束から送られてきた隠しカメラのマップを見ながら、蒼は最後の一つと思われるものをカチリと取り外した。そのサイズは多機能付きとは思えないほど小さい。驚くことに、親指と人差し指で軽くつまめる程度。一体この中身はどうなっているのだろう、なんて考えながらカメラをゴミ袋へ放る。
「うん、これで全部みたいだ」
「やっとか……かれこれ三十分は経ってるな」
束さんもよくやる、と一夏は疲れを滲ませながら笑った。それに本当だよ、と返しながらゴミ袋の口をきゅっと縛り、一先ずは一旦放置。処分とかも向こうでしてくれないか、と一瞬考えたが、もう一度束と会話をするという必須条件に蒼は苦い顔をした。明日明後日ならともかく、今日は二度と御免だ。起きて間もないというのにベッドへ逆戻りしたい気分になる。
「付き合わせてごめん。でも助かった、一夏様々だ」
「いいって、俺も動きたい気分だったし。……本当、動いて気分誤魔化さないとやってられねえ……」
「……ご愁傷様」
束からもたらされた情報で、一夏が女のまま元に戻らないワケではないと判明したが、同時に戻らなくなる可能性もあり、さらに戻るにしても結局一年後ということだ。たかが一年、されど一年。何事もなく終わるつもりだった中学校生活最後の一年は、始まる以前にして波乱の事態を迎えたのである。そんな風に未来への不安に頭を抱える友人を見て、蒼はよしと勢いよく立ち上がった。
「一夏。朝ご飯、もう食べたのか?」
「……あ、そういえばまだだ。そもそも、そんな余裕起きた時は無かったし」
「なら俺が作るよ。カメラ外すの手伝ってくれたお礼だ。ちょっとそこで寛いでてくれ」
「おう。……なんか、悪いな」
恥ずかしそうに頬をかく一夏が一瞬別人のように思えて、蒼の肩がぴくりと跳ねた。自分の魅力を分かっていない人間とは、こうも視覚に暴力的なものか。まったくだから心臓に悪い……とため息をつきながら、キッチンに向かおうと踵を返して。
『――あれ?』
がくんと、足から力が抜けた。
『あ、まずい』
直感的に悟る。上慧 蒼はたしかに別世界からの転生者であるが、だからと言って特殊な能力もなければ特別な才能を有しているワケでもない。正真正銘ただの凡人。火に焼かれれば燃えるし、水に流されたら溺れるし、雷に打たれると感電する。ネット小説にありがちなチートなんて以ての外。そんな彼はむしろ逆に、転生前よりも肉体の性能が落ちていた。
『貧血で倒れるとか、何時ぶりだろう』
前世の彼はすこぶる健康体だった。不規則な生活、偏った食事、栄養ドリンクの過剰摂取。無理ができるのは若いうちだけ、と言うが、にしても無理をしすぎていた。そのくせ風邪はおろかインフルエンザにも罹らずぴんぴんとしていたのだから、人の体とは不思議である。ただ間違いなく断言できるのは、今の体でそれをやったら確実にぼろぼろになるということだ。
『ダメだ、もう、意識が――』
ふわっと奇妙な浮遊感。すっと何かが手元から離れていく感覚。前が見えない、力が入らない、自分が今どういう状況かも判断できない。まるで積み上げたジェンガを壊すように、蒼はあっけなくその場で崩れ落ちた。
◇◆◇
どすん、という重たい音がして、一夏はなんだろうと振り向いた。
「――――え?」
見ればそこに、先ほどまで話していた友人が倒れていた。つい五秒も前まで何事もないように立って歩いていたのに、だ。一瞬、目の前の光景を一夏は理解できなかった。あまりに唐突な出来事に、脳が許容するまで時間がかかる。
「な、あ、は……?」
カチカチと、どこからか時計の針が動く音。二人しかいないこの家は、必然的に二人の会話がなくなればとても静かだ。倒れたのなら痛いの一言でもあって良いようなものが、蒼はそれすら発さなかった。それがどういう意味かを、一夏はなんとなく理解しながら。
「……蒼?」
恐る恐る、名前を呼ぶ。
「おい、蒼。……寝てるのか? 風邪引くぞ? 蒼。……蒼、なあ、おいって」
返事はない。それどころか、指一本動かすこともない。――まるで死んでるみたいに。
「――ッ!」
最悪の想像がかき立てられて、一夏は反射的に駆け寄って彼を抱き起こした。
「蒼! おい、大丈夫か!? 返事してくれ、頼む、蒼!」
「…………、」
ぴくりと瞼が動いて、ゆっくりと目が開く。
「だ、大丈夫か? 蒼、怪我は? 気分は? どこか痛いところとか」
「…………君、誰だ」
ぼんやりとどこか虚空を見詰めるような眼差しを向けながら、蒼は呟いた。がつんと、ハンマーで側頭部を殴られたような衝撃。少しの希望が見えてきた一夏にとって、その一言はよく効いた。事態を共有していた現状唯一の理解者が、まさか一時間もしないうちに記憶喪失とは――!!
「お前、記憶が……っ!? 嘘だ、ちょっと待ってくれ、なあ、蒼。お前が俺のことを忘れたら今の俺は一体どうやって一年間過ごせば良いんだ!?」
「……ああ、いや、今の一夏は、その見た目だった」
今日初めて見たのだし、起き抜けにそういう反応をしてしまっても無理はない。蒼はしぱしぱと数度まばたきしてから、ふうと短く息を吐いた。それから一夏の顔を見て、軽く笑いながら。
「ごめん、朝ご飯はもう一時間待ってくれ。ちょっと今はまずい」
「蒼、えっと、大丈夫なのか?」
「そりゃあ、まあ。ただの軽い貧血だし」
「いやお前思いっきりぶっ倒れてたぞ!?」
どこが軽いんだどこが、と呆れながら一夏が言う。昔から人前で弱いところを見せようとしないからか、彼のこういう姿は珍しい。実際問題、蒼としては周りに迷惑をかけないようにと過ごしてきたのだが、まあ、別に隠していたことでもないし、と。とりあえず平気だからと一夏に笑いかけた。
「朝はちょっとダメなんだ。いつも三十分ぐらいゆっくりしてるんだけど、今日はそれを忘れてた。一応、こういうの初めてでもないし」
「……そんな話聞いたことないぞ」
「前、一年の頃、一回遅刻したことがあっただろう? あの時なんだけど、実は朝起きてご飯作ってたら、そのままキッチンで倒れてて」
小学校高学年ぐらいからマシになってきて油断していた、と言う彼の表情は素直に過去の失態を恥じているようだった。一夏と蒼の付き合いは意外と長い。それこそ最初はまだ幼い頃にまで遡る。だがしかし、きっとこいつの事なら大抵は把握していると思っていても、知らないことはあるのだ。
「……もういい、蒼は座ってろ。ご飯は俺が作る」
「いや、でも」
「問答無用。……ったく、そういう事情はもっと早く言ってくれ」
主に俺が男だった時とか、とこぼす一夏。
「ごめん、そんな状態なのに、本当迷惑かける」
「謝るならもう無理しないでくれ。……まあ、それはともかく、料理自体は嫌いじゃないからな。何もしないよりは、気持ち楽なんだ」
そう言いながら、一夏は爽やかな笑顔を浮かべた。無論、例に漏れず、破壊力は抜群だった。いかん、これは紛うこと無き美少女だ。女性耐性の少ない蒼にとっては真面目に心臓の危機である。
「……分かったから、そういうの、勘弁してくれ、本当に」
「?」
こてんと首をかしげる一夏。それを見ながらまあ、仕方ないか、なんて呟いて、蒼はなんとか自力で立ち上がる。足は意外としっかり床を踏みしめてくれた。この分だと、余程の無理をしない限り大丈夫そうだ。
「一応聞くけど、平気なんだな?」
「うん。もう倒れることはない、と思う」
「なら良し、だ。さ、ご飯だご飯」
「……ああ、冷蔵庫の中身、好きに使ってくれて良いから」
了解、と返して、一夏はキッチンへと向かった。
本当はもう少し先で一区切りなのですが、長くなりそうだったので泣く泣く次回に。