「本当にごめん」
「…………、」
がばりと地面に膝をつけながら、蒼はこれでもかというほど綺麗な土下座を披露した。その行為に僅かながらテント内がざわつく。彼が頭を下げている相手は、つい先ほどの借り物競走で公開羞恥プレイとでも言えるような経験をした織斑一夏だ。彼女はむすっと無愛想な表情のまま腕を組み、蒼の前で堂々と仁王立ちをしている。学年クラス問わず多くの生徒が見守る中、ひそひそと話し始める人も出るというもので。
「おい、見ろよあれ。こんなところで」
「ああ。誠意という誠意しか込められてない完璧な土下座だ。まさか、こんなところでお目にかかれるとはな」
「つーかあいつ腕が痙攣してんだけど。気のせいか顔も真っ青なんだけど」
「百メートル走でバテバテだったんだぞ。そりゃ、あれだけ体に負担かかるコトしちゃあなあ……」
どちらかと言えば“見守る”というより“見て愉しむ”、と言った方が良さそうな周りの反応も、当事者の二人にとってはただの雑音に過ぎない。必死に体勢をキープしながら、蒼は数分前の直感的な行動を悔やむ。彼が元より持っていた集中力と、今回初出場となる競技中で生まれた焦りが、あの奇行を取らせたのだろう。おまけに割と無茶なことをした為か、体の節々がずきずきと痛みを訴えていた。
「……はあ、もう良いよ。怒ってもしょうがないし」
「いや、本当に申し訳無かった。……まさか自分でもあんなことが出来るなんて」
「それはこっちのセリフだ。こんな人前で抱きかかえられるとか、下手したら一生モンのトラウマだぞ」
「うん、次からは気を付ける。というかもうしない」
付け加えると出来そうにもない。小刻みに震える両腕を見ながら、蒼はほうと息を吐いた。抱えるだけでも怪しかったものを、そのままゴールテープまで全力疾走だ。無茶をして何もない、という上手い話があるはずもなく。多くて一時間、少なく見積もっても二十分は細かい作業が難しい。今日が体育祭で無ければ死活問題だった、なんて考えながらゆっくりと拳を握り締める。
「そっちも重症だな……俺が抱えて走った方が良かったんじゃ無いか?」
「なら一つ聞くけど、君は腕の中で借りてきた猫みたいに大人しくなる俺を見たいと思うのか?」
「暴れなくて持ち運びやすそうだな、それ」
「…………まあ、一夏にならされても文句は言えない」
俯いて力を抜く蒼に、一夏は冗談だと一言呟いて肩を叩く。結構洒落にならないレベルで恥ずかしかったのは事実だが、それを何時までも引っ張るというのも男らしくない。いや今は女だけれど、と内心でツッコミを入れながら、彼女はぐいと伸びをする。
「よし、それじゃ、やっとまともな俺の番だ」
「次は……そうか、障害物競走」
「おう。精々誰かさんに負けないように、帰宅部の実力を見せてやるよ」
にっと笑って、一夏は集合をかけられているスタート地点に向かう。この時の彼女はまだ知らなかった。いや、彼女だけではない。一夏を見送る蒼も、適当な応援とヤジを飛ばしていた弾も、クラスメイトと楽しげに話していた数馬も。皆が皆、この後に起きる悲劇を――喜劇を、知らなかったのである。
◇◆◇
障害物競走はその内容により、好き嫌いがはっきりと別れるものだ。純粋な走力も肝心だがそれだけではない、という点で運動神経の悪い者にとってはまだマシな種目。ただ走って抜けた方が楽だろう、なんて思えるのなら当たり前のように短距離走へ出る。そのためか、意外にも女子の出場が多いこの種目。圧倒的な数的優位を確保した生徒用のテント内部では、野郎どもが静かに心を燃やしていた。
『さあスタートです! 始まりました障害物競走! その名の通り、待ち受ける障害をいかに早く突破できるかを競うのがこの種目! 先頭第一組目、先ずは設置された網の下を潜ってもらいます!』
「おい青組あいつら近いとこで見れるぞズルくねえか?」
「偵察班誰か頼む。でも不審な動きしたら女子にバレるしなあ」
「あんたら何話してんの……」
「バレるまでもなく気付かれてるんッすよねえ……」
体育祭というものは当然の如く、基本はかなり動く行事だ。係にしろ競技にしろ、日射しの元で走り回る以上は制服のままで参加する人間など殆ど居ない。男も女も関係なく、体操服の上下を着て祭りに挑む。……まあ、つまり、どういうことかと言うと。
「あ、やべ。今一瞬胸潰れてんの見えた」
「マジか! お前視力すげーな幾つだよ!」
「両目Aだって。いやあ今だけは母ちゃん父ちゃんに感謝だわ」
「……え、マジで何やってのあいつら……」
「キモいっすよねえ……馬鹿なんで仕方ないッすけど」
女子から批難の視線を浴びながらも、穏やかな盛り上がりを見せる男子陣営は揺るがない。彼らは揃ってテントの全面に陣取りながら、競技中の女子生徒を時に大胆に、時に流し目に、時にちらりと見る。どこからどう見ても変態の所業だった。
「全く、馬鹿が多くて困るよな、蒼」
「弾……」
「体育祭の競技中だぜ? しっかり応援しねえとか頭沸いてんのか?」
「そう言いながら瞬きをしないのは何故なんだ?」
蒼の言葉を受けた弾は、ふっと得意げに笑う。それでも瞬きはしない。視線は真っ直ぐと必死で網の下を抜けようと頑張っている女子へ向いていた。蒼はじとっと半目で睨みながら、何となく分かっていた事実を認める。彼――五反田弾もまた、一人の馬鹿だっだのだ。
「みんな頑張れ、男子のことは無視してて良いから」
「おう! 蒼の言う通りだぞー! 全員頑張れー!」
「こういう時、同じ団に上慧先輩が居てくれて良かったって思うッすよね」
「いやーどうだろ……上慧くんも意外とアレだから……」
自分に関して何やら認めたくない言葉が聞こえたが、一先ず蒼は応援の方へ専心することにした。真剣に見入っている男子の殆どが使い物にならないのだから致し方なし。ノリだけ乗って声を飛ばしている弾ですらまだやっている方だ。そこまでして何が彼らをかき立てているのか。
『さあ全員網を抜けました! 続いて跳び箱! こちらは軽く飛んで貰いましょう! 数も一つだけと優しい采配!』
「真ん前来た! よし! 頑張れぇぇええ!」
「いけー! 飛べー!」
「良いぞー良いぞー紅組ぃ!」
変わり身の早さが凄まじかった。呆気に取られた蒼は一つ息を吐いて、ゆったりと構ながら目前を駆ける女子を見た瞬間。
「……ごめん弾、ちょっとティッシュ貸してくれ」
「は? なんでいきなり――ってお前鼻血出てんじゃねーか何やってんだ!?」
「いや、他意は無かったんだけど、あそこまで揺れるとかちょっと」
想像していなかった、というか。
「上慧が鼻血噴いたぞおおおお!」
「んだよやっぱりてめえも同じ穴の狢じゃねーか!」
「……ね?」
「あー、そうッすねー……」
というのも、彼は彼らしく、実に単純明快なことに、突然の刺激を弱っていたところに喰らわされたワケで。盛り上がる男子、ドン引く女子、変わらぬ様子の観客席。男子中学生の性欲は、時に雰囲気すら作り上げるものである。
◇◆◇
ところ変わって競技者側。そんなことなどいざ知らず、スタートラインに立った一夏はというと。
『……やっぱなー。なんつうか、女子の中に立つのはこう、上手く言えないやるせなさがあるんだよなあ……』
胸の内でそう思いながらも、彼女はゆっくりと声に合わせて構える。一夏は数ヶ月前まで正真正銘の男子だった。今は慣れてきているが、当初は混乱の連続で精神すら参ってしまいそうになるほど。絶望的な状況を救ってくれたのは、側に居て支えてくれた親友だ。性別が変わっても同じように接してくれている蒼には感謝しかない。それはそれとして、先の行動に怒るかどうかはまた別なのだが。
『来年は高校か。よし、無事合格したら何が何でもあいつに同じ事をしてやろう。この恥ずかしさ、晴らすは一年後と知れよ……!』
ひっそりと心に決めながら意識を集中させる。どうせ志望校は同じく藍越学園。蒼の方も渋々とは言え、それ以外に目指すところも無かったので結局はという感じだ。
「位置について、よーい……」
何はともあれ、友人が目に見えて一生懸命やっているというのに、己がそこそこの結果で終わらせるのは面白くない。幸いにも性転換を経たこの体は、平均的な女子の身体能力を超える性能を有している。男だった名残か、はたまた元々の才能というやつか。何にせよ、女子のグループ内で男子が公的に走る、というのは間違いなくアドバンテージだ。
『それだけに集団種目不参加が納得いかねえけどな! ちくしょう! いやこの体で組体操とか出来ないのは分かってるけど!』
奇しくも、スタートは彼女が内心で叫び声をあげたのと同時。有り余る力を最大限に解き放って、織斑一夏は地を駆ける。
『さて次の組、これもなかなか良い出だしです! っとお!? 三年織斑……ええと、さん! ガンガン進んでいきます! 速い! 序盤からトップギアです!』
「……あ~、そっか。放送で、呼ばれるん、だったな。そりゃあ、隠せないわ」
ぼそりと溢しながら、強引に網を抜ける。今ので蒼の母親には気付かれただろうか。見える範囲で姿を探してみれば、こてんと首をかしげる女性を視界に捉えた。
『まあ、蒼もどうせバラすつもりだったらしいし、俺が謝って正体明かしたら良いか』
軽く考えながら、正面に置かれたロイター板を蹴って跳び箱を越える。
「――揺れがすっげえ! おいあれホントに元男か!?」
「一夏マジやべーよ! いいぞー頑張れー!」
「おい上慧が鼻に詰めたティッシュぶち飛ばしたぞ!」
「落ち着け蒼! 鼻血の噴射だ! 傷は浅い! 死ぬな!」
――何やってんだあいつら、と冷えきった思考回路で処理しながら、彼女は速度を落とさぬまま駆け抜けていく。ハードル、平均台、一輪車も難なくクリア。
『さあ最後です! 絶妙な高さで釣られたパンの袋をぉ……これまた華麗にかぶりつきました! そしてゴール! 突き放して一位! 紅組三年生織斑さん! お姫様抱っこの意地を見せたあああ!』
「……それは言わないで欲しいなあ」
肩の力を抜き、息を整えるため膝に手をついて一言。にしても、応援席で鼻血を流している友人は大丈夫かどうか、ちょっとだけ気になる一夏なのであった。