体が自由だ。
一切のしがらみから解き放たれたみたいな、ふわふわとした感じ。
まるで水の中にいるみたいだ。
――違う。本当に水の中にいるんだ。
意識が急速に覚醒する。息苦しさを覚え、必死になって手足を掻く。水面を目指し我武者羅に泳ぐ。傍から見れば無様極まりないはずだ。構うもんか。こっちは本当に死にかけてるんだから。
「ぷはぁっ……はぁ……はぁ……」
一体どうしてこんなことになっているのだろう? いくら夢遊病患者でも身投げはしないはずだ。するにしたって無意識に死を選ぶほど何かに追い詰められてなきゃ道理じゃない。少なくとも今のぼくには死にたいと思える理由は一つだってない。
「ら~ら~ら~♪」
どこからか歌が聞えた。
歌声の聞こえた方を向くと水面から顔を出した岩に腰掛けた人魚がいた。
「お前の仕業か」
「!? だ、だれ? って、なんで人間がこんなところに!?」
「なんでって、お前の歌のせいじゃないの?」
「はぁ……?」
話がかみ合わない。どうして?
「お前、セイレーンじゃないの?」
「そんな大したものじゃないわ。私はわかさぎ姫。ここに棲んでるしがない淡水人魚よ」
「姫ってことは大物じゃないの?」
「……気にしたら負けよ」
まったくわからないけど、何となくこいつが悪い奴ではないと思った。なんというか、こいつは悪だくみとかそういったこととは縁遠い存在なのだと察せられた。
「疑って悪かった」
「それは構わないのだけど……ところであなたは誰なの? どうしてこんなところに?」
わかさぎ姫に訊ねられたから答えようとして――答えられなかった。
「どうしたの?」
「えっと、わかんない……」
「何が?」
「ぼくが何なのか、なんでここにいるのか。ってか、そもそもここはどこなの?」
自分についての記憶と目覚める前のいくらかの記憶をぼくは失っているようだった。
「それってもしかしなくとも記憶喪失?」
「たぶんね。とにかく、ぼくはぼくが誰なのかわからないし、ここがどこなのかもわからない。ないない尽くしで悪いね――くしゅんっ!」
「人間ってあんまり長いこと水の中にいちゃダメだったわね。そろそろ陸に上がった方が良いわ。ほら、私につかまって」
「……」
「どうしたの?」
「……なんでもない」
一瞬、人外の言葉を信じていいものかと脳裏をよぎったが、そもそもこいつからは悪意とかそういう類のものを一切感じないことを思い出し、素直に従うことにした。
ちなみに、ここは霧の湖と呼ばれる場所だそうだ。
今は夜だから霧は出ていないが、昼間になると湖の大きさがまったくわからなくなるほどの濃霧に包まれるらしい。
そういった不思議な場所だからか、魚がたくさん取れるようだ。また今度釣りでもしに来ると良いと言われた。それでいいのか、人魚?
それにしても変わった子だった。
十中八九外来人で間違いないはずだけど、あの子が私を怖がる様子は一切なかった。
たしかに私は妖怪にしては妖怪らしくないというか、誰もが認める生粋のヘタレだけど、普通の外来人なら私のことを見たら絶対びっくりするはず。
事実、今まではそれで間違いなかったんだもん。
でも、あの子は私のことをちっともこわがらなかった。
むしろ、妖怪である私の方が人間のはずのあの子をちょっとだけ不気味に思ったほどだ。
あの子は死にかけたと言っていたけど、それにしてはおかしなほど冷静過ぎた。
まるで死ぬことに慣れてしまっているような、そんな印象だ。
体のあちこちに切ったような酷い傷跡があったけど、まさか……。
いくら考えても答えは出てきそうにない。
それもそうだ。
肝心の答えを、あの子はなに一つ覚えていないのだから。
だから、記憶を取り戻した後に話がしたくて別れ際にあんな提案をしたのだけど――
正直、人魚の台詞じゃなかったと反省している。