織斑一夏が女の子になって二か月が過ぎた。最初のうちは騒がしかったクラスメイトも今や彼女の存在に慣れきってしまい、昨年とは違うことを当たり前のように受け入れ始める。一時期は本人の心に多大な負荷をかけていた告白ラッシュも、ある程度の数を捌いてしまえばどうということはない。男子はともかく、女子もその勢いを無くし、段々と数は減っていった。一夏としても蘭の言葉が余程効いたのか、男の時同様の爽やかな笑顔を見せるまでに回復している。
『……まあ、一番初めの時からしたら、この期間でよく立ち直れた方だろうな』
人気の無い廊下を歩きながら、蒼はこれまでのことに対して胸中でそんな感想を抱く。時刻は午前七時過ぎ。まだ生徒の殆どが登校していない、寂寥感漂う校舎。彼がそんな時間にこの場所へ来ているのには、無論理由があった。そも、理由がなければこうして何時もより睡眠時間を一時間削り、一夏へ先に行くというメールを送り、わざわざ始まる一時間以上も前の学校に来たりはしない。
「……進路なんて、本当はどうでも良いんだろうけど」
中学三年生、時期的に並の少年少女が頭を悩ませる問題も、蒼にとってはさほど大きなものでも無い。呼び出された理由としては少々納得いかなかったが、自分の立場を省みれば理解はできた。とてつもないズルをしているとはいえ、これまで学年成績トップを独走している蒼は、学校からするとより良い進学先に行ってもらいたいのだろう。
『あんまり頭の良いところ、っていうのもどうなんだろう。……箔はつくだろうけど、勉強が出来るってだけじゃどうにもならないの、分かってるし』
誰かと競い合い、高め合うのは良いことだと思うが、彼本来の性格からして争い事は等しく苦手だ。ただゆっくりと、急がず焦らず、けれども遅れないような日々を過ごせれば十分。結局のところ、欲しいものは努力の成果でも、胸を張れるような経歴でも、ましてや他人からの評価でも無い。
「……うん。やっぱり、今が一番だ」
何かに笑って、時には馬鹿もやって、それで一緒に怒られて。友人達との学校生活は蒼にとっても退屈を感じさせないほどに楽しいものだ。口下手で人付き合いを苦手とするために、大勢とはしゃぐなんて真似は“今回”も出来ていないが、前よりかずっとマシだ。誰か一人でも心を許せる人間が居るのなら、それで。……居るの、ならば。
『……自分で地雷を踏むのは、一体どうしてなんだろうな』
一つ大きなため息をついて、蒼は肩を落とした。この世界の本来の流れ、限られた人物の詳細、向こう側で生きていた時の経験。転生で得たものはどれも大きいが、決して良い事だけでは無い。中には目を覆いたくなるほど酷いモノまで持って来てしまっている。捨てられなかったのではない。意図的に取りこぼさなかったワケでもない。ただ、純粋に、爪痕のようなそれが心に残っている。
「…………やめよう。悪いことばっかり考えても仕方ない。今日はあれだ、そう、結構良い天気だし――」
言って窓から空を覗けば、今にも泣き出しそうな曇り空。この様子だと昼には本格的に降り始めそうだった。悪い事が続くのは偶然か、はたまた見えない何かによる悪戯か。どちらにせよ碌なものではない。
「……ああ、そう言えば、もう梅雨の時期じゃないか」
憂鬱だ。そう呟く彼の顔は、気持ちいつもより沈んで見えた。六月某日。梅雨前線がそろそろ顔を出し始める時期。彼にとっては、一年の中でもっとも嫌な一月である。
◇◆◇
事前の予想通り、学校が終わる頃には外は土砂降りの雨だった。しかも、そこそこ前から激しさを維持したまま。グラウンドには既に大きな水溜まりが一つ二つ出来ている。野球部とサッカー部はさぞ頭を抱える問題だろう。ともあれ、部活動に所属していない蒼には関係のないこと。彼にとって気がかりなのは、顔を顰めざるを得ないこの天候だ。
「…………、」
昇降口から空を見上げる。あたり一面、セメントを塗ったような分厚い雨雲。動いているのかどうか、それすら些細な問題。光の差す隙間すらないようで、世界に天上が出来たような錯覚に陥る。きっとそれは、簡単に突き抜けてしまえるものだろうに。
「……参ったな、本当に」
「何が参ったんだ?」
ふと、呟いた独り言に反応する声があった。透き通るように綺麗な声、けれども口調は男らしく。この中学でその条件を満たし、自分と関わり合いのある人物など一人しか居ない。声の主はトンと革靴の踵を鳴らして、躊躇いなく隣に並んだ。
「一夏」
「どうしたんだ、蒼。今日はやけに元気が……って、まあ、いつも通りではあるのか?」
「それだといつも俺が元気ないみたいじゃないか」
「違う違う。お前、毎年この時期は駄目だもんな」
くすり、と笑いながら一夏が言う。
「駄目ってワケじゃない。ただ、ちょっとアレなだけで」
「駄目って事だろ? なんだっけ、雨が嫌いなんだったか?」
「……嫌いじゃない。苦手なんだ」
そっぽを向きながら答える蒼に、一夏は殆ど同じ意味だろうと突っ込む。が、その一言は流石に無視できない。違うとはっきり前置きした上で、彼は少し怒ったように言った。
「雨だって悪くない。静かな部屋で聞く雨音は雰囲気に浸れて良いものだし。そもそも人が生きる上で必要なんだから、否定するワケでもないんだ。……ただ、俺個人が苦手なだけで」
「いや、だから、それが嫌いってコトとどう違うんだよ」
「違うだろう。嫌いじゃ無いけど、苦手。なんとなく分からないか?」
「さっぱり分からん」
すっぱりと一夏は言い切る。蒼はこの特異な経験をしている友人から、理解を得る事を諦めた。……尤も、本心で言ってしまえば、最初から理解してもらうつもりなど毛頭なかったのだが。
「で、話は戻るけど、何が参ったって? この雨か?」
「いや、傘を忘れて」
「なにやってんだよ……」
天気予報ぐらい確認しておけよ、という一夏の言葉をしっかりと受け止めながら、今一度外の様子を窺う。ざあざあと音を立てて降りしきる雨。この中を雨具なしで駆け抜けるのは無謀の極みだ。その上、学校から家までは幾ら自身のトップスピードで走ろうとも数分はかかる。制服がびしょ濡れになるのは目に見えていた。大人しく雨が少しでも弱くなるのを待っていよう、と持ち前のマイペースを発揮したのは言うまでも無いだろう。
「仕方ないな。……ま、これも色々と世話になってるお礼だ」
「?」
こてん、と首を傾げる蒼を余所に、一夏は持っていた傘をばさりと広げた。
「どうせ途中まで同じ道なんだ。入っていけよ。……それとも俺と相合い傘は嫌か?」
「……後者はともかく、それならまあ、うん。お願いしたい」
本音を言えば少しどころじゃ無いほどには複雑だが、背に腹は代えられない。すっとその手から傘を取って、蒼は一夏と共にゆっくりと豪雨の下へ踏み出した。
◇◆◇
「……狭いな」
「うん、狭い」
「この傘よく考えたら一人用だしな。……っておい、肩濡れてるぞ蒼」
「君の方こそスカートの端が濡れてる。もうちょっと中に入ったら良い」
やいのやいのと言いながら、二人並んで一つの傘を分け合って歩いていく。男女がしているとは思えないほどロマンチックの欠片も無い会話だが、あいにくと本当なら男二人のむさ苦しい画だ。が、周りはそんな事実など知った事では無い。関係のない人間から見れば、微笑ましいカップルのように見えなくも無いことを、彼らは一切気付いていない。
「そういや、今朝はなんだったんだ? 珍しく早かったけど」
「進路相談だよ。君なら良いところいけるよね、っていう」
「ああ、そうか、もうそんな時期だよなあ……。蒼、第一志望は?」
「決めてない。正直、ある程度きちんとしてるならどこでも」
「……なるほど。呼び出された意味がよおく理解できた」
学年一位がそれじゃあな、と一夏が苦笑する。
「そういう一夏はどこなんだ?」
「そりゃあ勿論あれだ、藍越学園だろ。自宅から近い、学力は真ん中、しかも毎年学園祭が開かれる。三拍子揃った最高の学び舎だ」
「……君も大概人の事言えないな」
「いいや、違うぞ。俺はちゃんと進学後も視野に入れて決めたんだ。地域密着型で卒業後は学園法人の関連企業に就職が決まってるも同然。おまけに学費が超安い」
主に最後の部分を強調するあたり、並べ立てた理由の中で最も一夏の心をうった条件がそれなのだろう。中学生にしてはしっかりし過ぎなぐらいだ。それこそ五反田弾に爪の垢を煎じて飲ませたくなるレベルで。
「でも、藍越学園か。……ちょっと、考えものかな」
「ええ? なんでだよ。超絶優良高校だぞ?」
「それは良いんだけど、やっぱり良くないというか」
「……? どういうことだ?」
こっちの話、と蒼は笑って誤魔化した。大事なのは条件でなく、その名前、及び試験会場。昨年のカンニング問題の対策なんかで会場が多目的ホールにでもなろうものなら、大体予想できてしまう。現状はその通りになる、とも言えないが。
「にしても雨、止まないな」
「止まないだろ。これだけ強かったら」
「そっか。それはちょっと――」
ざあっ、と水飛沫の跳ねる音。ふかされるエンジン音。昼間から薄暗いあたりを照らすライト。それなりの速度で、一台の車が彼らの隣を走っていく。
「――――、」
ぴたりと、蒼の足が止まる。
「っと。おい、なんだよ。突然どうしたんだ?」
「……いや、ごめん。なんでもない」
しかしながら、固まったのは一瞬。彼は直ぐさま気を取り直して、ゆっくりと歩を進める。ぱしゃりと波紋を広げる歩道の水溜まり。ぱらぱらと弱まる様子もなく傘を叩いている雨。――ああ、その、どれもこれもが、懐かしい。
「少しだけ、昔の事を思い出したんだ」
それは遠い世界の話。ずっとずっと遠くの、実際には彼だけが知っている、違う世界の話。それが誰かに“明かされる”のは、一体何時の事になるのやら――。