時間は過ぎていく。特に、楽しい時間などはあっという間だ。午前中の一発目から心に深い傷を受けながらも、その後は何事も無く昼休憩へ。残り半分の折り返しで班を交代。ひとつ減らし三班と蒼たちという少ない人数で学校全体をカバーすることは、予想通り状況が落ち着いたのもありなんとかなっていた。午後からは有志のステージが始まる。彼らがそれぞれ壇上で生徒を盛り上げながら行うパフォーマンスは、さぞ多くの観客を魅了したことだろう。中学生と侮るなかれ。技術は拙くとも、熱意は本物だ。
「さて……」
かちり、とインカムのマイクをオンに切り替える。ちらりと壁にかけられた時計を見て、今の時刻を確認する。十六時四十五分、閉会式が十七時からなのを考えると、もうそろそろと言ったところだった。そこまで忙しくも無かったが、体感では平日の作業よりも早い。苦労して、努力して、頑張った結果が一瞬で過ぎていく。でもきっと、それは悲しむべきものではないと直感しながら。
「……こちら委員長。最終報告確認します。E班からお願い」
『はーい、こちらE班異常ナシ! どうぞー』
『F班、問題ありません。どうぞ』
『うす、G班大丈夫です。どうぞっす』
「うん、確認完了。全員お疲れさま。あとは閉会式だけど、時間になるまでは自由に行動してて構わないよ」
了解、と各々の返答を聞いてインカムの電源を切る。結局、大して目立ったトラブルもなく、校内のどこかで度肝を抜くような事件が起きたやら、手に負えないので助けて下さいという話は一切入ってこなかった。見張りの効果、と捉えるのは流石に苦しい。ほんの少しはあるかもしれないが、恐らくは最初から何事もなかったのだ。無駄に時間を取らせてしまい、若干申し訳無い気持ちになる。が、何にせよ、平穏無事に成功したのならそれで良し。ほっと一息つきながら、蒼は外していた制服のボタンを留めていく。
「お、流石にこればっかりはきちんとした格好か」
「ああ。全校生徒の前に立って閉会宣言だろう? 前開きのままじゃあね」
「そうか、ま、そっちの方がお前らしくて良いよ。優等生」
「からかわないでくれよ、全く……」
苦笑しながら、ぱちんと襟のホックを閉めて。
「よし。それじゃあ、行ってくる」
「おう、行ってこい」
にかっと笑って見送る友人に背を向けて、蒼は迷い無い足取りで歩いていく。最高潮を迎えた盛り上がりに終止符を打つのが彼の役目。この文化祭に深く携わった者として、一人の責任者として幕引きを行うのだ。――が、今年は少し違う。昨年までの流れでは、終了後に後片付けを行って解散の手筈となっていた。そこを教師陣に無理言って、後日に延ばして貰う事を何とか強引に押し通し、約一時間の猶予を貰っている。詰まるところ、簡単に言ってしまえば。
「文化祭はまだ終わってない、からな」
すっと耳元のヘアピンを撫でながら、蒼はにっと口の端を吊り上げた。
◇◆◇
『えー、では、実行委員長の上慧くん、お願いします』
「……まずい、ちょっと緊張するな」
独りごちて、舞台袖から壇上に出る。五分前より校内放送で体育館へ集まるよう、呼び掛けが行われていた。元々有志の演目が終了次第、流れるように閉会式に移行する予定。本校舎に残っていた生徒はごくごく少数、特別な事情がない限り、恐らくは一人残らずこの場に居るだろう。くるりと前を向いて、ゆっくりと顔を上げる。
「――――、」
しんと、喧噪の絶えた静かな空気。微かな衣擦れや咳払いでさえ目立つ。全校生徒が一つの場所に揃って立つ様子は、何度見ても圧巻だ。蒼自身、あまり経験のない光景というのもあるが、そこはそれ。直ぐに自分のやるべき事を思い出して、さっと一礼。
「……本日は皆さん、大変お疲れさまでした。以上をもちまして、文化祭の全日程を終了します」
マイク片手に言い切って、ちらりと窓から外の様子を確認する。うっすらと赤い光を灯したのが見えて、蒼は思わずにやりと笑った。この案を決行してくれた校長先生には感謝しか無い。昨今、安全面や環境面でかなり厳しい筈のところを、こうして形にしてくれたのだ。何事も話してみるものである。さて、お堅いのはここまで。彼はぎゅっとマイクを握り締めて、ばっと空いた方の手を大きく広げた。
「――と、なるところですが、今年は先生方の協力もあって、俺たち実行委員からサプライズ企画を行うことになりました」
例年とは違うことで、二・三年生は直ぐに気付いたようだ。ざわめきが一気に伝播する。今の今まで静けさを保っていた館内に、人の声が溢れる。だからと言って、蒼の声がかき消されることはない。機械によって増幅された彼の言葉は、隅々にまで届く。ステージにあたる証明で細かくは見えないが、驚く人、怪訝な表情をする人、周りの友人とひそひそ話し始める人。そしてタネを既に知っている、実行委員一同。それらの視線を一身に集めながら、蒼は言葉を続ける。
「本来ならこの後、片付けが入っていた時間を、先延ばしにしてもらうことで丸ごと貰いました。文化祭の最後、何か物足りなくないですか?」
「なにか……」
「物足りない……?」
仕上げとばかりに、彼はらしくもなく声のトーンを上げた。
「全員、グラウンドへ是非集合下さい。中央にキャンプファイヤー。流れる音楽にのってフォークダンス。勇気を出して好きな人を誘うのも、友達とわいわい踊るのも構いません。今年度文化祭のラスト。――これより、“後夜祭”を行います」
「…………お、」
うおおおおおっ!! と、会場に凄まじい歓声が響く。蒼はハウリングしないようにしっかりとマイクの電源を落とした。訊ねるまでも無く、おおむね高評価。サプライズは無事成功。古き良き行事のフィナーレは、ここに開始を宣言された。
◇◆◇
かりかりとシャーペンの走る音が室内に響く。ふと窓から外を覗けば、赤く燃え上がる火を囲んで、多くの生徒が思い思いの相手と楽しそうに手を繋いで踊っていた。校舎の中で唯一電灯が皎々と点いた第二生徒会室。殆どの生徒がグラウンドの様子に夢中で気付かないであろうそこに一人、上慧蒼は緩く笑いながら机に向かっている。彼が行っている作業はいつも通りの書類整理とはまた違う、文化祭実施記録と呼ばれる代々実行委員で書き継がれているものだ。片付けと並行してするとなると、考える余裕が少なく些か時間をとられる。今ここで書いておくのが一番だと思ったが故に、ひっそりと抜け出してここに帰って来たのだが。
「なにしてんだ実行委員長」
どうやら、彼女にはバレてしまったらしい。
「……一夏」
「ったく、こんな時まで仕事か? わざわざバレないように隠れてまで」
「隠れては無いよ。現に、君は俺を見付けただろう?」
「……はいはい、もう良い。とにかくこれは没収だ」
「あ」
ひょいと一夏がペンを奪う。なんという暴挙か。蒼は驚きつつも少し考えて、胸元のポケットからもう一本取り出してひらひらと見せつけた。そんなことをしても無駄だぞ、と言外に告げている。一夏は溜め息と共に肩を落として、蒼にペンを投げ返した。コントロールは抜群。上手いこと掴んで、彼はにっこり笑う。
「自分から割り食うようなことするなよ。俺まで複雑な気分だ」
「ごめん。でもまあ、そこは大目に見てほしい。……ああ、それとこれも外すかな」
言って、蒼はするりとヘアピンを引き抜いた。簡単に整えていた髪型をわざと崩して、手ぐしで乱暴にがしがしとかく。前髪は目元まで、雰囲気は暗め、マイペースの緩さが滲み出るような様相。いつも通りの、彼の姿。
「……おお、すげえ。なんか、蒼が久しぶりに帰って来た、って感じだ」
「何言ってるんだ。俺は元からずっと居るだろう」
「ものの例えだよ。そんなこと分かってるって。……うん、さっきまでのも悪くないけど、やっぱり蒼はこれでなくっちゃな」
「……よく分からないな、それは」
微笑む一夏の言うことがイマイチ理解出来なくて、つられるように苦笑する。ともあれ、このまま続けるのもあれだ。蒼は徐に椅子から立ち上がって、今一度窓の外を眺める。
「……この光景を、俺たちで作ったんだよな」
「おう。一か月近くもかけてな。この一日のためだけに頑張ってきたんだ」
「…………成功、だったよな」
「ああ、文句ない。少なくとも俺は」
「……そっか。ああ、そうか――」
――良かった、とつい溢れる。不安要素はごまんとあった。どこかで致命的な失敗をすれば、上手くいかない可能性も十分あり得た。それでも今日、この日を、こういう形で無事に成し遂げることが出来た。それだけ分かれば良い。心底、蒼はほうっと体の内に溜まった息を吐き出す。
「やっぱり、慣れない事はするもんじゃない。お陰様で体中ボロボロだ」
「一回倒れたしな。命削ってんじゃないかと本気で思ったぞ」
「似たようなことだったかもしれないな。……こんなのは二度とやらない」
「本当にな。普段我慢してる奴が追い詰められるとどうなるのか、って言うのがよぉく分かった」
今回の件に関しては、己の想定不足だった部分もある。蒼自身、一夏や生徒会長にはかなり迷惑をかけた。体調管理の大切さは身に沁みて理解している筈なのに、容易く限界を見極めた行動を取れるのは相当なものだ。彼の場合は、リミッターが緩いと言うのが合っているかもしれない。
「ところで、一夏は踊らないのか?」
「誰かさんを探してここまでやって来たのに踊るも何もあるか」
「そう言えばそうだったな。……うん、じゃあ、俺と踊るか?」
「……おいおい、こんなクソ狭い部屋の中でか?」
言いながらも、彼女の表情は冗談に乗る類いのそれだ。
「こういう場合、なんて言うんだったかな。……シャルウィーダンス、ミスターオリムラ?」
壊滅的に色々と駄目だった。勢いよく一夏が噴き出す。
「ぶふっ、なんだそれ。似合わねえ。あは、あはは」
「……うるさいな。そんなこと分かってる。ほら、やるぞ」
「うわっ……とと、マジでやるのか、本気でどうかしてるぞ」
「良いじゃ無いか、楽しめれば何でもありだ」
「……それもそうだな。うし」
手を取り合って周囲の机や椅子に注意しながらステップを踏む。前日の整理でスッキリしていた事だけが救いか。振り上げた手や足で物を倒す心配はない。尤も、そこまで派手な動きはしないのだが。
「ところで蒼、お前ダンスの経験は?」
「殆どない。小学校の林間学校以来じゃないか?」
「駄目じゃねえか!? いやどうりで足が当たるなーと!」
「そういう君はどうなんだ?」
「同じく。……人の事言えなかったわ」
とまあ、そんな二人だからか、当然上手くいく筈もなく。
「おわっ!」
「――っと、なにしてるんだ」
「い、いや、流石に初心者がこの状況はキツいだろ……」
バランスを崩した一夏を、蒼が腕に抱えて受け止める。彼はふざけ半分でジト目を向け、彼女が恥ずかしさを隠すように頬をかきながら笑う。体勢はさながら王子様とお姫様。外見も片方に目を瞑ればいけないコトも無い。しかし中身は男と男。反射的に閉じていた目をうっすらと開き、一夏は状況を確認しようとして。
「まったく、大丈夫か? 一夏」
「――――、」
心配するようにこちらを見詰める彼の表情が、間近にあった。彼女は思わずばっと、飛び退くように勢いよく離れる。
「わっ、とと。……一夏?」
「………あ、いや、えっと、だな」
こてん、と蒼が首を傾げる。なにやら一夏の様子がおかしい。視線は安定せずあちらこちらを向き、態度も落ち着かないように手で髪を梳いたり、スカートをきゅっと握り締めてみたりと忙しない。一体どうしたというのか。蒼には、彼女の急激な変化の理由が分からなかった。
「――わ、悪い! ちょっとトイレ行ってくるっ!」
「? あ、ああ。分かった」
そう言うと一夏はがらりと扉を開け、まるで逃げるよう一目散に部屋を出て行った。残されたのは蒼一人。友人の奇行にうん? と疑問を覚えながら、まあ、どうせすぐけろりとした様子で戻ってくるだろうと、彼は静かに最初の作業へ戻った。
◇◆◇
ばしゃりと、水で顔を洗う。冷たい。当たり前だ、もう段々と冬の気配が増している。十月下旬の水道は、意外にも寒さを持っている。――筈なのに。
「……ああ、くそ。なんだこれ」
織斑一夏の顔は、一向に冷めなかった。
「分かんねえ、分かんねえ。ちくしょう、この……ッ」
もう一度、叩きつけるように水を顔面に浴びせる。無論、効果はない。
「だあああっ。ああ、なんだ、なんなんだよ、なんで……なんで……ッ」
ぐっと、拳を握り締める。
「――なんで俺、こんなに落ち着かないんだ……!」
学校の洗面台。鏡に映った彼女の頬は、林檎のように赤く。さすればきっと、それが始まりだったのだろう。