「久しぶりね、蒼」
「……ああ、うん。久しぶり」
テントの外から声をかけてきた母親に若干苦い顔をしながら、蒼は立ち上がってゆっくりと歩み寄る。一夏の足枕は予想外なことに長く続いたが、流石に数十分も休めば百メートル走程度の疲れは無くなっていた。持久力は皆無だが、休憩さえ挟めるならそこそこ動けはする。勿論、体育祭の出場種目はその辺りをきっちり念頭に置いて選択済み。次にあたる借り物競走は考えていなかったが、この調子ならばなんとかなりそうだ。少なくとも、彼の目の前に立つ母親を心配させることはない。
「あんたなりに頑張ってるみたいじゃない。走って盛大に寝転ぶなんて」
「まあ、中学だと最後だし。みんなもやる気なんだから、俺も頑張るよ」
「うん。上出来、上出来。流石は私の息子!」
「わっ、ちょっと、やめ……」
彼女はがしっと蒼の頭を鷲掴みにして、身体ごと揺らすように撫でる。しかもなかなか力が強い。加えて乱暴だ。抵抗しようにも、昔から腕力では敵わない相手だと知っている蒼は、諦めてされるがまま。数秒続いたそれが収まれば、顔を上げたところでにっと朗らかに微笑まれる。母は強しという言葉の意味を、なんとなく理解した。
「で、九ヶ月ぶりになるお母さんとの対面はどう? やっぱり寂しかった?」
「そりゃあ殆ど一人で家に居たわけだし、寂しいのは当然だけど」
「そっかー寂しかったかー会えて嬉しいかーお母さんのこと大好きかーこのこのー」
「そこまでは言ってない……」
ぎゅうっと思いっきり抱きつかれて掠れた声を出しながら、蒼はふと周りを見る。大半の生徒はグラウンドの競技に夢中だったが、こちらに気付いている人もちらほら。先ほどまで近くに居た一夏は仕方がないとして、グラウンドから帰ってきた弾や、隣のテントで佇む数馬が気付いているのはどうしてか。見なくていい、という意味を込めたアイコンタクトを三者全員に送ったが、揃ってにやりと笑い返される。
「というか、仕事はどうしたんだ、母さん。忙しいんじゃ無かったっけ」
「ちょっと一段落したから帰ってきたの。お父さんはまだ無理だったけど」
「そっちが普通なんじゃ……というか、母さんもそこまでして来る必要なかったのに」
「嫌よ。折角の貴重な時間なんだから、日頃見れない我が子の活躍をしっかり見ないと」
そう言って笑う母を前に、蒼は気持ちを切り替えざるを得なかった。元々無理はしない範囲で頑張るつもりだったが、こうなるとそれ以上に気合いを入れなければならない。倒れる限界ギリギリまでなら、己の我慢だけでも何とかなる。家族に良いところを見せたいと思うのは、彼とて例外ではなかった。
「活躍、出来たら良いけど。格好悪い姿見せる方がありそうだな」
「そんなの気にしない。贔屓目に見れば蒼も十分格好良いわよ」
「身内贔屓が過ぎるって、それは……」
「そう? 少なくとも、みんながみんな、ってコトは無いと思うけどな~?」
ちらり、と蒼の母親がテント内で座り込む一夏へ視線を向ける。事前に予期していた話とはいえ、実際の場面になると何とも面倒だった。ニヤニヤとした顔の彼女は間違いなく一夏のことを誤解している。蒼は大きくため息をつきながら、先ずどこから説明すれば良いのかと頭を回そうとして。
「初めまして、蒼の母です。うちの息子がお世話になってるみたいで」
「あ、いえいえ。前から蒼には良くして貰っていますから……」
「あら、そうなの? へえ~? ふう~ん? 良くしてるんだって~?」
「……違うって。母さん、誤解だ。その人は――」
彼が弁明しようとしたその瞬間、一夏の脳内に電流が走る。鈍感や唐変木とよく言われていた彼女だが、恋愛事情さえ絡まなければ気遣い上手のイケメン男子だ。ここは少しでも蒼の負担を減らすために、自分も動いた方が良いと即座に判断。夏休み前半に起きた箒の件もあり、一夏は他人に正体を無闇に明かすのは得策ではない、と思い込んでいた。故にこそ、しょうがなかったと言えばそこまで。何とか変えられたかと言えば、もしかしたら変えられたかもしれない。ただ無情にも、転生すら経験した男は、当たり前のように時間遡行すらできないワケで。
「そう言えば自己紹介してなかったわね。私、上慧 青羽って言うの。あなたは?」
「はい、蒼さんの友達の、一斑夏織って言います」
「――――、」
蒼はこの時ほど、時間を操作する能力もしくは記憶を操作する能力が欲しいと、本気で思ったことはなかった。
「へえ、夏織ちゃん。素敵な名前ね」
「あ、あはは……どうも」
「ちょっと待った。ストップ。母さん、いや、違うんだ」
「なーにが違うのよそんな必死になっちゃって~」
言いながら、がしっと一夏に背を向けて引き寄せられる。友人の恐らく善意しか無いであろう手助けは、しかし状況を悪化させるものだ。言うなれば、味方だと思っていた人物に後ろから刺されるのと同義。加えて一度経験したからか、自発的な行動だからか、咄嗟の演技にしてはボロが少ない。詰まるところ、このままでは非常に不味かった。
「恥ずかしがらなくて良いわよ。夏織ちゃん、十分良い子じゃない」
「だから違うんだ。母さん、そもそも彼女は――」
「はいはい、言い訳は後ね。本当、あんたも隅に置けないんだから。こんな可愛い子とどうやって仲良くなったのよ?」
蒼は思わず頭を抱える。一夏の性格上、自分から女性を演じることは無いと高を括っていた。よもや最悪のタイミングでその予想を外されるとは、誰も想像できない。一斑夏織というのは女性名としても違和感のない出来だ。彼女自身の正体を知らなければ、簡単には結び付かないだろう。現に一夏が三文芝居だったにも拘わらず、箒を何とか騙し通せている。
「……話を聞いてくれ、母さん。そもそも彼女はそういうのじゃなくて」
「本当に? さっきの光景、お母さんしっかり見ちゃったけどなー」
「違う、違うから。ああもう、言うけど、彼女はちょっと特殊な事情があって」
「あ、なるほど。それでお近付きになったってこと? やるじゃない」
「だから違う。違います。違うんです、母さん。彼女の正体は――」
『はーい、次の借り物競走に出る生徒は集まってくださーい』
テントの近くをメガホン片手に、招集係の女子が声をかけていく。運が無いどころの話ではない。今おみくじを引けたのなら間違いなく大凶だ。迷わず枝に括り付ける。蒼はがしがしと髪の毛を掻き毟って、がっくりと肩を落とす。
「蒼、次、出番じゃないか、な?」
「……ああ、そうだな。――母さん。とにかく、違うから」
「はいはーい。分かってる分かってる。頑張ってきなさい」
彼は確信した。あれは、絶対に、分かっていない。
◇◆◇
『どうしてこうなるんだ……』
憂鬱な気分になりながら、ゆっくりと蒼はスタートラインに立つ。本来なら簡単な事情説明だけをして、現状のみを受け止めて貰えれば良かったことだ。篠ノ之箒のように誤魔化す必要は無い。そも、誤魔化したところで何の意味も無い。
『一夏がトラブルを持ち込むのは前からだけど、今回ばかりは勘弁して欲しいな。あのままじゃ母さん、一生誤解したまま仕事に戻る』
それだけは何とか阻止したい。今は母親一人なのでどうとでもなりそうなものだが、父親にまで知られたとなれば誤解を解くのが面倒になる。というのも、かなりの天然且つ人の話を鵜呑みにしやすいのが蒼の父であって。
『まずい、地獄だ。我が家に勘違いが溢れる。一夏が彼女なんて冗談じゃない。それだけは俺も君も駄目だろうに……どうしてあんなことを』
余裕が持てたからこそ起きた悲劇、とも言える。だからと言って余裕のないままで居れば良かったのか、と言えばそんなワケがない。なんともやりきれない気持ちだ。スタート係の合図を聞いて構えながら、蒼はすっと目を閉じる。
『とにかく、今は競技に集中。誤解を解くのはそのあと。大丈夫、まだ時間は沢山あるんだ』
「ようい……」
パァン、とピストルが高らかに破裂音を鳴らす。同時に地面を蹴り抜いて、一気に五枚の札が置かれる先まで駆けていく。今回は運が良かった。スタート時点では他四人を抜いてトップ。あとは借り物次第だが、さて、運命の女神は彼に微笑むのか、それとも――。
「っと、内容は……“長いもの”……?」
あまりにも抽象的だった。長いものと言っても種類は多種多様で、どれほどで長いと感じるかも人それぞれ。どうにも、簡単に見えて難しい。
『長いもの、長いもの……』
脳内で繰り返しながら、辺りを見渡す。テントの足はたしかに長い。が、アレを持っていくほどの筋力は無いし、何より常識的に考えて駄目だ。焦りで視野が狭まっている。後続の生徒も追い付いて、我先にと観客席や中央のマイクへ走って呼び掛けを行う。長いもの、長いもの。ふと、自分を応援する声が聞こえて、紅組テントに目を向けた。
「頑張れー、蒼ー」
「――――」
ただひとつ。迷いは、無かった。
「って、上慧がなんかこっちに走って来てるぞ」
「あたしらのとこに目当てのもんがあんじゃね?」
「水筒とか鉢巻きか? とりあえず思いつくもんは用意しとけよお前ら」
「タオルとかありそうっすね。知らないッすけど」
無論、目当てのものはそこにある。形振り構わず、その人物だけを視界に入れて。
「――え?」
ぱしっと、手を握る。
「付き合ってもらうよ、一夏」
「は? ちょっ――ぬわあああ!?」
次いで、蒼は勢いで一夏を抱きかかえる。背中と膝裏に手を当てて、ぐっと落ちないように両腕へ精一杯の力を込めた。直後、テント内から歓声が沸き起こる。
「――うおおおおおお! マジか! マジかよ上慧!」
「はははは! お前すげえ! 男だろ男!」
「どっちもだ馬鹿野郎ー! 公衆のメンゼンでこんなことできるとか男だぜ上慧ぇ!」
「おいっ。蒼! 下ろせ! 下ろせって!」
が、当の本人はそれすらもスルー。
「舌噛むから、静かにしててくれ」
「やっ、俺自分で走れええぇぇぇぇええぇえッ!?」
ばっとグラウンドのトラック内に戻って、一夏を抱きかかえたまま走り抜ける。今、彼の目に見えているのはゴールだけ。異常な集中力は現実逃避の意味もあった。尤も、そのせいでややこしくなるなど彼は気付かないまま。
『――ゴォォォォル!! 紅組上慧くんぶっちぎりの独走状態で一位ッ! 女子を抱えたまま見事走りきりました! お題は“長いもの”で、髪の毛の長さで判断したらしいですが……判定はOK! 凄いっ! 凄まじいっ! 男見せてます三年生!』
「……よっし、一位……っ」
「……よ、喜んでる場合か、この馬鹿――っ!」
抱かれた状態で顔を真っ赤にしながら、織斑一夏は大きく叫んだ。
大胆な行動は男子の特権。