「……悪い。その……情けないところ、見せた」
すん、と一夏が鼻を鳴らして、目を逸らしながら言ってくる。いくら子供の時からの付き合いとは言え、中学三年生にもなって声をあげての大泣きだ。しかも友人の胸を思いっきり借りてしまった。羞恥心に耐えきれなくて、かあっと頬が赤くなる。対する蒼は気にした素振りもなく、いつも通りに微笑んでいた。
「全然、情けなくなんかない。泣くっていうのは大事なことだろう」
「……お前は本当に、そうやって言うのは上手いよな」
「それほどでもない。大体、会話は苦手なんだ、俺」
よく言うよ、なんて一夏は口の端を吊り上げながら、肩の力を抜いて息をつく。思いっきり吐き出したからか、答えに近いモノを見つけたからか、心は随分とスッキリしていた。空を覆っていた分厚い雲が晴れたような、なんとも開放感のある清々しさ。暗く濁っていた世界が色付いて見える。それほどまでに、一夏は目の前の彼が発した言葉に救われた。
「あーあ。……結局、また蒼に助けられたのか、俺は」
「助けたなんて大袈裟だ。言い包められた、の方にしておいてくれ」
「会話は苦手じゃなかったのかよ」
「…………むう。世の中なんとも世知辛い……」
真面目な顔で変なことを呟く蒼に、思わず先ほどまでの姿も忘れてため息が出た。人の心を突き動かすようなことを言った後でこの調子だ。やっぱりこの男、なんとなく考え方がズレている。
「――ああ、にしても、しまったな」
「ん? しまったって、何がだ?」
「いや、学校、もう遅刻は確定だろうから」
「なっ……」
がばっ、と一夏が体を反転させて室内の掛け時計を見る。現在の時刻は朝の九時十五分。HRが八時半からであり、原則それまでに登校と言われている予鈴はその五分前に鳴る。彼らの居る上慧邸から学校までは歩いて十五分、走ってその半分ぐらい。時間は進みこそすれど、巻き戻すことは不可能だ。登校した頃には一時間目が既に始まっている。言い訳のしようもないほど、完全に遅刻だった。
「……本当だ。しかもHR終わってる……」
「うん。走っても自転車漕いでも間に合わないな、これ」
そう言いながらも彼は余裕の表情である。柔らかく笑って、何事もふわりと受け止めるような姿勢。一夏がそれに疑問を覚え始めるのと同時に、蒼はさらりと。
「よし。サボろうか、学校」
「……良いのかよ優等生。皆勤飛ぶぞ?」
「成績云々より大事なものだってある。一夏、正直今日、学校行きたくないだろう?」
「…………まあ、それは、そうだけど」
でも少しは楽になってるんだぞ? と付け加えておく。一夏にとって一日の休み程度痛くもないが、蒼はこう見えて毎度毎度の定期試験で学年一位を独占していたりする。彼自身としては元々あった知識を掘り起こしているようなものなので、ズルをしていると感じる部分もあってとあまり言いたがらないのだが、皮肉なことにその事実はなんとも有名だ。割と態度が良いところもあって、蒼は一応本当に優等生として見られていたりはするのだが、連んでいる人物が人物なだけに評価は問答無用の問題児扱い。本人が一番気にしていないあたり、なんというか、実に彼らしい。
「なら決まりだ、俺から学校に連絡しておくよ。きっと今の状況なら、一日休むぐらいどうってことない」
「先生、まだ目の隈がとれてないもんな……」
「そう。だから、一夏にちょっと、って言えば簡単にいく」
「この不良生徒め」
「残念、君もその仲間だ」
そりゃそうだ、なんて一夏が声をあげて笑う。数十分も泣いていたとは到底思えない雰囲気。要らない世話だったかな、と思いつつも、蒼はきっと間違っていなかったと信じることにした。泣いているよりかは、笑っていた方が良いに決まっている。なにより、友人のあれほど思い詰めた悲痛な顔を、もう二度と見たくはない。
「……なあ、一夏」
「なんだよ、蒼」
「小指、出してくれ」
「? ……こう、か?」
すっと、他の四つは軽く折り曲げて、小指だけ立てながら一夏が問う。それにこくりと頷いて、蒼は己の小指をするりと引っかけた。
「なんだよ。くすぐったいな、どうしたんだ」
「約束だ」
「……約束?」
うん、と返して、そっと彼は目を閉じる。
「一夏が男に戻るまで、俺は女の子としての君を好きにならない。友人として出来る限り側に居て支える、って約束」
「蒼……」
「――それでまた男に戻った時。あの頃は大変だった、なんて振り返って、二人で盛大に笑い飛ばしてやるんだ」
「……ああ、だな。きっと、こんな事があったって、いつか絶対笑ってやる」
ぎゅっと、強く小指が結ばれる。運命の赤い糸なんて無いだろうが、そんなものよりも強い繋がりがたしかにあった。ずっと、大人になる未来まで続いていくであろうもの。当たり前ながら、彼らにはそれが形として見えない。色も匂いも手触りも、あるのかどうかも確かめられない。
故にこそ、気付くワケがなかった。
――その繋がりが、どんなもので、どのように変化していくのか、なんて。
気付けるワケも、なかったのだ。
◇◆◇
平日の昼間からテレビを眺める、という行為は学生にとって背徳感溢れるものである。それがずる休みだったりした場合は尚更だ。外は春先らしく、暑くもなく、かといって寒いとも言えない絶妙な空気を漂わせている。少し開けた窓から入る風が涼しい。ふと壁に掛けられた時計を見れば、時刻は既に十二時を回ろうとしていた。早いな、なんて蒼はゆったりとソファーでくつろぎながら思う。
「今頃弾と数馬、どうしてるだろうな」
「さあ。案外、平和にやってるかもしれない」
「かもな」
隣に座った一夏が、リラックスした様子で呟いた。男同士二人、という本来の絵面は彼女によって男女一組へと変わっている。本来、蒼は同年代の女子と一緒に居ると、かえって安心できないケースが多いのだが、相手が一夏であれば何も問題は無い。力を抜いた状態でほうと息を吐きながら、そこにある心地よさに浸る。
「蒼」
「ん?」
「体の調子は、平気か?」
「……もうこっちの心配をする余裕が出来たのか」
「ああ。意外と、立ち直れるもんだな」
「そうか、それならちょっと、安心した。……俺も平気だよ」
「それなら、良いんだ。……本当に、それなら」
ふわりと、風に髪をとられる。若干伸びてきた前髪が、さらりと流れるように舞う。久しぶりに静かな時間。休日でさえなんとなく落ち着かなかった一ヶ月間は、思い返しても相当に大変だった。当事者である一夏なら尚更だ。あと十一か月、ずっとこんな日が続けば良いとも思うが、生憎とそうは上手くいかない。一夏の問題が解決したからと言って、告白ラッシュが収まったワケではない。何か対策をたてないとな、と蒼がぼんやり考えていれば、ふと一夏が訊いてくる。
「ああ、蒼。もうひとつ確認なんだが」
「今度はなんだ?」
「今日も親御さんは、帰ってこないのか?」
「先週から二人とも出張に行ってる。……当分は顔も見れないよ」
「じゃあ、さ。折角だし、泊まっても良いよな?」
「それは別に構わな――」
“うん? 今、泊まるって言わなかったか?”気付いた時には既に遅い。ぱっと一夏はソファーから跳ね起きて、いつの間にか廊下に繋がるドアノブに手をかけていた。
「よし、ちゃんと聞いたからな。お泊まり権いただきだ」
「……まあ、特に問題も無いから良いけど。明日からは普通に登校するんだろう?」
「そこは準備も抜かりなく、だ。今から家に帰って着替えと鞄の中身取っ替えてくる。ちょっと待っててくれ」
言うが早いか、一夏は声をかける暇も無く家を飛び出して行った。残された蒼はリビングで一人、テレビから流れる音声と、時折入りこむ風。
「……なんだろうな。上手く、やれてるんだろうか、俺は」
一夏を支えると宣言した以上、ちょっとは気になってしまう蒼だった。