ちらり、と室内に備え付けられた時計を見れば、ちょうど針は頂点に重なっていた。もうこんな時間になるのかと驚いていれば、どうやら電話の向こうの相手も気付いたらしい。む、と小さい声を漏らして、彼女は短く息を吐いた。
『日をまたいでしまったな。……すまない、蒼。こんなに長く話すつもりはなかったんだ』
申し訳なさそうな声音、実際に見てはいないが、電話越しにそっと目を伏せる箒の姿は容易に想像できた。蒼からして、篠ノ之束と本当に姉妹なのかと思うほど、篠ノ之箒は真面目で真っ直ぐだ。きちんとした芯があって、滅多にブレない。下手な男子よりも格好良いという表現が似合う。もっとも、一夏の前ではただの恋する乙女なのだが。
「別に、謝らなくても。こっちも案外、話してて楽しかったんだ」
『案外とはなんだ、案外とは』
「思ってたよりずっと、箒ちゃんと話すのは楽しかったってことだろう」
『……そういう言葉はお前が好きになった女子にでも言え、まったく』
ぶつぶつと文句を言う箒のそれが、十中八九照れ隠しである事は知っていた。生き方が不器用というか、自分に素直になれないあたりは数少ない欠点かもしれない。変わらないなあ、なんて思いながら、蒼は彼女の言葉に苦笑する。自分のコトなのだからなんとなく分かる。きっと、そんな未来は無いだろうと思いながら。
「なら、箒ちゃんもそういう台詞、一夏に言ってみたら良いと思うんだけど」
『なっ、お前、くぅっ……。ひ、卑怯だぞ、その返しは』
「……ちょっとは勇気、出しても良いんじゃないか?」
『…………勇気、か』
――が、あまり焚きつけるのも墓穴を掘るだけだと、直後に彼は頭を抱えた。なにやってるんだ俺は。これじゃあ、自ら寿命を縮めているようなものじゃないか。一夏が女になったという事を知られてはいけないのだ。昔ながらの感覚で背中を押していては、むしろ束が背中を押される羽目になりかねない。主に断崖絶壁で。
(うん、自重だ、自重。束さんが怪我しようと俺には関係ないけれど、箒ちゃんが前科者になる未来は避けないと)
さりげなくあの天災が死ぬことは無いだろう、と確信している蒼だった。
『……やめておく。というよりも、駄目、だな。一夏と話すなら、もっと万全の状態で話したいんだ』
「……今の生活、やっぱり辛い?」
『そうだな。……自分の姉が憎らしくなるぐらいには、辛いな』
「…………、」
疲れたような箒の吐息が聞こえてくる。両親も基本的に居らず、春期休暇中で学校にも縛られていない、悠々自適な生活を送っている蒼にはきっと一ミリも分からない。ぼんやりと思い浮かべるだけでやっと。彼女の苦しみを理解できるのは、現状彼女だけなのだ。そんな当たり前のことが、どうしようもなく無力感を抱かせる。
「……箒ちゃん」
『うん? どうした、蒼』
「あんまり役に立てないけど、何かあったら言ってくれ。俺に出来ることなら、最大限努力する」
『うむ。……その言葉だけで嬉しいものだな。やはり友人は、良いものだ』
叶うことなら、男の頃の織斑一夏をニンジン型ロケットでもなんにでも良いから入れて、彼女の元まで飛ばしてやりたいが。当たり前なことに、蒼の力でそんな事は不可能だった。この世界へ転生する折に神様とやらもなにも見かけなかったが、もしそのような存在が居るのだとしたら、きっと碌でもないに違いない。
『なら、そうだな。こうしてたまに、電話に付き合ってくれればいい。それだけでも大分楽にはなると思うんだ』
「うん、分かった。それぐらいなら全然、平気だから」
『…………あと、少しだけ一夏の現状とか、教えてもらいたい』
ぼそりと、小さくそう呟く箒に。
「……良いけど、プライバシーの侵害にならない程度、だから」
『そ、そのぐらいは弁えているぞ! 姉さんとは違う!』
ごく自然に姉の犯行を暴いている天災の妹に、やっぱり姉妹なんだなあ、と再認識しながら、一言二言交わした後に蒼は箒との通話を切った。
「そういえば、鈴ちゃんもそうだけど、二人とも一夏や弾すら気付かない俺のやせ我慢がどうして分かるんだろう……。謎だ」
◇◆◇
「おはよう……」
「……どうしたんだ、一体」
翌日、またもや続くお節介にちょっとどうなのかと本気で思いながら、蒼はあまりにも酷い友人の顔にげっと目を丸くした。昨日とは打って変わってノーメイク。髪の毛も若干、ところどころではあるが跳ねている。おまけに、この世の地獄を垣間見たような闇色の瞳と弱々しい笑顔。いつも持ち合わせている爽やかの“さ”も無い様子で、一夏はするりと蒼の横を抜けて家に上がる。
「お邪魔します……」
「一夏?」
「……ああ、どうしたもこうしたもない」
そうしてがくんと、両手両膝をつきながら、果てしなく深い溜め息を漏らす。
「蒼、知ってるか。神様ってのは随分と嫌なやつらしい」
「そうなのか」
まあ、自分も昨夜に似たようなことを思ったワケだが、ここで口を挟んでも余計な真似にしかならない。一先ず開けた玄関のドアを閉めながら、廊下で打ちひしがれる一夏へと視線を向ける。余程絶望的なことでもあったのか、と考えながら言葉を待っていた蒼の耳に入ってきたのは。
「…………決まった」
「え?」
「決まったんだ」
「……えっと、なにが?」
すうっと、一夏は息を思いっきり吸い込んで。
「俺の制服が三年時から女子用になることが決まったんだよ!!」
「――――なんだ、そんなことか」
予想以上に小さなことで、蒼はついそんな反応をしてしまった。仕方がない。随分と顔色も悪くしてふらついているものだから、かなりの大事だと思ったのだ。それに納得いかないのが、被害を受ける運命が決まった一夏である。
「そんなことなワケあるか! 制服だぞ! 女子用だぞ! つまりはっきり言うとスカートだぞ! 学校で、大勢いるのに、スカート!」
「いや、うん。それの何が問題なんだ」
「問題しかない……なんだスカートって。いくらなんでも防御力低すぎだ……」
「防御力」
なるほど、と蒼は一夏の言いたいことを大体察した。本日の彼の服装は、昨日のニットを無地の白いTシャツに変えただけのようなもの。より女子っぽさが消されている。女子だとしても完全にラフ、といった格好だ。だがそうはいくかとばかりに、二つの膨らみは精一杯服の生地を張っていた。目に毒は変わらない、と蒼はそっと引き寄せられる視線を逸らしながら。
「あれ、めちゃくちゃスースーするんだ。違和感しかない。もうズボンを履いてるだけで安心感が凄いぐらいだ」
「……なら下に短パン履けば良いじゃないか。体操服の」
「――――、」
ぽかん、と一夏が口を開けたままこちらを見詰める。
「天才か蒼! いや天才だ! 束さん以上に!」
「あ、でも去年から校則で禁止になってたな。……いや、ごめん。謝る。だからそんな落ち込まないでくれ」
「もう駄目だ……なにもかも」
そこまでの事か? と冷静に内心で首をかしげながら、蒼はどうにもならないと早々に諦めた。決して一夏は悪くない。これも全部篠ノ之束が悪いのだ。己も自宅に不法侵入されたうえ、日常生活を盗撮盗聴されている被害者なのだが、直接的に甚大なダメージを負った一夏や間接的に甚大なダメージを受けるかもしれない箒のことを考えると、どうにもまだマシだと思えてくる。
「慣れるしかないだろうな、一応、女の子なんだし」
「ああ、千冬姉にもそう言われた。……慣れたところで俺、一年経ったら元通りだぞ? 男に戻ったらスカートなんて履かないじゃないか」
「まあ、これも良い経験だと思ってやるしかない」
「良い経験じゃねえよ……悪夢だ、悪夢」
「…………悪夢、かあ」
ふと、蒼は考える。今回の事件、篠ノ之束がやってくれた被害は大きい。実質的には織斑一夏ただ一人。間接的には姉である千冬と、最初から付き合ってしまった蒼、男だった彼に惚れていた幾多の女子と数え切れない。
……やっぱり、なんとかしないと。
箒のこともある。蒼はここに来て、しっかりと決意した。一夏を男に戻す。そうなると、これから忙しくなりそうだ、なんて直感的に察しながら。