「疲れた……」
「……こういう時、なんて言ったら良いんだろうな。お疲れさま?」
「ああ、それだけでも十分嬉しいよ……心がこもってないけどな」
「そんなことはないって」
結構本気で心配してるんだ、と蒼が笑いながら言う。日も傾き始めた午後四時過ぎ。一通り買い物も終わり、千冬が手配したタクシーを待ちながら、二人は入り口近くのベンチに座り込んでいた。傍らにはいくつもの袋、中身は全て一夏が女になったからと購入したものだ。これでも千冬によれば必要最小限、というのだから恐ろしい。
「にしても、凄まじいな」
「服に下着にその他諸々。どうしてここまでする必要があるんだ。……今までのままじゃ駄目なのか」
「俺は別にそれでも良いと思うけど」
「だよな?」
でも、と蒼は一夏の方を向きながら。
「体が変わってるのは事実なんだから、用意するに越した事は無いと思う」
「……まあ、それは、そうなんだが」
万が一、ということもある。蒼とて転生者という点を除けば至って普通の人間だ。一夏の言うこともそれとなく理解できる。女になったからと言って、いきなり何もかもを変えるのは厳しい。というよりも、言ってしまえば変える必要などない。
「持ってるだけ持ってればいいんじゃないか? 千冬さんだって、明日からこれを着ろ、なんてこと言わないだろ?」
「はは、そうだと良いけどな。あんな千冬姉は久々に見た。……正直、凄いめんどくさい」
「じゃあ、訂正。きっと言わない、俺が保証する」
「……一応聞くけどなんでだ?」
らしくもなく自信満々の様子で断言した蒼に、一夏は不思議に思って問い掛ける。なんだかんだで、確実性の無いものについては濁す事の多い彼が言い切るのは珍しい。しかも妙に年相応の雰囲気がミスマッチだった。やっぱり、蒼はどこか純粋な中学生らしくない。そんな感想を抱く一夏に向かって、当の本人はええと、と前置きして。
「だって、何を着るのか、何をするのか、何を選ぶのかは一夏の自由だ。女になったからって、必ず変えなきゃいけないわけじゃない。まあ、変えないと駄目な部分もあると思うけど」
決まり事や基本的なことに関しては、当然ではあるが変わる部分が出てくる。イケメンである一夏が上着を脱ぐのと、美少女である一夏が上着を脱ぐのとでは全くもって違うのだ。自分は男ですと主張したところで今の一夏は女の子にしか見えないし、実際にそうなっているから言い訳も出来ない。最悪、ガードの緩いこの友人が無理矢理乱暴される可能性というのも、無いとは言い切れなかった。
「千冬さんが言ってくるのはそのあたりだと思う。別に、女の子として生きることは強制しないんじゃないかな」
「ならこれらの服は別に買わなくても良かっただろ……」
「それは――」
ふむ、と少し考えてから、蒼は未だ曇天の空を見上げた。自分の識っていた“織斑千冬”は、自分の知っている“千冬さん”はどんな人物か。自信は無いが、こういうのは何となくで構わない。こほん、と喉を鳴らして。
「――女であるということを拒否するのは勝手だが、事実ぐらいはしっかり受け入れろ。その上でお前は一年間。しっかりと考えて過ごせ」
「…………、」
「……とか、そういう意味じゃないか? 嫌だ違うって言うのは良いけど、自分が女だっていうことは自覚しろ、みたいな」
ぽかん、と一夏が呆けた表情でこちらを見る。それがなんとなく恥ずかしくて、蒼は人差し指で頬をかきながら続けた。
「だから、まあ。うん。大体、一夏は一夏のままで良いんだ。無理に曲げる事もない。何より、一年経てば戻るらしいし」
これが一番大きいよな、と蒼は言いながら再確認する。およそ最悪の状況の中で一筋の光明だ。もし三年四年やそれ以上、何時戻るのか分からないなんて状況だったら、きっと、もっと、今よりずっと酷かった。
「それに、男でも女でも、一夏は俺の友達だ。それだけは絶対変わらないと思うけど?」
「蒼…………」
きゅっと、一夏は服の袖口を掴む。
『…………なんでそういう事を、今言うんだ、お前は』
正直、かなり、ぐっときた。
「らしくないコト言いやがって、ホント」
「必死のフォローなんだよ」
「それになんだ、さっきの。千冬姉の真似か? 全然似てないぞ。主に武将的オーラが」
「……うるさいな、分かってるよ。というか武将的オーラってなんだ」
わいわいと、二人はしばらく千冬が来るまで、馬鹿なことを言い合いながら笑う。雨というのが惜しい。きっと晴れて、時刻通りの夕焼けならよく映えただろう。一組の男女がベンチで話すという光景が、例え他の人にどう見えたとしても。彼らにとっては、目の前の人物はかけがえのない友人でしかないのだ。
――もっとも、まだ、今は、という注釈がつくが。
◇◆◇
かちかちと、壁にかけた時計が針を進める音。そこそこ大きめのテレビから流れる、夜のバラエティ番組。ゆったりとソファーに沈みこむよう座り、片手に淹れたての珈琲を持ちながら、ぼうっと蒼は今日の出来事を思い返す。春休みだというのに、学校へ行くよりも随分と疲れた。もうクタクタだ。下手をするとこのまま眠ってしまえる。それぐらい、慣れない事態の連続。ずず、と珈琲を一啜りして。
「控えめに言っても厄日だよなあ」
なんてぼやいてるくせに、その顔はどこか嬉しそうに見える。出来れば二度と体験したくないことだらけだったが、それはそれとして、退屈はしなかった。なんと言うべきか、新鮮だという感情を久しく抱いていなかったのもあって、良いとは決して言えないが、悪いとも……。
「……いや、やっぱり悪いな。それを差し引いても最悪だ」
苦笑しながら、二口目の珈琲を口元に運ぶ。外は雨、家には女になった友人、知らない間に設置されていたカメラ、プライベートモードで巫山戯る友人の姉。よく体がここまで保ったな、と我ながら感心する。
「……そういや一度倒れてたな。あんまり、最近は落ち着いてたのに」
気をつけないと、としっかり心に留める。共働きで忙しい両親には、できるだけ心配をかけたくないのだ。大丈夫だとはいつも伝えているが、やはり一度倒れたのがバレてからは説得力が持てない。体調管理は重要だ。もう前の体と違って、無理はあまり出来ないのだから。
「っと、メール? こんな時間に一体……」
ヴヴッとテーブルに置いていた携帯が振動して、電子音を鳴らす。すっと手に取って確認してみれば、送ってきたのは一夏だった。
『明日の朝、大丈夫か?』
「…………、」
はて、何がどうしてそうなったのだろう。一夏と千冬とは数時間前にこの家の前で別れた。それ以降のことは蒼の知ることではない。甚だ疑問だが、とりあえず返信。
『別に構わないよ。……というか、なにかあったのか?』
「…………、」
一分、二分、三分。しんと、一夏からの反応が途切れる。まさかその通りだったかな、と勝手に想像しかけたところ、今一度携帯が鳴って。
『いや、特にはないけど、強いて言えば友人の体調を俺は今日初めて知ったからな。悪いけどお節介させてもらぞ』
「……別に、大丈夫なんだけどなあ。いや、だからお節介なのか」
くすりと笑う。それからぐいとカップの珈琲を飲み干して、ことりと携帯と共にテーブルの上へ置いた。珈琲に含まれるカフェインには眠気防止の作用がある。が、しかし効果が発揮されるのは飲んだ後、時間が経ってからだ。かくりと、頭が揺れる。正直な彼の体は“はやく眠らせろ”と訴えていた。
『疲れたし、仕方ない。うん、ちょっとだけなら、横になっても……』
本当に眠る時はベッドにいけば良いし、なんて、お約束な事を思いながら、蒼は静かに目を瞑った。
◇◆◇
故にこそ、彼は気付けなかった。とは言え、時間も時間。向こうだって、そのくらいは想定済みだったのが救いか。蒼が完全に寝てしまった後、携帯のディスプレイに映ったその文字は。
――着信:篠ノ之 箒
遅刻しました。