冬の屋上は吹き荒ぶ風の寒さでとても居られたものではなかった。過ごしにくいことこの上ない。せめて柵が壁代わりになってくれたら良かったが、隙間があって背の低い彼らでは大自然の脅威を遮る事は叶わず。蒼はたった一人、寒空に冷やされた強風を身に浴びながら、ぼんやりと遠くの景色を見詰めていた。
「……うん。良い天気だ」
誰に言うでも無く独りごちる。青い空に白い雲、雨も雪も、ましてや霰や雹なんて降る気配も見せない天候。日が当たっている割にあがらない気温が如何にも冬といった感じで、蒼もつい先週から学ランの前を閉めていた。それなりにしっかりとした着方をしている彼は、以前と違いどこからどう見ても優等生だ。加えて成績も良いのだから、これまた似合っている。
「…………、」
三年生という立場。高校受験を間近に控えた、誰しも尻に火がつき始める十二月。しかして蒼の頭を悩ませるのは勉学の事ではなく、人並みの感情であった。そも、特に勉強をしなくても彼の成績なら合格は余裕も良いところ。これに関しては一度目でないのもあり、そこまで重大な問題ともならない。特別、特殊、他とは違う。捉え方は人それぞれ。ただ蒼は、それらを異物であるが故と見ただけ。
「……仕方ない。俺は結局、ここに要らない存在だから」
望まれるべくして生まれたワケではない。必要だからこそ
「俺が居なくても変わらない。なんて、前から分かっていたことだし」
世界が産んだひとつの無駄。生まれたコトが悪いとは言えないが、逆もまた然り。正真正銘のどうでもよい人間。初めから全て理解していた。背負うモノは全て背負いきって、手も足も使い溢さないように受け止めた。潰れるのは必至。けれども彼は、“死ぬのが嫌だから”生き続けた。例え世界から拒絶されようとも、誰からも必要とされなくても、何からも認められなくても。決して折れる事なく生きて、歩くことが出来ていた。それを。
『誰が認めなかろうが、俺が絶対認めてやる』
――それを、受け入れてくれた人が居た。
「……凄いな。想像以上に心が軽い。……そりゃあ、そうか。荷物が減ったんだもんな」
ふっと笑う。見える景色が実に綺麗だ。前よりずっと、色彩が輝いて目に映る。恐らくは感じ方が変わったのだろう。それ程に、彼女の言葉はどこまでも己の心に響いた。響いてしまった。現状抱いているような感情を芽生えさせるぐらいには。
「……捨てられるなら捨てたいけど、当分は無理かな。こんなもの、本当は持つのも駄目なのに」
随分と前のことに感じられるあの日、大事な大事な約束をした。女の子である織斑一夏を好きにならないと、友人として側に居るという誓い。守れると思っていた。守れない筈がないと思い込んでいた。結果としては現在、言い訳も出来ない有様。しっかりと一夏に異性としての感情を抱いてしまっている。色々な気持ちを抑えるのは得意だ。今までもそうやって生きることは沢山あった。だから、我慢すること自体は簡単。
「……でも、それじゃあいけない。下手な芝居は感付かれてるだろうし」
何も言わず、何も伝えず、分からないまま離れていく。それは蒼がつい先月に経験したばかりの辛い思い出だ。度合いは決して同じでは無いが、己と違ってきちんとした受験生である友人に余計なことで悩んで欲しくは無い。そうなると、伝えなければならなかった。
「それに、小細工するよりかはマシだ。はっきり言って、すっぱり切って。……それだけで、良いんだから」
思うところが無い訳ではない。惚れた人間から距離を取るのは、それ相応に悲しむべきものだ。蒼とて何も変わらない。負担はゼロとはいかないだろう。
「けどね、それで良いんだ。だって俺は、もう――」
すっきりと、晴れ晴れとした様子で蒼は笑顔を浮かべた。直後、まるで言葉を遮るように、強く風が吹く。最後の音は無慈悲にも空気に溶けていった。知っているのは発した本人のみ。気持ちの整理は既についている。満足して蒼は踵を返し、ゆっくりと屋上を後にした。
◇◆◇
一方その頃、教室では。
「…………、」
「おいおい数馬さん。一夏さんがご機嫌斜めですことよ」
「ですわね弾さん。きっと蒼の野郎がどこか行ったまま帰ってこないですからよ」
「……お前ら、勝手な解釈するなよ……」
あと喋り方がきもい、と一夏は男二人に冷たい視線を向けた。
「でも事実だろ事実。もう不機嫌オーラぷんぷんと漂わせちゃって」
「そうだぞ。彼氏が待ち合わせに遅れて苛々してる女子かなにか?」
「ぐっ……好き放題言いやがって……!」
まあ、実際のところ、機嫌が悪くなっているのは確かである。トントンと人差し指で机を叩きながら、もう片方の掌に顎を乗せてぶすっとむくれる表情は正しく前述の状態そのもの。無論一夏もしっかりとそれを自覚はしているのだが、何分本気で苛々もしてきているため余裕を持った対応は出来ない。
「しゃあないよなあ。一夏ちゃん蒼のこと好きだって自覚した途端過ごす時間減っちゃったもんな~。拍車をかけるように校内でも消えるように居なくなられるしな~」
「弾てめえ後で覚えてろよ」
「はあ? なにテメエら男同士でラブコメしてんの。あ、いや今は男と女か。なんだクソリア充かよ爆発しろ」
「数馬は大人しくクラスに帰れ」
イライラ、ムカムカ、モヤモヤ。十二月も半ばを過ぎれば冬休みが目の前に迫っている。学校がある平日は登下校及び休憩時間で話も出来るが、休みの日は自主的に行動しなければ顔も拝めない。が、それに関しても追い打ちをかけるかのように蒼の受験勉強云々が足を引っ張る。この時期の長期休暇ともなれば、本格的な勉強をしていくものだ。集中すると言った手前、息抜き程度はあれどよもや遊ぶことはないだろう。
「ちなみに今日は十八日。終業式までのカウントダウンはもう始まってんだよなあ」
「
「ああ、冬休みとか基本みんな勉強漬けだよな。弾はともかく、俺も落ちたくねえもん」
「あああちくしょうこういう時だけなんで蒼は真面目なんだよ……っ」
「元から真面目属性の良い子ちゃんだろ。ちょっとズレてるだけで。つか俺も落ちたくはねえよ」
なお、真相を言うと蒼はそこまで受験勉強に打ち込んではおらず、しているコトと言えば毎日問題集を数ページ解いていくのみというコツコツとした軽い積み重ねだけだった。尤もトラブルメーカー三人衆は誰一人としてその情報を知らない。
「くそ、このままじゃ捗るもんも捗らねえ。なんとかしねえと……」
「俺もだ一夏。元々捗らなかったもんが友人の複雑なアレで余計捗らねえ」
「お前は捗らせる気がないだろ……数馬はどうなんだ?」
「あ? 俺? 俺は弾と志望校一緒だぞ? 苦労すると思うか?」
「……なるほど」
凄まじく説得力のある内容だった。
「はぁ!? てめえだって同じ穴の狢だろうが! 一学期の数学ボロボロだったくせによ」
「英語六点とかいう数字叩き出したてめーと一緒にしてくれるなボケ」
「六点じゃねえ七点ですぅ~! ラッキーセブンの七点ですぅ~!」
「なにがラッキーセブンだ文章題のおまけ一点しかも理由が“英語を書いていたので”とかいうクソ甘採点だったろうが!」
「お前らレベルひっくいなあ……」
なにはともあれ、本日も三年A組は変わらず賑やかである。不穏な気配も妙な緊張感もない。明るい雰囲気にほだされて、自然と一夏も笑顔を浮かべる。その瞬間を、そっと教室に戻ってきた一人の男子生徒が見ているとも知らず。