『一応報告、あのあと戻って来た母さんと父さんに連れられて家に帰った。様子見も兼ねて一日は学校を休ませるつもりらしい。俺は大丈夫だって言ったんだけど』
「……よし」
蒼から送られてきていたメッセージに目を通して、携帯をポケットに仕舞う。分かったことも、分からないことも、何もかもが衝撃的だったその翌日。既に朝食を終えて玄関に立っていた一夏は、心を決めるようにひとつ呟いてぐっと拳を握った。長年一緒に過ごしてきた賜物か、姉弟特有の不思議な繋がり故か。千冬の言葉は見事的中して、彼女は自分なりの答えをしっかりと見付けていた。
「休み、ってことは十中八九家だよな。……なんか、久しぶりだ」
とんとんと通学用の革靴を履きながら、自然と頬が緩む。自らの変調の原因がどうしても掴めなく、仕方がないまま蒼をずっと避けていた。その間は徹底的な関わりの断ちようで、一夏が彼の家に足を踏み入れる機会はなく、加えて事情を説明しようにもマトモに話せない。どうしようもない状況だったが、悔しくも知ってしまった今は別だ。
「……軽いな、この程度。あいつが抱えるもんに比べたら、絶対」
依然、一夏の症状は治まっていない。己が相手を好いていると知ったところで、重さが変わる筈もない。上慧蒼という人間に心を乱されるのは同じ。緊急事態でその辺りをすっぱりと無視出来た昨日とは違う。きっと会えば顔が熱を持つ、少なからず冷静さを失う、上手く口が回らなくなる、言いたい事が本当に言えるのかも心配だ。それでも。
「……伝えなきゃ、な。そのためには、言葉にしないと」
最早、一夏は足を踏み出していた。ならば後は進むだけ。この際ブレーキは折っていても構わない。覚悟はできた、息を吸う。がちゃりと扉を開けて、家の外に出る。そうして家の敷地内から出た、ちょうど道路にさしかかった時。
「答えは決まったかな」
真横から、聞き覚えのある女性の声が届いた。
「……ええ、お陰様で決まりました」
「そうかい、それは良かった」
くすりと女性が笑う。なにせ、彼女が提示した選択肢の、例えどちらを選ぼうが結果は向こうに傾く。勝利が確約されている、どころではない。こちらに選ぶ権利を持ちかけてきた時点で勝っていた。本来なら聞くだけ無駄な時間。普通とは違う彼女が、最も嫌うものである。だというのにわざわざここまで足を運んだのは、せめてもの気遣いか、はたまた手を抜くなどしたくなかったからか。
「で、どっちにするんだい?」
「そりゃあ勿論、諦めますよ」
一夏は女性へ顔を向けることもなく、明後日の方向を見続けたまますんなりと答えた。上慧蒼への想いを捨てて諦めるか、関係を絶って距離を取るか。予測とは違って前者を選んだことに若干驚きながら、女性は適当な反応を返そうとして。
「俺があいつを好きじゃないままでいるのを、諦めます」
「――――、」
ぽかんと、口を開けて呆ける。
「貴女の用意した道には進めません。だってそれ、俺にとっちゃ間違った道ですから」
「……つまり君は、彼から離れる気は無いと?」
「はい」
はっきりと、一夏は答えた。彼女らしい、ともすれば
「正気かい? いっくん。後悔するよ」
「もう悔やんでます。俺があいつを好きになった時点で、相当」
「なら余計にやめなよ。言ったよ、君じゃあ彼を理解出来ない。幸せになんて――」
「束さん」
名前を呼んだ。彼女――篠ノ之束は、ぴたりと言葉を止める。
「たしかに理解はできないですよ。でも、それと幸せにできるかってのは、別じゃないですか」
「…………、」
「無理かどうかは、やってみないと分からないでしょう」
「……ふうん。いっくんは、そうするんだね」
天災は冷めた声で言った。一夏はそのまま振り向きもせず、当初の目的地に向かって歩み始める。一歩、また一歩と。――運命の始まりは、着々と迫っていた。
◇◆◇
「よっ。少し良いか?」
「……一夏」
上慧邸にとって久方ぶりとなる、朝早くからの来訪。鳴らされたチャイムに自然と反応して玄関まで赴けば、扉を開いた先に友人がいた。顔色は最近の中でも目に見えて良い。前日は蒼の精神状態もかなりぼろぼろだったので詳しく覚えていないが、少なくともここまで気持ちの良い表情はしていなかっただろう。てっきりやらかした、と感じていた彼としては予想外。多少戸惑いながら、いつもの流れでリビングまで案内する。
「いやでも、本当久々だ。ここいらはずっと家と学校の往復だったしなあ」
「君が避けてたんだろうに」
「ああ、悪い悪い。……それらも含めて、気持ちの整理はしてきたよ」
「……そっか」
ばたんと、後ろ手にリビングのドアを閉める。平日の朝、登校する一夏は勿論制服、対して休む事が決まっている蒼は普段着のままだ。どことなく何時もとは違う雰囲気。されど一夏の態度を含め、そこはかとなく懐かしいものだった。当たり前のように共に過ごし、笑い、ふざけ合っていた頃。思えばあの時は、考えられないぐらいに幸せだったのかもしれない。
「あれ、朝飯もう作られてる」
「母さんだよ。なんか、今回の件で大分心配かけちゃたみたいで。これからは無理矢理にでも家に居る、って父さん共々言い出して」
「そりゃまあ、あれだけのことがあったらな……」
「俺は平気だって何度も言ってるのに」
苦笑しながらも、蒼はどこか嬉しそうだった。一夏はじっとその表情を見詰める。昨夜にずっと考えているうちに行き当たった、とある一つの可能性。説明の為に自身の過去を曝け出して、捉え方を全て託した彼の真意。天災は間違えないと言っていた。ならば言葉の通り、彼女なら間違う事は無いだろう。一夏にはそれ程の自信がない。いつかどこかで間違ってしまうし、上手くいかない時もある。
「な、蒼」
「……なんだ、一夏」
「あれからお前のこと、沢山考えたんだ」
「…………、」
不意に、彼女は切り出した。軽い調子で、さも今日は良い天気だとでも言うみたいに、さらりとここに訪れた最大の理由を引っ張り出してくる。
「別の世界とか、死んだ記憶とか、生まれ変わったここが小説の世界とか、ワケ分かんなくなりそうでも、考え抜いたよ」
ふうと、一旦区切るように息を吐く。
「はっきり言って、俺には全く理解できん。お前の居た世界なんて見たことないし、死んだ事も記憶も持ってないし、そもそも俺にとっては紛れもないここが現実だ。小説の登場人物なんてもんじゃない」
「……うん、そうだね」
「正直直ぐにでも嘘って言って貰ったらそっちの方が受け入れられる。俺からするとお前の話は突拍子もなくて、目に見える証拠すらないんだ。信じろ、ってのはちょっと無理がある」
「……かもね。いや、そうなんだろうな。実際」
持ってきたものは多い。それこそ、要らないものの一つや二つは置いて来たかったぐらいだ。だが、そのどれもが頭の中にしつこく残り続けた記憶という形の無いもの。捨てようにも捨てられない。ただじっと、忘れないと直感的に察していても、忘れるのを待つしか無かった。
「こことは全く別の所で生きて、死んで、何の偶然かここに産まれた。って、言葉にするのは簡単だけどな。どれだけ現実離れしてるかなんて、言うまでもないだろ?」
「……ああ」
「本当、有り得ない話だな。普通なら笑えない冗談だ。ちっとも面白くねえよ」
「…………、」
でも、と彼女は蒼の方を振り向いて。
「……それが、
「――――」
にこりと、柔らかな笑みを浮かべた。
「そんな有り得ない体験をして、色々と抱え込んで、想像もできないほど苦しんできたんだろ、蒼は。それこそぶっ倒れるぐらいに」
「一、夏……」
「だったら俺は、お前を信じるよ。つうか、お前の過去なんてそんな気にしてないしな。変なコトだって、それ言っちまえば俺も“女になる”っていう信じられない体験してるワケだし」
純粋な感想としての、性転換事情を口に出す。皮肉った言い回しでは断じてない。よもや彼女は、女の子になったという事実を嫌悪してはいなかった。
「別の世界の記憶があろうが、死んで二度目の人生だろうが、お前は今ここに生きてる。息吸って、心臓動かして、なにか思って、なにかして、ちゃんと自分の意思でやってる。ならそれで良いよ。誰が認めなかろうが、俺が絶対認めてやる。お前がそういう人間で、そういうヤツなんだって」
「そう、か。君は――ああ、そんなこと、言うのか……」
「……おい、お前。まさか泣いてる、のか?」
言われてばっと顔を上げた蒼の頬には、雫の這った跡がある。いや、跡だけではない。続けざまにぽろぽろと、大粒の涙が瞳から伝っていく。驚きの光景に一夏は思わず固まった。なんてことはない。蒼がこうも見事に泣く様など、珍しいなんてレベルではない。
「仕方、ないだろ。止まらないんだ。もう、全然、我慢のしようがないんだ。だって、知らないよ、こんなの。知るわけ、ないだろっ」
「…………、」
「君に……誰かに、受け入れて貰えたのが、嬉しくて、本当に、もう」
「……はあ。この、泣き虫め」
無論、ふざけての台詞だった。
「うるさい、馬鹿だ、君は。本気で信じられない」
「はあ? なにがだよ」
「生まれ変わって誰かに泣かされるなんて、思わなかった。くそ、ああ、くそ、くそ。馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿だ」
「……馬鹿馬鹿言うな。馬鹿が移るぞ」
言いながら、一夏は泣きながら膝をつく蒼の頭を、荒っぽく抱きとめた。女性らしい行動というのも意識してやろうとすれば失敗しそうで、ならば自分らしくしようという妥協点だった。ぼんやりと天井の隅を眺めながら、ぽんぽんと背中を叩く。
「馬鹿じゃないのか、本当に。本当に、本当に」
「…………、」
「――ありがとう、一夏……っ」
「……どういたしまして」
どうでもよさげないつもの調子で彼女は答えた。蒼は嗚咽を漏らしながら、一夏の胸で涙を流し続ける。さて、であれば密着状態の相手のコトなど把握出来る筈も無く。煙さえ上がるかというぐらい真っ赤に染まった一夏の顔など、蒼は知る由もなかったのである。
◇◆◇
去っていく後ろ姿に手を振って、玄関先で立ち尽くす。
「ああ、しまったな」
今日は厄日だ。友人に泣かされた。なにより、途轍もなく重大なものに気付いてしまった。
「結局俺も、そう大して変わらなかったってことか」
ぽつりと蒼は呟く。人の心情に鈍い彼だが、己の気持ちに関しては人並みに理解していた。一人で居た名残か、なお薄れない内側の感覚。
「……本当にありがとう。それと、ごめん。一夏」
僅かな胸に残る高鳴りの正体を、蒼は知っていた。
「俺、君との約束、守れなかった」