それは蝉の声も段々と大きさを増してきた、夏のある日のこと。室内に漂うむわっとした熱気と、聞き慣れた呼び鈴のカン高い音を耳にして、蒼はぱちりと目を覚ました。いつもの習慣で、ごろりと寝返りをうちながら枕元の時計を確認する。まだ午前七時過ぎ。とは言え、朝早くからの来客は上慧邸にとって珍しいものでもない。数ヶ月前に特異な事態を経験した友人が毎日のように朝ご飯を作りに来ているからだ。夏休みになってもそれは変わらず。なのだが。
「……今日は、ちょっと早いな」
何かあったのだろうか、なんてぼんやりと目覚めたばかりの頭で考えながら、蒼はベッドから起き上がって部屋を出た。彼の自室は二階の最奥だ。そこそこ長めの廊下を渡り、螺旋状の階段を降りて、およそ十五歩ほど進んだところが玄関となっている。一人暮らしで広々と空間を使えるのは良い事だが、広すぎるのもまたどうか。来客への対応だけで無駄に歩く距離が長い。一軒家に文句は無いが、こういう時だけはアパート暮らしの方が楽かもしれないと思わざるを得なかった。はい、と返事をしながらドアを開ける。
『…………って、あれ?』
そこに立っていたのは、彼の予想通り女の子であった。けれども、脳裏に浮かべていたかの人物ではない。元男であった友人とは違う、正真正銘の女の子。
『一夏じゃ、ない?』
織斑一夏の髪色は、どちらかと言うと青に寄った黒だ。暗い場所では殆ど分からないが、太陽の下ではしっかりと認識できる。伸ばしきった髪の長さも相当なもので、先日の段階では膝裏に届くかといった様子だった。対して目の前の彼女は、これまた向こうとは違った方向で鮮やかな色艶を出している黒髪。長さも腰のあたりまでは余裕である。長いつばの麦わら帽子を深めに被っているため顔は見えないが、スタイルは素人目にも人並み以上だった。服装はこの時期によく似合うノースリーブの白いワンピース。
『ということは本物の女の子。しかも多分同じ歳ぐらい。……うん?』
状況を整理していくうちに、これがとんでもない事態だと蒼は察する。対人能力が高くない彼の交友関係は非常に狭く、また異性に対する僅かな苦手意識から女性の相手はさらに少ない。仲が良いと胸を張って言えるような関係は未だ片手で事足りるほどだ。おまけにその相手の大半が離れた場所に行ってしまっている。詰まるところ、こうして彼の自宅を訪れるような関係性を持った女子は、身体ごと変わってしまった現女の子である織斑一夏を除いていないということ。
「……えっと、貴女は?」
黙っていても埒があかない。とりあえず蒼は、声をかけて訊ねた。見知らぬ女の子かと思えば友人だったという前例もある。何事も疑ってかかるより前に、先ず事情を聞くところからだ。問い掛けると少女の肩がぴくりと跳ねる。怖がらせてしまったのだろうか。にしてはどうも、こう、佇まいが落ち着いているというか、雰囲気がどことなく凜としているというか。なんて思っていたその時。
「――っ!」
「えっ」
がばり、と少女が抱きしめるように腕を回しながら飛び付いてきた。蒼には意味が分からない。なるがままに背中から後ろへ倒れる。既の所で受け身まがいのようなものが取れていたことが幸いか。なので痛みは最小限。ぱさり、と少女の被っていた麦わら帽子が廊下に転がる。蒼はほんの一瞬顔を顰めた後に、自分へと覆い被さっている相手を見た。
「……意外と変わっていないのだな、お前は」
「変わって……?」
「ああ、そうか。私は今、コレだったな。少し待ってくれ」
「う、うん」
その前に何故このような体勢になっているのかを聞きたかったが、場の流れは完璧に彼方へ渡っている。ここは大人しくしているのが吉か、と判断して適度に肩の力を抜いた。抵抗しようにもどうやら向こうに悪意は無いようなので、乱暴に引き剥がすのは気が引ける。仕方なくぼうっと見ていると、少女はごそごそとポケットへ手を入れ、一つの白いリボンを取り出した。それから手慣れた動作で髪を束ね、きゅっと一房に結わえる。
「……よし。これでどうだろうか。一応、昔のままだとは思うのだが」
「昔の、まま……」
「ああ。……分からないか?」
女の子、綺麗な黒、一つに束ねた髪型。
「あ――箒、ちゃん?」
「っ! そうだ、私だ! 良かった、思い出されなかったらどうしようかと」
「……しょっちゅう電話してるのに思い出さないワケないよ」
「先ほどまで気付いてなかったではないか。ああ、本当に、良かった……」
ほっと安心したように息をつきながら、箒がにこりと微笑む。実に小学校の途中から数年ぶりの再会だ。久しく見なかった数少ない異性の友人に、蒼も自然と笑い返す。
「ところで、なんでこういう状態に?」
「うむ。ちょっと勢い余ってしまってな」
「……なるほど」
やはり鍛えようか、と真剣に悩み始める蒼だった。
◇◆◇
「篠ノ之さんが協力してくれた……?」
「ああ、姉さんがな。お前の自宅の住所を教えてきてな、交通手段も既に用意していたんだ。随分と派手に立ち回って監視の人を上手く引き付けていたよ」
「それでその間に逃げてきた、ってこと?」
「うむ。……私としても、そこまで悪い申し出とは思わなかったからな」
台所でコップに麦茶を注ぎながら、蒼は箒の話に耳を傾ける。毎度と言って良いほど客人に振る舞う熱い珈琲も夏の間は少しお休み。アイスコーヒーも作れないでは無いが、やはり彼女が相手だとお茶が一番だ。現代を生きる大和撫子、とでも言うべきか。剣道の強さからしてサムライガールでも良いかもしれない。
「それ、大丈夫なのかな。お付きの人とかに、迷惑じゃ」
「無論、大迷惑だろうな。国が指示して保護する要人が勝手にこうして逃げ出している。今頃血眼になって私と姉さんを探しているハズだ」
「……色々と駄目じゃ無いか」
「分かっているよ。だが、迷惑ぐらい被っていれば良いんだ、ああいうのは」
コップを二つテーブルに置きながら、蒼は彼女の対面に腰掛ける。ぎゅっと拳を握りながら呟かれた一言は、どうにも堪えきれない感情を吐きだしたかのようだった。らしくない、と思ってしまったのは随分と会っていなかった所為か。それとも、そこまでに箒を追い詰めるほどこの数年間は厳しいものだったのか。
「なんだかんだと難しい話を聞かされた。全部は分からずとも、それなりに理解はしている。どこまでいっても私は篠ノ之束の妹だ。本人が捕まらない今、その立場が危険である事は承知している」
「そうだね。……悪い人に攫われる可能性も」
「なくは無いだろうな。……だがな、蒼。保護だなんだと言っても、結局は私たちから少しでも姉さんの動向を調べようとしているに過ぎないんだ。なにが要人か。人質か何かの間違いでは無いのか」
「……箒ちゃん、もしかしなくても結構、鬱憤溜まってる?」
ぐいっと彼女は麦茶を呷って、どんと鳴らしながらコップをテーブルに置く。
「溜まらないはずがなかろう! ええい! なにが“
「箒ちゃん、一旦落ち着こう。凄い物騒だ」
「知っているか蒼。三寸斬り込めば人は死ぬのだ。脆いものだろう?」
「君、そんなバイオレンスな性格してなかったじゃないか……。というか、命が脆いものって事ぐらいは俺も知ってる」
そうか、と呟いて箒は口元に手を当てながらこほんと喉を鳴らして。
「まあ、冗談はともかく。目的の姉さんが目の前に居るというのに放っては置かないだろう。こちらも半日保つかどうかだが、それまでは私も好きにやるつもりだ」
「……そうだね。たまには羽目を外すのも良いかもしれない、学生だし」
「ああ、夏休みのちょっとしたお出かけだ。距離はちょっとしてはいないがな」
言って、ふっと口の端を吊り上げながら箒が笑う。蒼はそれに苦笑で返しながら麦茶を一口啜り、そうだと思い出したように話し掛けた。
「箒ちゃん、もう何年も一夏に会ってないだろう?」
「ぶふっ」
噴いた。あの大和撫子がお茶を噴き出した。珍しい。蒼はなんとなくほっこりとした気持ちになりながら、そっとティッシュの箱を滑らせる。
「すまない。いや、うむ、先の質問はたしかにそうだが、そ、それがどうした?」
「先ずちょっと残念なお知らせで、一夏は今千冬さんと旅行に出かけてるんだ。……箒ちゃんの事だし、まだ一夏の家には行ってないんじゃない?」
「ああ、行っていない、が……そうか。旅行か。なら……うん、仕方が、ないかあ……」
はあ、とあからさまに肩を落とす箒。純情乙女ここにありだ。彼女の姿を見ていると胸が痛むが、背に腹はかえられない。蒼の言ったことは勿論丸っきり嘘である。織斑一夏は今日も元気で自宅に居るだろう。――女の子の姿で。故にこそ本物の一夏と会わせるわけにはいかなかった。だからこそ、せめてものお詫びに。
「代わりに、とはいかないけど、小学校の卒業アルバムでも覗いてみる? 箒ちゃんの知らない一夏とか、結構載ってるんだよ」
「ほ、ほう。そうか、アルバムか。……ん、んんっ。お、お前が良いというのなら、そうだな。うん。ちょっと、見せてもらおうかっ」
「……そわそわしてるの、隠せてないよ」
「う、うるさい馬鹿者っ。また抱き上げるぞ」
それは勘弁して欲しい、と困ったように笑いながら、蒼はアルバムを見るために箒を自室へ案内した。
◇◆◇
かくして、世界の“天災”篠ノ之束が気に掛けているであろう二人が仲睦まじく小学校の卒業アルバムを捲り始めたのと同時刻。抜けた空白の一席。そこに座る人物。三人目の関係者は一歩、また一歩と、上慧邸へ足を運んでいた。
次回、笑顔を保つためにオリ主くんの奮闘劇が幕を開ける――!