ソファーにゆったりと体を預けながら、キッチンに立つ一夏を見た。朝食だからそこまで凝ったものは出さないだろうが、何を作るにしても材料は十分にある。昨日買い物しておいて良かった、と蒼はひっそり息を吐いた。やはりというかなんというか、自覚すると辛くなるのが人間というもので。先ほどまで屁でも無かった筈なのに、今はなるべく動きたくないと思うくらいの怠さに包まれていた。
「あっさりしたものの方が良いか? 軽めのやつとか」
「別に、なんでもいいよ。食欲はそのうち湧いてくるだろうから」
「……ちなみに、今は?」
「少し待って欲しい、かな」
ダメじゃないか、なんて呟いて、一夏はがくっと肩を落とす。自分の思っている以上にまずそうな友人の状態を見て、本気でこいつは今日まで隠して生きてきたのかと恐ろしくなる。とはいえ、不思議なことにいつも変な余裕を持っているのが彼という人物だ。数分も経てば案外、けろっとしているかもしれない。適当に考えて、ちらりと蒼の方を見やる。
「……顔色悪いぞ、本当に大丈夫なんだよな?」
「大丈夫、これくらいは平気だ。気にしないでくれ」
「…………、むう」
気にしないでくれと言われても、気になるものは気になる。それが友人の体調に関するものであれば尚更。無視して好き勝手できるほど一夏は冷たい性格をしていなかった。かと言って何時までも心配していては、肝心の料理の方もさっぱり進まない。まあ、座ってる分、倒れる心配が無いからマシだろう、と無理やり割り切って、一夏は袖をぐいと捲る。
「蒼、魚とか大丈夫だったよな?」
「あ、うん、もちろん。……そうだ、エプロンが要るなら、食器棚の脇にあるから」
「ん、サンキュー。まあ、そこまで汚さないとは思うけど」
言いながら一夏はぐるりと辺りを見回して、目についたエプロンの元へ近付く。この友人が意外と家事のできる少年だということは、クラスでもあまり知られていない。よく話す共通の友人である五反田弾や御手洗数馬あたり、あとは去年まで居た凰鈴音も含まれるかと言ったところ。が、一夏自身が家事もできる美少年だということは、クラスの垣根を越えて全校にまで届くほど有名だ。
「ちなみに、献立は……」
「魚と野菜とお吸い物、ってところだな。まあ、無難に」
「……そうか、それは、うん。なんとなく、一夏らしいな」
「なんとなく、ってなんだよ」
「さあ。なんとなく、じゃないか?」
だからそれがなんだよ、と一夏は呆れつつも笑う。精神状態はいまだ安定とは言い難いが、起きた当初と比べれば随分と復帰した。所々あやふやではあるが、事態のあらましも理解はできている。自分が今どういう状況なのかも、それなりに分かっているつもりだ。その上でいつも通りに振る舞っていられるのは、やはりこの“いつもと変わらない”友人によるものが大きい。
「――っと、あれ?」
「……一夏? どうか、したのか」
「いや……大したことじゃ、ないんだけ、ど」
おかしいな、と一夏が呟く。その一言にどうも変な感じがして、蒼はゆっくりとソファーから上半身を持ち上げた。少し遠く、キッチンに備え付けられたカウンターを挟んで向こう側に、一夏の背中が見える。と、なにやらもぞもぞと腕を動かしていることに蒼は気付いた。
「……なにしてるんだ?」
「紐が、うまく、結べない……っ。いつもならこのぐらいはっ……」
見ればするすると、滑るように一夏の手を紐がすり抜けている。そんな光景を見て、はて、と蒼は首をかしげた。一夏は別段、手先が不器用ではない。どちらかと言うと器用な方だと蒼は思っているし、事実蒼よりも器用ではあった。そんな彼が、エプロンの紐ごときに苦戦するだろうか。ちょっとだけ考えてみて、すぐにその理由が思い当たる。
「…………一夏」
「なん、だっ……蒼」
よいしょと蒼は立ち上がって、ゆっくりと一夏の方へ歩き出した。多少きつかろうがなんだろうが、彼にとって自分の体調は幾度か経験した繰り返しでしかない。慣れていないワケでもないのだから、大抵のこともやろうと思えばどうにかなる。けれど、一夏にとっての“体調”は、慣れるものでも、経験したものでもない。そっと背後に立って、蒼は一夏の手から紐を取った。
「うおっ。――って、ちょ、蒼!? お前なにしてんだ、いいからじっとしてろって――」
「いいから。じっとしてろはこっちの台詞だ。いつもならとか言って、また忘れてないか? 一夏、体が違うんだってこと」
「…………ああ」
そう言って、ほんの少しだけ俯く。
「指、前と比べて細いのが俺でも分かるんだ。感覚だって、かなりズレてると思う。細かい作業は駄目でもおかしくない」
「……かも、しれないな」
ぽつりとこぼすように、小さく一夏は答えた。その反応に、ふと、蒼はぴんと来て。
「……というか、朝からなんとなく気付いてはいたけど、あんまりその体上手く動かせないんじゃないか?」
「あー、それはだな…………」
痛いところを突かれた、と一夏が言い淀む。それにやっぱり、とため息をつきながら、蒼はしゅるしゅると紐を弄る。
「俺が作るよ。なんだか今の一夏じゃ心配だ。手でも切ったら大変じゃないか」
「いや待て、蒼の方が心配だろ。途中でぶっ倒れたらどうするんだ」
「もう倒れないって。大丈夫、十分気分は良くなってる。……うん、十分」
「その割には顔色がさっきより悪化してないか? 無理があるだろ。ここは俺に任せてくれ。包丁ぐらいなら問題なく扱える」
「その割にはこれを結ぶのにも手間取ってたようだけど」
きゅっ、と結んで、蒼はとんと背中を押した。一夏は若干よろけながらも体勢を建て直し、ぐるんと体を反転させる。細めた目でじっと見る蒼。きっと眉を寄せて強い視線を送る一夏。両者正面切っての睨み合い。永遠に続くかとも思われる沈黙。それに終止符を打ったのは――
「……分かった、こっちの負けだ。正直、今すぐ料理はちょっと厳しい。ただし、怪我とかしたらすぐ交代にしよう」
両手を上げて、蒼が降参のポーズを取る。対する一夏は。
「……そうだな、それでいこう。悪い、俺もちょっと熱くなった。こういう時だしな、十分注意してやるよ」
朝食の担当はここに決まった。一夏は今一度台所に向かって、蒼は座っていたソファーへと踵を返す。
ちなみに余談ではあるが、そのあと蒼が出る幕はなかった、ということだけは確かである。
◇◆◇
そんなこんなで彼らが無事食べ終える頃には、もう既に時刻は午前十時を回ろうとしていた。随分と遅い朝食になったものである。だが、時間が解決してくれたものも幾つかある。蒼の体調については言わずもがな、半時間もしたところで一気に血色が良くなり、ご飯も問題なく完食する程度には回復。一夏の精神状態にしても、ゆっくりとではあるが大分安定したものになってきていた。食後の会話。口火を切ったのは、一夏だった。
「とりあえず、これからどうするか、だよな……」
「ああ、そりゃあ、かなりの一大事なワケだし」
冷静に考えてみると凄まじいことこの上ない。これ、世界に公表したら大ニュースになるんじゃないか? と蒼は本気で思った。場合によっては男性IS操縦者の発見を超えるレベルで。
「一先ずは真っ先に連絡するべきじゃないか?」
「連絡って、誰に?」
「……君のお姉さんにだ。まさかとは思うけど」
「――――そうか、千冬姉! 流石だ蒼!」
いや本当にまさか、本気で忘れているとは思わないだろう。友人のこの先にそこはかとなく不安を覚えながら、蒼はポケットから携帯を取り出して。
「で、番号は覚えてるだろう?」
「……ええっと、いや、ちょっと待ってくれ。登録した時に、見たんだ。ここまで出てきてるんだが……」
「…………、」
前途多難だ。蒼はひっそりと、本日何度目かも分からないため息をついた。
女口調の一夏ちゃんが見たい方は私の拙作および他の方の一夏TS二次を読みましょう。
先に言っておきますと、今回はほとんど終盤まで一夏くんは一夏くんのままです。