「うおー……小っさいな……」
「まあ、子供用だし。中学生が泳げるぐらい大きいものなんて豪邸にしかないよ」
「これだとアレだな。足湯っつーか……水浴び?」
「一応暑さは随分マシになるだろう。ほら、十分冷たい」
ぽちゃんと水の入ったビニールプールに手を付けて、にへらと蒼が笑う。夏の猛暑で力が抜けている影響か。表情の安売りはやっぱり駄目だなー、と思いつつも一夏はつい苦笑で返してしまう。雨が嫌いという男は、だが水自体が嫌いというワケではない。降り注ぐものが駄目かと思えば、雪もあられも全然平気だ。ただ、雨だけは苦手だといつも言っている。本人によれば感じ方の問題、とも言うが、一夏としてはやっぱりよく分からない部分でもあった。
「……水嫌いでもなけりゃ、悪天候を嫌ってるワケでもない。お前の雨嫌いって、一体どうなってるんだ」
「だから雨は嫌いじゃなくて苦手なんだ。水は苦手でも嫌いでもない。そもそも別だろう、どちらも」
「同じみたいなもんだろ。なんだ、雨に嫌な思い出でもあるのか?」
「……別に、言うほどのコトじゃないけど、色々あるんだよ。俺にも」
蒼はぴっぴっと手に付いた水滴を払いながら言う。色々、で片付けるには少々複雑な事情が絡んでいたりもするのだが、全部引っ括めて色々だ。態々一から何まで説明するのも面倒である。そも、荒唐無稽な己の過去を語ったところで一銭にもならない。無駄な労力を使うだけ、暑いこの時期だからこそ、体力管理はしっかりと。ぱんぱんと両手を叩きながら、彼は誤魔化すように笑顔を作った。
「それはどうでも良いとして、折角用意したんだから少しは使わないと」
「……ま、良いけど。にしても蒼、お前本当に白いな」
「一夏には負ける。流石に、女の子の肌の白さに勝ってたらアレだけど」
そう呟く彼の格好はシンプルな黒のサーフパンツに、上は白を基調とした所々ラインの入っているフード付きのジャージだ。しかも似合わないことに前は全開である。少しもありそうにはない腹筋と胸元が、ちらりと隙間から顔を覗かせていた。ただし代わりとでも言うべきか、鎖骨は凄まじい。どことなく色っぽく見えるような、見えないような。そんな感じだった。
「けど、こういう時はなんて言えば良いんだろう。……君も水着似合ってるよ、とか?」
「分かってて言ってるだろ、蒼」
「いや全然。まったく、これっぽっちも君の羞恥心は悟っていないから」
「ぐっ……このぉ……」
ぷるぷると震えて、かあっと顔を真っ赤に染めながら、一夏が握った拳を胸元まで持ち上げる。彼女が着ているのは勿論“彼女”なので、女性用の水着だ。付け加えると織斑千冬ベストセレクション。適当に選んだ一着とも言う。単純に黒か白だろうと何となく考えていた蒼の予想を裏切って、一夏が身に着けたのは水彩画風の明るい色が幾つか使われた、花柄のビキニだった。おまけに膝下まで伸びきった髪の毛は今だけ、肩から出して流すようにサイドで括られている。普通に似合っているのはそのスタイルの良さ故か、はたまた美少女は何を着ても映えるのか。
「いや、でもそれならまだ平気だ。スリングショットなんて来たらこれを血の池にする自信がある」
「そんなの持って来られたら俺は千冬姉のセンスと正気を本気で疑う」
「どうしたガキども。中学生らしくはしゃげ遊べ」
「……だからあれは立派にマトモなんだぜ、多分な」
室内からヤジを飛ばす千冬をひっそり指差しながら、一夏が深くため息をつく。準備と言って一度帰宅した彼女が持ってきたものは、何も水着だけではない。五〇〇ミリリットルのビール瓶を片手に喇叭飲みしながら、空いたもう片方の手でつまみのさきいかを弄っている。どこからどう見ても酔っ払いだ。というよりおっさんに近い。こんな姿をお姉様と呼び慕う熱烈なファンの人に見られでもしたら、あのクールで格好良い織斑千冬が、と失神するだろう。
「昼間からお酒ですか、千冬さん」
「良いだろう。私だって酒ぐらい飲むぞ。機械でもあるまいしな」
「それは分かってますけど……一夏、大丈夫なのかあれ」
「駄目だったら俺が連れて帰るよ、もう……」
肩を落とす一夏は、身内の行動に呆れる家族そのものだった。なんだかんだと言って、やはり彼女らの仲は途轍もなく良い。姉弟なのだからある程度は当然でもあるが、二人っきりの家族という点が大きく関わっているのだろうか。蒼はぼんやりと考えてみたが、答えを出したところで大して意味も無いと途中で察し、ぶんぶんと首を振って思考を止める。
「ええいつまらん、本当につまらんぞお前ら。青春はどこへ行った」
「なあ蒼。俺の姉があんなにだらしないわけがない……ことも無かったな。うん、なんでもない」
「千冬さんだって羽目を外したい時はあるんじゃないか? 偶には」
「ほうら騒げ。蒼もだ。なんならそいつの胸を揉んでもいいぞ。特別に許す」
「…………、」
俺が許さないからなー、と一夏より無言の視線が向けられる。先ず触る気も無かった蒼はこくりと頷いて苦笑した。性欲が綺麗さっぱり無いワケではないが、血眼にしてがっつくほど有り余っているということでもない。元より、恋人も結婚も異性との目合いも、自分とは関係ないものとして考えている彼のこと。人並みに欲情したり一目惚れする事態があろうとも、感情はそこで終わり。……だが、それはそれとして、今世を謳歌するかはまた別だ。
「……ったく、千冬姉も余計なコト言わな――ぶふっ!」
ばしゃり、と一夏の顔面に大量の水が浴びせられた。犯人は目の前。ジャージを羽織った非力な男子である。
「蒼、お前いきなり何すんだ……」
「千冬さんは騒ぐ事をご所望だそうだし、騒ごうかなって」
「……ほう。不意打ちとは良い度胸だなおい!」
一夏はざばっと両手で掬った水を、素早く的確に蒼の顔へとぶつける。なんという業前。実に見事な一連の動作。最早完成されているとすら錯覚する勢いだ。感心する彼の顔を水の塊がぶち叩いた。容赦はない。
「ぷっ、ぺっぺっ……やったな、この」
「なんだなんだ、やるか蒼」
「…………、」
「…………、」
双方、無言で睨み合いながらビニールプールの中に立って構える。二人の目は真剣だった。下手するとつい先月になる箒を相手に誤魔化していた時より真剣だ。空気が張り詰める。間違いなく、規模はちっぽけでしょうもないものだが、これは――戦闘だ。
「――そらっ、くらえこの野郎!」
「わぷっ、ちょ、いきなりは卑怯、だろっ」
「おわっ、とと。どの口が言ってんだよ、ほれっ」
「良いぞ良いぞ、やれやれ。好きなだけ遊び尽くせ。若いうちの特権だ」
呵々と笑う千冬の声を聞きながら、彼らは実に楽しそうに水を飛ばし合う。結局この日、簡易プールが片付けられたのはその数時間後。たっぷりと、それこそ思い返せば首を傾げるほど、蒼と一夏は久しぶりに体を動かした。
◇◆◇
「なんか、子供の時に戻ったみたいだったな。あー、なんであんな馬鹿らしいことしてたんだろ、俺ら」
「さあ。でも、こういう日も悪くはないって思わないか?」
「……だな。それは同感だ」
軽く拭いた体で廊下を歩きながら、先ほどまでのことを振り返る一夏。蒼は彼女に追従しながら、自然な様子で言葉を返していく。片方が着替えるためと、体を本格的に拭く用のバスタオルを取りに洗面所へ向かう途中だ。両者とも格好は水着のまま。濡れていないのは唯一、水かけ合戦が始まって直ぐに脱ぎ捨てられた蒼のジャージぐらいなもの。夏の夕暮れ。暑さは変わらずだが、今の彼らでは身体の方に変化が来ている。
「うっ……ちょっと肌寒い……」
「冷えてきたんだろう。はいこれ」
両腕を組んで擦り始めた一夏に、蒼は羽織っていたジャージを被せる。何気なくフードを展開したのは気遣いかただの偶然か。彼女はひょこんと折角のフードを脱いで顔を出し、蒼の方を向いてニカッと笑う。
「おう、サンキュ。……って、次はお前が寒そうだな」
「このぐらいじゃ別に、なんとも」
「なんだそれ。……ふ、ならほれ、このまま抱きついてやろうか?」
「……やめてくれよ? その姿は色々とやばいぞ?」
「冗談だよ冗談。そんな気持ち悪い真似しねえよ」
言いながら一夏がスタスタと歩いて行く。しっかりと蒼の上着を握り締めているあたり、寒いのは本心からだったらしい。彼は何も言わずに息だけついて、ゆったりと後を追う。静まり返る廊下には、どこか遠くから聞こえてくる夏祭りの微かな賑わいが聞こえた。が、小さい上にほんの一瞬。まるで関係ないぞと言わんばかりに、ふわりと空気に消えていった。
波乱の一学期のあとは、季節も気持ちも変わっていく二学期です。