空気を裂くようなカン高い音で、彼――
「…………眠い」
くあ、とあくびを一つ。大きく口を開けながら、涙の滲んだ瞳をごしごしと擦る。本来なら学生の身分である一夏は、この時間帯にはもう登校していなければならない。それなのにこうして余裕を持ちながらだらけていられるのは、絶賛春休みの最中であるからだ。部活動に入っている生徒なら練習があったかもしれないが、あいにく一夏は中学二年にして立派な帰宅部だった。なので、彼の春休みは実にゆったりとしたものになる。
「――――、」
波のように押し寄せてくる眠気と、起きようとする理性の狭間で揺さぶられながら、至福の微睡みタイムを満喫する。それが密かな一夏の毎日の楽しみだ。この「あともう少し……」という時間がなんともたまらない。出来ればずっと横になっていたくなるが、そうもいかないのが常。アルバイトは受験生になるから止めたとはいえ、彼には姉より一任された我が家の管理という大切な任務がある。掃除、洗濯、自炊、その他諸々。時間は有限。やることは沢山だ。
「…………起き、ないと、な」
独りごちて、のっそりと布団から這い出る。おかしいことに、今日は一段と体が重かった。まだ完全に目が覚めていないからか。そう考えた一夏は、一先ず顔を洗いに洗面所へ足を向けた。とりあえず、シャキッとすればなんとかなるだろう。覚束ない足取りで、ふらふらと廊下を歩く。頭が回り始めてくれば色々な異常にも気付くというもので、何やら変な頭痛がするし、胸のあたりに違和感を覚えた。
『……なんだ? なにか、おかしいぞ……』
ふらりと視界が傾く。
「やば――っ」
バランスを崩したと悟って、咄嗟に壁へもたれ掛かるように倒れ込んだ。どすんと、家全体に響くぐらいの大きな衝撃。受け身も何もあったものではない。じんじんとした鈍い痛みが、肩と腕に残る。起動途中の頭が、何事だと混乱する。異常だ。何をどうしてそうなっているのかは分からないが、これが不味い事態であると、織斑一夏はついに把握した。
「……どう、なって」
指先が震えている。足に力が入らない。それどころか、上手く体を動かすことすら難しかった。今年で中学三年目。十四年間生きてきて、こんな経験は初めてだ。まるで自分の体が慣れ親しんだ自分のものじゃないみたいで――
「あ……?」
ピンと、引っ掛かるものがあった。
「…………違う」
今まで感覚での異常にしか意識がいってなかったから、気にもとめなかった。本来なら真っ先に気付くべき異常。いつもとは異なっている部分。そっと、掬うように、長いソレを手で触れる。姉のものとほぼ同質の、腰あたりまで伸びた髪の毛。
「……違う……」
傷の一つも見えないほど綺麗で細い指。本気で殴れば折れてしまいそうなぐらい華奢な腕。肌はこまめに手入れされたかのような美しい白さ。そのどれもこれもが、織斑一夏のモノと一致しない。自分の目から見えているのに、だ。
「違う……!」
おまけに、胸。そう、胸だ。先ほどから覚えていた違和感。それにうっすらと感付きながらも、そんな筈がないだろうと。恐る恐る、視線を下へと持っていく。己の体の、前面に。
「――――っ!」
ダッと、一夏は勢いのまま立ち上がって廊下を駆け抜ける。走ることは最低限可能だった。ただ、体が言うことを聞かないのは引き続き。壁に当たり、床を転げ回り、至る所にぶつかりながら、それでも止まることなく駆け続ける。
「嘘だ……っ」
すでに息は上がっていた。長い髪の毛が邪魔くさく振り乱れ、かいた汗で肌にべっとりと張り付く。暴れるように走ったせいでどこもかしこも痛い。平時なら今すぐ止まって怪我の具合を確認している。けれどそうしないのは、単に今が平時で無いからだ。
「嘘だ……嘘だ……っ!」
走って、ぶつかって、転んで、勢いを殺さぬまま、跳ねるようにまた走り出す。時間にしておよそ一分にも満たない。たった一瞬の行動。寝室から廊下を通ったそこまでの道程が、今の一夏には遙か彼方ほど遠くにすら思えた。けれども所詮は家の中。歩いてもそこまで掛からない距離なのだから、視界に入るまでもあっという間。
「――――ッ」
掴んだ扉を強引に開いて、洗面所へと踏み入った。近年希に見る全力疾走。ぜいはあと荒れに荒れた息づかいと、大きく上下する肩からその本気度が分かるだろう。見れば膝小僧が笑っている。呼吸を整える暇も待たず、一夏はがばりと顔を上げて、血眼になりながら目当てのものを見つけ出した。洗面台に備え付けられた大きめの鏡。人の上半身ぐらいなら簡単に映せるであろうそれが映したのは。
「…………おい」
一人の少年にとって、とても残酷な現実で。
「なん、だよ。これ……」
どうしようもない事実で。
「なんで俺――女の子になってるんだ……!?」
悲痛な叫びが洗面所に木霊する。今頃になって、その声までもが若干高いことに気付いた。ワケが分からない。何もかもが昨日と違う。この家も、調度品も、着ている寝間着でさえ同じだというのに、己だけが全くの別人だ。脳が理解を拒む。そも、理解など欠片も出来なかった。それは、とある日の朝。静寂な時。空には絵の具をぶちまけたような灰色。ぽつぽつと、雨が降っている――
◇◆◇
なんの運命か、その日は彼にとってもそこそこの厄日だった。
「……雨」
窓から見える外の天気を確認して、ぽつりとこぼした。昨日の夜の予報では降水確率八十パーセント。どう考えても降るだろうな、という考えは嬉しくもないコトに見事的中していた。朝一番で若干嫌な気分になりながらも、切り替えるように伸びをする。
「ん……っ、いたた」
ごきっと、首から嫌な音。反射的に手をやって、顔を顰めながら擦る。どうにも寝違えてしまったようで、鈍痛のような重い感覚が残っていた。
「……なんか、悪いことしたっけ」
お天道様からの罰かと記憶を掘り返してみたが、思い当たるのは精々春休みの宿題に一切手を付けていないぐらいだ。それにしたってこの仕打ちはないだろう。幾らなんでも横暴だ、と本日は顔も見えない相手に向かって愚痴を言ってみる。気持ち、窓を叩く雨の勢いが強くなった気がした。
「……気のせい、だといいけど」
触らぬ神に祟りなし。これ以上考えるのは危険だと直感が告げている。ぶんぶんと首を振って、頭の中身を切り替えた。……もっとも、彼――
「転生なんて、まさか本気でするとは思わなかったし」
なんて言いながらさっさと普段着に着替えた蒼は、そのままリビングに向かおうとして。
「……ん?」
突然のチャイムに、足を止めた。
『誰だろう、こんな時間に。まだ朝の八時半だけど』
この家を訪れる人間は蒼の交友関係的にも酷く少ない。ましてや朝っぱらから押しかけてくるようなことなんて滅多に無いぐらいだ。当然と言えば当然の疑問を抱えながら、はいと返事をして玄関の扉を開けて――
『――――え?』
目の前の光景に、思わず頭がフリーズした。
「――――、」
無理もない。なにせ、そこには。
「…………蒼」
見た事もない美少女がびしょ濡れのまま、一人立ち尽くしていたのだから。
本作は拙作である一夏TSを大幅に改変したモノです。おそらく多分ほぼ別物。クオリティは察してください。