「はあ、そんな不思議なこともあるのねえ……」
もぐもぐとコンビニ弁当の漬け物を囓りながら、上慧 青羽はじっと一夏を見る。校舎に設置された時計の針は頂点を少し過ぎた辺り。午前の部と午後の部に分かれて行う体育祭の、唯一とも言える昼休憩だ。いつも通り、というには若干人口の多い屋上で、風に吹かれながら昼食の時間。放送で呼ばれた折の疑問を解消して、彼女は気にした様子も無く箸を進める。
「……驚かないのか、母さん」
「ん? そりゃあ驚くでしょ。男の子が女の子になったんだから」
「にしてはその……なんというか、落ち着いてないか?」
「そうでもないわよ。うん。これがあの一夏くんとは思えない」
目には自身があるのか、彼女はふんふんと頷きながら一通り眺めて、ぐいとペットボトルのお茶を口に含んだ。大胆というか、小さいことは気にしないというか、大雑把というか、がさつというか。まあ、容姿の割にそこまで“女性”らしくないのが蒼の母親である。代わりに父親の方は大人しめな性格で滅多に怒らない。中身を間違えたんじゃ無いか、と思ったことは生まれてこの方数度に及ぶ。蒼は自然と受け入れている母に感心しながら、ぱくりと卵焼きを口に運んだ。久々の自作。我ながら上出来だ、と心中で自画自賛。
「弁当、言えば俺が作ったのに」
「良いよ。年に一回、しかも最後だ。少しぐらいは特別感が出るだろう?」
「それもそうだな。噂では、一夏を抱き上げたらしいじゃないか」
「え――」
どこか聞き慣れた声が聞こえて、ばっと振り返る。ラフな格好、とまではいかずともプライベートだと分かる服装。蒼にとっては制服やスーツを着ているイメージがどうしても強いせいか、その人の姿を見た時に一瞬誰だか分からなかった。綺麗に靡く黒髪と、狼を思わせるような鋭い瞳でようやくピンと当て嵌まる。情けない事に、一秒も時間を要した。
「千冬姉!?」
「ああ。……どうした? 姉が学校の行事に参加するのがそんなにおかしいか?」
「い、いや、おかしくはない、けど」
「千冬さん、来てたんですか」
「ついさっき着いたところだ。ちょうど昼から時間を空けれたのでな」
ふっと笑いながら、彼女は一夏の隣に腰を下ろす。今の一夏も大概なものだが、千冬も千冬で相当であることを蒼は知っている。愛らしく可愛いとは例え天地を逆さにしようとも言えないが、綺麗で美しいという言葉がこれほど似合う女性はなかなか居ない。しかも一度仕事モードに入れば格好良いが加わる。多くの女性から人気を集めるのも当然だ。
「千冬ちゃん久しぶり。一夏くんがこんなことになって大変ね」
「いえ、むしろ息子さんに助けてもらっているばかりで」
「とのことだけど、実際どうなのよ蒼」
「俺はあんまり何もしてないよ」
唐揚げをつまみながら蒼が答える。一夏が隣で何か言いたげに見ていたが、どちらも変なところで頑固な人間だ。どうせ言ってもまともに聞きやしない、とため息をついて肩を落とし、彼女も自分の弁当に口を付ける。
「あ、蒼。その唐揚げひとつくれ」
「いきなりか……別に構わないけど」
「サンキュー。お礼に鮭の切り身だ。塩がきいてて旨いぞ?」
「ん、ありがとう。にしても、よくこれが二つも入ったな」
「余り物を詰め込んでたらつい、な」
はにかむ一夏に彼は苦笑で返し、早速貰った鮭にすっと箸を入れて一口味わう。評価は期待通り。たしかに美味しい。中学生の自家製弁当にしては十二分だ。案外良い交換だったかも知れない、と思いながらほうと息を吐く。ふと、気になって一夏を見れば、うんうんと何やら頷きながら咀嚼していた。どうやらあちらも気に入っていただけたらしい。
「青春ねえ。一夏くん、このままうちの子貰ってくれないかしら」
「一年間だけのものですから、難しいでしょう」
「そっかあ。なんていうか、孫の顔が見れるか心配なのよねえ、あの子」
「……大丈夫だと思いますよ、彼なら」
◇◆◇
がらがらと、グラウンド整備用のトンボをかけながら歩き回る。どんなものにも終わりは来る。笑い、泣き、はしゃぎ、最高潮の盛り上がりを見せた体育祭もこれにて閉会。午後の部も前半同様士気の高さを維持したまま、あっという間に過ぎていった。殆どが午前の部で出場を終えていた蒼たちにとっては応援がメインとなっていたが、それでも退屈はしない程度に良い時間だった。中学生活最後としては申し分ない。しかも、おまけに――
「優勝、できてよかったな」
「うん、そうだね。結構な僅差だからか、みんな飛び跳ねてたけど」
「そりゃあ跳ねもするだろ。あんな接戦を勝てたんだから」
準備時と同じく隣に並ぶ一夏の言葉で、そう言われるとそうだ、と納得しながら空を見上げる。雲まで染める茜色、既に太陽は西の彼方に落ち始めていた。この場に漂う余韻もあって、普段よりも寂寥感のある光景。蒼はぼうっと夕陽を遠くに捉えながら、ゆったりとした歩調で動く。
「……終わったな、体育祭」
「うん、終わった。最後の体育祭だ」
「ココでは、な。どうせ高校でも変わらずあるよ」
「かもしれないね。普通の体育祭が」
「は?」
ぽかんとして首を傾げる一夏に何でもないと誤魔化して、意識は再び地平線の彼方へ。何を思うでもなく、何を考えるのでもなく。ただひっそりと、場の雰囲気に呑まれたまま、それを何となく感じ取る。今日一日、自分が少しでも頑張ってきた事に、こうして意味が付いてきて。その事実が何となく嬉しく感じられて、どこかクセになりそうだ。ぎゅっとトンボを握り締める。土を踏みしめて前へ進む。達成感は抜群だった。
「やっぱり良いな、こういうの」
「だな。騒ぎ倒して後片付け、っていうのも乙なもんだ」
「……一夏は時々、俺でもびっくりするぐらい年季の入った考え方をするよな」
「俺でもって何だよ。ったく……フツーだフツー。大体、それを言うなら蒼だって周りと考え方がズレてるだろ」
もっと言えば捉え方さえズレている時もあるが、仕方がないので特に反論もしない。昔のことも入れると、今回で“体育祭”と銘打たれたものは八回目。中学だけに絞っても六回目にあたる。今更感慨も何もないと勝手に決め付けていた蒼だが、回数だけでどうにかなってしまうものではなかったらしい。
「次は文化祭になるのか」
「おう。今年の出し物とか考えなきゃいけないな。去年は何したっけ」
「お化け屋敷だろう? ほら、弾が女子にビンタ喰らってぶつくさ言ってた」
「ああ、思い出した。綺麗な手形だったな、あれ」
不憫なエピソードではあるが、その時の彼も隙あらばラッキースケベを狙っていたので、どうとも言えなかった。間違って胸でも触っていれば、きっと紅葉のお手々だけでは済まなかっただろう。流石の五反田弾も女子からのグーパンチは避けたいハズだ。
「今回はちょっと、俺も積極的にやろうか」
「お、乗り気だな。何するつもりだおい」
「積極的に裏方に徹する、ってことで」
「それは積極的と言えるのか……?」
ともあれ、話題には上がったが、まだ一月以上も先の問題だ。今はそこまで考えるものでもない。
「おーい、上慧! 織斑! 集合写真撮るぞ!」
「おう、分かった! ……さ、行くぞ蒼」
「……一生残る写真が女の時の自分って、大丈夫か?」
「そのぐらいで悩むのはもうやめたって。ずっと前にな」
「……そっか」
本当に、たくましい友人だと蒼は表情を綻ばせた。秋を代表する一大行事は無事、ここに幕を下ろす。長く短い一日の思い出。きっとそれは、以前のものに負けないぐらい強烈に、記憶へ刻み込まれていた。