ちなみにこのイベント、割とどこに入れるか悩んだ末に一番短めの六月に割り当てられました。
それから少し経って、未だ梅雨前線が猛威を振るう六月中旬。外からの雨音が響く静かな朝。枕元の時計は八時半を示している。平日なら考えるまでも無く絶望的な時間帯。けれども本日は土曜日、部活動に所属する学生や社会人はいざ知らず、蒼にとっては立派な休日だ。ごろんと寝返りをうちながら、うっすらと浮上した意識で今日のことを考える。平日の雨は嫌でも外に出なければいけないので苦手だが、休日なら話は別だ。学校がない。詰まるところそれは、外に出る用事がないということでもある。雨自体はそこまで嫌いでも無い彼は、久しぶりにゆっくり本でも読もうかと計画をたてて。
「…………すう」
ぐっと瞼を持ち上げて見た視線の先が、ありえない状況を捉える。眠気で朦朧としていた意識が途端に覚醒した。それでも取り乱さなかったのは、彼が持つ生来の冷静さからか、天気の所為で気分が良くなかったからか。どちらにせよ、ある程度落ち着いて状況把握が出来るだけで十分。頭を回す。ゆっくりと、色んな意味で高鳴りそうになる心臓を抑えつける。きっとそれは、この特異な状況だけが起こしたものではないと知りながら。
「…………、」
蒼は先ず、自分の体を見た。なんてことはない、いつも着ている寝間着のまま。……ただ、なぜか胸元のボタンが二つほど取れている。昨日までは確かにあった筈のそれが、無理矢理千切ったような糸を残して、どこかへ消えている。間違いなく目の前の人物が犯人だ。証拠はまだ一つもないが、蒼は確信していた。
「むにゃ……うぅん……」
次いで相手の体を見る。ベッドの上に広がる鮮やかな色艶の髪の毛、対照的に顔には酷く深い隈、横になるという体勢から両腕に押しつぶされて大きさを主張する胸。……でかい。この前見た性転換をしている友人のものよりも格段に。またその時のような醜態を晒す前に、すっと視線を外す。例え訳の分からない変な服を着ていようとも、健全な青少年にとっては目に毒である。
「蒼くん……えへへ……好き、だよぉ……」
「――っ」
どくん、と心臓が跳ねる。顔が熱い。ぎゅっと、左手が僅かに締め付けられる感触。見れば彼女はその右手で、彼の手を大事そうに握っていた。一体どんな夢を見ているのだろう。頭に付けた用途不明なウサミミをぴこぴこと揺らしながら、ほんのりと微笑む。
「……ホルマリン漬けにして、保存しちゃいたいぐらい……」
「――――、」
別の意味でどくんと心臓が跳ねた。寝言でまで価値観の違いを見せつけてくるあたり、流石としか言い様が無い。血色の良すぎた顔色は既に少し青くなっている。目の前に居る彼女の性格からして、保存するとしても完全に“生きたまま”だ。たしかに死ぬのは嫌だが、かと言ってそんな末路を辿るぐらいなら死んだ方がマシとも思える。
「えへ、えへへ……大好きぃ……愛してるよぉ、蒼くん……」
「…………、」
ふう、と彼は張っていた気を緩めるように息を吐いた。なにはともあれ、触らぬ神に祟りなし。幾ら強制的に周りを巻き込む傍迷惑な存在とはいえ、寝ているうちは何も怖くない。蒼は被っていた布団を少しだけ上げ、出来る限り物音を立てないよう気を付けながら、そっとこの場から抜け出そうとして――
「…………待っ、て」
きゅっと、先ほどよりも強く手が握られる。
「私を……置いていかないで……一人に、しないで……」
「……」
なにか、聞いてはいけないものを聞いてしまった気分だ。複雑な心境というのは、こういうものを言うのだろう。見方を変えるしかない。今までの視点からでは、どうにもこの人が発した言葉とは受け取れなかった。蒼は応えるように、彼女の手を握り返す。と。
「どきっとしたかな?」
「え」
「ふっふっふー! 束さんだいしょーり! いっくんなんか目じゃないレベルで好感度爆上げだぜい! ぶいぶい!」
「……いつから起きてたんですか、束さん」
ぴょーんとベッドの上で飛び跳ねる人間大のうさぎ。もとい“天災”篠ノ之束はくるんとスカートを翻し、腰に手を当てながらちっちっちっと指を振った。
「愚問だね蒼くん。天才は常に思考という鎖に縛られたままなんだよ。疲れを取るための睡眠なんてもうしばらくとってないなあ」
「最初から起きてた、ってことですか」
「ざっつらい! 理解が早くて助かるね! ちなみに私も君のことを“理解している”から、これから何を言うか当ててあげよう。――束、俺の女になれ」
「すいません。そろそろ一夏が来るのでお引き取りいただいて宜しいですか」
「あっるえー!? なんでなんでー!」
フラグは完璧だったのにー、と頬を膨らませて呟く束。蒼としては本気で頭が痛い。昨日は特に変わった事も無く、いつも通りに過ごして眠った筈だ。それが何の間違いで、絶賛指名手配中の人物と朝チュンみたいな事態にならないといけないのか。字面に起こすと余計にワケが分からない。
「あ、そっか。蒼くん照れ屋だもんね。いっくんの裸見て鼻血出しちゃうぐらいだし」
「……待ってください。それどこで知ったんですか?」
「なら仕方ないなー。お姉さんから告白してあげるよ、全くぅ、男の子のくせに意気地がないんだからあ……」
「遠慮します。というか会話をしてください」
「会話! カイワレ! 煮干し大根! 関係性を述べよ!」
「あの、帰ってもらえません?」
割と切実な願いだった。
「しょうがないなあ蒼くんは。そこまで言うなら私もさっさと用事を終わらせたくなるじゃないか」
「……用事?」
「モチのロンだよ。大体、それが無ければ君に会いに来るなんてしないさ。見るだけで事足りるんだから。……でもやっぱり実物も捨てがたい! 好き!」
「俺はちょっと束さんのこと苦手です」
はっきりと言う蒼だが、肝心の束は気にした様子も無い。何をやっても暖簾に腕押し。恐らくは織斑千冬を除いて、彼女に口出しできる人物など居なかった。それでも完全に制御できるといかないのも、天災が天災たる所以だろう。己を最高の存在だと確信しているからこそ、意見や考えを曲げる事は殆ど無い。
「ま、それは置いといて。そうだね、いっくんに会っても面倒なことになるだけだ。手短に済まそう」
すらり、と束がどこからか注射器を取り出す。
「……あの、束さん。それは……?」
「なーに、ちょっとしたオクスリだよ。それより良いのかい? 君、起きた時から私の事を名前で呼んでるけど」
「そんなことは今どうでも良くて。……まさか、一夏にやったものと同じ……?」
「ぶっぶー、残念。不正解。……とりあえず蒼くん、大人しくしよっか」
――反応する暇も無い。気付いた時には既に押し倒されていた。見るからに細腕のどこにそんな力があるのか。幾ら蒼が力を入れて立ち上がろうと藻掻いても、ほんの少しすら動かせる気がしない。織斑千冬と比べれば劣るとはいえ、彼女も正真正銘細胞レベルでオーバースペックの化け物だ。只の人である蒼に抵抗できるハズもない。
「安心していい。痛いけど、“あの時”に比べれば蚊に刺されるようなものだから」
「なに、を……っ!」
ぶすり、と針を腕に刺される。チクリとした痛み。けれど、たしかにそこまでのものではない。ふと見れば、束はまるで人が変わったかのような無表情で、注射器の中身が減っていく様子を眺めている。それがなんとなく、蒼にとっては恐ろしかった。
「……うん、終わりだ。もういいよ」
すっと針を抜いて、ぺたりとウサギの絆創膏を貼りながら言う。
「なん、なんですか、今の液体」
「だからオクスリだってば。蒼くんが近い将来発症してた病気の」
「…………え?」
「放っておけば最悪死んじゃいそうだったしね。親が居ない君だと、気付いても病院までは行かないだろうし」
やれやれ、と肩を竦めて首を振る彼女を、蒼は呆然と見詰める。最近のことを思い出しても、体の調子が悪かった記憶は無い。至っていつも通り、少し辛い日なんかはあれど、決して酷くはならなかった。束の言う通り、元から体が弱い自分では、少し悪化したところで大して気にもしなかっただろう。
「昔、約束したからね」
「……約束」
「忘れたかい? まあ、蒼くんが覚えて無くても私が覚えてればいっか」
なんて言い切ったところで、来客を告げるチャイムが鳴った。ぱっと時計を確認する。時間からして一夏で間違いない。
「おっともうタイムアップだ。それじゃあ束さんはドロンします! ばいばーい!」
「あ、ちょっと、待っ――」
「それと隠しカメラなら鏡の上だよ! 取るも残すもお好きにどうぞー!」
最後の最後に重大な台詞を吐きながら、束は窓から身を乗り出した。蒼は急いで駆け寄り、ぐるりと外を見渡す。影も形も残っていない。まるで最初から居なかったように、篠ノ之束は忽然と消えた。
◇◆◇
きっとそれが、自分にとって最大の過ちだった。
『――ああ、ああ。なんで、どうして』
今でも尚悔やんでいる。今でも尚引きずっている。
『ごめん。だって、知らなかった。君がそんなコトになってるなんて、想像もしてなかったんだよ』
その過去を、その経歴を、その記憶を。
『ごめん、ごめん。本当に、ごめん』
ぎゅっと抱きしめる。小さな存在。触れれば壊れてしまうような脆いモノ。
『――
だから優しく、彼女は抱きしめた。