「いらっしゃいま……あーっ! 蒼さん!」
「――――、」
「――――、」
「……どうしたんだ? 二人とも固まって」
こてんと首を傾げて、一夏が訊いてくる。蒼は既に後悔していた。幾ら何時もはない騒動だったとはいえ、まさかこんなにも大事なことを忘れるとは夢にも思わないだろう。被害を最小限に抑えようと行っていた努力はここに至って水の泡と化す。それが分からない二人ではない。ゆっくりと目を合わせて、彼らは蘭に背中を向けながら肩を組んだ。
「しまった。蘭ちゃんのことをすっかり忘れてた」
「安心しろ。俺もだ、蒼。見事な墓穴を掘っちまった」
「堂々と言う事じゃないな……というか、君自身が一番被害を受けるだろうに」
「赤信号、みんなで渡れば死ぬだけだ」
結局この先生きのこれないじゃないか、と蒼は肩を落とした。弾は最早覚悟が完了しているのか、妙に晴れ晴れとした顔をしている。妹に隠し事をする必要が無くなる、というのはたしかに楽だろうが、代償として色々と受けそうなのはどうなのか。友人の末路に若干不安になりながらも、彼だって無視できるコトではない。なにせ一応は関係者、しかもがっつりと関わってしまっている、事態を説明可能な主要人物の一人だ。
「諦めるのは早いだろう、弾。まだ勝機はある」
「なに……? それは本当か? 俺は助かるのか?」
「ああ、助かる。助けてみせるよ。俺だって弾の死ぬ姿は見たくない」
「蒼……! アイムインフィニットフレンド……ッ!」
「……そこはマイと後ろにフォーエバーだ。なんだ私は無限の友達って」
弾の出鱈目な英語に軽くツッコミを入れながら、蒼は落ち着いて考える。一夏の容姿が性転換によって劇的に変化していることもあり、初見では先ず彼女のことを織斑一夏とは気付かない。何か引っ掛かるようなことがあろうとも、結びつくまではいかないハズだ。蘭自身の勘で疑われたとしても、目に見える形で女になった一夏という証拠がない現状では確かめようも無かった。詰まるところ、余計なコトをしなければこの場はやり過ごせる。
「うん、いける。大丈夫だ、弾。ここはなんとかなる」
「マジかよ! 流石だぜマイムインフィニットフレンドフォーエバー蒼!」
「もう意味が分からない。割と本気で中学一年から英語を習い直してくれ」
「で? 肝心の作戦はなんなんだ参謀殿?」
自身が無事に生存できる可能性が見えてきたお陰か、弾はいつも通りのノリの良さでニヤけながら聞いてくる。馬鹿で阿呆で基本的には頼りないが、いざという時はやってみせる、実に憎めない友人だ。蒼は素直に弾がとばっちりを喰らうことを、まあ、小指の先ほどではあったが、真剣に案じていた。問題を起こしたのは世界を唸らせる天才篠ノ之束で、被害を被ったのは一夏であるというのに、弾が割を食うのは少々可哀想である。
「簡単だ。今ここに居る時だけ、一夏には悪いけどただの女の子になってもらう」
「待て、口調の問題はどうする。俺ー俺ーって、一向に女っぽくなりもしねえけど」
「オレっ娘っていうコトでどうにか乗り切ろう。一夏の負担を可能なかぎり減らしつつやり切るにはそれしかない」
「なるほど。完璧な作戦だ。マイフォーエバー蒼」
「フレンドを無くすんじゃない」
なにはともあれ、道は開けた。以降は気を緩めないようにしっかりと心に刻みながら、蒼はゆるりとした動作で弾と組んでいた肩を離す。次いで一つ、深呼吸。――友人の約二か月にも及ぶ折角の努力、無駄にするワケにはいかない。して良いワケがない。彼がどれほど辛い毎日を送ってきたのかは想像も出来ないが、彼なりに頑張っていたのは確かなのだ。
「心配要らないよ、弾。君のことは、俺が――」
「蒼……お前――っ」
そうして、二人の友情メーターが最高値を振り切ろうとした直後。
「――え?」
ぱりん、と。
「……なんの音だ? 弾」
「皿だ。皿の割れる音だ。しかもごく自然落下に近い、俺がつるっと滑らせた時と同じ」
「お皿? お客さんも俺たち以外居ないのに、どうして今そんなものが割れて――」
……はて、たしか、蒼の記憶違いで無ければ。五反田蘭は出会った時に、何やら白くて丸い板のようなものを持っていたような、持っていなかったら良かったような。思い当たったのなら、見ないことにはいかなかった。途轍もなく嫌な予感が駆け抜ける。ばっと殆ど同時に、弾と蒼は彼女の居た方へと振り向いた。
「まさか、本当に……一夏、さん……?」
「えっと……うん。本当に、俺なんだ」
「終わった」
「神は死んだ」
誰も予期しなかった超速理解。まさかの展開に、男二人の心は折れた。こうして事態は、当初の想定通り、最悪の開幕を迎える――。
◇◆◇
「……お兄」
びくん、と弾の肩が跳ねる。蒼はもう何も言えなかった。一夏は少し困ったような表情で、俯く蘭に視線を向けている。
「集合」
「蘭、待て、早まるな。……話せば分かる」
「――集合」
「はいっ」
弾は犬のように駆けていった。彼程度の器では、昭和の実盛とまで書かれた犬養毅のように振る舞うことなど出来る筈もない。蘭は近寄ってきた弾の胸ぐらをひゅおっと掴んで引き寄せる。早業だ。一秒もあればお前は肉の塊にできる、と言外に告げているようだった。弾の顔から血の気が引く。
「どういうこと?」
「い、いや、その、これはだな……」
「これは、なに? 知ってたよね? お兄、一夏さんと学校一緒だもんね? ……説明、してもらえる?」
「ヒィッ!」
――鬼神だ、ここに鬼神がおられる。にっこりと笑う蘭の表情は可愛いものだが、別の意味で心臓を締め付けられる思いだった。どばっと全身から汗が噴き出る。未だ春先、気候は過ごしやすい温度と湿度を保っているが、そんなことは関係なく震えが止まらない。弾は目の前に立つ己の妹こそが、自分の“死”なのだと確信する。
「ち、違うんだ、蘭。俺は……お前を、傷付けたくなくて、それで……っ」
「理由はいらない。お兄のお節介が空回りするのなんて今更。……さっさと事情説明をしろ、って私は言ってるんだよ」
「せせせ説明だな! うん! よし分かった! ――助けてくれ蒼!」
「あっ、待て弾なにを言って――」
ぎろり、と鋭い眼光が蒼を貫く。
「蒼さん」
「……なんでしょう」
「集合」
「うん。ちょっと待って欲しい。蘭ちゃん、話をしよう。あれは今から二か月ほど前の」
「集合」
「はい」
蒼は猫のように駆けていった。彼程度の精神では、蘭の威圧に耐えながら状況説明など出来る筈も無かったのである。恋する乙女は強かだ。中には腕っ節の方もそれなりな純情乙女も居るのだが、蘭がその枠内に入っていないことだけが彼らにとっての幸せだった。一夏は頭上に疑問符を浮かべながら三人の様子を窺っている。
「どういうことですか?」
「その、なんて言ったら良いんだろう。ちょっと話せば長くなる、というか、俺としては君に話したくない、というか」
「構いません。洗いざらい吐いてもらいます。……そこの女の子が一夏さんだって事は、どうせ確定なんでしょう?」
顔を上げた蘭は、少し辛そうな表情をしていた。誤魔化すことは出来ない。下手なことで隠されるのを、彼女は望んでいない。ただ答えだけが欲しいのだ。それがどれほど残酷なモノであろうとも、絶望的な真実であろうとも。蒼は一つ息を吐き出して、ゆっくりと告げる。
「……そうだよ。そこに居るのが一夏で、間違いない」
「やっぱり、ですか。……おかしいと思ったんです。話し方とか、歩き方とか、ちょっとしたクセとか、まんま一夏さんですよ。……試しに話題を振ってみたら、私と一夏さんしか知らないようなコト、平気で答えますし」
「蘭ちゃん……」
ぎゅっ、と蘭が拳を握り締めた。……ああ、本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。蒼も弾も、きっと彼女のこんな姿を見たくなくて、ずっと隠そうとしていたというのに。現実は無情にも、一人の恋する乙女に悲しい事実を押し付ける。
「蒼さん」
「……ごめん。さっきまでのことは謝る。だから、なんでも言って欲しい。俺が知ってること、全部話すから」
「じゃあ、その全部、聞かせてください。でないと…………でないと、納得、できません……っ」
「……うん。分かった。だから、落ち着いて聞いてくれ。最初に言っておくと、一夏だって好きであんな姿になったんじゃないんだ」
その一言を皮切りに、蒼は彼女へ全てを伝えた。春休みの終わりから今日まで、織斑一夏の身に起こった全てを。
容量の関係で持ち越すヤーツ第二弾。