文化祭まで残り三週間を切った。実行委員の進行度とは裏腹に、蒼の焦りは加速度的に伸びていく。毎日会議が終わった後に学校で出来る簡単な作業、帰宅してからは持ち帰って処理できる書類等々の整理。出来る部分は率先して片付けているが、肝心要の大部分は全員が一丸となって取り組まなければ意味が無い。と言うよりも、一人の力ではどうにもならないのが現状だ。
「文化祭ねえ……あいつなら何となく、どうにかしてくれそうな気はするが」
廊下でぽつりと溢しながら、五反田弾は友人の話を思い出す。つい先日、酷い寝不足の状態で登校してきた件の人物は、その後も目元の隈が取れていない。恐らくは睡眠時間を最低限倒れない程度には削っている。だが、無理をしているのは明らかだった。日頃の動きを見ていれば察するというもの。時折授業中に船を漕いでいたり、体育のバレーボールの授業で顔面レシーブを行う始末だ。
『疲れてるんだろうに、一切顔に出さねえんだから俺も勘違いしそうだわ。ホント、ガワだけ見てりゃ至極真っ当に健康体なんだがなあ』
クラスメイトの女子による粋な計らいもあって、蒼の隈は巧妙に隠されている。元々前髪が長かったのもあって、すれ違うぐらいの登校中は勿論、学校に来てからは化粧効果で気付く人間は殆ど居ない。知っているのは三年生の中でもA組だけだろう。反応や動作が鈍くなっていたり、言葉がおかしかったり、ぼうっとしているワケではない。言ってしまえば彼の疲れによる失態は、元来持ち合わせていたマイペースで天然気質な部分がふと出て来たとも捉えられた。
『流石は成績優秀なだけあってか、先生達も特に気に掛けてねえし。考えてみるとマジであれだな。悪い部分がめちゃくちゃ重なってるぞ文化祭実行委員……!』
最高学年になってからも一位をキープ、おまけに新たなトラブルを抱えてきた織斑一夏のフォロー、更には彼自身大きな問題を起こしていない、とくれば教師陣の見る目も変わって当然だ。比較的柔らかい雰囲気と落ち着いた口調というのもある。服装はまあアレだが、髪の毛を弄っていないのは大きい。黒髪黒目の優等生。問題児的側面は一先ず置いておくとして、信頼するのはおかしくないかと弾は考えた。
『あいつも一夏と同じで変なトコが頑固なんだよな。絶対投げ出さないだろうし、下手すると全部一人で背負い込み――』
「ねえねえ聞いた? 上慧先輩、委員の活動終わってからも残って色々やってるみたいだよ」
「あー、委員長、たしかに真面目だもんねえ。そりゃあやるよねえ」
「あたしらも頑張らないと。もう文化祭まで時間ないし!」
「だね、そろそろどうにかしなきゃいけないんだろうけど」
ふと、すれ違った女生徒の会話が耳に入る。くるりと振り返ってタイの色を確認、己の目と記憶がおかしくなければ二年生。がんがんコミュニケーションを取るようなタイプではない蒼だ、一つ下の女子にまで情報が行き届いているということは、実行委員内の彼に対する認識としてほぼ間違いない。がしがしと後頭部をかきながら、むうと弾は唸った。
『他の奴らのやる気がないってわけじゃあねえのか。かと言ってまとめ役に対する不満もない。なら何が問題だ? 単純に上手くいってないだけか?』
実行委員会が始動してしばらく経つ。その間、どん詰まりとも言うべきレベルで滞っている理由が“上手くいっていないだけ”の筈がなかった。原因がどこかにきっとある。数秒に渡って頭を回した弾は、「あっ」という声と共にぴんと来て。
「……あー、そうか。もしかして、不満がなさ過ぎて回ってねえのか? ……いや、我ながら意味分からん推理だな。やめだやめ、こんなの似合わん」
ぶんぶんと首を振って、折角出した答えを記憶の彼方へ追いやる。が、強ち間違いとも言い切れないあたり、直感は優れている方か。文化祭実行委員として見れば、蒼はたしかに正しく努力していた。きっと誰も文句はないぐらいに、やれることからコツコツと消化している。が、大事なのは文化祭実行委員長として見た場合だ。
「あれだ。人に頼るっていう選択肢を用意出来ないのは、あいつの悪い癖だな」
一人で何でも出来ると思い込んではいなかった。上慧蒼はそこまで傲慢になれる性格をしていない。誰にも頼らない、等という薄っぺらいプライドも持ち合わせていないだろう。故にこそ、彼は追い詰められた時、人に頼らないのではなく、人に頼るということを前提条件として考えられない。今まで自分一人で抱え込んで片付けてきた経歴でもあるのか。だとしたらいつ頃の話か。そんな不思議なことをぼんやりと想像しながら、弾はがらりと教室の扉を開けて、チャイムと同時に足を踏み入れた。
◇◆◇
日時はその翌日になる。
「――倒れた、ってお前大丈夫か!?」
現在早朝、午前六時を過ぎたあたり。突然友人から掛かってきた電話は、その本人がトイレに行く途中で意識を失ったという驚きの情報から始まった。無論、一夏としては落ち着いていられない。髪を梳かしながら、肩と耳の間に携帯を挟んで問い返す。
『うん、一応平気だ。どうも、疲れから熱が出てたみたいで』
「そうか、ちなみに何度だった?」
『今朝の時点で38.6℃』
「……お前今日絶対学校来るなよ」
微熱かと思えば、そこそこの高熱だ。真剣な声音でそう言うと、彼は一言「分かってる」とだけ返した。己の限界を見誤った、とはまた少し違う。恐らくは平常通りであった場合、蒼は疲れによる多少の
『一応、病院にも行かないといけないし、今日は休む。……そもそも、どう無理したって学校に行かせてもらえない』
「は? それどう言う――」
『蒼、なにやってるんだ。ベッドから抜け出して。全くもう、寝てなきゃ駄目じゃ無いか』
「…………ん?」
聞き慣れない男性の声が電話越しに聞こえる。はて、たしか彼は一人暮らしで、両親も長らく家を空けている筈なのだが。
『父さん……』
「父さん?」
『ほら、お粥もすぐ出来るから大人しくしてること。そんなに動いたら治るものも治らないよ?』
「……もしかして、蒼の、だよな。どう考えても」
ああ、と短く正解の返答。どうやらこの間の体育祭同様に、久方ぶりに親が帰ってきているらしい。しかも今度は父親の方だ。なんともタイミングの良いことか、一夏は神がかり的な友人の状況に苦笑する。
『というわけなんだ。意地でも外に出してくれそうにない。出るつもりもないけど、安静にしないと父さんが煩いから』
「むしろ存分に休んでくれ。でないと俺も取り押さえにお前の家まで行くぞ」
『……それは勘弁願いたいな。ああ、本当、なんでこんな時に限って。文化祭までもう時間が無くなり始めてるって言うのに』
「はあ……」
ここに来て自分の体調よりも実行委員としての仕事を気に掛けるあたり、何とも委員長としての意識はしっかりしているというか。一夏としては体の方を第一に考えて欲しかったというか。複雑な思いだが、彼らしいと言えばらしい。
「……なんとかするよ、今日一日ぐらい。だからさっさと元気になれ」
『――そっか、分かった。じゃあ、頼んだ。一夏』
「おう。任せとけ」
笑って答えれば、ぷつりと通話が切れる。追い詰められた時、上慧蒼は人に頼るという選択肢を自分から用意出来ない。すっぽりと抜け落ちるように、一人でなんとかしなくてはという思考に無意識下で囚われる。それを知ってか知らずか、自然と彼から引き出した彼女は――
「よし、今日も一日頑張るか」
異様に長い文化祭の理由は後々なんとなく皆さん察すると思います。