「みなさん、おはようございます……」
HR前の予鈴と共にがらり、と教室の扉を開けて入ってきたのは、茶色いウェーブのかかった髪の毛を腰まで伸ばした女性教師だった。目元には深い隈、遠目で見ても若干、唇や肌も荒れているような気がしないでもない。蒼の記憶ではたしか、美術の担当をしていた人だ。去年一昨年と担任だった先生が余所へ行ってしまったため、新しい担任が彼女なのだろう。と、
「…………上慧クン」
「え、あ、はい」
首はそのまま、眼球だけをぎろんと回して、蒼の名前を呼んだ。戸惑いながらも答えた彼は、けれどもむっと胸中で首をかしげる。なんだろう、不思議とその瞳を見詰めていると、よく分からない不安を覚える。覗けば僅かに瞳孔が開いていた。
『いけない。というかマズい』
お疲れさまです、という言葉を蒼はなんとか飲み込んだ。往々にして、本気で疲れている人間にねぎらいの言葉をかけると、逆に怒らせる。どれほど“私疲れてます”オーラを出していようと、そっとしておいて欲しい時はそっとしておいて欲しい。体の弱さから今世で似たような経験をしていた蒼は、今ここに居るクラスの誰よりも正解に近い言動の出来る存在だった。
「先生は、色々と、アレなので。詳しい説明とかは、この後の彼女と二人で、行ってもらいたいのですけど……大丈夫ですか?」
「説明って――」
丸投げの予感。人生二回分に相当する直感、聞くまでもなく当たっている。それを受けて冗談ではない、というのが彼の本心だ。よもや自分がこのお祭り騒ぎに水をかけるなど、後が恐ろしい。主に女子陣営からの仕置きが。故に一も二もなく断りたいところだったのだが、なんとも悲しいことに、蒼には分かってしまう。なにより彼女の瞳が切実に訴えていた。
『これ以上負荷をかけられたら死にます』
連日の残業、関係各所との連絡、知らない番号からの悪戯電話じみた脅迫。ある一人の男子系女子生徒を迎えるにあたって、学校はパンク寸前だった。言うなれば、彼女もこの天災が起こした一連の事件による犠牲者である。暗く濁った死んだ目、ところどころ枝毛の見える髪、がさがさになってしまった肌。それらがまた、断り難い。
「…………えと」
「上慧クン……?」
「……なんだ? 蒼、なにか知ってんのか?」
「というか織斑くんがまだ来てないんだけど」
ざわざわ、とクラスに会話が戻る。新学期初日、担任の変更なんて彼らにとっては些細な問題でしかないのか、蒼がなにかやらかしただとか、織斑一夏が遅刻してるだとか、好き勝手に騒ぎながら。
「……上慧クン」
「…………いや、俺にはちょっと、荷が」
「――あの、いつまで待ってればいいんですかね、俺」
空気を読まない一声が、見事に教室へ響いた。今の今までうるさかった3年A組の教室は、まるで人が消えたかのような静寂に包まれる。衣擦れの音すら目立つぐらい。そんな状況で、誰もが自然と声のした方へ目を向ける。そうしてしまう程には綺麗で、聞き取りやすくて、爽やかな気持ち良さのある声だった。
「ということでお願いしますよ上慧クン! 内申評価存分にあげますから!」
「それは嬉しいですけど、ちょっと待ってもらえませんか」
「待てません。私も向こうもうちのクラスも。ということで、どうぞ、入って良いですよ」
「じゃあ、失礼します。……なんか新鮮だな」
ガッデム。神は罪なき凡人系転生者を見放した。聞く耳を持たないとはまさにこのコトか。蒼は自分の弱い主張ではどうにもならない強引性を知る。同時に、これから起こるであろう事態に天を仰いだ。基本的無神論者である彼が、崇め奉れば神様も味方してくれるのだろうか、なんて思うのも無理はない。
「おい、見ろよあれ」
「すげー綺麗だ……やべ、こっち見た」
「転校生? めっちゃ美少女じゃねーかおい」
「数多いるうちの学校のマドンナが霞んで見える……っ!」
先ず、野郎どもの普通の反応。
「おい山田。分かるか?」
「上から……83・56・84」
「いいなあ、うん。好みだ」
「やべー……あれはやべー」
次いで、馬鹿どもの変態な反応。
「わー、なにあれ、可愛い……」
「うっわ。男子共がまーた阿呆やってるよ」
「というか織斑くんは?」
「もしレース相手になったらちょっと厳しそうね……」
最後に、女子達の反応。
『……うん。なんでだろう、とても複雑な気持ちだ』
三者三様。それぞれがそれぞれの想いを抱く中、黒板の前に立った一人の女の子はチョークを手に取り、かつかつと迷いなくその名前を書いた。――“織斑一夏”、と。
「……というわけで、今日からこのクラスの一員になります。織斑一夏くん、改め織斑一夏ちゃんだそうです。質問とかは彼……じゃない彼女と、そこの上慧クンに聞いてください。私は……ちょっと……休ませてください……ね……」
「……あー、そういうことで。織斑です。えと、知ってる奴は驚くだろうけど、まあ、うん。なんか、女の子になった」
一夏が後頭部をかきながら、その衝撃的事実を述べる。反応は返ってこない。絶賛上慧蒼以外のクラスメートはもれなく全員固まっていた。当然である。なにしろ、あの“織斑一夏”が信じられないことに超絶“美少女”として目の前にいるのだ。脳が理解を拒否するのは誰もが通る道。
「一夏、最後、知ってなくても驚くから」
「おお、たしかに。というか蒼。顔色が悪くないか」
「全面的に一夏は悪くないんだけど一夏のせいって言うしかない」
「え?」
なんでだ、と一夏が首をかしげた瞬間。同じくして、固まっていた生徒達は一斉に意識を取り戻し、天をも貫かん勢いで。
「「「「はああああああああああああッッッッ!!!???」」」」
様々な感情を混ぜ合わせ、叫び声をあげた。
◇◆◇
「どういうことですか上慧くん!」
ばん、と蒼の机が力強く叩かれる。つい数分前まで“織斑一夏と関係を持つための女子グループ結託の陣”だったそれは、そのまま“上慧蒼を徹底的に問い詰めてこの頭がおかしくなるような事態の決着を図ろうの陣”へとシフトチェンジしていた。教室の窓際一番後ろ、という一部の人間にとって楽園みたいな蒼の席だが、現状においてはただ逃げ場をなくすだけの処刑台だ。
「とりあえず、その……落ち着いて欲しい。あと少し離れてくれたら嬉しいんだけど」
「上慧! ワケを話せ! それともこれはアレか!? 夢か幻か冗談か!?」
「正真正銘現実に、一夏が女の子になってる。それと少し近いと思うんだけど」
「上慧っち! ねえねえ朝あの子と歩いてたよね! その時から知ってたカンジ!?」
「うん、春休み中にああなったみたいで。というかもうあの肌が触れてるんだけど」
女性経験小、交際経験なし、告白した回数ゼロ、告白された回数ゼロ、彼女居ない歴は進行形で更新中。そんな蒼にとって、これほど辛いことはないだろう。なにせ周囲を壁のように女子が囲んで自らへ絶え間なく質問を投げかけてくるのだ。それが可愛いことであれば良かったが、残念なことにあまりにもあり得ない現実に直面し、興奮した女子による詰問というのが殆ど。ごりごりと精神が削れていく音を、蒼はたしかに聞いた気がした。
「上慧くん! まだ聞きたいことはあるよ! そもそもなんで――」
「上慧さん! ちょっとお伺いしますけど――」
「上慧っち! 一夏くんと話してた時の笑顔凄い可愛か――」
「上慧ェ! お前は私たちにとっての――」
もうなにがなんだか。女子、女子、女子、女子。まるで女子中学生のバーゲンセールかと言いたくなるぐらいの酷さ。駄目だ、無理だ、限界だ。そもそも蒼は一応の原因を知っているだけで、詳しいことなど束以外に分からない。ああもうこのままいっそ意識がとんで倒れないだろうか、なんて思い始めた時だ。
「蒼!」
「うわっ……と、弾?」
人だかりをかき分けて来たのはもう一人の友人だった。なにやら真剣な表情を携えた彼は、がっしと蒼の肩に手を置き。
「お前が女と登校してきたって聞いて軽く殺意を抱いてたんだがそういうことだったんだな! すまん! むしろよくやった、これで俺らにも青春が来るぜ!!」
「…………、」
うえーい、と叫ぶ声がする。女子の壁を越えた向こう側、安全な内地で男共が歓喜の声をあげていた。今夜は祝杯だ、なんて女子と真逆にテンションは鰻登り。蒼は静かに、ゆっくりと息を吐いて、ぽつり一言。
「……帰りたい」
切実な願いを、呟いた。