文化祭から一週間が過ぎた。カーテンの隙間から差し込む朝日、布団越しでも分かる外気の寒さ、そうしてがんがんと鳴り響く目覚まし時計。今日も今日とて熱心に仕事をしてくれるそれに感謝しながら、かちりと頭頂部のボタンを押してアラームを止める。むくりと起き上がって、蒼は頭を乱雑にかきながら部屋を見渡した。薄明るい、陽が昇っているのだから当然のこと。くあ、と欠伸を一つしてベッドから降りる。
「……ご飯、の前に、休まないと……」
誰に言うでも無く独りごちて、覚束ない足取りのまま洗面所へ向かう。朝の体調は今でも変わらず悪い方だ。むしろこの頃は以前より幾らか酷い。原因はなんとなく、自分でも分かっていた。十一月という冬前の季節、流石に六月ほどでは無いが、負担がゼロとはいかない分同じようなもの。
「……要らないものばかり、持って来ちゃったからな」
割り切れていないのか、と聞かれたら彼は首を振るだろう。ずるずると未練がましく、終わった人生を引き摺っている訳では無い。一度死んで、また別の世界で生まれ変わった。紛れもない現実の出来事を蒼は受け入れている。故に、本来ならば過去に思うところなど無いのだ。でも、そうではない。前は前、今は今。別々に考えて生きて来られたのなら、きっとここまで苦労しなかった。答えは単純に、どちらも経験しているのが蒼本人だった、と言うに尽きる。
「――やめだ。朝から悪い事ばかり考えるのは気分が下がる」
ぶんぶんと頭を左右に揺らして、蒼はがちゃりと扉を開けた。寝起きでも住み慣れた家の間取りは把握している。目の前には飽きるほど見た洗面台、ついでに鏡の中の己とご対面。気分転換の意味も込めて、ばしゃりと勢いよく顔を洗う。眠気が支配する肉体に、冬場の冷水は特効薬だ。肌を刺すような冷たさに、靄のかかっていた思考回路が一気に励起する
「……よし、今日も頑張ろう」
顔を上げればしっかりといつもの蒼だった。ゆったり緩く、どこか落ち着かせる雰囲気と、滲み出る柔らかさを宿しながら、冷静な様相を呈している姿。辛い事も、苦しい事も、あり得ない事も、あり得てしまった事も、全部ひっくるめて一纏めにして。まあ、それならそれで仕方ないと、まるで折れるように受け入れる。例えそのやり方が、時折顔を出すような彼らしい“緩さ”で構築されていたとしても、蒼にとっては自然体で過ごせるだけ十二分。ともかく、今一番彼が気になるコトはと言えば。
「……一夏、どうしたんだろうか」
ちょうど一週間ほど前より、朝食を作りに来なくなった友人である。
◇◆◇
「――ああ? 一夏に避けられてる?」
「うん。俺の気のせいじゃなければ、なんだけど」
時間はその日の昼休み。教室内でつまらなさそうに紙パックの野菜ジュースを飲んでいた弾に、蒼は話題の提供も兼ねて昨今の悩みを相談することにした。一人で抱えてもロクなことにならない。賢者か愚者かで言えば、彼は間違いなく愚かであったが、決して学ばないワケではないのだ。誰かの力を借りる重要性は、先月の一件で理解している。
「はあ、お前が、ねえ。俺も四六時中一緒に居るんじゃねえから知らねえけど、そうなのか?」
「確信は出来てないけど。廊下であっても素通りされたり、肩を叩いたら驚かれて逃げられたり、俺たち以外他の皆が居なくなると直ぐどこかに移動したりとか」
「うおー……すっげえフルコンボを見たぞ俺は」
そりゃあ間違いなく避けられてるな、と弾が言い切った。聞いていた蒼の反応は、一言「やっぱりそうなのか」と返してふむと顎に手を当てるのみ。意外と堪える内容だと思うのだが、平常心を崩さないあたりは流石と言うべきか。弾は呆れとも感心とも取れる微妙な視線を投げ掛けて、ぎゅっとパックを潰して野菜ジュースを飲み干した。お財布に優しい九十円は地球にも優しいエコな製品である。
「たしかに、言われてみると最近のあいつは引っ掛かるものがあるな。休み時間は殆ど居なかったり、授業中の私語もめっきり減ったし、何より若干付き合いが悪くなった」
「そこら辺は受験シーズンだから仕方ない部分もないか?」
「やめろ。今の俺に“ジュケン”という言葉を使うな。死ぬ事になるぞ。俺が」
「相変わらず君のメンタルは豆腐だな……」
と言っている蒼自身もあまり強いとは思っていないが、最低状態からの復帰力はお互いに人並み外れている似たもの同士。方法が無理矢理なものか自然なものかというだけで、大して変わりはしない。ちなみに前者が蒼、後者が弾である。馬鹿は決してバッドステータスではないという証左だ。
「ま、それを加味してもおかしいな。今まであんなにべったりだったのに、ぱっといきなり離れていったワケだろ?」
「……言い方はアレだけど、強ち間違ってもないな。毎日朝飯とか作りに来て貰ってたけど、それも無くなったし」
「ビンゴだビンゴ。大当たりだよ。そんな人様の事情に踏み込んだ事をすっぱり断つってことは、言い訳のしようもねえ。……信じらんねえけど、本当にお前のことを避けてるみたいだ」
「ああ、お陰様で俺は気になって昨日も七時間しか眠れなかった」
「ぐっすりじゃねえか。お前実は全然堪えてないだろ?」
そんなことないよ、と言う蒼の顔は微笑んでいる。確信犯だ。弾は真面目に考えていたつい先ほどまでの自分を殴りたくなったが、この男の珍しいジョークだと思えばまあ、少しの時間をとって慣れない考察をした甲斐があった。ぱっぱっと小さく畳んだ紙パックを手の上で弄びながら、やれやれと一つ息を吐く。
「でも、気になるのは本当だ。一夏に限って、唐突に人を避けるなんてことは無い筈だし、俺がなにかしたのかなって」
「ホントだよ。お前何したんだ? あいつ拗ねたら面倒くさいんだぞ。ちっぱいツインテと同じで」
「……今の言葉を墓標に刻めば良いのか?」
「HAHAHA! なんとでも言え。今ここにあいつは居ねえ。海を越えてまで殺気を届けることも出来ねえ! 所詮凰鈴音も人間ということ! 恐れるに足りんわあ!」
「携帯で録音しておいた」
「ヤメロォ!」
迫真の叫び声だった。冗談だよ、と画面の点いていないスマートフォンをひらひらと見せて、再度ポケットに仕舞う。からかった回数が断トツのために、お仕置きを受けた回数も断トツ。五反田弾はそういう男だ。ふざけて口が滑る、真面目でも口が滑る、大事なことでも口が滑る。馬鹿だからしょうが無いと言えばそれまで。盛大に死亡フラグの量産工場と化して尚且つ生産効率の向上を掲げていそうな友人の未来に安らかなご冥福をお祈りしながら、蒼は気を取り直して口を開く。
「でも、俺自身何かやらかした覚えは無いんだ。それに一夏の態度が変わったのも文化祭が終わってから、唐突にだったし」
「そんなことはねえと思うんだけどなあ…………、あ」
「ん? どうしたんだ? なにか――」
急に声をあげて、弾が口を開けたままそっぽを見詰める。何だというのだろう。こちらから声をかけても一向に向き直る気配が無い。気になって、蒼も視線を辿って彼の見ている方を向いた。ちょうど教室の出入り口にあたる扉。――そこに。
「……あ」
「…………、」
織斑一夏が、僅かに目を見開きながら立って居た。
「一夏――」
「ッ! わ、悪い、ちょっと用事思い出したっ!」
「……ああ、うん……って早いな、もう居ない。……どう思う? 弾」
ほうほうなるほどそういう、と彼は頷いて。
「ま、一先ず俺からあいつにも聞いてみるよ。蒼の自覚云々は抜きにして、理由もなしにあんなあからさまな態度とる奴じゃないからな、一夏は」
「うん、頼んだ。俺が悪い事したんなら、謝らないといけないし」
困った表情で蒼が言う。弾としては、ここまで人の心配をするような人間が、他人を傷付ける言葉を吐くとは思えなかった。気に障る言葉はまた別としても、彼が取り返しの付かないことをしたというセンは恐らく無い。
『なんか、どうもおかしな感じがするなあ……』
がたりと手に持ったゴミを捨てるために立ち上がって、弾は一瞬だけ眉をしかめた。
大分時間をとったので、もうそろそろ重くいっても良い時期ですね(確信)