「お前は……」
静かに、一夏は口を開く。蒼の言い分は漏れなく聞いた。彼の思考回路を理解できるかはともかく、どう思っているかは知れた。だが同時に、分かってしまったこともある。ここにきて一夏は答えに辿り着いた。この男は――上慧蒼というやつは、なにも変わらないのだと。
「お前はそれで、良いのか」
「そんなの、言うまでもないだろう。良いに決まってる」
「……ああ、そうかよ。お前がそう言うんなら、そうなんだろうよ」
ぐっと拳を握る。過去の経歴からして、変化を恐れている訳では無い。彼は変わったからこそ今のような人間になっていた。ならば変わらないというのは、最早変われないということ。上慧蒼の価値観は、とうのとっくに“完成”している。それこそ、死んだ後、この世に生まれた瞬間。
「……ふざ、けんな」
沸々と、堪えきれない怒りが湧く。結局は、なにを言ったとしても無意味。彼に言葉は届きこそすれど、影響にはなり得ない。凝り固まった考えを溶かすには至らない。いっそ死ぬまで蒼は思い続けるのだ。己が異物であり、要らない存在であり、望まれざる人間であり、幸福を掴めない人物であると。……そんなどうしようもない目の前の男に、腹が立つ。
「俺は、嫌だ」
「……一夏?」
距離にして二メートル、ぽつりと溢した声は最低限耳に入るぐらいの大きさを持ってくれていた。一夏には蒼の苦悩など分からない。世界の中で自分だけが別なのだと、違っていると認識する重さが分からない。当然だ。それは唯一彼にだけ許された行動であり、同時に彼のみが受ける苦痛となる。だとするなら、なんということだろうか。この男は生きている限り、一生救われないと、苦しみ続けていくのだと、一夏は遂にしたくもなかった事実を“理解”した。
「タイミングが悪かった?」
信じられなかった。
「あってはいけない?」
目の前で立ち、呼吸をしている今ですら。
「間違いでしか無い?」
蒼はずっと、心の何処かで訴える痛みを持ち続けている。
「抱く事も許されない?」
そうしてそれを、当たり前のコトとして受け入れている。
「挙げ句の果てに、馬鹿な感情だと……?」
笑えすらしなかった。彼は矛盾の塊だ。死にたくないから生きているのに、その本質はどこまでも死を望むものに近い。恐らくは死ぬ事を経験していなければ、迷い無く自らの命を絶っている。一切、一欠片として、元から成長も退化もしていない。自分本位で自己中心的。考え方が歪んだだけで、人間としての性分は独りで居た時と同じ。人を拒絶したくないから、誰かに優しくする。無理をさせたくないから、自分が無理をする。そこにあるのは完結した理由のみ。気遣いも優しさも、偽りのものでしかないと。
「勝手に、決め付けてんじゃねえ」
「……っ」
近寄って、胸ぐらを掴む。明確な言葉にしないだけで、蒼は自覚していた筈だ。いや、きっと自覚していたのだろう。己がどうしようもない人間であると、死ぬ以前から知っていた。彼の自己評価は何よりも一番下に位置づけられる。下がる事はあれど、上がる事は無い。それだけならまだマシだった。そこに上記の考えが加わることによって、酷い代物が出来上がる。本来持つ優しさも、気遣いも、純粋な感情ではないと否定して、救いようのない屑だと定義して、生きていく。
「たしかに、タイミングは悪かったんだろうよ。こんなものは駄目で、間違っていて、馬鹿な感情かもしれない」
「な、にを……言って」
「でも……でもなぁ!」
考えること、言いたいこと、思うこと。全部が全部混ざり合って、既に一夏の心ははち切れんばかりだった。頭に来ている。生きているうちは救われないと、知った上で割り切った彼の在り方に。自分諸共抱える感情を盛大に切り捨てた彼の言葉に。なにより。
「例え間違ってようがなんだろうが、一度本気で持ったんならそれは本物だろうが!!」
――なにより、今まで側に居たそいつに手を差し伸べてやれなかった自分自身に、腹が立つ。
「ふざけんな、ふざけんじゃねえ! 本気で相手のこと好きになっておきながら、どうして全力で否定しやがる!!」
「そんなの、決まって」
「決まってもなにもないだろうが!! 勝手に決め付けて勝手に諦めて、お前の中で全部終わらせるんじゃねえよ!!」
形振り構っていられない。否、構っている必要がなくなっていた。既に向こうの答えは聞き入れた。悩んでいたのが馬鹿みたいに、怒りと共に心が晴れ渡っていく。はっきりと言わなければ、彼には伝わらない。この馬鹿には、気持ちを叩き付けるぐらいでないと割に合わない。
「じゃあ、どうするって言うんだ。俺の本心を聞いて、君はどうする。何が言える。……最初から分かりきってる問題なんて、質問するまでもないだろう?」
「それがふざけんなって言ってんだ!! 自己完結してんじゃねえ!!
「……なら、君はどうなんだ」
「俺はお前のことなんか大好きに決まってんだろ馬鹿野郎!!」
がつんと、ハンマーで殴られたような衝撃。
「……いま、なんて?」
「好きだっつったんだ! お前のこと! 蒼のこと! 全部纏めてひっくるめて、お前と同じ
「…………いや、それ、だけは。きみに、いわれたくない、な……」
「ああ!?」
ぐっと服を掴んだ手に力を入れながら、一夏は肩で息をする。態とらしさなんてものはこれっぽっちも存在していない。あるのはただ精一杯、相手に何かを伝えようとする彼女の姿だ。お世辞や誤魔化しだとは言えなかった。ここまで来れば、蒼も察してしまう。嘘や建前など、一つもなくて。
「どうして、なんだ」
「……なにが、だよ」
「君は……男に戻りたいと、そう思っていたんじゃないのか」
ふと浮かんだ疑問を問い掛ける。一夏にとっては、大したものでもなかった。
「……最初は思ってたよ。でも、仕方ねえだろ。お前のこと、好きになったんだから」
「……なんだそれ。もう、ワケが分からない」
「難しいこと考えるからだ。俺はお前が好きで、お前は俺が好き。それで良いだろ」
頬をほんのりと赤く染めて、ふいっと顔を逸らしながら一夏が言う。一言で表せば全くもって単純明快だ。蒼と一夏は好き合っている。なにはともあれ、それだけは紛れもない事実で、逃れようも無い現実だった。
「……でも、それなら余計、駄目だよ」
「はあ? なにが駄目なんだ。まだなにかあんのか」
「だって俺じゃあ、君を幸せになんて出来ない。しちゃ、いけないんだ」
「…………お前な」
はあ、と大きく溜め息を吐く。深刻そうな表情で呟く蒼に、只々呆れる。一夏はずっと握り締めていた胸ぐらから手を離した。最後の最後まで面倒くさい男だった。きっとそんなヤツに惚れた自分も相当なのだろう。だが、イヤでは無い。むしろ、こういう部分があるからこそ、自分が居なければというもの。
「――――、」
「んっ!?」
彼女はがっと頭の後ろまで抱くように手を回して、無理矢理その唇を押し付けた。
「……っは、と。よし。これで、逃げられないな?」
「な……君……今、なにを……っ」
にやりと笑う。――嗚呼、顔が熱い。
「自分がなにしたか、分かって……いや、そもそもっ。……初めて、だったんだぞ」
「ならお互い様だ、俺も初めてだし。……これでもう、男には戻らない。戻れない」
正真正銘、踏み切った。後戻りの選択肢は彼方へと消え去った。織斑一夏は女として生きて、女として死ぬしか無い。男である自分とは永遠のお別れだ。それでも彼女は、何一つとして後悔をしていなかった。
「幸せにできないだって? 上等だ。だったら、俺がお前を幸せにしてやるよ」
ゆるりと微笑んで、一夏は告げる。
「俺の一生使って、お前にいっぱい良い思いさせて、最期まで側に居てやる。そんでもって、死ぬ時に俺は生きてて幸せだったって絶対言わせてやる」
それは、彼が“あの時”に求めていたもので。
「…………良い、のか。君は、本当に」
「ああ」
「……俺、面倒くさいぞ? きっと、迷惑もかけるし」
「知ってる」
「下手したら、束縛とかも、するかもしれないし。恋愛経験もないし。男らしいリードとか出来る気がしないし。なにより、辛い思いだって――」
「……ああもう、うるせえ」
すっぱりと、一言で不安すら切り裂いた。
「ごちゃごちゃ言うな。黙ってずっと、俺の隣に居ろ」
「――――っ」
崩れる。今まで成してきていた何かが、盛大に崩れ去る。ああ、けれども、それはきっと良い事だ。もう要らないモノ。跡形も無く壊された。誰に? 勿論、目の前の彼女に。
「…………うん」
鼻頭が赤いのは、寒さのせいか、他のことが原因か。気付けば周りには雪が降っていた。頷く蒼に、一夏が優しげな表情で返す。様々なものがあって、どれもこれもが大事な内容で。ただきっと、結果だけを言うならば。
――その日。彼らは、友人では無くなったのだ。