未だ暑さが残る九月初旬。長かった夏休みも終わり、学生達にとってはいつも通りの平日が返ってくる。日々勉学、部活動に励む生徒達にとっては気持ちを切り替える節目となる二学期初日は、少し慌ただしくも明るい雰囲気に満ちていた。変わるのは人だけではない。季節も同様、緑に色付いていた葉はほんのりと赤や黄に染まりだし、僅かに秋の訪れを感じさせる。蒼はゆっくりと通学路を歩きながら、周りの景色を流すように見ていた。
「つい一週間前までうだるような暑さだったのに、変わるのは早いな」
「まあ、まだ十分気温は高いし。季節の変わり目なんだ、カラダには気を付けろよ」
「大丈夫。一応、ちゃんと自覚はしてるんだ」
「……余計質が悪いな、無理するところも含めて」
やれやれと大袈裟にリアクションを取りながら、一夏が呆れるように笑う。他人から見てどう映るかは別として、蒼自身はしっかりと身体の限界を把握していた。まだいけるのか、それともこれ以上は駄目なのか。その程度は己の感覚で分かるということだ。本当に危ない場合は、ぞくりと背中に悪寒が走る。気持ち悪いぐらい冷たいそれが、決まって体を壊す直前の合図にもなっていた。あの感覚はどうも、慣れない。
「それより、一夏は夏休みの宿題、終わらせたのか?」
「当たり前だろ。追い込んで一気に終わらせた。余った時間で受験勉強もした。合格への布石はバッチリすぎるぞ」
「……凄いな。俺、受験勉強なんて考えもしてなかった」
「……必要ねえもんな、お前。あー羨ましい」
片方に持っていた鞄ごと両手を頭の後ろに組んで、一夏はぼうっと空を見上げながら呟く。澄み渡る青、散らばる雲は白く、少なくとも今日一日は雨が降る心配は無さそうだ。降るときは降るが、何も梅雨時ほどではない。そんな最近の天候も、蒼の気を安らげる一つの理由だった。彼は靴の踵を小気味良く鳴らしながら、急がず焦らずまったりと歩を進める。一夏はその斜め後ろを付くように歩きながら、ふっと短く息を漏らす。
「……あーあ。終わってみればあっという間だったな、夏休み」
「うん。でも、それだけ退屈しない時間だったんだろう」
「おう、言えてる。退屈とはまた違った暇っつうのかな。ああ言うのは俺、嫌いじゃない」
「ゆとりみたいなもの、なんだろうね。俺も割と好きな方だ」
ふわりと笑って蒼が言う。やはり安売りでは面白くない。が、どんなものにしろ笑顔は笑顔だ。ゆるい雰囲気は落ち着くだけでなく、頼りがいも存分にあった。久しぶりの登校、様々な事態が起きた一学期の影響で、知らず知らずのうちに緊張していた一夏の心がほぐれる。これから数ヶ月、不安も心配事も言い切れないほどあるが、きっと目の前の友人さえ居れば大丈夫だと。
「…………あ」
「なんだ? どうした蒼」
「しまった。読書感想文、すっかり書くの忘れてた」
「おいおい優等生……」
大丈夫だと、信じたい一夏なのであった。
◇◆◇
秋と言えば色々あるが、中でも有名な一つがスポーツの秋だ。休み明け一番初めに生徒達を迎える行事は毎年恒例、クラスで別れて団対抗の体育祭である。身体能力の高い運動部員にとっては外せないイベントだとしても、一部の文化系やそも運動が苦手な人達からすれば、あまり気分の上がらない行事だ。蒼もどちらかと言えば後者の方に属する。人に自慢できるほど得意では無いが、欠点として挙げるほど苦手でもない、というぐらいには動ける蒼だが、何しろ絶望的なほど体力が無い。参加種目にきっちり百メートル走を入れてきたのは、英断だと言えるだろう。
「女子の集団種目にも男子の集団種目にも参加できない俺って……」
「その分他の競技に出るんだから、結局殆ど変わらないじゃないか」
「いいや、こういうのは気分の問題だ。ホント、不便な体にしてくれたよ。束さん」
がらがらとグラウンドでラインカーを引きずりながら、隣で同じように歩く一夏の言葉に耳を傾ける。夏休み中に団の主要メンバーが集まって大体のことを決めるというのもあり、始業式から体育祭までの期間は割と短い。全体練習と各個人の競技に別れての練習を繰り返し、本番三日前に流しで通すというのが通常の日程だ。雨天などに見舞われなければ、体育祭当日は本当に直ぐそこ。なので、あらかたの準備はこの一日で終わらせてしまう。
「あと一年……とは言わないか。ざっと計算して半年と少しだ。この調子なら元に戻れるよ」
「だと良いけどなあ。走るのも何するのも邪魔で困る」
ジャージ越しにも分かる大きな膨らみを見詰めながら、一夏はうぅと呪うように低い声を出す。蒼は本能と意識を極限まで殺し、冷めた表情で一夏の方を見た。母性の象徴とでも言うべきそれは、日本人女子中学生の平均をたしかに超えている。箒には流石に一歩譲るが、校内だと一二を争うレベルとの噂も立つほど。
「もしかして大きくなった、とか? ……いや、無いか。ごめん。変なコト言っ――」
「なってる。前より確実に、な」
「……そう、だったのか。いや、気付かなかった」
「気付かれてる方が問題だ。つか、俺だってまさかと思ったよ」
あーイヤだイヤだこれが成長期か、とつまらなそうに吐き捨てる一夏。嫌悪感を示すだけで悩みや苦しみを抱えないあたり、随分と余裕が生まれているのは事実だ。非力な蒼ですら支えなければ、と思ってしまうほど酷い精神状態だったあの頃の面影はなくなっている。正直な部分、一夏だけで何とか出来るのであれば、蒼の出る幕はこれっぽっちもない。それを言葉にせずとも理解している彼は、どうなるにしろ結局は行動を共にするのだし、気にする必要も無いかと割り切って。
「で、次はどこになる? 先生から渡された紙、一夏が持ってるハズだけど」
「ん、そうだったそうだった。次は……あっち、コーナーの部分だな」
「それじゃ、さっさと終わらせよう。競技で貢献できない分、こっちで頑張らないと」
「律儀だなあ。いや、蒼が競技で使い物にならないのは本当だけど」
そこまで言わなくても良いだろう、と蒼は若干むくれながら、一夏と共にラインカーを持って移動する。彼にとって体育祭はどちらかと言うと苦手な部類に含まれる行事だが、だからと言って手を抜くのもどうかというもので。何よりも、一生懸命成功させようとしている周りの足を引っ張るようなことはしたくなかった。ぼうっと少し前で黒髪を揺らす一夏を見ながら、不意にある少女の言葉を思い出す。
『体育祭楽しめないのは勿体ないわねー……。ま、こんな弱っちいアンタじゃ仕方ないでしょうけど。せめて文化祭ぐらいは本気出して熱中してみれば? 案外、楽しいかもしれないわよ?』
自分自身、何か一つの事を必死になってやり遂げる、というのが似合わないのは百も承知だ。それでもほんのちょっぴり、周囲との温度差を感じると悲しくなる。だからそれも仕方がないと飲み込んで、誰にも知られず悟られず、自分に出来ることだけをやって過ごしてきた。
「……偶には、楽しんでも良い、ってことかな」
「ん? 何か言ったかー、蒼?」
「……いや、何も。ちょっと、先のことについて考えてたんだ。おかしいな、まだ体育祭は始まっても無いのに」
「おう、そうだぞ。今は目の前のことに集中、集中だ」
優勝目指して頑張ろうぜ、と一夏が振り向きながら言ってくる。後のことはその時になってからだ。とりあえずは中学校生活最後の体育祭。今年も頑張って百メートル全速力で走りきろう、と蒼は硬く決意した。
「ちなみにお前、さらっと借り物競走にも入れられてるから頑張れよ」
「初耳なんだけど。一体誰が入れたんだ」
「弾」
「……恥かかない程度には頑張るよ」
それはそれとして、五反田弾には説教するべきか否かは真面目に考えものだが。