「うわあ……靴下がびしょ濡れだ。夕方には弱まるって言ってたのに」
「ならちょうど良いじゃないか。大人しくなるまでゆっくりしていってくれ」
「ん、そうさせてもらう。しかし、服は無事だが足元がこれじゃあな……」
ぐっと靴下を脱いで、一夏が廊下に立つ。最近は毎日のように通っている上慧邸。位置の関係上、学校からの単純な距離ではほんの少し、一夏の自宅よりも近い。蒼は後ろ手に扉を閉める直前、隙間から今一度空模様を覗いてみた。一向に晴れる気配の無い曇天。気のせいか激しさを増す雨脚。なんとなく気分の問題もあって、一夏を自宅に招いたのは正解だったかと考える。
「この分じゃ少しの距離でも大変そうだ。……これ、本当に弱くなるのか?」
「天気予報じゃそうらしい。ほどほどに期待しておこうぜ」
「ほどほど、か」
「おう」
短く答えて、軽く足を拭いた一夏がすたすたとリビングへ向かっていく。勝手知ったる様子なのは、これまでの経緯からして当然のこと。なにせ蒼と彼の家族を除けば、一番この家を活用している。一年前では考えられなかった。まさか、この我が家にこうまで自然体の女の子が居るなんて。種明かしをすれば、なんてことはない“男”なのだが。
「でも、あれだな、俺も雨はちょっと嫌かもしれない。なんつうか、じめっとした感じがするし、微妙に濡れてる髪の毛とか気持ち悪い」
「風呂場でシャワーだけでも浴びてきたらいい。少しはマシになるよ」
「良いのか?」
「良いよ。そのぐらい」
じゃあ遠慮無く、と返して一夏は浴室へ繋がる扉を開けた。それを視界の端におさめながら、蒼も濡れた靴下を脱いで家に上がる。が、一夏と違って男子中学生の基本的な制服である蒼の被害は、たったのそれだけではない。足の甲にあたるひんやりとした感覚、黒で若干分かり難いが、学生ズボンの先もしっかりと雨に濡らされていた。ひとつ息を吐いて、ぐいと裾を捲る。
「あ。着替え、用意しておこうか?」
「いいよ、別に。どうせ後で家まで帰るんだし。洗濯物が増えるだけだろ?」
「……それもそうか」
だとするとシャワーを浴びる理由もそこまで無いような気がしたが、それは本人の気持ち次第か、と蒼は一人で納得する。それからぱたりと扉が閉められて、しばらくすると雨の音に交じって微かな水音が聞こえてきた。両親はいない。彼と彼女、一つ屋根の下で二人っきり。そんな事は既に飽きるほど経験している。最早気にするようなものでもない。蒼は学ランのボタンを外しながら、ゆっくりとリビングへ向かった。
「ただいま……って、誰もいないけど」
がちゃりと開けた中の様子は、いつも通りに朝から変わりない。いや、一つだけ“いつも”とは違っていた。朝早くに家を出た為に、カーテンが閉められたままだ。お陰で室内は午後四時半という時間の割に薄暗い。感覚と経験を頼りに壁へ腕を這わせて、ぱちりと明かりをつける。カーテンを開けるという選択肢もあったが、それよりかはこちらの方が早く、なにより蒼自身進んで雨を見たくはなかった。部屋の中を少し歩いて、テーブルに放られたリモコンを手に取り、テレビに電源を入れる。鞄はそっと床に。最後にぼすんと、彼は体をソファーへ沈みこませた。
『……やっぱり、少し疲れる。雨なんて、昔はどうってこと無かったのに』
詰まるところ、この体だってそうだ。今よりも前の方が良かったというのは、弱くなって初めて気付いたことである。病弱だと学校を簡単に休めて羨ましい、と思っていた過去の己を殴ってやりたい。
『大きな病気にかかってないコトだけは不幸中の幸いだろうな。そこまで不自由ない生活は出来てるし』
叶うなら、これ以上体調が悪化しないよう祈る。たしかに眠ることは嫌いでは無いが、寝たきりの生活は御免だ。最近は昔に比べてフラついたり、倒れそうになる回数も格段に減った。このまま何事も無くなっていけば良いのだが、現実が果たしてそこまで甘いものか。そんな風に考えていたところへ、ふと離れた場所より声がかかる。
「蒼ー! 悪い! タオルが無いみたいだ!」
「あれ、用意してなかったっけ。……うん、分かった。今持っていく」
「おう、サンキュー!」
扉越しだからだろう、一夏は声を張っていた。自分と相手しか居ないここでは十分過ぎる声量。蒼はよっと腰を上げて、リビングから出る。
「えっと……タオル、タオル」
階段を登って二階へ。箪笥は殆どがそちらの方だ。ふと耳を澄ませば、内側からの水音は止んでいる。とすると、既に彼女は浴び終わって待っているということだろう。あまり時間をかけては風邪を引いてしまうかもしれない。タタッと歩く速度をあげて、探し物のある部屋へ。
「……済んでる、ってことはバスタオルの方か。よし」
ぱっと手に取って折り返す。部屋を出て廊下を渡り、階段を下りていく。正直なところ、彼としては気持ちが焦っていた部分があった。おまけにこの雨だ。少々、不安定になっていたという可能性も否めない。――故に。
「待たせてごめん。一夏、タオル持ってきたけど――」
「あ」
蒼は思いっきり、その扉を開けた。
「――――、」
先ず目に入ってきたのは、綺麗な白い肌。明かりはついていないのに、まるで光っていると錯覚してしまいそうになる。次いでそれによく映える黒髪。腰を越えるまでに伸ばされたものが、女性的な美しさを持つ体のラインを際立たせる。……そう、体のラインを。くっきりと見える鎖骨、十分な膨らみがある胸、きゅっとくびれた腰、そこから下に目をやろうとして。
「おい蒼! 鼻血鼻血!」
「ゑ?」
ぽたり、と自分の腕に赤い液体が落ちる。なんだか、前にもこういうことがあったような気もするが、それはさておき現状だ。
「えっと、うん。これはあの、所謂手違いで。とにかく、その、なんて言うんだろう……ああ、言葉が上手く出て来ない」
「落ち着けよ……ったく。らしくねえぞ」
言いながら、一夏がタオルを引ったくって体を覆う。
「……ごめん。ちょっと混乱した」
「だろうな。それと鼻血」
「うん、それは分かってる」
ぎゅっと鼻をつまんで、一先ずこれ以上流れないようにする。……びっくりした。一体何を考えていたんだ、己は。一夏は女の子になっているのだから、風呂場に突撃すればどんな光景が待っているかなんて分かるだろうに。内心で自戒しながら、蒼はとりあえず一歩下がった。
「あとで詰め物しとけよ。ティッシュかなんかでも良いから」
「ああ。そうする。……タオルには付いてないか?」
「その可能性があるから取ったんだ。無事だよ。ありがとうな、蒼」
「そっか、それは良かった」
「……鼻血出しながら言っても格好つかないぞー」
それもそうである。
◇◆◇
「……なんだろう。対応からして間違ってないんだけど、圧倒的な慣れと意識の差を感じる……」
◇◆◇
「世話になった。明日はいつも通りだろ?」
「何も聞いてないし、そうだと思う」
「ん。なら朝飯作りに来るよ。……じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
手を振って一夏を見送る。日も落ち始めた午後七時半。あれだけ降っていた雨はいつの間にか小降りに変わり、現在では空こそ晴れないものの、傘をささずとも歩けるぐらいにはなっていた。
「……やっぱり、雨は苦手だ」
ほんの少し楽になった心を自覚して、呆れるように呟く。きっと生きているうちは足を引っ張ってくる。完全に忘れるとしたら、それこそ次に死ぬ時だ。
「嫌だな、死ぬのは」
それはきっと誰しもが思うこと。死ぬのは怖い。怖いのは嫌だから、死ぬことだって嫌なことだ。当たり前の帰結。ただ、彼にとっては少しだけ重みが違っているだけで。
「……でも、まあ。それも仕方がないか」
だって俺は生きているんだし。死ぬのは当然。なら、それ以上は必要ない。
「明日は、晴れると良いな」
そう言って微かに笑いながら、彼は家の中へと入って行った。