

「お、おう」

「昨日は、ありがとう……ございました。もう、体調は大丈夫……です」

「よ、よかった」

「だから……あの……」

 

 ……あ

 

「……」

「そ、そのー……朝っぱらから何ですが……」

 

 ……やばい

 

「えーと……ひやっ」

 

 あ……無理かも……確かに朝っぱらから何やってるんだとか、相手は病み上がりだぞとか我ながら思うけど……薫を抱き寄せてる両手に力がこもったのが分かった。かなり強い力で、自分でも『俺ってこんなに力があったの?』てびっくりするぐらい、薫の華奢な身体を力いっぱい抱きしめている。

 

 その上……

 

「え、えっと……」

「お、おう……」

「もうちょっと……その、ぎゅーってしてくれて、いいです……」

 

 こんなこと言われて我慢してられるほど、俺はやる気ない旦那ってわけじゃない。腕枕っぽい感じになっている右腕を動かし、そして薫が着ているシャツの裾に手をかけた。

 

 左手を薫の背中から服の中に入れて、ブラのホックに触れた、まさにその瞬間。

 

――ぐぎょぉぉお〜……

 

「う……」

「んお?」

 

 服越しに薫に密着してる、俺の腹に不思議な感触が走った。そして、アニメみたいな妙な音も聞こえた。俺の腹伝いで耳まで届いたその音は……

 

「あ、あの……」

「……」

「お腹が……すいて……」

 

 忘れていた……薫は、空腹に耐えかねて俺のことを起こしに来ていたのだった……ということは、今の腹の違和感と情けない音は、薫の腹具合を知らせる音……いわゆる『腹の虫』というやつだ。こんなべったべたな事が起こるとは……

 

「……ぷっ」

「なんですかっ」

 

 俺も我慢出来ず吹き出し、薫はほっぺたを赤く染めたまま、いつもの仏頂面へとすぅっと顔を戻した。

 

「くくっ……色気がないなぁ」

「失礼なっ。奥様に対して色気がないなどと……」

 

 俺のヤル気も途端にしぼんだ。代わりにむくむくと頭をもたげてきたのは、『こいつに朝飯作らなきゃ』という、ある意味母親みたいな意識。……いや、設楽家の女性と結ばれた男性特有の、『妻の面倒を見なければならぬ』という、お父さんから受け継いだ使命感みたいなものといえばいいのか?

 

 でこちんをコツンと合わせ、互いに相手を見つめる。薫は赤面した仏頂面で。そして俺は、ほくそ笑みながら。

 

「くくっ……腹減ったろ。朝飯作るよ」

「う……はい……」

「なんだ。卵焼きはいらんのか」

「そうではないですが……うー……」

 

 おーおー……薫もすっかりその気になってたみたいだ。でも空腹も我慢できず、かといってスイッチをオフにするのも嫌で……といった具合か。昨日よりは幾分元気な唸り声だが……やっぱり猫科の肉食獣にしては、いまいち迫力がない威嚇なのも確かだ。唸り声に迫力がまったくない。

 

 だけど……愛しい俺の奥様は、そんなところが素敵なわけで……そんなところが、たまらなく愛おしいわけで。

 

「薫」

「なんですか」

 

――ちゅっ

 

 その瞬間、薫の後頭部から背後に向かって、ロケットの噴射にも似た爆風と『ドガン』という爆発音が発生したのが、俺からも見えた。

 

「えあ、あの……」

「愛してる。薫」

「へあっ!?」

 

 言いたいことだけサッサと口走った後、俺は薫からパッと手を離し、ベッドから跳ね起きた。主夫は朝から忙しい。顔を洗ったら愛しい奥様のために朝飯作って、洗濯しながら掃除して、そして……

 

「その前にまず朝飯だ。卵焼きサンド作るぞー」

 

 ひととおりの家事をしたら、今日は一日、奥様のご機嫌取りだ。奥様には次の仕事を頑張ってもらうためにも、今日は存分にいちゃいちゃせねばなるまい。

 

 ……無論、それは俺自身のためにも……なのだが。

 

 ベッドから起きた俺は、そのまま足速にドアへと向かう。ここから見えるリビングに差し込むお日様の光はとても眩しくて、今日も良い天気であることを俺に知らせてくれた。これだけの心地いい快晴なら、洗濯物がよく乾く。掃除よりも洗濯を今日は優先させるとしよう。

 

「サンドイッチにハムも挟むか。何枚挟んでほしい?」

 

 俺はベッドを振り返り、薫にハムの枚数を聞いてみたのだが……返事がない。

 

「薫?」

 

 代わりというか何というか……薫の頭から、狼煙のような湯気が立っていた。

 

 不審に思った俺は、一度ベッドに戻り、薫の顔を覗き込む。

 

「薫?」

「ニヘ……ニヘヘ……」

「?」

「先輩が……愛してるって……ニヘヘヘ……ちゅって……ニヘラぁ」

「……」

 

 やはりというか何というか……薫は、いつにも増してキモい笑顔をニヘラと浮かべていた。

 

「キモいぞ」

「ニヘヘ……だって、愛してるって……ニへへへ……」

 

 まったく……会社に行けばバリバリのキャリアウーマンで、我が社随一の稼ぎ頭兼出世頭。週刊誌の『女性が憧れるキャリアウーマンTOP10』なんかの特集で毎回上位に食い込んでいてもおかしくないような、そんなナリをしているくせに……

 

「ハムはいらんのかー?」

「ハムより……ニヘ……もっと言ってくださいよ先輩……ニヘラぁ」

 

 それが、一度家に戻れば料理はもちろん家事全般がニガテ中のニガテ。家庭内で気に食わないことがあれば『うー』と覇気のない肉食獣のような唸り声を上げ、嬉しいことがあると『ニヘラぁ』と誰よりもキモい笑みを浮かべる。常日頃浮かべる仏頂面は愛想がなく、俺以外の誰もが、その魅力に気づくことはない……いや、俺ですら、時々その仏頂面の迫力に押されることがある。

 

 ……でも、そんな奥様がたまらなく愛おしくて。

 

 まさか、たぬき顔が好きだった俺が、猫顔の奥様にベタぼれするとは……そして、迫力ある仏頂面も、やる気ない唸り声も……

 

「……」

「ニヘ……ニヘヘ……じゅるり」

「よだれを垂らすな」

 

 よだれを垂らしながら浮かべる、キモいニヘニヘ笑いも……すべてを、こんなにも愛おしく思う日が来るとは……いやはや……

 

 俺はスタスタと足早に洗面台へと向かった。俺に放置されたベッドの上の薫は、寝転んだまま茹だった頭からモクモクと湯気を出し、ニヘニヘとキモい笑みを浮かべ続けているようだ。

 

 早く朝飯を作らなければ……薫の腹は、すでにエンプティに達してアラートを鳴らしはじめている。急いで卵焼きサンドを作って、すっからかんを解消してやらねば……洗面台の前に立った俺は、急いで自分の歯ブラシを取り、歯磨き粉をほんの少し歯ブラシに乗せた。急げっ急げっ。

 

 ……あ、でも歯磨きは入念にやっとくか。そのあとの事に備えて。

 

終わり。

 




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