「箒と話した?」
「うん」
ベーコンエッグの乗ったトーストを囓りながら、蒼は頷く。一夏は湯飲みを片手に持ったまま、少し驚いたように。
「箒って、あの箒か? 昔、道場で知り合った」
「それで合ってる。……ちなみに、からかう男子相手に一夏が大立ち回りした事件の重要人物でもあるな」
「ああ、あったなあそんなこと。よく覚えてるな」
「……そりゃあ、まあ」
言われて、彼は苦い顔で珈琲を啜った。当時はまだ小学生、無理なことも十分していた時期とはいえ、自分が同年代の男子と喧嘩をすればどうなるかぐらい、蒼はしっかりと理解していた。ひ弱な己では精々が小言を言う程度が限界。“男女”といじられる箒をどうにか出来ないものかと頭を捻っていたところに、後先考えず行動に移したのが一夏である。
「結局、全部一夏が解決したんだ。箒ちゃんの問題も、周りの人の意識も」
「そんな大したことしてないぞ。ただ、腹が立ったからそのまま動いただけで」
「……誰かのために本気で怒れるのは、きちんとした凄さだと思う」
「蒼?」
今でも少し悔いている。あの時、もっと上手くやれたんじゃないかと、そう考えてしまう時があるのだ。知識はあった。最強で、最高で、完璧な事前知識が、薄れつつあれど確かにあった。原作の出来事だと真っ先に気付いてもいた。けれど、結果は変わらず。何かが歪むことを畏れて、彼は大胆な行動を取れなかった。――それも結局、本人の意思の軽さだ。あまり箒と付き合いのなかったその頃の蒼は、からかわれる彼女を“可哀想”としか思っておらず。
「やっぱり、一夏は凄い」
「お、おい、なんで急にそんなこと。やめてくれよ」
「俺が女の子だったら、間違いなく惚れてる」
「……なんだそりゃ」
くすりと笑って、一夏はぐいと湯飲みを呷った。きっとこの美少年が女子から引っ張りだこなのは、見た目だけの問題ではない。その性格もあってのことだ。顔が整っていて、スタイルも良く、気遣いが出来て、家事も得意。改めて目の前の彼――彼女の規格外に呆れながら、ふと。
『……あれ。それが全部女の子に置き換わったら、凄くマズいのでは?』
主に、美少女的な意味で、先に述べた彼の良い部分を全部兼ね備えるのが、今現在自分の正面に座るこの人物だとしたら。顔は姉譲りの抜群な整い具合、スタイルの良し悪しは一目瞭然、気遣い、家事も変わりなし。おまけに元が男だから、相応の理解がある。
「一夏」
「ん?」
「君、真面目に襲われる心配をした方が良いかもしれない」
「え」
深刻な表情で蒼が一夏へ告げた。軽視など以ての外、これは忌々しき事態だ。一夏はさっと顔を青くして固まっている。口が回って人付き合いを円滑に進めるようなタイプであれば心配なかったのだが、一夏はどちらかというと行動で惚れさせてくるタイプ。本人には他意など一切無し。やりたいようにした結果が、自身の善性故に返ってくるとでも言うべきか。なにはともあれ、蒼は手に持ったカップをテーブルに置きながら。
「いっそのこと鞄に鉄板でも仕込もうか」
「いきなり物騒なこと言うんじゃねえよ……」
「それか護身用のスタンガンでも」
「……俺が言うのもなんだけど、大丈夫か蒼。今日、なんとなくおかしいぞ」
うん、おかしいな、と蒼は己の言動を振り返って自覚する。
「ごめん。なんか、色々とあったせいで俺も結構疲れてるみたいだ」
「だろうな。……にしても、箒かあ」
元気かな、なんて呟く一夏。本当に、女の子になってさえいなければ声を届かせてあげられたのに、と思いながら、蒼はトーストの最後の一切れを口に放り込んだ。
「元気はちょっと無かった。でも、箒ちゃんは箒ちゃんだった」
「変わらない、ってことか?」
「うん。一夏の声、聞きたがってたよ」
実際は恥ずかしさの方が勝って辞退しているのだが、これぐらいは友人としてのサービスだ。言うだけならタダ。加えて、ちょっと素直になれないだけで、本当は彼女も想い人と話したいのだ。さて、どんなものか。と、様子を伺う蒼に気付いた風もなく、困ったように眉を八の字にして、一夏は人差し指で頬をかく。
「俺も久々に箒と話してはみたいけど。今は無理だな、こんな声じゃ」
「……そうだな。会話以前の問題、だもんな」
こういう事になるだろう、と予想が付いておきながら今の会話を引き出した自分は、きっとかなり性格が悪い。一夏の横に居るからとか、容姿がそこまで良くないとか、そこら辺は補正程度の役割しかない。好意を向けられないのは、もっと根本的な部分から魅力が無いためだろう。まあ、向けられたら向けられたで、少々困るのだが。
「だから、気合い入れていこう。一夏」
「……お、おお、蒼がやる気だ」
「当然。一夏のためにも、千冬さんのためにも、箒ちゃんのためにも、その貞操は絶対に守り抜くぞ」
「お、おー……。なんか、気の抜ける誓いだな」
気合いを入れようと言ったのにすぐ抜けてどうする、と蒼はため息を吐いた。大方、一年の我慢で何事もなく戻れるという部分に目が行きすぎて、その条件を軽く見ているのだろう。人生いつ何があるか分からない。寝て起きたら女の子になっている可能性だって、このようにあるのだ。一年の間に、誤ってキスしてしまう可能性もゼロではない。
「しっかりしてくれ。一夏はこの先ユニコーンに乗れるぐらいじゃないといけないんだから」
「……どうしてそこでユニコーンなんだ?」
「あの神話生物、普段は気性が荒いのに、生粋の処女の前では大人しくなるらしい」
「へえ……」
知らなかった、と一夏は律儀に感心する。蒼は一段と、自分の肩にかかっている責任の重さを感じながら、かつてない不安を覚えた。
◇◆◇
大半の人間から見て、上慧蒼はどこにでもいるような気の弱い男だ。落ち着いていて物静か。我は強くなく、人の意見をよく聞いて、それなりに受け入れる。誰かの言うことに反対する方が珍しい。指示されたら余程理不尽でもない限り引き受ける。
「……違うんだよねえ」
特定の人間から見て、上慧蒼は少し変わった人物だ。いつも変わらず殆どマイペース。人の話を聞くのはそこそこ上手いが、正直言って会話は下手。なんとなく感性がズレているような気もすれば、至って普通の意見も言う。ただ、人並みの優しさはあるためか、嫌な人物ではない。あとは不思議と、一緒に居て自然と落ち着ける。
「それも違う。……うん、やっぱり、私だけだ」
“彼女”にとって、上慧蒼は特別だ。この世界で唯一、正真正銘たった一人しかいない存在が彼である。焦りを見せない落ち着きようも、ゆったりとした雰囲気も、周りに対する気配りも、全部がただ彼を構成する“外側”でしかない。
「……ふふ、どうだろう。あの時からもう随分経っちゃった。ねえ、蒼くん。今の君には、一体どんな風に世界が見えているのかな――」
なんせ、彼は知っているのだ。今を生きる誰も知らない……誰も経験したことがなかった、ソレを。
◇◆◇
かくして、各々の思惑は異なりつつも、時間は平等に進む。人類史上最高の天才は口の端を吊り上げながら笑い、現人類最強候補の女性はかすかに弟を心配して、女子になった男子は湧き上がるごった煮の感情に叫び、平凡な彼はただあるがままに構えた。時は来た。後戻りは既に出来ない。
季節は春、四月もまだ上旬。舞い散る桜が通学路を彩る中で、様々な問題と疑問を抱えたまま、織斑一夏の波乱に満ちた一学期が、今、盛大に幕を開ける――!
ちょっとずつ一夏ちゃんのギアをあげていきたい。