妙な肌寒さと違和感を覚えて、蒼はゆったりと目を覚ました。まだまだ寝たいと思う気持ちを我慢して、うっすらと瞼を持ち上げる。……室内はそれなりに明るい。それもその筈、陽が入りこむ窓がカーテンに閉ざされているとはいえ、つけっぱなしのテレビと暗めの電灯は十分に部屋を照らしてくれていた。ぐっと体を持ち上げて、がしがしと頭をかく。目の前の惨状を見れば、成る程、納得だ。
「ああ、結局、ソファーで寝たのか。……色々、体の節々が痛い」
試しに軽く動かしてみれば、ごきっと嫌な音が鳴る。無精せずにベッドへ行くんだった、なんて考えても後の祭り。せめて今日の夜はきちんと眠ろうと決意しながら、テーブルに置いていた携帯を手に取る。待機画面のデジタル時計は七時半過ぎを表していた。起きるにはちょうど良い時間だ。ごしごしと目を擦って、さて何からしようかと意気込んだ後。ふと、着信履歴があることに気付く。
「電話って……誰だ? 一夏か?」
彼の交友関係的に見ても、タイミング的に見ても、その可能性は高い。直前までメールをしていたのだから、流れとしても自然だろう。一体どんな用件なのか。見当をつけている途中で、そういえば今日の朝に来るとか言ってたっけ、と昨晩のやりとりを思い出す。ならばその時に聞けば良い。電話に出られなかったのは申し訳ないが、眠っていたのだから一夏もそこまで怒りはしない筈だ。そう考えながら、一応の確認と履歴画面を開いて。
「え……」
予想外の名前に、体が固まった。
「篠ノ之 箒って……あれ、いや、なんで……」
――ちなみにではあるが、蒼の携帯に登録されている連絡先はとても少ない。しかも家族と親戚関係、友人の一部といった殆どが身内。比率としては友人も含めて男の方が多い。同年代に限定すれば圧倒的だ。せいぜいが、今は中国の方に行ってしまった凰鈴音のものがあるぐらい。篠ノ之箒とは、その彼女よりも古い付き合いになる。まだ蒼が電話というものを持つ前に離れてしまったため、連絡を取ろうにも取れなかったのだが。
「登録は……されてる。しかもプロフィールびっしりの写真付き……って、これどう見ても盗撮じゃないか……」
この時点で蒼は確信した。間違いなく、また束さんの仕業だ。恐らくは昨日の隠しカメラと同時に、人の携帯へ妹の連絡先をご丁寧に電話番号・アドレス・生年月日・住所・顔写真ありで登録したのだろう。無駄に手が凝っているあたり本気度が垣間見える。こんなことをしているよりも、あの人は優先してやることがあるだろうに。
『でも確か今、箒ちゃんって要人保護プログラムかなにかであんまり自由に動けないんじゃ……』
ということは、かの天災が既に手を回していることになる。なにせその要人保護の対象に真っ先になりそうなくせに姿をくらまし、果ては世界中で指名手配されているような人物だ。篠ノ之束ならばそのぐらい可能だろう、というある種の信頼が蒼にはあった。まあ、代わりに信用は一切無いのだが。
「……どうなんだろう。かけ直すべきなのか」
むう、と携帯の画面を前に考え込む。普通なら一も二もなくかけ直すべきだと分かっているのだが、如何せん相手の状況が状況だ。こちらからの連絡は不味いという可能性もある。蒼は異性に対してそこそこ苦手意識を持っているが、それそれとして昔に交友があった彼女の近況は気になるものだ。どうしようか、どうすれば、どうするんだと、悩む事数分。じっと同じ体勢で固まる彼を動かしたのは、来客のチャイムだった。
『……一先ず、またあとで考えよう』
スッキリしないが、朝早くより態々来てくれた向こうを待たせる訳にもいかない。はーい、と大きめに返事を延ばしながら、蒼は玄関へと小走りで向かった。
◇◆◇
「どうだ、味は」
「……美味しい。正直、その腕が羨ましいレベルで」
「なら良い。あ、でも腕はあげないからな」
「何も直接欲しいってワケじゃないって……」
一夏の作った朝食を口に運びながら、改めて友人の家事スキルの高さを確認する。一人暮らし歴は蒼も大分、胸を張れるぐらいにはあるのだが、如何せん料理はそこまで上達していない。何度か作って慣れたものが、レシピを見ずに作れるぐらいだ。味に関しては普通に食べられるほど。一体何が足りないんだろう、と疑問に思いながら汁物を啜る。
「うちにあるものだから、食材は一緒な筈なのに。おかしい。なんかの補正でも入ってるんじゃないか?」
「なんの補正だよ」
「…………働かずして食べる補正、とか?」
「大分アレな補正だな……」
実際、そう思うぐらい一夏の朝食は美味しかった。まあ、働かずして、というのは無いにしても、他人に作って貰ったものはいつもより美味しく感じるのかもしれない。恐らくはそういう気持ちの類いの問題だ、多分。一人で勝手に納得しながら、ちらりと一夏の方へ視線を向けて。
「にしても、凄いな」
「ん? あー……もしかしなくても、気付いてたのか?」
「うん、まあ。玄関で見た時、一瞬別人かと思った」
「……そんなに変わってるのか」
「でも、よく見たら一夏だって分かったけど」
うっかり惚れそうだったぞ、なんて言ってみれば、一夏は複雑な表情をした。半分冗談でもあり、半分実は本当でもあったりする。なんせ蒼には昨日より当社比五割増しで、一夏がかなりの美少女に見えている。直ぐにピンと来たのが化粧だ。デパートでしっかりと化粧品売り場を回っていた事もあり、予想するのは容易かった。一夏の場合は元が良いからか、薄めのそれでも絶大な効力である。
「千冬姉に、きちんとした場所ではした方が良いって言われたんだ。これは見本ってことで。……なんか、女子って凄い大変なんだなって、朝だけで思った」
これからはもっと優しくしよう、と呟く一夏の表情は最早疲れ切っていた。本当に大変なんだな、という感想を抱きながら、しかしと蒼は同時に考える。今でも十分、女子に対しての気遣いと優しさは数多の乙女を恋に落とし、甘いルックスがトドメを刺す超絶イケメン中学生、それが織斑一夏だ。もっと優しくしたらそれこそ女子の歯止めが効かなくなるのでは。
「女になったからそこら辺は大丈夫なのか?」
「ん? 何のことだ?」
「いや、こっちの話」
「?」
こてんと、一夏が首をかしげる。
「そういえば、結局あの服は着なかったのか」
「当たり前だろ。買ってきた中で一番ダメージの低いものを選んだんだ」
現在の服装は、薄手のニットにジーンズ。無難と言えば無難。問題があるとすれば、少し、胸の主張が激しいことぐらい。それでも一夏にとっては、比較対象である“あの服”と比べて段違いにマシだ。
「大体あんな服、一体誰が着るって言うんだ」
「女の子は着れるんじゃないか?」
「俺は男だ。……元は。今はたしかに女の子だけどな」
はあ、と一夏は深くため息を吐いた。昨日蒼から言われた事は、前後の内容もあってよく覚えている。自分自身もどうにか受け入れて、その上で上手く折り合いをつけながら一年過ごしたいとは思うのだが、如何せんまだ拒否反応が先に来る。前途は多難だ。
「今日もこの後は有休取ってくれた千冬姉とお出かけだ。……色々と性別が変わったことで迷惑かけるところに、嬉しくもなくな」
「あー……うん、とりあえず、頑張れ。応援はする」
「ああ、サンキュー……。出来ることなら変わってほしいよ」
「……ごめん、流石にそれはちょっと、考える」
冗談だ、と一夏が笑う。蒼には何故か、目だけが一切笑っていないように見えた。
◇◆◇
――教えられた番号に電話をかける。彼女にとって、その行動は昨日の繰り返しでもあった。
「……」
一コール目。当然、出ない。
「…………」
ニコール目。まだ、出ない。
「…………、」
三コール目。それでも、出ない。
「……………………、」
――無駄か、と。諦めようとしたその瞬間。
『……もしもし?』
彼女の耳に、聞き慣れない男の声が聞こえてきた。