「あっ、おはよー上慧っち! もう元気な……の……?」
「おはよう有守木さん。全然大丈夫だから気にしないでくれ」
「……ねーねー織斑っち。なんか上慧っち、変わった?」
「うん、変わった。気合い入れ直したんだと」
「へえー……十分今までも気合い入ってたと思うケド」
ひそひそと話す二人を横目に、蒼はぐるりと教室中を見回す。思えば新学年になってから波乱の連続で、こうしてゆっくりと周りの様子を窺うことも少なかった。一つの場所に固まってわいわいとお喋りに興じる女子、机に腰掛けながらがやがやと騒ぐ男集団、ひっそりと誰にも邪魔されず読書を続ける文化系もちらほら。同様に分類するとすれば、自分たちはまた別枠に入りそうだと苦笑する。
「うん、今日もあれ頼むよ。有守木さん」
「オッケー、任せときなって! ま、結構薄くなってるし、そのぐらいの隈を隠すだけならラクショーよ」
ふふんと胸を張って彼女は答える。連日の寝不足による酷い顔を誤魔化してくれた目の前の人物には頭が上がらない。教師や実行委員の生徒に要らない心配をかけないためのものだったのだが、倒れた今となっては役割も半分ほど。しかしながら病み上がりの現状、隈を残しておくのは得策では無かった。完全に回復した姿を見せなければ格好が付かない。
「――って、あれ? 上慧っちがアメピン付けてる」
「……お守り的なところなんだ。一応内緒で」
「なんでー? 可愛いよー上慧っち。凄く似合ってるよー」
「……からかわないでほしい」
にやにやと笑ってくる相手からそっと顔を逸らせば、まだ途中だからと強引に引き戻された。きちんとした理由を持ち出されては抵抗するのも憚られる。元を正せば蒼が是非ともと頼み込んだこと。仕方なく彼はそのまま、メイクが終わるまでじっと待ち続けた。
「よし完成。うーんばっちり。なんなら髪型もあたしがやろっか?」
「それは遠慮しておく。とにかくありがとう」
「良いって事よー。困った時はお互い様、ね!」
「……確かに、そうかもしれないな」
去り際に放たれた一言を、内心で噛みしめる。世の中、一人ではどうしようもない事が沢山ある。特に優れた技能を持っていない蒼なら尚更、その壁はしょっちゅう現れるものだ。そも、人間は基本的に集団の中で生きる種族だ。誰かの力を借りなくてはいけない時は、遅かれ早かれ必ず来る。そんな事、もう既に知っていた筈だというのに。
「おお、やっぱり目の隈が取れると余計に違って見えるな。……髪切った?」
「切ってないよ。ちょっと整えたんだ」
「なるほど。そう言われると、ああ、納得した。うん、似合ってるぞ」
「まあ、文化際が終わるまで、期間限定だけど」
スイッチのオンオフ、というやつか。前髪が視界を邪魔しない光景はすっきりして気持ち良いが、同時にどことなく落ち着かない。ピンを付けている感覚もあって、休むという意識からかけ離れた状態だ。平常時より気分もノリも当社比三割増しである。完璧に活動形態。蒼は口の端を吊り上げて、ぱちりとワイシャツの第一ボタンを外した。
「露出か変態」
「違うよ、堅苦しいじゃないか。かっちりとした格好は」
「実行委員長のくせに……」
「うん。実行委員長だ。だから存分にやっていく」
これはまあどちらかというと崩した服装が好みという蒼自身の趣味も入っているが、何はともあれ期間が差し迫った文化際。止まっていた流れは本日、遂に動き出した。
◇◆◇
『蒼がやってることって、委員長っていうより普通の委員に近いんじゃない? ……もっと言えば副委員長ぐらいかな』
『って、言うと……?』
『だって蒼は委員長さんなんだろう? その中で一番偉い人だ。なら、自分一人じゃ無くて、みんなを引っ張らなくちゃならない』
『……一応、会議とかでは率先して進行役やってたりするんだけど』
『それだけじゃ足りない。蒼は遠慮しすぎなんだ。もっと偉ぶって良いよ』
『偉ぶる、って言われても』
『難しいことじゃないさ。指示を飛ばして、意見を聞いて、最後に判断する。で、駄目だったら頭を下げて、良かったら笑顔でみんなに伝える。蒼はその文化祭実行委員を任されたワケなんだから』
『……そんな簡単に行くかな。大体、皆が付いてきてくれるかも――』
『ああ、そこは大丈夫。きっと蒼なら、なんだかんだで付いてきてくれるよ』
◇◆◇
「つまり、今までは俺が委員長として動けてなかったんだ」
「あー……そういう」
「うん。ずっとやれる事だけやってたけど、一番上の人間がそれじゃどうにもならないよな。考えれば分かることだった」
「……おいおい、お前本当に蒼か? 自分で一番上とか言うなんて」
授業が終わった直後、夕暮れもまだ先の廊下。放課後を告げる鐘の音を聞きながら、蒼と一夏は並んで第二生徒会室に向かっていた。足取りは普段よりも目に見えて速い。億劫とまではいかないが、少なからず憂鬱な気分で歩いていた部屋までの道も、今となっては何ともなくなっている。十月になってからここまで気分が良いのは初めてだった。自然と、蒼の頬は緩む。
「言うよ。この際だけは言わせてもらう。ナルシストで結構。そのぐらいの気持ちじゃないとやっていけない」
「らしくねえことを……と言いたいところだが、お前らしいのも分かるのがなあ」
「これでも緊張はしてるんだ。まあ、だからってやめる気は毛頭ないけど」
言い切って、蒼はゆっくりと歩みを止めた。目の前にはよくあるスライド式の扉、上には教室名の書かれたプレートが飾られている。確認するまでもなく、何度も通った目的の場所はここだ。そっと扉に手をかけて、ひとつだけ深呼吸。体の内側に意識を向けてみれば、僅かに心臓が強く叩かれていた。けれども、言い換えればそれだけ。平常心、平常心、と胸の内で繰り返し、彼本来の落ち着きを取り戻す。
「……よし」
一言呟いて、がらりと、蒼は勢いよく扉を開けた。気付いたのは奇しくもその直後のこと。生徒会執行部が使用している第一生徒会室とは違い、特定の期間しか使われないこの部屋は当たり前のように鍵が掛かっている。開けるには一階の事務室から鍵を借りなければいけない。蒼も一夏も漏れ無く自教室より直行だ。本来ならがたりと揺れて扉が開かない、というオチが付く筈だった蒼の行動は、不思議なことに開くという過程まで進んでいた。それがどういう事なのか。室内から投げかけられた多くの視線に、彼は察した。
「あ、委員長……」
「委員長だ」
「……えっと、これは?」
「あー、そうだったこっちもこうなってたな……」
いやあすっかり忘れてた、と背後で何事かを言う一夏。第二生徒会室には、蒼と一夏を除く実行委員全員が既に揃っていた。いつも真っ先に来ている者は勿論、普段なら五分や三十分待たないと顔を見せない人達ですら座っている始末。一体、自分が欠席した間に何が起きたのか。出鼻を挫かれて戸惑う蒼に、彼らはがたっと一斉に立ち上がって詰め寄った。
「委員長! やってやりましょう!」
「……えっと、何を?」
「文化祭です文化祭! あたしら実行委員ですから!」
「そうそう実行委員! 俺らがやんなきゃいけないって分かりましたから!」
「もう気ぃ抜けたこと言わねえ。過去最高、歴代最高クラスだ!」
「うん……?」
何やら途轍もなくやる気に満ち溢れているようだが、蒼にとっては原因がさっぱり。どう対処したものか混乱していると、一夏がぼそりと耳打ちしてきた。
「……昨日、俺だけじゃ無理だから生徒会長に協力を要請したんだけど」
「会長に……? よく受けてもらえ……っていうか、それでどうしてこうなるんだ?」
「いや、あの人散々煽りに煽ってさ。色々言われて火が付いたのか、共通の敵を見付けたからなのか、ちょっと予想以上に燃え上がって……」
「なにやってるんだ会長……」
たしかに幼い頃から素直では無かったが、そこまで嫌な性格もしていなかった筈だ。蒼に対するあたりが強いのは彼の対応的にもご愛敬。何だかんだと言いながらも、ああ見えて優しい部分がある。考え得る限りでは、どうやっても実像と結び付かない。……ことも無いのが、まあ、ちょっとアレだが。
「絶対あの会長をぎゃふんと言わせてやるわ……」
「うちの委員長が大したこともしてないとかあり得ねえ。少なくとも俺は委員長が頑張ってたことぐらい知ってる」
「鈍行列車より鈍いとか言葉選びがいちいち腹立つのよぉ」
「実行委員とは名ばかりのお話の場ですか
「いやまー実際そうだったし反論も出来なかったんだけどねー……そこがまた悔しい」
ああ、と蒼はなんとなく気付いた。例えるなら着火剤。文字通り彼女は自分を悪役に見立てて、盛大に火を付けてくれたのだろう。本当に素直ではないというか、不器用というか。父親から助言を貰わないにしろ、結局助けられていたということになる。全くもって適わない従姉妹だ。
「そうだね。俺も一日休んで色々考えてきた。皆で最高の文化祭、作ろうか」
「おー!」
「はいっ!」
「いえー!」
「そこはせめて合わせないッすか……」
副委員長の呆れた声が、わーわーという騒ぎにかき消される。文化祭実行委員。上慧蒼を筆頭とした今年度の集まりが、ようやくここに産声を上げた。全ては文化際をより良いものにするために。
「やってやるぞ文化祭ぃー!」
「目指せ満足度九割ぃー!」
「打倒生徒会長ぉー!」
あと、一欠片の不純な動機のために。
謎の会長推し出現に困惑した私です。