「――待っていたよ、一夏ちゃん♪」
「……え?」
その女子生徒は、ふらり、と曲がり角から唐突に現れた。次の授業が移動教室であるために廊下を歩いていた蒼と一夏は、行く手を阻まれて当然立ち止まる。織斑一夏爆弾発言より一週間。男達の夢と希望はまるで泡沫のように儚く消え、彼女をターゲットに据えた告白ラッシュはそのまま沈静する……かのように思えた。が、そうは問屋が卸さない。男は恋愛対象でない、という言葉を聞いて祝福の宴と勝利の舞を踊り出した次なる刺客は、想い人が女になり恋を諦めていた乙女及び一部の特異性癖。
「ね、今日の昼休み一緒にお話でもしない? わたし美味しい紅茶も持ってきたんだ~……モチロン、二人っきりで……ね?」
「え、ええっと……」
つまるところ、「女になろうが一夏くんが好きです!」という純情な乙女と、「悪いけどわたしそういうタイプ大好物なのよね」という変態共が以前の男子同様に一夏へ猛アタックを仕掛けるようになっていた。
「どうしたの? なにか問題がある?」
「い、いや……問題はないんだけどさ……」
「それじゃあ、良いってコトかな? 場所は校庭端の体育倉庫で……」
「ごめん。ちょっとそれは問題しかない」
えぇ~なんで~、と頬を膨らませる女子を前に、一夏は隠さずため息を吐く。一度この系統の誘いを受けた彼女が辿った末路は、人気のない場所で急に押し倒されるという事態だった。しかも男ならまだ分かるが、相手は正真正銘の女の子。女尊男卑の社会とはいえ、まさかそんな事をしてくるなどとは夢にも思わないだろう。結果としてはなんとか振り切って逃げおおせたが、それ以来一夏としては女子の“お誘い”に酷く警戒心を抱くようになったのは言うまでも無い。
「前にそれで痛い目見てるんだ。同じとは限らないけど、出来れば人目のある場所で……」
「……ちっ、余計な真似を」
「ん?」
「なんでもないなんでもな~い♪ んーそっかー断られちゃったかー」
今日は諦めるとしましょうかー……なんて呟きながら、彼女はふわりとスカートを翻して歩き始める。男子と違って良かったのは、女子陣は分が悪いと直ぐに退いてくれるところだ。全員が全員そうではないが、あまりがっつくというコトをしないでくれるのはありがたい。こちらにも幾分か余裕が持てるというもの。対応も楽と言えば楽だ。
「……あ! そだそだ、忘れてた」
「まだなにかあるのか……?」
「や、一夏ちゃんじゃなくて、蒼さんの方ね!」
「……俺?」
「そうそうー」
蒼だけに、という自分の言葉にからからと笑う。
「――なんなら君でも良いんだよ? ワタシ、両方イケるクチだから……」
ぺろりと舌を出して、ニタリと笑みを浮かべる。追記。一夏を狙うのは上記二つの人種に加えてもう一つあった。
「……木山さん、去年鈴ちゃんに投げ飛ばされたの、忘れてないか?」
「あったねえそんな事……全く、あのちっぱいはなんにも分かってない」
「……もしかして蒼、知り合い?」
「美術部の木山さん。俺が二年の時、モデルを頼んできて脱がそうとしてきた人。……絵は物凄い上手、なんだけど」
無駄にボタンを外す動作が洗練されていて、驚いた記憶がある。その後に近くを通った鈴により事なきを得たが、蒼としても少し苦手意識を持っている人だ。ちなみに言動からも察せるとおり、彼女は生粋のバイセクシャル。そのような人達もまた、織斑一夏をひっそりと狙っていた。
◇◆◇
かくして波乱の日々は一向に収まらないが、時間は無慈悲にも淡々と進む。一夏が女になってからおよそ二か月。苦しくも周りの人々に支えられながら、なんとか生きてきた彼女の体は、知らぬ間に次の段階へと足を踏み入れていた。きっと誰もが予想して、けれどもなんとなくそれを言い出せなかった。否、言えるワケがなかったのだ。一夏のためを思ってのこと、そこに悪意など一切無い。それでも現実は変わらず。まるで運命が扉を叩くように。ついにその日は、やって来た――
◇◆◇
『悪い、今日はいけない。先に学校へ行っててくれ』
「…………珍しい」
朝、携帯の着信音で目を覚ました蒼がメールを確認すると、一夏からそのような文面が届いていた。ぽつりとこぼした蒼の言葉は、思い込みでも何でもない。毎日朝食を作りに来てもう二か月だが、その間に一夏はたったの一度も忘れることはおろか、寝坊すらしなかった。決まった時間に来て、慣れたように台所に立ち、ご飯を食べて登校する。半分日課と化していたことがなくなると、少し調子が狂う。
『一夏のことだ。外せない用事でもあるんだろう。なら、仕方がない』
連絡があったということは、それほど危ない事態でもないということでもある。ならば要らぬ心配をするよりは、しっかりと学校で待つのが正解だと蒼は判断した。時刻は午前六時前、家を出るまでおよそ二時間ほどの猶予がある。起床後の一時間の休憩を考えればちょうど良い頃合いだ。未だ調子のあがらない体を引きずりながら、彼は久しぶりに朝の台所へと向かった。
『……この家、やっぱり一人だと広いよな』
なんとなく、そんなことを思いながら。
◇◆◇
「おはようみんな……」
そう言って一夏が教室の扉を開けたのは、HR前の予鈴が鳴る五分前のことだった。蒼が予想していた時間よりも大分遅い登校である。メールの届いた時間からして早起きだったにしては、随分とぎりぎりのところ。気になって彼女の方を見ると、遠くからでもその惨状が分かった。ぼさぼさの髪の毛、見るからに辛そうな表情、ふらふらとした足取り。端的に言って、かける言葉を失うぐらいには酷い。
「蒼、弾、おはよう……」
「お、おう……えと、お前、大丈夫か?」
「なにが……?」
「……何がじゃない。どうしたんだ一夏、そんなにげっそりして」
訊けば、一夏は深いため息と共に鞄を置き、どすんと椅子に腰を下ろした。そのままほけーっと上を向いて数秒。ぼそりと、聞こえるか聞こえないかほどの声量で、何事かを言う。
「…………た」
「……なんだって?」
「た? 田沼意次ならテスト範囲外だぞ」
「弾、それは明らかに違うと思う」
狙ってか本気か分からない友人のボケを処理しながら、まるで魂が抜けたかのように体をぐてっとさせている一夏へ視線を送った。こんな姿は今まで見たことがない。よもやさぞかしマズいことでもあったのかと考え込む蒼に、少しすれば力尽きそうな一夏からヒントが追加される。
「…………きた」
「きた? きたって……」
「ああ。北の国からは名作だよな」
「弾。悪いけどちょっと黙っててくれ」
真剣な表情で腕を組み、うんうんと頷く友人は恐らく本物だ。本物の馬鹿だ。このままだといつ脱線するかも分からないと踏んだ蒼は、心苦しいが一先ず弾に静かでいてもらうよう言い付ける。見慣れない状況、恐らくはふざけている場合では無い。この二か月と少しの経験で培った直感を駆使しながら、蒼は一夏の言葉に一層耳を傾けて。
「――生理が、きた……」
「……生理、って。え、いやそれって――」
「だから! 女の子の日が! きたんだよ! ちくしょう!」
がしっと一夏に肩を掴まれて揺さぶられる。こういう場合、なんと返したら良いのだろう。女性を相手に男からそういった話をするのは非常識だ、ということぐらいは理解しているが、向こうから振られた場合の対処法は流石に知らなかった。そも、そんな事態に陥ると誰も想定できない。まあ、相手としては一応女であり、男でもあるのだが。
「ああもうどうすれば良いんだ……こんなの完全に女の子じゃないか……」
「……一夏」
「蒼、俺やっぱり辛いよ。……自分がどんどん女の子になっていって、最終的に戻らなくなるんじゃ無いかって考えただけで、ぞっとしない」
最初からのものであれば、まだマシではあったのだろう。途中から起きたこと、という言い換えれば“女になっていく”事実が一夏としては苦しくて堪らない。篠ノ之束の説明が本当であれば戻れないこともない筈だが、むしろ相手が相手だからこそ最後の最後まで安心はできなかった。――が、そんな彼らの心境はいざ知らず。教室のクラスメートは、最早この異常事態を盛大に楽しんでいた。
「一夏くんおめでた!? きゃーっ! お赤飯炊かなきゃ!」
「うちそれやられてめっちゃ恥ずかしかった記憶あるわー……母さんてば本当にもう」
「お父さんに知られるのなんかアレだよねえ……」
「めでたいことなんだから祝ったら良いっしょ。あ、あたしそれなら鯛飯がいいなー!」
なんとも反応に困るコメント群だった。
「え? 織斑子供産めんの? マジ?」
「やべーな。こいつは荒れるぜ」
「でも女同士だと無理だからやっぱここは俺ら男が」
「世の中にはIPS細胞というものがですね」
一方野郎どもはいつも通り阿呆丸出しの阿呆鳥。ぴーちくぱーちくと意味も無い会話を繰り広げている。
「なあ、弾。君はまだ落ち着いて」
「あん? うちに来れば赤飯はじいちゃんが炊いてくれるぞ。いやー蘭の時も色々と俺が被害を受けて大変でなあ……」
「…………なるほど、そっち側なのか」
肩を落として、蒼は項垂れる一夏の機嫌を取りに向かった。