――雨が降っている。容赦のない寒さを叩き出した十一月、空模様は絵の具をぶちまけたような鼠色に染まっていた。頬を撫でる空気にも雫が含まれているようで、いやな冷たさを感じる。■はマフラーに顔を埋めながら、ふと透明なビニール傘越しに空を見上げた。
『…………、』
どこまでも広がる分厚い雲の塊。叩きつけるような強い雨。悪天候は時間の感覚を麻痺させる。今が果たして朝なのか、昼なのか、それとも夕方なのか。代わり映えの無い天井の様子を、案外人は気に掛けているらしい。ちょうど交差点にさしかかった。ふと、目に映ったビルに設置されている電光掲示板を見る。朝特有の情報番組、左端には現在の時刻が表示されていた。午前九時四十五分。平日の出勤ラッシュをちょうど乗り越えた時間帯は、驚くほど人通りが少ない。
『……ああ、失敗した。徹夜で小説なんて読むんじゃ無かった』
ぼそりと呟いて、■は僅かに肩を落とす。昨日は好きな作者の新刊が出た、ということで寝るのも忘れて読書に没頭。結果として、床についたのは午前五時を回った頃だった。となれば、大半の人が察するように、彼は見事寝坊をやらかしたワケである。
『これで何度目だっけ。まあ、良いか。学校なんてどうとでもなるし』
無論、本人に反省の色は無い。そも■にとって遅刻はそこまで珍しいものでもない。下手をすると校内でも相当の常習犯である。やる気が無いのは当然のこと、改善する意思さえ無いのだから、二年経って教師もいい加減匙を投げるというもの。なによりこの男、学力だけで言えば真ん中より少し上程度をキープしている。態度の悪さは関係無い、と言外に主張していた。
『ていうか、この時期に雨ってどうなんだ。どうせなら雪でも降れば良いのに。交通機関ストップして正々堂々休めるし』
内心でとんでもない、されど学生としては抱かざるを得ない考えをしながら、■はぼうっと向かい側の信号を眺める。色は赤、渡ってはいけないことぐらい幼い子供でも分かる。手持ち無沙汰をどうにかする携帯電話は、あいにくの雨によって弄る気が起きない。わざわざ画面を濡らしてまでこの時間を潰すほど、彼は依存していなかった。よって、自然と降りしきる雨の音を聞きながら、信号が変わるのを待つ事になる。
『…………、』
自分勝手でマイペース、一人の時が一番充実した時間。彼の性格は他人と関わらないままに構築されている。故に、人付き合いは苦手どころか壊滅的。出来るのは必要最小限の事務的な応対のみ。尤も、余程でも無ければそれでどうにかなる。■の人当たりの悪さは事実、友好的という言葉を知らないも同然だ。度を過ぎていないのがせめてもの救いか。敵を無闇に増やす事はないが、味方も誰一人として増えはしない。
『…………ん?』
と、その時、彼の耳が異様な音を捉えた。
『車……だよな。うん。別に、なんでもない』
水飛沫をあげ、高速でタイヤを回転させながら、段々近くなるエンジン音。
『あれ、なんで俺、今引っ掛かったんだ?』
■は胸中で小首をかしげる。大して不思議な事も無い、何ら普通の出来事だ。一体自分は何を思ったのだろう。気になって、彼はやっと音の方に顔を向けた。
『――え?』
けれども、最早全てが遅く。
『あ、まずい、これ……』
明らかに制限速度を超えた猛スピード。巻き上がる飛沫は通りの少ない道路で際立っている。加えて進行方向もふらふらと右へ左へ行ったり来たり。まともな様子では無い。だからきっと、誰が悪いという話でも無かった。不幸にもその場に居合わせたのが、彼というだけ。
『死ぬ――』
朝っぱらから点けられたライトが体を照らす。逃げる暇もない。そも、逃げられるワケがない。途轍もない推進力を持った鉄の塊が、今、彼目掛けて迫り――。
◇◆◇
「…………、」
ゆっくりと、上慧蒼は瞼を持ち上げた。視界に映ったのは白い天井と、綺麗に光る蛍光灯。見ただけで清潔感を保たれていると分かる部屋。いつも見ている己の自室と比べれば、天と地の差だ。しかし、蒼はこの場所に見覚えが無い。寝起きの頭を必死で使い、静かに考えていく。先ず、一番肝心な問題。
「……ここ、は」
「――蒼?」
答えるように、横から声が聞こえた。しかも、おかしなことに己が耳にするのを待ち望んでいたような声。首を動かして、姿を確認する。
「……一夏」
「あ、ああ。俺だ。大丈夫か? 分かる……よな?」
「……うん。分かる。大丈夫だ」
「そ、そうか……良かった」
ほっと、一夏が安堵の息をついた。蒼としてはよく状況が読めない。何故自分は知らないところでベッドに寝ていて、何故近くに一夏が居るのか。限られた部分しか見えない今の体勢では、推測もまともに立てられない。ぐっと体に力を入れて、上半身を持ち上げようとし――
「ッ」
ずきん、と側頭部に痛みが走った。
「つ、う…………っ」
「お、おい。無理するなよ、蒼。お前、受け身も取れずにぶっ倒れたんだから」
「たお、れた……?」
こくりと一夏が頷く。
「雨の中、傘もささずに突っ立ってるかと思えば、急に糸が切れたみたいに倒れて。急いで救急車呼んで看て貰ったんだ」
「じゃあ、ここって……」
「病院だよ。意識を失ったんだとさ……幸い、怪我は頭を打って出来た傷ぐらいで、殆ど異常はないみたいだけど」
「……そう、だったのか」
信じられない、という表情で蒼が呟く。けれど、与えられた情報でパズルのピースが揃ったかのように当て嵌まるのも事実。直前の記憶はしっかりと残っている。たしかに自分は一人、勢いを増した雨にうたれながら交差点の前に立っていた。だが倒れたことまでは覚えていない。恐らくは不自然に途切れているソコの部分が原因。ならば、火を見るより明らかだった。
「ああ、いや、違う。そういうことなんだな。……ごめん、迷惑かけた」
「別にそのぐらい良いけどよ、その……大丈夫、なのか?」
「さっきも言っただろう、大丈夫だ。それより」
すっと、一夏の方を向いて。
「君の方こそ大丈夫なのか。俺にここまで付き添って」
「おう。今は俺の事よりお前の方が心配だからな」
「……ならどうして最近、ずっと避けてたんだ」
「だから、悪いって言ったろ。まあ、言い方はアレだったけど。俺もなんていうか……色々とあったんだ」
「……あれって、そういう意味だったのか」
てっきり別の意味で捉えていた蒼にとっては衝撃。思わず彼女をじっと見詰めてしまうぐらいには驚いた。が、向こうはそれが納得いかなかったようで。
「……やめろ、あんまりそう見るな。再発するから」
「え、なにが」
「こう、変なものが。主にお前を避けてた原因が」
「……そ、そうか、分かった」
理解はできなかったが、そんなことを言われては見続ける訳にもいかない。蒼は視線を天井の方に戻して、自然と入っていた肩の力を抜く。
「……さっき、蒼の親御さんが来てたんだ」
「父さんと母さんが?」
「ああ。それで、話を聞いた。……小さい頃はよく、雨の日に倒れることがあったらしいな」
「……うん。まあ、ね」
彼は特に否定もせず答えた。実際、生まれた頃は雨どころか水を見るだけで平静が崩れ、室内から外の様子を窺うだけで卒倒したりもした。思い返すと酷いものだ。大抵は時間が解決してくれたと思っていたが、ここに来てまた倒れるとは夢にも思わないだろう。
「お前は雨が苦手ってことは知ってる。何度も聞いたからな。でも、その理由ってやつを、よく考えれば一度も聞いてないんだ」
「それは……」
「……なあ、蒼。お前、何を隠してるんだ? 雨が苦手っていうのは分かる。でも、雨でぶっ倒れるなんて相当だろ」
「…………、」
言葉に詰まる。彼女の言う通り、普通の人は雨を見ただけで気を失うなんてことはない。何か思う事はあれど、それでも嫌悪感を覚えるぐらい。酷くても体調が悪くなるのが限度だ。倒れるというのは、かなりの重症だということ。
「……君には関係ないことだよ」
「ある。俺は蒼のっ……お前の、友達だ」
どうしてか、その言葉を発する瞬間に、胸が苦しかった。けれども今は置いておく。考えるのはあとだ。重要なのは目の前の友人であって、己のことではない。
「…………、」
「教えてくれ。何があったんだ」
黙ったままの蒼に問い掛ける。嫌だ苦手だと言うだけならば、そこまで大した問題でも無いとスルー出来た。だが、倒れるまでのことになると別だ。キッと、目を逸らす彼の顔を見詰める。
「……本当に、知りたいのか?」
「当然」
一も二もなく即答。気遣いでもなんでもない。単純な織斑一夏の持つ優しさで、答えを望んだ。抱え込むよりは吐き出した方が楽になると知っているからだ。しばらくして、蒼はぽつりと溢した。
「…………うん。一夏になら、良いかな」
「蒼?」
「どうせ、必死に隠すようなことでも無いし、つまらない話だから。それに、君なら安心して話せるってのもある」
「ってことは……」
ゆっくりと、蒼は頭を縦に振った。一夏は知らない。その、たった一秒にも満たない行動を取るだけに、どれほどの苦悩があったかを。どれほどの覚悟をしなければいけなかったかを。ただ聞き手側として有るのみとする一夏には、知る由もない。
「話すよ、全部。……俺のこと、俺が経験してきた、有り得ないことも」
「有り得ない、こと……?」
「うん。手始めに、そうだね。――君は、こことは違う、全く別の似て非なる世界があると言ったら、信じるか?」
そうして彼は、真剣な表情で、一つ目から予想の範囲外である話題を持ち出してきた。